ペイシストラトス

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ペイシストラトス

ペイシストラトスギリシャ: Πεισίστρατος, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Peisistratos紀元前きげんぜん6世紀せいきころ紀元前きげんぜん527ねん)は、古代こだいアテナイ貴族きぞく僭主せんしゅなな賢人けんじん一人ひとりソロン友人ゆうじんであったが、政治せいじ思想しそうでは対立たいりつし、かれ亡命ぼうめいいやった。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ちちヒポクラテス[1] (enは、オリュンピア犠牲ぎせいささげるさいに、ひとりでにがまみずち、ラケダイモン(スパルタ)の哲学てつがくしゃキロン (enによって、妻帯さいたいしないか、があればこれを離縁りえんするよう予言よげんされている。かれはこの勧告かんこくしたがわず、ペイシストラトスがまれた。

ペイシストラトスは、スニオンみさき拠点きょてんアルクメオンいえいただアッティカ南部なんぶ商人しょうにんいち海岸かいがんとう)と、アッティカ西南せいなん拠点きょてんとする地主じぬし一派いっぱ平野ひらのとう)にたいして、農夫のうふなどの無産むさんしゃ階級かいきゅう主体しゅたいとする高地こうちとう結成けっせいした。みずからをきずつけて、これを政敵せいてきによる損害そんがいかたり、国民こくみん護衛ごえい部隊ぶたい要求ようきゅうし、これを使つかってアクロポリス占拠せんきょした。この独裁どくさい政権せいけんは、海岸かいがんとう平野ひらのとうによる追放ついほうによってすぐに瓦解がかいしたが、りょうとうこうそう収拾しゅうしゅうすべく、アルクメオンメガクレスは、独裁どくさいけんあたえる名目めいもくでペイシストラトスをもどした。しかし、メガクレスによってふたた追放ついほうされたため、紀元前きげんぜん561ねんかれテーバイからの義援金ぎえんきんアルゴス傭兵ようへいナクソス軍資金ぐんしきん兵隊へいたいエレトリア出立しゅったつし、マラトン上陸じょうりくアテナイぐん対峙たいじした。ペイシストラトスは昼食ちゅうしょくねらってこれを壊滅かいめつし、アテナイの実権じっけん掌握しょうあくした。また、このときマケドニアからおおくの鉱夫こうふれてきて、当時とうじその存在そんざいられながらアテナイの技術ぎじゅつりょくでは採掘さいくつ困難こんなんであったラウレイオン銀山ぎんざん採掘さいくつおこなった。このため、伝承でんしょうではアテナイで最初さいしょ貨幣かへい鋳造ちゅうぞうしたのはソロンであるとされているものの、実際じっさい貨幣かへい鋳造ちゅうぞうしたのはペイシストラトスが最初さいしょではないかとせつもある。

ソロンは、ペイシストラトスの僭主せんしゅ政治せいじきらってエジプトいでキュプロス亡命ぼうめいし、最終さいしゅうてきリュディアおうクロイソスたよって独裁どくさい政治せいじゆるしたアテナイ市民しみん非難ひなんしたが、ペイシストラトスは書状しょじょうおくってソロンの帰国きこくうながした。

ペイシストラトスは強力きょうりょく護衛ごえい部隊ぶたい設立せつりつし、貴族きぞく弾圧だんあつし、みずからの勢力せいりょく基盤きばんであったしょう農民のうみん商工しょうこう業者ぎょうしゃ保護ほごした。この独裁どくさい政権せいけんは、息子むすこヒッピアス継承けいしょうされたが、スパルタおうクレオメネス1せいむすんだアルクメオン人々ひとびとによって追放ついほうされた。

ペイシストラトスの政権せいけん独裁どくさい政治せいじではあったが、小規模しょうきぼ自作農じさくのう商工しょうこう業者ぎょうしゃ生活せいかつ生産せいさん活動かつどう良好りょうこうなレベルで安定あんていした時代じだいであり、アリストテレスはペイシストラトス時代じだいこそ、アテナイの全盛ぜんせい時代じだいである、と主張しゅちょうしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ きよしヒポクラテスとは別人べつじん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]