(Translated by https://www.hiragana.jp/)
万人祭司 - Wikipedia コンテンツにスキップ

まんにん祭司さいし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

まんにん祭司さいし(ばんにんさいし、ドイツ: Priestertum aller Gläubigen英語えいご: the universal priesthood、the priesthood of all believers)とは、宗教しゅうきょう改革かいかくにおいてプロテスタントつよ主張しゅちょうしたプロテスタントの根本こんぽんてき教理きょうりひとつである[1]。プロテスタント諸派しょはには「聖職せいしょくしゃ」との呼称こしょう役割やくわり存在そんざいせず、きょう役者やくしゃ教職きょうしょくしゃとしての牧師ぼくし教会きょうかい指導しどうたる。かたり厳密げんみつさをおもんじて「ぜん信徒しんと祭司さいし」ということもある。

ルターによる主張しゅちょう

[編集へんしゅう]

マルティン・ルターは『ドイツ国民こくみんキリスト教きりすときょう貴族きぞくあずかう』にてカトリックについて以下いか批判ひはんおこなっている。教皇きょうこう司教しきょう司祭しさい修道しゅうどうたちは教会きょうかいてき身分みぶん王侯おうこう貴族きぞく手工業しゅこうぎょうしゃ農民のうみんなどは世俗せぞくてき身分みぶんいつわりの区別くべつおこなっているが、キリスト教徒きりすときょうとはすべて教会きょうかいてき身分みぶんぞくするのであってたがいに職務しょくむじょう以外いがいめんからは区別くべつされない。コリントの信徒しんとへの手紙てがみいち12しょう12-13せつにあるようにおのおのが固有こゆうのわざをもっていて、それによって奉仕ほうし関係かんけいである。また、まんにん祭司さいしはペトロの手紙てがみいち2しょう9せつ、ヨハネの黙示録もくしろく5しょう9-10せつからも支持しじされるとしている。司教しきょうによる聖職せいしょくしゃじょひんおな権能けんのう人々ひとびとあつまり全体ぜんたい代理だいりとしてえらし、権能けんのう行使こうしゆだねることである。

12:12からだがひとつであっても肢体したいおおくあり、また、からだのすべての肢体したいおおくあっても、からだはひとつであるように、キリストの場合ばあい同様どうようである。 12:13なぜなら、わたしたちはみな、ユダヤじんもギリシヤじんも、奴隷どれい自由じゆうじんも、ひとつの御霊みたまによって、ひとつのからだとなるようにバプテスマをけ、そしてみなひとつの御霊みたまんだからである。 — コリントじんへのだいいち手紙てがみ12しょう12-13せつ、『口語こうごやく聖書せいしょ』より引用いんよう
2:9しかし、あなたがたは、えらばれた種族しゅぞく祭司さいしくにせいなる国民こくみんかみにつけるみんである。それによって、くらやみからおどろくべきみひかりまねれてくださったかたのみわざを、あなたがたがかたつたえるためである。 — ペテロのだいいち手紙てがみ2しょう9せつ、『口語こうごやく聖書せいしょ』より引用いんよう
5:9かれらはあたらしいうたうたってった、「あなたこそは、その巻物まきものけとり、封印ふういんくにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、そのによって、かみのために、あらゆる部族ぶぞく国語こくご民族みんぞく国民こくみんなかから人々ひとびとをあがない、 5:10わたしたちのかみのために、かれらを御国みくにみんとし、祭司さいしとなさいました。かれらは地上ちじょう支配しはいするにいたるでしょう」。 — ヨハネの黙示録もくしろく5しょう9-10せつ、『口語こうごやく聖書せいしょ』より引用いんよう

ルターはたとえはなしもちいてこのことを展開てんかいする。キリストしゃ平信へいしんのささやかなれが捕虜ほりょとして荒野あらのれてかれたとすると司教しきょうじょひんされた司祭しさいはそのなかにいないためいちにんえらして洗礼せんれいさづけ、ミサをあげ、つみ赦免しゃめんし、説教せっきょうおこな職務しょくむゆだねることになるだろう。これはまんにん祭司さいしかんがえがなければ不可能ふかのうなことである。ただしだれにでもこの職務しょくむたすことがふさわしいとされるわけではないし、またすべてのひと平等びょうどう祭司さいしであるから自分じぶんからしゃばってけるということはゆるされず、共同きょうどうたい同意どうい委任いにんなくしてこの職務しょくむたすことはできない。また、司祭しさいしたひとたんなる平信へいしんとなる。

ぎゃくひら信徒しんと世俗せぞく政治せいじ権力けんりょくしゃけんむちって悪人あくにん処罰しょばつし、善人ぜんにん保護ほごするわざをつし、くつ鍛冶屋かじや百姓ひゃくしょうのような仕事しごとをしているものはその職務しょくむとわざによってたがいにつかうのである。

職務しょくむゆだねられているものがいる場合ばあいもコリントの信徒しんとへの手紙てがみいち14しょう30せつにあるように、職務しょくむについているもの言葉ことばだけをかなければならないわけではなく共同きょうどうたい全体ぜんたい啓示けいじかたうべきなのである。[2]

14:30しかし、せきにいるほかもの啓示けいじけた場合ばあいには、はじめのものだまるがよい。 — コリントじんへのだいいち手紙てがみ14しょう30せつ、『口語こうごやく聖書せいしょ』より引用いんよう

またルターは3ヵ月かげつかれた『教会きょうかいのバビロニアしゅう』でもこれを強調きょうちょうした。

プロテスタント教会きょうかい共通きょうつう理解りかい

[編集へんしゅう]

ルター以後いごのプロテスタント諸派しょはが、共通きょうつうして「まんにん祭司さいし」の根拠こんきょとしてかんがえている聖書せいしょ言葉ことばには、マタイ16:18、いでエジプト19:5-6、だいいちペテロ2:4-8、黙示録もくしろく1:4-6、どう5:6-10 などがある。

そのなかでも、とくにマタイ16:18「あなたはペトロ。わたしはこのいわうえにわたしの教会きょうかいてる。」(しん共同きょうどうやく)は、カトリックとプロテスタントのあいだ伝統でんとうてき解釈かいしゃくことにしている。

カトリック教会きょうかいは、「このいわうえに」の《いわ》を前文ぜんぶんとのつながりからペトロ個人こじんかんがえ、ペトロの後継こうけいしゃたるローマ教皇きょうこうとローマ教皇きょうこうによって叙任じょにんされた聖職せいしょくしゃかみとつながり、一般いっぱん信徒しんと聖職せいしょくしゃとおしてのみかみにつながるとかんがえている。

それにたいして、プロテスタントのほとんどすべての教派きょうはは、「このいわうえに」の《いわ》は、ギリシャ聖書せいしょ原典げんてんでは、ペトロ個人こじんす "πετροs"(petros)ではなく、岩盤がんばんあらわす "πぱいεいぷしろんτたうρろーαあるふぁ"(petra)が使つかわれていることから、ペトロ個人こじんすのではなく、ペトロとおな信仰しんこう告白こくはく「あなたはメシア、けるかみです。」(マタイ16:16,しん共同きょうどうやく)をする信徒しんとすべてが直接ちょくせつかみとつながっているとかんがえている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 宗教しゅうきょう改革かいかくさんだい原理げんり聖書せいしょのみ聖書せいしょ権威けんい)、信仰しんこうみとめかみめぐみによるすくい)、まんにん祭司さいし
  2. ^ マルティン・ルター『世界せかい名著めいちょ〈18〉ルター』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1969ねん、81-180ぺーじASIN B000J9C0SM