ホーゲ

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ホーゲ
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あいしんさとし

称号しょうごう 粛親おう
出生しゅっしょう まんれき37ねん1609ねん
死去しきょ 順治じゅんじ5ねん4がつ12にち1648ねん5月4にち
配偶はいぐうしゃ ナラ
父親ちちおや ホンタイジ
母親ははおや つぎウラナラ(がらす喇那ひしげ
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ホーゲごうかくまんしゅう: ᡥᠣᠣᡤᡝ転写てんしゃ:hooge、まんれき37ねん1609ねん) - 順治じゅんじ5ねん4がつ12にち1648ねん5月4にち))は、きよしふとそうホンタイジすめらぎ太極たいきょく)の長男ちょうなんははつぎウラナラ(がらす喇那ひしげ即位そくいまえ離縁りえんされた)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

武勇ぶゆうすぐれ、征戦せいせんでたびたび武功ぶこうげた。ホンタイジがだいきよし皇帝こうてい即位そくいしたたかしとく元年がんねん1636ねん)、粛親おう(fafungga cin wang)にふうじられる。ホンタイジの死後しご皇位こうい継承けいしょう有力ゆうりょく候補こうほであったが、おなじく有力ゆうりょく候補こうほだった叔父おじ(ホーゲより年少ねんしょう)のドルゴン勢力せいりょく対立たいりつした。せい分裂ぶんれつすることをけるため、ホーゲ、ドルゴン双方そうほうとも皇位こういかず、ホーゲの異母弟いぼていである6さいのフリン(ぶく臨、順治じゅんじみかど)が即位そくいした。

明朝みょうちょう滅亡めつぼう四川しせん支配しはいいたりゅうぞく首領しゅりょうちょうけんじただししんぐん圧迫あっぱくけて成都せいとて、順治じゅんじ3ねん1646ねん10がつ20日はつかしおていけん鳳凰山ほうおうざんでホーゲのぐん射殺しゃさつされた。

順治じゅんじみかど時代じだい摂政せっしょうおうとして権勢けんせいをふるったドルゴンは、政敵せいてきホーゲを失脚しっきゃくさせるため誣告ぶこく利用りようしてホーゲの爵位しゃくい剥奪はくだつかそけきんした。順治じゅんじ5ねん(1648ねん)、ホーゲは獄中ごくちゅう死去しきょした。

順治じゅんじみかどはドルゴンの死後しご、ホーゲの冤罪えんざいらし名誉めいよ回復かいふくさせ、ホーゲの息子むすこのフシェオ(Fušeo、とみ中国語ちゅうごくごばん)に親王しんのうがせ、一方いっぽうでドルゴンの爵位しゃくい剥奪はくだつした。ホーゲには「たけ」のおくりなおくられ、粛武親王しんのうしょうされる。

家族かぞく[編集へんしゅう]

妻妾さいしょう[編集へんしゅう]

  • 正室せいしつ:ナラ(? - 1635ねん) - 父方ちちかた従姉妹いとこヌルハチむすめのマングジ(莽古ずみ)とハダのウルグダイ(なんじ古代こだい)のあいだの次女じじょ。1635ねん、ホーゲに殺害さつがいされた。
  • 側室そくしつ:テスナ(もとリンダン・ハーンつま
  • 側室そくしつ:ボルジギトのドルゴンの側室そくしつ
  • がわおんな(? - 1648ねん) - 朝鮮ちょうせんひと。1648ねん殉死じゅんしした。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 順治じゅんじみかどあにのホーゲを大切たいせつおもっていた。ドルゴンが「ホーゲが謀反むほんたくらんでいる」と上奏じょうそうしたさいおさな順治じゅんじみかどあにけようといて命乞いのちごいし、罰金ばっきんけいだけですんだ[1]
  • すうねん、ドルゴンはふたたびホーゲを謀反むほんつみころそうとするが、順治じゅんじみかどいちゆずらず「処刑しょけいみとめない」と毅然きぜんたる態度たいどしめした[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ せいふとしヌルハチとせいふとしそうホンタイジ』197P
  2. ^ せいふとしヌルハチとせいふとしそうホンタイジ』199P

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 立花たちばなたけひらめせいふとしヌルハチとせいふとしそうホンタイジ 清朝せいちょうきずいた英雄えいゆう父子ふし生涯しょうがい』(近代きんだい文芸ぶんげいしゃ 1996ねん