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久田ひさた佐助さすけ

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久田ひさた船長せんちょう石川いしかわけん能登のとまち菅原すがわら神社じんじゃ

久田ひさた 佐助さすけ(ひさだ さすけ、1864ねん12月28にち元治もとはる元年がんねん11月30にち) - 1903ねん明治めいじ36ねん10月29にち)は、明治めいじ時代じだい船長せんちょう

経歴けいれき

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1864ねん鳳至ふげしぐん鵜川うがわむらげん石川いしかわけん能登のとまち鵜川うがわ)にまれる。1893ねん東京とうきょう商船しょうせん学校がっこうげん東京とうきょう海洋かいよう大学だいがく)を卒業そつぎょうし、日本郵船にっぽんゆうせん入社にゅうしゃ。1903ねん青森あおもり函館はこだてあいだ連絡れんらくせん東海とうかいまる」の船長せんちょう任命にんめいされる。

同年どうねん10がつ29にち、「東海とうかいまる」は青森あおもり出航しゅっこう悪天候あくてんこう見舞みまわれ、津軽海峡つがるかいきょうロシア貨物かもつせん「プログレスごう」に衝突しょうとつされる。久田ひさた乗客じょうきゃく乗員じょういん全員ぜんいん救命きゅうめいボートにせたのち、非常ひじょう汽笛きてきらしつづけるため、ただ一人ひとり東海とうかいまる」にとどまる。ふねはやがて沈没ちんぼつし、久田ひさたふね運命うんめいともにしたが、汽笛きてききつけた「プログレスごう」がもどり、乗客じょうきゃく乗員じょういん57にん救助きゅうじょ成功せいこうする。のこりの47にんあらしなかでボートが転覆てんぷくしてくなったが、久田ひさたが「東海とうかいまる」にのこらなければ、犠牲ぎせいしゃはさらにえたとかんがえられる。享年きょうねん38。

その行為こうい船員せんいんかんたたえられ、だい世界せかい大戦たいせんまえ教科書きょうかしょ小学しょうがく国語こくご読本とくほん』でも紹介しょうかいされた。出身しゅっしんでは現在げんざいいたるまで毎年まいとし追悼ついとう式典しきてんおこなわれている。

参考さんこう文献ぶんけん

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