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マッテオ・ロッセッリ

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マッテオ・ロッセッリ
Matteo Rosselli
生誕せいたん (1578-08-10) 1578ねん8がつ10日とおか
フィレンツェ
死没しぼつ 1650ねん1がつ18にち(1650-01-18)(71さいぼつ
フィレンツェ
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マッテオ・ロッセッリ(Matteo Rosselli、1578ねん8がつ10日とおか - 1650ねん1がつ18にち)は、イタリア画家がかである。フィレンツェではたらき、おも宗教しゅうきょうえがいた。

略歴りゃくれき

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フィレンツェまれた。はじめグレゴリオ・パガーニ(Gregorio Pagani: 1559-1605) の弟子でしになり、コジモ1せいによってフィレンツェつくられたアカデミア・デル・ディセーニョ(Accademia del Disegno)の会員かいいんに1599ねんになった。1605ねんにはローマにうつり、ドメニコ・パシニャーノ(Domenico Passignano: 1559–1638)と6ヶ月かげつあいだはたらいた。

1610年代ねんだいからフィレンツェのピッティ宮殿きゅうでん壁画へきがえがき、サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会きょうかいのための祭壇さいだんなどをえがいた。そのおおくの教会きょうかいのために宗教しゅうきょうえがいた。

フランスおうアンリ4せい(1553-1610) がくなったのち、アンリ4せい事績じせきえがいた絵画かいが注文ちゅうもんけた。有名ゆうめい彫刻ちょうこく画家がかミケランジェロ・ブオナローティおい息子むすこ宮廷きゅうてい詩人しじんげき作家さっかとなったミケランジェロ・ブオナローティ・イル・ジョーヴァネから依頼いらいけて、フィレンツェのブオナローティてい(Casa Buonarroti)の展示てんじしつにミケランジェロをたたえる装飾そうしょくえがいた画家がか一人ひとりでもあった。美術びじゅつひん収集しゅうしゅうとしてられる枢機卿すうききょうレオポルド・デ・メディチからの注文ちゅうもんで、別邸べってい、カジノ・ディ・サン・マルコ(Casino di San Marco)の装飾そうしょくえがいた。

弟子でしにはロレンツォ・リッピ(1606-1665)やバルダッサーレ・フランチェスキーニ(1611-1689)、ジョバンニ・ダ・サン・ジョバンニ(1592-1636)、ヤコポ・ヴィニャーリ(1592-1664)らがいる。フランチェスコ・フリーニ(c.1600-1646)もロッセッリの工房こうぼうはたらいた[1]

17世紀せいきにフィレンツェの芸術げいじゅつ伝記でんきしゅう出版しゅっぱんしたフィリッポ・バルディヌッチによれば、ロッセッリは生涯しょうがい結婚けっこんせず、工房こうぼうがせようとしたおいたちもわかくしてくなったとされる[2]

作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Giuseppe Cantelli & Francesco Furini, Disegni di Francesco Furini: e del suo ambiente, Firenze, Olschki, 1972
  2. ^ Gaetano Cambiagi, Giovanni Battista Cecchi, Luigi Bastianelli e compagni, Serie degli uomini i più illustri nella pittura, scultura, e architettura, Firenze, 1724, Vol. IX, pagg. 31-32

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Rudolf Wittkower, Pelican History of Art, Art and Architecture Italy, 1600–1750, Penguin Books Ltd, 1980, p. 344

外部がいぶリンク

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