仁方 にかた やすり (にがたやすり)は、広島 ひろしま 県 けん 呉 くれ 市 し 仁方 にかた で生産 せいさん されているやすり 。
2010年 ねん 現在 げんざい 、生産 せいさん 量 りょう で国内 こくない シェア95%。特 とく に仁方 にかた 湾 わん 沿 ぞ いの埋立 うめたて 地 ち 通称 つうしょう やすり工業 こうぎょう 団地 だんち に製造 せいぞう 会社 かいしゃ が50社 しゃ ほど存在 そんざい している。通常 つうじょう のやすりの他 ほか 、時代 じだい のニーズに合 あ わせてダイヤモンドやすり や精密 せいみつ やすり・爪 つめ やすり など幅広 はばひろ く対応 たいおう している。ただし職人 しょくにん の高齢 こうれい 化 か が進 すす んでおり後継 こうけい 者 しゃ 問題 もんだい を抱 かか えていることも事実 じじつ である。
社名 しゃめい や社 やしろ 章 あきら に壺 つぼ が入 はい っている会社 かいしゃ が多 おお いが、これは味噌 みそ からきている[5] 。これは焼入 やきい れ する際 さい に使 つか う味噌 みそ を使 つか う壺 つぼ から、あるいは仁方 にかた やすりのルーツにあたる大阪 おおさか にいた職人 しょくにん 壷井 つぼい 豊次郎 とよじろう の商標 しょうひょう 「壷 つぼ と」を真似 まね たもの、と言 い われている[5] [6] 。かつては各社 かくしゃ それぞれが秘伝 ひでん レシピを持 も ち自作 じさく していた[6] 。現在 げんざい ではほぼ公開 こうかい されており、食用 しょくよう の味噌 みそ に食塩 しょくえん ・硝酸 しょうさん カリウム を加 くわ え水 すい で伸 の ばしたものを刷毛 はけ でやすりに塗 ぬ って焼入 やきい れしている[6] 。
1945年 ねん 米 べい 軍 ぐん が作成 さくせい した地図 ちず 。右 みぎ 下 か が仁方 にかた 。中央 ちゅうおう やや下 した が広 こう 海軍 かいぐん 工廠 こうしょう 。
仁方 にかた は3方 ぽう を山 やま に囲 かこ まれ南側 みなみがわ のみ瀬戸内海 せとないかい に面 めん した町 まち である。町 まち の中央 ちゅうおう を流 なが れる錦 にしき 川 がわ によって形成 けいせい された三角州 さんかくす の上 うえ にできた町 まち であり、沿岸 えんがん は仁方 にかた 港 こう がある港町 みなとちょう でもある。江戸 えど 時代 じだい 初期 しょき に塩田 えんでん が形成 けいせい され、肥沃 ひよく な三角州 さんかくす であったことから農業 のうぎょう も盛 さか んで、そのころから比較的 ひかくてき 栄 さか えたところであった[7] [8] 。
仁方 にかた にやすり製法 せいほう が伝播 でんぱ したのは江戸 えど 時代 じだい 末期 まっき とされる[7] [9] 。1817年 ねん (文化 ぶんか 14年 ねん )広島 ひろしま 藩 はん は諸 しょ 品 しな 方 かた を設 もう け特産 とくさん 品 ひん の開発 かいはつ ・領 りょう 外 がい 販売 はんばい を積極 せっきょく 的 てき に推 お し進 すす めていた中 なか でのことだった[10] 。伝承 でんしょう については諸説 しょせつ あるものの、共通 きょうつう するのはルーツは大阪 おおさか にあるということである[5] [11] 。
文化 ぶんか 年間 ねんかん あるいは天保 てんぽう 年間 ねんかん に鍛冶 たんや 職人 しょくにん が大阪 おおさか から仁方 にかた に持 も ち込 こ んだ[11] 。
1824年 ねん (文政 ぶんせい 7年 ねん )金谷 かなや 弥 わたる 助 すけ が大阪 おおさか で修行 しゅぎょう をして持 も ち帰 かえ った[5] [11] 。
同 おな じ頃 ごろ 、嘉平 かへい 次 じ が大阪 おおさか で修行 しゅぎょう をして持 も ち帰 かえ った[11] 。
1867年 ねん (慶応 けいおう 3年 ねん )刀工 とうこう 梶山 かじやま 友平 ともへい が大阪 おおさか で修行 しゅぎょう をして持 も ち帰 かえ った[5] [12] 。
仁方 にかた にやすり製造 せいぞう が定着 ていちゃく した理由 りゆう としては、
