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はちしょうかん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
はちしょうかん正門せいもん北側きたがわから撮影さつえい、2015ねん6がつ
八勝館の位置(愛知県内)
八勝館
愛知あいちけんにおけるはちしょうかん位置いち

はちしょうかん(はっしょうかん)は、名古屋なごや昭和しょうわ広路ひろじまちにある老舗しにせ料亭りょうてい

沿革えんかく

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料亭りょうていはちしょうかんは、名古屋なごやひがし郊外こうがい起伏きふくんだ景勝けいしょう所在しょざいする。この場所ばしょには、明治めいじ時代じだい前期ぜんき造営ぞうえいされた、材木ざいもくしょう柴田しばたまごすけ別邸べっていがあった。1910ねん明治めいじ43ねん)に料理りょうり旅館りょかんはちしょうかんとなり、1925ねん大正たいしょう14ねん)には名古屋なごや経済けいざいじんによって設立せつりつされた株式会社かぶしきがいしゃはちしょうかん経営けいえいするところとなった。その1977ねん昭和しょうわ52ねん)、経営けいえいたい株式会社かぶしきがいしゃはちしょうかんとなっている[1]

年表ねんぴょう

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建物たてもの

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建物たてもの配置はいち以下いかとおりである(以下いか文中ぶんちゅう太字ふとじ建物たてものくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい)。西門にしもんはいると、右手みぎておく玄関げんかんとう、そのおくまつあいだとうつ。まつあいだとう右手みぎて西にし)には御幸みゆきあいだとう左手ひだりてひがし)にはしん座敷ざしきとう、そのさらにひがしきくあいだとうつ。敷地しきち南側みなみがわにはいけのある庭園ていえんひろがり、そのなか田舎家いなかや中門ちゅうもんつ。このほか、玄関げんかんとう北側きたがわにはあたらしい大広間おおひろまとう厨房ちゅうぼうとうつが、この2むね重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい対象たいしょうがいである。さらにはなれた北側きたがわには正門せいもんつ。これらのうち玄関げんかんとうまつあいだとう柴田しばた別邸べってい時代じだい明治めいじ中期ちゅうき建築けんちくしん座敷ざしきとうきくあいだとう料理りょうり旅館りょかん施設しせつとして明治めいじ後期こうきてられた。田舎家いなかや滋賀しがけん甲賀こうが民家みんか移築いちくしたものである。柴田しばた別邸べってい時代じだい建物たてものは、材木ざいもくしょう別邸べっていらしく、良材りょうざいもちいた数寄屋すきや建築けんちくである。太平洋戦争たいへいようせんそうには、数寄屋すきや建築けんちく研究けんきゅう第一人者だいいちにんしゃである堀口ほりぐち捨己設計せっけいによって御幸みゆきあいだとう新築しんちくしん座敷ざしきとう増築ぞうちくきくあいだとう改修かいしゅうおこなわれており、数寄屋すきや現代げんだい建築けんちく融合ゆうごうをめざした堀口ほりぐち作風さくふう随所ずいしょにみられる。もん3むねはいずれも明治めいじ中期ちゅうき建築けんちくとみられる[4]

建物たてもの概要がいよう

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御幸みゆきあいだ
堀口ほりぐち捨己設計せっけいの16じょう和室わしつ西にしめんには4あいだすぎ面皮めんぴ床框とこがまち(とこがまち)をえ、中央ちゅうおうゆか(とこ)、左右さゆうゆかわきとする。南面なんめんづけ書院しょいんもうけ、かつら離宮りきゅうわらいのきにならったまるまどもうける。北側きたがわつぎさかいふすますりはくのう装束しょうぞく)のきれわせて山水さんすい表現ひょうげんしている。天井てんじょうは、南北なんぼくじく中央ちゅうおう一直線いっちょくせん障子しょうじめ、その左右さゆうざおえん天井てんじょうとする。照明しょうめい器具きぐ直接ちょくせつえないように天井てんじょううら設置せっちされ、前述ぜんじゅつ障子しょうじとおして室内しつないらす。その左右さゆう天井てんじょう場所ばしょによってざおえんきをえ、非対称ひたいしょうのデザインになっている[5]
残月ざんげつあいだ
御幸みゆきあいだ」とおなとうにある、堀口ほりぐち捨己設計せっけいの10じょう和室わしつ表千家おもてせんけ茶室ちゃしつ残月ざんげつあいだ」のうつしである。北面ほくめん西側にしがわゆかだかたかめて2じょう上段じょうだんとし、北面ほくめん東側ひがしがわにはづけ書院しょいんもうける[5]

