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マルテン・ファン・ファルケンボルフ

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マルテン・ファン・ファルケンボルフ
Marten van Valckenborch
ファン・ファルケンボルフさくバベルばべるとう
誕生たんじょう 1535ねんごろ
出生しゅっしょう ルーヴェン
死没しぼつねん 1612ねん
死没しぼつ フランクフルト・アム・マイン
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マルテン・ファン・ファルケンボルフ(Marten van Valckenborch、せいはValckenborgや Valckenburghとも、1535ねんごろ - 1612ねん)はフランドルまれの画家がかで、おおくの画家がかしたファン・ファルケンボルフ一族いちぞく一人ひとりである。聖書せいしょ物語ものがたり題材だいざいにした風景ふうけいえがいたが肖像しょうぞうえがいた。フランクフルトなどで活動かつどうした。どう時代じだいメヘレンまれの同名どうめい画家がか(Marten van Valckenborch II、1566ねん以前いぜんまれ-1597ねん[1]がいるので「Marten van Valckenborch de Oude(年長ねんちょうのマルテン・ファン・ファルケンボルフ)」とばれることもある。

略歴りゃくれき

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ルーヴェンまれた。おとうと画家がかルーカス・ファン・ファルケンボルフ(Lucas van Valckenborch:c.1535-1597)がいる。1559ねん8がつににメヘレンひじりルカ組合くみあい登録とうろくされ、1563ねんにはハイスブレヒト・ヤスペルス(Gysbrecht Jaspers)という弟子でしったことが記録きろくされている。ネーデルランドの画家がか伝記でんき出版しゅっぱんしたカレル・ファン・マンデル(1548-1606)によれば、当時とうじメヘレンでは風景ふうけいさかんにえがかれていて、ファン・ファルケンボルフもメヘレンでまなんだとされる[2]

ファン・ファルケンボルフの活動かつどう記録きろくは、1559ねんから1563ねんあいだはメヘレン、1565ねんにアントウェルペン、1566ねんから1573ねんはドイツのアーヘン活動かつどうし、1584ねんと1585ねんにアントウェルペンにもどったのち、1586ねんから1612ねんくなるまでフランクフルト・アム・マインでで活動かつどうした[3]

1560年代ねんだい後半こうはんにカルヴァン武装ぶそう蜂起ほうき「Beeldenstorm(偶像ぐうぞう破壊はかい)」の失敗しっぱいとそれにたいする弾圧だんあつのために、家族かぞくおとうととフランドルをはなれ、ドイツにうつった。アーヘンでむすめ教会きょうかい内部ないぶえがくのを得意とくいとする画家がかヘンドリック・ファン・ステーンワイク(Hendrik van Steenwijck I:c.1550–1603)と結婚けっこんした。はちじゅうねん戦争せんそう戦況せんきょう推移すいいによって一旦いったん、アントウェルペンにもどるが、1886ねんのアントウェルペン陥落かんらくによってフランクフルトに永住えいじゅうすることになった。 1586ねん7がつ義理ぎり息子むすこのファン・ステーンワイクとともにフランクフルトの市民しみんけんた。フランクフルトに工房こうぼうひらき、1593ねんからはオーストリアではたらけていたおとうとのルーカス・ファン・ファルケンボルフもフランクフルトではたらくようになった。

息子むすこの、フレデリク(Frederik van Valckenborch: 1566-1623)やヒリス(Gillis van Valckenborch: 1570–1622)も画家がかになった。

聖書せいしょのエピソードを題材だいざいにした風景ふうけいえがき、「バベルばべるとう」をなん題材だいざいにした。

作品さくひん

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参考さんこう文献ぶんけん

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