農業 のうぎょう が盛 さか んであったことから農 のう 鍛冶 たんや が定住 ていじゅう しており技術 ぎじゅつ 導入 どうにゅう が容易 ようい であったこと、農民 のうみん にとっては農閑期 のうかんき に下請 したうけ 的 てき 賃仕事 ちんしごと として雇 やと われたことからちょうどいい副業 ふくぎょう となった[9] 。そこから小規模 しょうきぼ 家内 かない 工業 こうぎょう として発展 はってん していった[5] 。
出雲 いずも から安来 やすぎ 鋼 こう [注 ちゅう 1] を仕入 しい れるルートを確立 かくりつ していた。
南西 なんせい にある白岳 しらたけ 山 さん で石灰岩 せっかいがん がとれたこと。製作 せいさく 過程 かてい での焼入 やきい れの際 さい 、冷却 れいきゃく 水 すい には石灰 せっかい を混 ま ぜて入 い れていたため必要 ひつよう だった。
当時 とうじ やすり製作 せいさく は手作業 てさぎょう で、刀鍛冶 かたなかじ と同 おな じく玉 たま 鋼 こう を伸 の ばしてやすり形状 けいじょう にし、一 ひと つ一 ひと つ手 しゅ 切 ぎ りで目 め 立 たた していた[5] 。1人 ひとり 1日 にち で目立 めた てできる量 りょう は20から30本 ほん 程度 ていど だったという[5] 。
なお同 おな じ江戸 えど 末期 まっき に仁方 にかた では酒 さけ と醤油 じょうゆ の製造 せいぞう が始 はじ まり、やすりと合 あ わせた3つが仁方 にかた の特産 とくさん 品 ひん となった[14] 。仁方 にかた の東側 ひがしがわ にある川尻 かわじり の川尻 かわじり 筆 ひつ も同 おな じころに始 はじ まっている。
近代 きんだい の呉 ご は、1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )呉 ご 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 、1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )呉 ご 海軍 かいぐん 工廠 こうしょう が開設 かいせつ され、大日本帝国 だいにっぽんていこく 海軍 かいぐん の一大 いちだい 拠点 きょてん として発展 はってん した[15] 。呉 ご 工廠 こうしょう ・広 こう 海軍 かいぐん 工廠 こうしょう での艦船 かんせん ・飛行機 ひこうき の開発 かいはつ 製造 せいぞう が進 すす むとともにやすりの需要 じゅよう は高 たか まっていった[8] 。工廠 こうしょう からの要求 ようきゅう に対応 たいおう するため全国 ぜんこく からやすり職人 しょくにん が仁方 にかた に集 あつ められたという[16] 。
明治 めいじ 20年代 ねんだい (1890年代 ねんだい )には小規模 しょうきぼ 家内 かない 工業 こうぎょう から企業 きぎょう 化 か が進 すす んでいる[9] 。明治 めいじ 40年代 ねんだい (1910年代 ねんだい )以降 いこう 、機械 きかい 化 か が進 すす み生産 せいさん 形態 けいたい が大 おお きく変 か わることになる[7] [9] 。1910年 ねん に国内 こくない 初 はつ となる目 め 立 りつ の機械 きかい 化 か に成功 せいこう 、1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )仁方 にかた に電気 でんき が通 とお り手動 しゅどう から電動 でんどう へ移行 いこう 、大正 たいしょう 末期 まっき に原材料 げんざいりょう の鍛造 たんぞう に圧延 あつえん ロール機 き 導入 どうにゅう 、と随時 ずいじ 更新 こうしん していった[9] 。圧延 あつえん 工場 こうじょう は梶山 かじやま 友平 ともへい が初 はじ めて建 た てたという。1人 ひとり 1日 にち で目立 めた てできる量 りょう は200本 ほん に達 たっ した[5] 。仁方 にかた が生産 せいさん 量 りょう で日本一 にっぽんいち になったのはこの機械 きかい 化 か 以降 いこう のことである[7] 。当時 とうじ は新潟 にいがた [注 ちゅう 2] ・東京 とうきょう [注 ちゅう 3] ・大阪 おおさか などが主要 しゅよう 産地 さんち であった。
