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けん小屋こや古墳こふん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
けん小屋こや古墳こふん
墳丘ふんきゅう石室いしむろ開口かいこう
所在地しょざいち 熊本くまもとけん熊本くまもと西にし池上いけがみまち池上いけがみ[1]
位置いち 北緯ほくい3247ふん36.77びょう 東経とうけい13039ふん39.80びょう / 北緯ほくい32.7935472 東経とうけい130.6610556 / 32.7935472; 130.6610556座標ざひょう: 北緯ほくい3247ふん36.77びょう 東経とうけい13039ふん39.80びょう / 北緯ほくい32.7935472 東経とうけい130.6610556 / 32.7935472; 130.6610556
形状けいじょう えんふん
規模きぼ 直径ちょっけい15m
たかさ4m
埋葬まいそう施設しせつ りょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろ肥後ひごがた
出土しゅつどひん 須恵すえへん
築造ちくぞう時期じき 6世紀せいき後半こうはん
史跡しせき なし
地図ちず
二軒小屋 古墳の位置(熊本県内)
二軒小屋 古墳
けん小屋こや
古墳こふん
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けん小屋こや古墳こふん(にけんごやこふん)は、熊本くまもとけん熊本くまもと西にし池上いけがみまち池上いけがみにある古墳こふん形状けいじょうえんふん史跡しせき指定していはされていない。

概要がいよう[編集へんしゅう]

熊本くまもとけん中部ちゅうぶ井芹いせり川北かわきたがん金峰山きんぷさん南東なんとうふもと付近ふきん丘陵きゅうりょう斜面しゃめんじょう標高ひょうこう60メートル)に築造ちくぞうされた古墳こふんである[1][2]古墳こふんめいは、古墳こふん付近ふきん人家じんか2けん現在げんざいは1けん)が所在しょざいすることに由来ゆらいする。かつて西にし50メートルにえんふん1けん小屋こや古墳こふん類似るいじ構造こうぞう小型こがた横穴よこあなしき石室いしむろふん)が存在そんざいしたが、現在げんざいうしなわれている[2]1997ねん平成へいせい9ねん)に石室いしむろ実測じっそく調査ちょうさ実施じっしされている。

墳丘ふんきゅう周囲しゅういそぎたいらのためもと墳丘ふんきゅうあきらかでないが、ふんがた円形えんけいで、現状げんじょうでは直径ちょっけいやく15メートル・たかやく4メートルをはか[1]埋葬まいそう施設しせつりょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろで、みなみ方向ほうこう開口かいこうする。たんしつ構造こうぞう石室いしむろで、玄室げんしつおくかべには自然しぜんせきわせた石屋いしやがたえ、壁面へきめんきゅうおくりドームじょう穹窿きゅうりゅうじょう)の天井てんじょう形成けいせいするという、肥後ひごがた石室いしむろとしての特色とくしょくしめしており、石室いしむろ保存ほぞん状態じょうたいきわめて良好りょうこうである。調査ちょうさのため副葬品ふくそうひんつまびらかでなく、石室いしむろ実測じっそく調査ちょうささい須恵すえ小片しょうへんのみが採集さいしゅうされている[2]築造ちくぞう時期じき古墳こふん時代じだい後期こうき6世紀せいき後半こうはんころ推定すいていされる[2]

遺跡いせきれき[編集へんしゅう]

  • 戦時せんじちゅう防空壕ぼうくうごうとして利用りよう[2]
  • 戦後せんご倉庫そうことして利用りよう[2]
  • 1969ねん昭和しょうわ44ねん)、石室いしむろりゃくはか報告ほうこく[2]
  • 1996ねん平成へいせい8ねん)、『しん熊本くまもと』において墳丘ふんきゅう測量そくりょう報告ほうこく[1]
  • 1997ねん平成へいせい9ねん)、石室いしむろ実測じっそく調査ちょうさ熊本大学くまもとだいがく文学部ぶんがくぶ考古学こうこがく研究けんきゅうしつ1998ねん報告ほうこく[2]

埋葬まいそう施設しせつ[編集へんしゅう]

石室いしむろ俯瞰ふかん
石室いしむろ展開てんかい

埋葬まいそう施設しせつとしてはりょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろ構築こうちくされており、みなみ方向ほうこう開口かいこうする。石室いしむろ規模きぼつぎとお[2]

  • 石室いしむろ全長ぜんちょう:8.5メートル
  • 玄室げんしつながさ3.8メートル、はば3.5メートル、たかさ4.2メートル
  • 羨道せんどうながさ4.7メートル、はば0.8-1.5メートル、たかさ1.4-1.5メートル

石室いしむろ石材せきざいはほとんどが安山岩あんざんがんで、羨道せんどう中央ちゅうおうとももんにのみ阿蘇あそ熔結凝灰岩ぎょうかいがん使用しようする。玄室げんしつ平面へいめんがたりゃく方形ほうけい側壁そくへき下部かぶには大型おおがた石材せきざいえ、そのうえ安山岩あんざんがんかたまりせき割石わりいしおくりながらげて、整美せいびなドームじょう穹窿きゅうりゅうじょう)の天井てんじょう形成けいせいする。そでせきには安山岩あんざんがん巨石きょせきえ、そのうえかたまりせき1だんんだうえで、楣石をわたす。玄室げんしつ天井てんじょうせきは1まい羨道せんどう開口かいこうかって徐々じょじょひら平面へいめんがたである。玄室げんしつ同様どうよう壁面へきめん下部かぶには大型おおがた石材せきざいえ、そのうえかたまりせき割石わりいしむ。羨道せんどうほぼ中央ちゅうおうには阿蘇あそ熔結凝灰岩ぎょうかいがんせいとももん構築こうちくする。とももんには角柱かくちゅうじょう石材せきざい使用しようし、開口かいこうがわには閉塞へいそくせきけるためのみがみとめられる。羨道せんどう天井てんじょうせきは4まいとももん閉塞へいそくせき長方形ちょうほうけいいたじょうで、羨道せんどう前面ぜんめんのこそんしており、羨道せんどう前面ぜんめんほかかたまりせき閉塞へいそく使用しようされた石材せきざい可能かのうせいがある。石室いしむろ横目よこめそでせき上面うわつらそろっており、玄室げんしつ下部かぶ羨道せんどう側壁そくへき羨道せんどう天井てんじょうせき玄室げんしつ上部じょうぶ構築こうちくじゅん推測すいそくされる[2]

玄室げんしつないには、おくかべ石屋いしやがた構築こうちくされる。安山岩あんざんがん自然しぜんせき巨石きょせきわせたもので、内法うちのりはばやく2.1メートル・ながやく1.2メートル・たかやく1メートルをはかる。石屋いしやがたゆかめん中心ちゅうしんつぶておお散在さんざいするため、つぶてゆか可能かのうせいがある[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

記事きじ執筆しっぴつ使用しようした文献ぶんけん

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

記事きじ執筆しっぴつ使用しようしていない関連かんれん文献ぶんけん

  • けん小屋こや古墳こふん」『熊本くまもと西山にしやま地区ちく文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ -つけ楢崎ならさきさん古墳こふん緊急きんきゅう調査ちょうさ報告ほうこくしょ-』熊本くまもと教育きょういく委員いいんかい、1969ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]