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ポッポ (フリースラントおう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポッポ (西にしフリジア: Poppo 英語えいご: Bubo 生年せいねんしょう - 734ねん[1] )は、8世紀せいき初頭しょとうフリースラントおう在位ざいい:719ねん - 734ねん)。先王せんおうラッドボッドが719ねん死去しきょしたのちフリースラント支配しはいした。南方なんぽう大国たいこくフランク王国おうこく対峙たいじしたが、実際じっさいのところその勢力せいりょくおよんだのはラッドボッド時代じだいのフリースラントりょうのうちきた半分はんぶんほどであったとみられている[2]。 734ねん、ポッポはフランク王国おうこくみやおさむカール・マルテルボーンがわたたかやぶれて戦死せんしした。ポッポはキリスト教徒きりすときょうとだったため、フランクの年代ねんだいではこの戦争せんそうはカール・マルテルによるフリースラントの反乱はんらんぐんたいする聖戦せいせんであったと記録きろくされている。

733ねん、ポッポの支配しはいにないウェストルホアフリースじんがフランク王国おうこく反乱はんらんし、カール・マルテルに鎮圧ちんあつされた[3]。 このときとらわれた人質ひとじちキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうしフランク王国おうこく宗主そうしゅけんみとめたが、かれらはカールの撤退てったいのフリースじんにより処罰しょばつされた。よく734ねん、ポッポのもとにあつまったフリースじんふたた決起けっきした。カール・マルテルは大型おおがたせんあつめ、うみからフリースラントに上陸じょうりくした[4]。 カールはポッポを服従ふくじゅうさせることが目的もくてきだったため途上とじょうにいるフリースじんばっすることはく、抵抗ていこうけることもかった。[3] カールとポッポのりょうぐんは、当時とうじフリースラントの商業しょうぎょう中心ちゅうしんだったボーンがわ土手どて対峙たいじした[3]。 このボーンがわたたかでフランクぐん野営やえい要塞ようさいしたうえで戦闘せんとうのぞみ、フリースじんやぶれてポッポも戦死せんしした[3]

ポッポのにより、フリースラントの異教いきょう文化ぶんかおおきく崩壊ほうかいした。神殿しんでん徹底的てっていてき破壊はかいされ、略奪りゃくだつされた[3]。 カールは遠征えんせいから帰還きかんするとローマしき凱旋がいせんしきおこない、年代ねんだい記者きしゃはカールに「勝利しょうりしゃ(victor)」の称号しょうごうあたえた[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Lewis 1976, p. 403 n. 42, gives a date of 736, consistent with the Annales Mettenses priores.
  2. ^ Lewis 1976, p. 403.
  3. ^ a b c d e f Bachrach 2001, pp. 250–51.
  4. ^ These regions were described as islands (insulae) in contemporary accounts.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Bachrach, Bernard (2001). Early Carolingian Warfare: Prelude to Empire. University of Pennsylvania Press 
  • Costambeys, Marios; Innes, Matthew; MacLean, Simon (2011). The Carolingian World. Cambridge University Press 
  • Halbertsma, H. (2000). Het rijk van de Friese koningen, opkomst en ondergang. Utrecht 
  • Lewis, A. R. (1976). “The Dukes in the Regnum Francorum, A.D. 550–751”. Speculum 51 (3): 381–410. doi:10.2307/2851704. 
  • Wood, Ian N. (1994). The Merovingian Kingdoms, 450–751. London: Longman