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マリー1世 (オーヴェルニュ女伯) - Wikipedia コンテンツにスキップ

マリー1せい (オーヴェルニュおんなはく)

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マリー1せい(2せい)・ドーヴェルニュ
Marie I (II) d'Auvergne
オーヴェルニュおんなはく(1せい
ブローニュおんなはく(2せい
在位ざいい 1424ねん - 1437ねん

出生しゅっしょう 1376ねん
死去しきょ 1437ねん8がつ7にち
配偶はいぐうしゃ ラ・トゥール領主りょうしゅベルトラン4せいフランス語ふらんすごばん
子女しじょ ベルトラン5せいフランス語ふらんすごばん
ジャンヌ
イザベル
ルイーズ
家名かめい オーヴェルニュ
父親ちちおや モンガスコン領主りょうしゅゴドフロワ・ドーヴェルニュ
母親ははおや ジャンヌ・ド・ヴァンタドゥール
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マリー1せいMarie Ire d'Auvergne, 1376ねん - 1437ねん8がつ7にち)は、フランス貴族きぞく女性じょせいオーヴェルニュ出身しゅっしんとしては最後さいごオーヴェルニュおんなはくおよびブローニュおんなはく(1424ねん - 1437ねん)。ブローニュおんなはくとしては「マリー2せい(Marie II de Boulogne)」とかぞえられる。

生涯しょうがい

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オーヴェルニュはくロベール7せいよんなんであるモンガスコン英語えいごばん領主りょうしゅゴドフロワ(1385ねんぼつ)と、その2番目ばんめつまジャンヌ・ド・ヴァンタドゥール(Jeanne de Ventadour)のあいだ一人娘ひとりむすめとしてまれた。はははマリーの誕生たんじょう直後ちょくご死去しきょし、ちちは3番目ばんめつまむかえてさらにむすめ2人ふたりもうけるが、男子だんしさずからなかった。このためマリーがモンガスコンのおんな領主りょうしゅとなった。1389ねん1がつ11にちにラ・トゥール領主りょうしゅベルトラン4せいフランス語ふらんすごばん(1423ねんぼつ)と結婚けっこんし、あいだに1なん3じょけい4にん子女しじょをもうけた[1]

1424ねん同族どうぞくしたがえめいにあたるオーヴェルニュおんなはくジャンヌ2せい子供こどものないままぬと、オーヴェルニュとブローニュの相続そうぞくみとめられた。1437ねん死去しきょすると2つの伯爵はくしゃくりょう息子むすこのベルトラン5せい相続そうぞくした。マリーの子孫しそん家系かけいえたオーヴェルニュ正統せいとう相続そうぞくじんであることをしめすため、ラ・トゥール・ドーヴェルニュふくあいせい名乗なのった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Miroslav Marek (4 January 2005). “Bertrand IV, sn de La Tour(de La Tour2)”. genealogy.euweb.. 2012ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん
先代せんだい
ジャンヌ2せい
オーヴェルニュはく
ブローニュはく
1424ねん - 1437ねん
次代じだい
ベルトラン5せい