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マンネルハイムせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィンランドだい都市としヴィープリげんロシアりょう)の南方なんぽうのカレリア地峡ちきょうにマンネルハイムせんきずかれていた

マンネルハイムせん(マンネルハイムせん)、またはマンネルヘイムせん(マンネルヘイムせん)は、ソ連それんぐん侵攻しんこう対抗たいこうするためフィンランドぐんラドガフィンランドわんあいだカレリア地峡ちきょう現在げんざいロシアりょう)にながさ135km、はば90kmにわたきずいた防衛ぼうえいせんのこと。ナチス・ドイツ技術ぎじゅつ援助えんじょによりつくられた。名称めいしょうはフィンランドの陸軍りくぐん元帥げんすいカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム由来ゆらいする。

建設けんせつ

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この防衛ぼうえいせん当初とうしょ、1918ねんフィンランド内戦ないせん直後ちょくごにマンネルヘイムが構想こうそうしたが、かれ下野げやしたために実現じつげんしなかった。その1921ねんより1924ねん、および1932ねん以後いごの2けてトーチカ機関きかん銃座じゅうざ建設けんせつされたが完成かんせいするまえソ連それんとの「ふゆ戦争せんそう」に突入とつにゅうした。マンネルハイムせんには、ジークフリートせんマジノせんのような大型おおがたトーチカや対戦たいせんしゃごうや「りゅう」とばれるコンクリートせいたい戦車せんしゃよう障害しょうがいぶつなどはなく、自然しぜん地形ちけい倒木とうぼくなどの障害しょうがいぶつ利用りようした防衛ぼうえい陣地じんちきずかれていた[1]構築こうちくのために使用しようされたコンクリート(14,520立方りっぽうメートル)は、ヘルシンキのオペラ建設けんせつようのコンクリート(15,500立方りっぽうメートル)よりもすくないほどであった。

ふゆ戦争せんそう

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ふゆ戦争せんそうさい、マンネルハイムせんはげしい戦場せんじょうとなり、当初とうしょフィンランド全土ぜんど占領せんりょうするつもりだったソ連それんぐん冬季とうききびしい環境かんきょうとフィンランドぐん決死けっし防衛ぼうえいのため、この線上せんじょうで2ヶ月かげつわた足止あしどめされた。フィンランドぐん国民こくみんたい強固きょうこたい防衛ぼうえいせんがあるとしんじさせるため、ソ連それんぐんはフィンランドへの進撃しんげきまってしまっている理由りゆう説明せつめいするため、それぞれマンネルハイムせん強力きょうりょくさを宣伝せんでんした[2]。このため、実際じっさいにはトーチカはちいさく大砲たいほうもわずかしかなく、ただの塹壕ざんごう地形ちけい使つかった障害しょうがいぶつ大半たいはんめるにもかかわらず、「じゅう武装ぶそうしたマンネルハイムせん」という伝説でんせつ流布るふするようになった。

ふゆ戦争せんそうのち、マンネルハイムせんじょう構造こうぞうぶつソ連それんぐん工兵こうへいにより破壊はかいされた。その継続けいぞく戦争せんそうではりょうぐんともこの線上せんじょうたたかっているが、もはやりょうぐんとも防衛ぼうえいせん再建さいけんすることはなかった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 陣地じんち一部いちぶには、学生がくせい児童じどう休日きゅうじつ労働ろうどうによって建設けんせつされたものもあった。
  2. ^ ソ連それんがわふゆ戦争せんそう終結しゅうけつも、マンネルハイムせんについて、マジノせん匹敵ひってきする強力きょうりょく防衛ぼうえいせんとして宣伝せんでんつづけた。ニキータ・フルシチョフ回想かいそうろく(『フルシチョフ回想かいそうろく』)のなかでマンネルハイムせんが「難攻不落なんこうふらく」の存在そんざいだったとしている。

外部がいぶリンク

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