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レカ・ゾグ (1939-2011)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
レカ1せい
Leka I
ゾグ

ぜん Leka Skënder
レカ・スケンデル
称号しょうごう アルバニアおう太子たいし
出生しゅっしょう (1939-04-05) 1939ねん4がつ5にち
アルバニア王国おうこくティラナ王宮おうきゅう
死去しきょ (2011-11-30) 2011ねん11月30にち(72さいぼつ
アルバニアの旗 アルバニアティラナ、マザー・テレサ記念きねん病院びょういん
埋葬まいそう アルバニアの旗 アルバニアティラナ郊外こうがいシャラ公営こうえい墓地ぼち
配偶はいぐうしゃ スザナ
子女しじょ レカ2せい
父親ちちおや ゾグ1せい
母親ははおや ゲラルディナ
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうスンナ
サイン
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レカ・ゾグアルバニア: Leka Zogu1939ねん4がつ5にち - 2011ねん11月30にち)は、アルバニアおうゾグ1せい長男ちょうなん。アルバニアおう太子たいし(1939ねん)、アルバニア王家おうけ家長かちょう(1961ねん - 2011ねん)。王制おうせい支持しじしゃ一部いちぶのマスコミからはレカ1せいアルバニア: Leka I)とばれた[1]

生涯しょうがい

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ゾグ1せいとその王妃おうひゲラルディナあいだ一人ひとり息子むすことしてまれたが、誕生たんじょうの2にちはじまったイタリアぐんのアルバニア侵攻しんこうのため、ただちに両親りょうしんれられて国外こくがい出国しゅっこくした。一家いっか戦時せんじちゅうイングランド滞在たいざいし、戦後せんごエジプトおうファールーク1せいまねきでエジプトにうつった。

レカはエジプトの英国えいこくじん学校がっこういでスイスエイグロン・カレッジ英語えいごばんかよい、パリ大学だいがく経済けいざいがくまなんだのちサンドハースト王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょうした。同校どうこう卒業そつぎょうとともに、イギリス陸軍りくぐん少尉しょうい任官にんかんした[2]。1961ねんちちともなって王家おうけ家督かとくぎ、パリのル・ブリストル・ホテルで亡命ぼうめいちゅう王制おうせい支持しじしゃあつめて即位そくいしき挙行きょこうした[3]。また同時どうじスカンデルベク騎士きしだん英語えいごばんUrdhëri i Skënderbeut)などアルバニア王家おうけぞくする3つの騎士きしだん総長そうちょういだ[2]

1975ねん10がつ7にち(または10日とおか)、ビアリッツでオーストラリアじん美術びじゅつ教師きょうしスーザン・カレン=ウォード(Susan Cullen-Ward、1941ねん - 2004ねん)と結婚けっこんした。夫妻ふさいマドリードんだが、レカが自宅じたく武器ぶきかくっていたことが理由りゆう国外こくがい退去たいきょ余儀よぎなくされた。いでローデシア現在げんざいジンバブエ)にうつるが、ロバート・ムガベ同国どうこく政権せいけん奪取だっしゅすると、みなみアフリカ共和きょうわこく政府せいふから外交がいこう旅券りょけんあたえられてヨハネスブルク高級こうきゅう住宅じゅうたくがいうつり、ながくこのまちらした。

アルバニアで社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい崩壊ほうかいしたのちの1993ねん、アルバニアに入国にゅうこくしようとしたが、入国にゅうこく申請しんせい職業しょくぎょうらんに「国王こくおう」といたため、アルバニア政府せいふから入国にゅうこくきんじられた[4]。このとき、空港くうこうにはやく500にん王制おうせい支持しじしゃあつまり、レカの帰国きこく歓迎かんげいした。

1997ねんアルバニア暴動ぼうどう最中さいちゅう、レカはふたたびアルバニアに入国にゅうこくし、このときは2000にん支持しじしゃ空港くうこうあつまってかれ歓迎かんげいした[5]。レカのさい帰国きこくつづいておこなわれた君主くんしゅせい復活ふっかつ是非ぜひをめぐる国民こくみん投票とうひょう英語えいごばんでは、君主くんしゅせい賛成さんせいひょうとうじたのは全体ぜんたいの3ぶんの1にまり、王政おうせい復古ふっこはならなかった。

レカとその支持しじしゃ国民こくみん投票とうひょう公平こうへいせい異議いぎとなえると、警察けいさつ介入かいにゅうして王制おうせい支持しじしゃ1人ひとり射殺しゃさつする騒動そうどうとなり、レカは国外こくがい退去たいきょした。レカは騒乱そうらんざい本人ほんにん不在ふざいのまま禁錮きんこ3ねん宣告せんこくされた。しかし2002ねん3がつにアルバニア国会こっかいもと王家おうけ帰国きこく許可きょか決議けつぎしたときに、レカの禁錮きんこけい特赦とくしゃとなった[1][6]。レカは同年どうねん6がつ28にち最終さいしゅうてき帰国きこくたした。帰国きこく国民こくみん発展はってん運動うんどう(LZHK)の党首とうしゅつとめた[7] が、2006ねん2がつ公的こうてき活動かつどう引退いんたい宣言せんげんした。

レカは2011ねん11月に72さい死去しきょ[8] し、ティラナ郊外こうがいのシャラ公営こうえい墓地ぼちははつまはかとなりほうむられた[9]

子女しじょ

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つまのスザナとのあいだ息子むすこを1にんもうけた。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Rees, Neil. A Royal Exile – King Zog & Queen Geraldine of Albania including their wartime exile in the Thames Valley and Chilterns, 2010 (ISBN 978-0-9550883-1-5)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Queen Susan of the Albanians (obituary)”. Daily Telegraph (2004ねん7がつ21にち). 2008ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  2. ^ a b Albania: the House of Zogu, Royal Ark
  3. ^ Geraldine Apponyi, a queen for 354 days (obituary), The Economist, 7 November 2002
  4. ^ New Hope for The Old Regime, Time, 27 November 2000.
  5. ^ “Albania: two thousand attend Tirana protest rally in support of monarchy”. ATA. (1997ねん7がつ2にち). http://nl.newsbank.com/nl-search/we/Archives?p_product=NewsLibrary&p_multi=BBAB&d_place=BBAB&p_theme=newslibrary2&p_action=search&p_maxdocs=200&p_topdoc=1&p_text_direct-0=0F99F5CCC575771E&p_field_direct-0=document_id&p_perpage=10&p_sort=YMD_date:D&s_trackval=GooglePM 2008ねん7がつ31にち閲覧えつらん 
  6. ^ Commentary on Home Office Republic of Albania Country Report of April 2004 (PDF, 362 KB) , UK Advisory Panel on Country Information, Third Meeting: 7 September 2004.
  7. ^ Leka: Enough with communist mentality, Gazeta SOT Online, 30 April 2005.
  8. ^ By LLAZAR SEMINI Associated Press (2002ねん6がつ25にち). “Albania's Self-Styled King Leka Dies at 72 - ABC News”. Abcnews.go.com. 2011ねん11月30にち閲覧えつらん
  9. ^ The Washington Post

外部がいぶリンク

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