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ヴィットーレ・カルパッチョ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィットーレ・カルパッチョ
Vittore Carpaccio
1700ねんごろえがかれた肖像しょうぞう
誕生たんじょう 1465ねんころ
出生しゅっしょう ヴェネツィア
死没しぼつねん 1525ねんころ
死没しぼつ ヴェネツィア
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せいウルスラゆめ』(1495ねん

ヴィットーレ・カルパッチョVittore Carpaccio, 1465ねんごろ - 1525ねんころ)は、イタリアヴェネツィア画家がかで、おなじくヴェネツィアジェンティーレ・ベリーニ師事しじした。風景ふうけい描写びょうしゃすぐれる。カルパッチョはとりわけ、『せいウルスラ物語ものがたり』としてられる、9まい絵画かいがよりなる連作れんさく著名ちょめいである。

概説がいせつ[編集へんしゅう]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

連作れんさくせいウルスラ物語ものがたり
英国えいこく使節しせつたち到着とうちゃく細部さいぶ

カルパッチョの生涯しょうがいについては不明ふめい部分ぶぶんおおいが、かれ主要しゅよう作品さくひん1490ねんから1519ねんまでの期間きかん制作せいさくされたことはたしかである。またかれが、初期しょきヴェネツィア代表だいひょうする画家がか一人ひとりであることも間違まちがいない。生年月日せいねんがっぴ推測すいそくでしかからないが、おじであるフラ・イラリオ(Fra Ilario)の遺言ゆいごんしょのなかで1472ねん言及げんきゅうされているのが、かれについてもっとも初期しょき判明はんめいしている事実じじつである。この遺言ゆいごんでの言及げんきゅうから、ドクター・ルードヴィッヒ(Dr Ludwig)は、15さい未満みまんでは遺産いさん相続そうぞくしゃ資格しかくはないとの理由りゆうもとづいて、カルパッチョの誕生たんじょうが1455ねんごろだと推定すいていした。

しかしこの推定すいていは、遺言ゆいごんしゃであるおじが、相続そうぞくじんたるカルパッチョが法的ほうてき年齢ねんれい将来しょうらいたっすることを前提ぜんていに、遺言ゆいごんしょ作成さくせいしたという可能かのうせい考慮こうりょしていない。

かれ最初さいしょ作品さくひんぐんであり、1490ねんヴェネツィア制作せいさくされた『せいウルスラ』連作れんさくにおける、いま若年じゃくねん未熟みじゅくさがのこ作風さくふうかんがえると、この時点じてんでカルパッチョが35さい画家がかとして成熟せいじゅくした年齢ねんれいたっしていたとはかんがえられない。こうしてかれ誕生たんじょう日付ひづけは、1490ねん当時とうじには25さいほどであったと仮定かていして逆算ぎゃくさんされている。

二人ふたりのヴェネツィアの女性じょせい』、コッレール美術館びじゅつかん (ヴェネツィア)

たしかなことは、カルパッチョはジョヴァンニ・ベリーニアントニオ・ヴィヴァリーニen:Antonio Vivarini)などと同様どうようヴェネツィアおおきな絵画かいが工房こうぼう親方おやかたであったラッザロ・バスティアーニ(Lazzaro Bastiani)の弟子でしであったことである(ときとして間違まちがえられているが、バスティアーニのではない)。バスティアーニ自身じしん作品さくひんは、ウィーンにある『S・ヴェネランダ(S. Veneranda)』、ロンドンナショナル・ギャラリーにある『せい処女しょじょまえひざまずく Doge Mocenigo 』および『聖母子せいぼし』(以前いぜんは、カルパッチョのものとされていた)などの絵画かいがにおいてれる。

後年こうねんになってカルパッチョは、ジョヴァンニ・バッティスタ・チーマ・ダ・コネリアーノ1459ねんごろ - 1517ねんころen:Cima da Conegliano)の影響えいきょうけたようにえる(たとえば、フェラーラでの1508ねんの『童貞どうていマリアの、Death of the Virgin』)。『せいウルスラ』連作れんさくからはなれた、『童貞どうていマリアの生涯しょうがい』や『せいステパノスの生涯しょうがい』、そしてベルリンにおける『せるキリスト』などの分散ぶんさんした連作れんさくが、とりわけ言及げんきゅうあたいする。

カルパッチョのその作品さくひんとしては、マドリードティッセン=ボルネミッサ美術館びじゅつかんにある1510ねんの『わか騎士きし肖像しょうぞう』、ニューヨークメトロポリタン美術館びじゅつかん所蔵しょぞうされている1510ねんごろの『キリストの受難じゅなん瞑想めいそう』、ヴェネツィアアカデミア美術館びじゅつかんにある1515ねんの『アララットさんの1まんにん殉教者じゅんきょうしゃ』(Ten thousand martyrs of Mount Ararat)、ベオグラードセルビア国立こくりつ美術館びじゅつかん (en:National Museum of Serbia) にある『せいセバスティアヌス』、おなじく『せいなる巡礼じゅんれいしゃ』がある。

詳細しょうさい参照さんしょう[編集へんしゅう]

信頼しんらいける詳細しょうさい説明せつめいについては、ポンペオ・モルメンティとグスターフ・ルードヴィッヒの共著きょうちょ『ヴィットーレ・カルパッチョの生涯しょうがい作品さくひん』(英語えいごやく:R・H・キャストやく『 Life and Works of Vittorio Carpaccio 』、1907ねんおよび、『ロンドン・クォータリー・レビュー(Quarterly Review)』 1908ねんはるごう所収しょしゅうのロジャー・フライによる評論ひょうろん「ジャンル画家がかとその批評ひひょう」を参照さんしょう

作品さくひん[編集へんしゅう]

代表だいひょうさくとしては、この当時とうじ実在じつざい童貞どうてい殉教じゅんきょう聖女せいじょとして崇敬すうけいさかんであったせいウルスラを主題しゅだいとする、1495ねんの9まい連作れんさくせいウルスラのゆめ』(画像がぞう)、また1515ねんの『騎士きし帰還きかん』(Ritratto di cavaliere)がある。

なま没年ぼつねん作品さくひん制作せいさくねんともにこの記事きじでは、矛盾むじゅんする数字すうじとなっている。『せいウルスラ伝説でんせつ』の連作れんさくは、1490ねん制作せいさくと1495ねん制作せいさく両方りょうほう記述きじゅつがあるが、英語えいごばんでは、1490ねんとなっている。詳細しょうさいについて異論いろんがあるのかもれない。

画集がしゅう解説かいせつ[編集へんしゅう]

  • 『カルパッチョ イタリア・ルネサンスの巨匠きょしょうたち23 ヴェネツィアの画家がか』 フランチェスコ・ヴァルカノーヴァ、篠塚しのづか二三男ふみおやく東京書籍とうきょうしょせき、1995ねん

その[編集へんしゅう]

ヴィットーレ・カルパッチョの由来ゆらいとするカルパッチョという料理りょうりがある。なま牛肉ぎゅうにくパルミジャーノ・レッジャーノまたはソースをかけた料理りょうりで、名前なまえ由来ゆらい赤身あかみなま牛肉ぎゅうにく色味いろみかれ独特どくとく赤色あかいろ基調きちょうとした作風さくふうているのでづけられたとされる。かれ自身じしんこのんだというせつもある。[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ カルパッチョ 【carpaccio(イタリア)】」『かずようなか・エスニック 世界せかい料理りょうりがわかる辞典じてん』、コトバンク講談社こうだんしゃhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A7-4682392014ねん5がつ10日とおか閲覧えつらん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]