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ホセ・フェリクス・エスティガリビア・インサウラルデ

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ホセ・フェリクス・エスティガリビア・インサウラルデ
José Félix Estigarribia Insaurralde


任期にんき 1939ねん8がつ15にち1940ねん9月7にち

出生しゅっしょう (1888-02-21) 1888ねん2がつ21にち
カラグアタイ
死去しきょ (1940-09-07) 1940ねん9月7にち(52さいぼつ
アガプエイ
政党せいとう 自由党じゆうとう

ホセ・フェリクス・エスティガリビア・インサウラルデ(José Félix Estigarribia Insaurralde、1888ねん2がつ21にち - 1940ねん9月7にち)は、パラグアイ軍人ぐんじん政治せいじチャコ戦争せんそうボリビアから勝利しょうりり、1939ねんには大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

1888ねん、エスティガリビアは農民のうみんで、兼業けんぎょうぎん細工ざいくをやっていたマテオ・エスティガリビアの息子むすことして、カラグアタイでまれた。生活せいかつ学業がくぎょうおさめるのにけっしてよい環境かんきょうではなかったが、トリニダードにある大学だいがくすすみ、農学部のうがくぶ卒業そつぎょうした。その1910ねんぐんはいり、チリで、いでフランスサン・シール陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう教育きょういくけた。

チャコ戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、当時とうじ大佐たいさであったエスティガリビアは戦争せんそうつうじてだい1歩兵ほへい師団しだん指揮しきし、じゅんしょういで少将しょうしょう昇進しょうしんし、エウセビオ・アヤラ大統領だいとうりょうen:Eusebio Ayala)の支持しじした陸軍りくぐん参謀さんぼうちょう就任しゅうにん戦争せんそう指導しどうたった。1935ねんアスンシオンもどったエスティガリビアはチャコ戦争せんそう勝利しょうりみちびいた英雄えいゆうとしてむかえられ、年金ねんきん12000ペソをあたえられた。

しかし、1936ねん2がつ17にちラファエル・フランコ大佐たいさがつ革命かくめいes:Revolución del 17 de febrero de 1936のち支持しじしゃによってがつとうes:Partido_Revolucionario_Febrerista)がつくられる)をこし、アヤラ大統領だいとうりょう失脚しっきゃくすると陸軍りくぐん参謀さんぼうちょう解任かいにんされた。そのはパラグアイ大使たいしとしてアメリカにおもむいた。

1939ねん選挙せんきょにおいてエスティガリビアはパラグアイ自由党じゆうとうから出馬しゅつばし、大統領だいとうりょう当選とうせん8がつ15にち就任しゅうにんした。1940ねん2がつ19にちかれは「わが国家こっかおそろしい政府せいふ状態じょうたいおちいりつつある」と宣言せんげんし、憲法けんぽう停止ていしして上院じょういん解散かいさん独裁どくさい体制たいせいいたものの、9月7にちつまともにパラグアイ国内こくないをアルトス(Altos)からサン・ベルナルディーノス(San Bernardinos)にけて飛行機ひこうき旅行りょこうちゅうにアガプエイ(Agapuey)で搭乗とうじょう墜落ついらく死去しきょ

死後しごイヒニオ・モリニゴ将軍しょうぐんen:Higinio Morínigo)が政権せいけん継承けいしょうし、エスティガリビアは元帥げんすい追号ついごうされた。かれはアメリカりょう大陸たいりくもっと有名ゆうめいかがやかしい経歴けいれき軍人ぐんじん一人ひとりとしてられている。

外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
フェリクス・パイバ
パラグアイの旗 パラグアイ共和きょうわこく大統領だいとうりょう
だい26だい:1939ねん - 1940ねん
次代じだい
イヒニオ・モリニゴ