販路 はんろ 拡大 かくだい は仁方 にかた 港 こう から船 ふね で運搬 うんぱん できたという点 てん でも大 おお きく、1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )ごろには西日本 にしにほん の主要 しゅよう 地 ち の他 ほか に朝鮮 ちょうせん ・台湾 たいわん にまで出荷 しゅっか していた[14] 。その後 ご も製造 せいぞう の近代 きんだい 化 か が進 すす んだことから生産 せいさん 量 りょう は増 ふ え、1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )には生産 せいさん 量 りょう 国内 こくない シェア50%を超 こ えた[7] 。
太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 ちゅう の生産 せいさん 状 じょう 況 きょう は不明 ふめい 。大戦 たいせん 末期 まっき の呉 ご を狙 ねら った呉 ご 軍港 ぐんこう 空襲 くうしゅう では被害 ひがい は小 ちい さかった[9] 。一方 いっぽう で当時 とうじ 国内 こくない の主要 しゅよう 産地 さんち である新潟 にいがた や東京 とうきょう などでは空襲 くうしゅう 被害 ひがい 以降 いこう 衰退 すいたい していくことになる[9] [16] 。
戦後 せんご 、仁方 にかた のやすりは常 つね に生産 せいさん 量 りょう 国内 こくない シェア80%以上 いじょう あった[7] 。その後 ご も技術 ぎじゅつ 革新 かくしん が進 すす み高 だか 品質 ひんしつ 大量 たいりょう 生産 せいさん が出来 でき るようになり、これに高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう に入 はい ると盛況 せいきょう を極 きわ め、国内 こくない シェア85%・海外 かいがい 80数 すう 国 こく にまで輸出 ゆしゅつ していた[5] 。同 おな じ頃 ごろ 、当時 とうじ 町内 ちょうない に点在 てんざい していた工場 こうじょう では隣接 りんせつ する民家 みんか から公害 こうがい 、つまり騒音 そうおん や排水 はいすい 問題 もんだい が叫 さけ ばれるようになった[5] 。そこで1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )・1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん )の2度 ど にわたり町内 ちょうない のやすり工場 こうじょう が仁方 にかた 湾 わん 埋立 うめたて 地 ち へ移転 いてん し、やすり工業 こうぎょう 団地 だんち を形成 けいせい するようになった[5] 。
一方 いっぽう で幾 いく 度 ど かの不 ふ 況 きょう を機 き に、工具 こうぐ や金物 かなもの などの仕入 しいれ 商品 しょうひん ・砥石 といし やダイヤモンド工具 こうぐ といった関連 かんれん 商品 しょうひん の開発 かいはつ 製造 せいぞう を進 すす めている[5] 。更 さら に1996年 ねん (平成 へいせい 8年 ねん )ごろから中国 ちゅうごく からの量産 りょうさん 品 ひん の流入 りゅうにゅう によって、特 とく に流通 りゅうつう している中目 なかめ やすりは採算 さいさん がとれなくなった。また需要 じゅよう 構造 こうぞう の変化 へんか 、特 とく に工業 こうぎょう 機械 きかい の製造 せいぞう 精密 せいみつ 化 か によって機械 きかい 部品 ぶひん のバリ取 と りの必要 ひつよう がなくなったことから需要 じゅよう が減 へ っている[7] 。現在 げんざい やすりと関連 かんれん 製品 せいひん で売上 うりあげ 高 だか 半々 はんはん ぐらいであるという[7] 。またMade in Japan のブランド化 か から海外 かいがい 需要 じゅよう もあり中国 ちゅうごく ・東南 とうなん アジア・アメリカなどに輸出 ゆしゅつ している。
注釈 ちゅうしゃく
出典 しゅってん
澤崎 さわさき 裕 ひろし 太 ふとし 「伝統 でんとう 的 てき な地場 じば 産業 さんぎょう 、仁方 にかた のやすりを探 さぐ る 」『2010年度 ねんど 地理 ちり 学 がく 野外 やがい 実習 じっしゅう 報告 ほうこく 書 しょ Ⅲ』、信州大学 しんしゅうだいがく 教育 きょういく 学部 がくぶ 自然 しぜん 地理 ちり 学 がく 研究 けんきゅう 室 しつ 、2012年 ねん 2月 がつ 、70-74頁 ぺーじ 、2017年 ねん 7月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。