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ロベール2せい (ドルーはく)

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ロベール2せい
Robert II
ドルーはく
在位ざいい 1184ねん - 1218ねん

出生しゅっしょう 1154ねんごろ
死去しきょ 1218ねん12月28にち
埋葬まいそう フランス王国おうこくブレーヌ、サンティヴド修道院しゅうどういん付属ふぞく教会きょうかい
配偶はいぐうしゃ マオー・ド・ブルゴーニュ
  ヨランド・ド・クシー
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
家名かめい ドルー
父親ちちおや ドルーはくロベール1せい
母親ははおや ブレーヌ領主りょうしゅアニェス・ド・ボードモン
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ロベール2せい・ド・ドルーRobert II de Dreux[1]、1154ねんごろ - 1218ねん12月28にち)は、ドルーはくブリーはくブレーヌはく。ドルーはくロベール1せいと、ブレーヌ領主りょうしゅアニェス・ド・ボードモンの

だい3かい十字軍じゅうじぐん参加さんかし、アルスフのたたか、1191ねんのアッコン攻囲こういせん参加さんかした。フランスに帰国きこく、1195ねんから1198ねんまでイングランド王国おうこくたたかった。1210ねんにはアルビジョワ十字軍じゅうじぐんぐんひきいて参加さんかし、テルメのたたかいにくわわっている。かれは、ブローニュはくとの闘争とうそうつづけるおとうとのボーヴェ司教しきょうフィリップをたすけ、1214ねんブーヴィーヌのたたかではフィリップ2せいぐん左翼さよく指揮しきした。

ロベール2せいつまヨランド・ド・クシーは、ブレーヌにあるサンティヴド修道院しゅうどういん付属ふぞく教会きょうかい一族いちぞく霊廟れいびょう埋葬まいそうされている。

子女しじょ[編集へんしゅう]

1177ねんマオー・ド・ブルゴーニュ結婚けっこんするが、子供こどもがないまま1181ねん婚姻こんいん無効むこうとなっている。

1184ねんクシー領主りょうしゅラウル1せいむすめヨランドと結婚けっこん。12をもうけた。

  • ロベール3せい(1185ねん - 1234ねん) - ドルーはく
  • エレオノール(1186ねん - 1248ねん) - シャトーヌフ・アン・ティメレ領主りょうしゅユーグ3せいつま
  • ピエール・モークレール(1187ねん - 1250ねん) - ブルターニュこう
  • イザベル(1188ねん - 1242ねん) - ピエルポン領主りょうしゅジャン2せいつま
  • アリックス(1189ねん - 1258ねん) - サラン領主りょうしゅゴーシェ4せいつま
  • フィリッパ(1192ねん - 1242ねん) - バルはくアンリ2せいつま
  • アンリ(1193ねん - 1240ねん) - ランス大司教だいしきょう
  • アニェス(1195ねん - 1258ねん) - オーソンヌはくエティエンヌ2せいアンスカリ)のつま
  • ヨランド(1196ねん - 1239ねん) - ウーはくラウル2せいつま
  • ジャン(1198ねん - 1239ねん) - マコンはく
  • ジャンヌ(1199ねん - 1272ねん) - フォントヴロー修道院しゅうどういん院長いんちょう
  • ジョフロワ(1200ねん - 1219ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

先代せんだい
ロベール1せい
ドルーはく
1184ねん - 1218ねん
次代じだい
ロベール3せい