文化財ぶんかざい

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以下いか建造けんぞうぶつ9むねおよ土地とち2020ねんれい2ねん)、くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた[3]

はちしょうかん・9むね

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玄関げんかんとう
明治めいじ中期ちゅうき建築けんちく式台しきだい内玄関うちげんかん玄関げんかんあいだ応接おうせつしつからなる。
まつあいだとう
玄関げんかんとうみなみ位置いちし、りょうむね渡廊下わたりろうか連絡れんらくする。明治めいじ中期ちゅうき建築けんちく1950ねん昭和しょうわ25ねん)に増築ぞうちくうめあいだつぎまつあいだつぎせきあいだつぎからなる。このうちせきあいだつぎ部分ぶぶん増築ぞうちくである。
御幸みゆきあいだとう
まつあいだとう西にし位置いちし、りょうむね渡廊下わたりろうか連絡れんらくする。1950ねん昭和しょうわ25ねん)、愛知あいち国体こくたいにともなう昭和しょうわ天皇てんのう行幸ぎょうこうさいし、堀口ほりぐち捨己の設計せっけいてられた。御幸みゆきあいだつぎ残月ざんげつあいだつぎのほか、配膳はいぜんしつもうける。御幸みゆきあいだからいれがわへだてたところには月見台つきみだい(ベランダ)をもうける。
しん座敷ざしきとう
玄関げんかんとう南東なんとう位置いちし、りょうむね渡廊下わたりろうか連絡れんらくする。明治めいじ後期こうき建築けんちく1953ねん昭和しょうわ28ねん)、堀口ほりぐち捨己によって増築ぞうちく紅梅こうばいあいだ白菊しらぎくあいだらんあいだたけあいだまつあいだつぎからなる。このうちまつあいだつぎ増築ぞうちくである。
きくあいだとう
しん座敷ざしきとう北東ほくとう位置いちし、りょうむね渡廊下わたりろうか連絡れんらくする。明治めいじ後期こうき建築けんちく。1953ねん昭和しょうわ28ねん)、堀口ほりぐち捨己によって改修かいしゅうきくあいだつぎ紅葉こうようあいだつぎからなる。
田舎家いなかや
敷地しきち南側みなみがわ位置いちする。1938ねん昭和しょうわ13ねん)に滋賀しがけん甲賀こうが地区ちく民家みんか移築いちくしたもの。
正門せいもん
明治めいじ時代じだい中期ちゅうき建築けんちく
西門にしもん
明治めいじ時代じだい中期ちゅうき建築けんちく
中門ちゅうもん
明治めいじ時代じだい中期ちゅうき建築けんちく
へい4むね
正門せいもん東方とうほう正門せいもん西方せいほう西門にしもん南方なんぽう西門にしもん北方ほっぽう
土地とち
宅地たくち山林さんりん10,365.41平方へいほうメートル。

出典しゅってんかく建物たてもの建築けんちく年代ねんだい間取まどりについては、文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざいだいしん指定してい文化財ぶんかざい」『月刊げっかん文化財ぶんかざい』687、だいいち法規ほうき2021ねん、pp.47 - 55による。

北大路魯山人きたおおじろさんじんとの関係かんけい

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北大路魯山人きたおおじろさんじんはちしょうかん初代しょだい主人しゅじんとは家族かぞくぐるみのいがあり、その影響えいきょう料理りょうりやおもてなしについて、さまざまな指導しどうけていた。また、食器しょっきから便器べんきいたるまで魯山人ろさんじん作品さくひん数多かずおおのこされており、魯山人ろさんじんゆかりの料亭りょうていとして、ファンに支持しじされてきた。

交通こうつう

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざいだい、2021)、p.47
  2. ^ 国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい建造けんぞうぶつ)の指定していについて | 文化庁ぶんかちょう”. www.bunka.go.jp. 2020ねん10がつ18にち閲覧えつらん
  3. ^ a b れい2ねん12月23にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい140ごう
  4. ^ 文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざいだい、2021)、pp.47 - 55
  5. ^ a b 文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざいだい、2021)、p.50
  6. ^ 平成へいせい24年度ねんどだい規模きぼ小売こうり店舗てんぽ立地りっちほうほうだい6じょうだい2こう変更へんこう届出とどけで概要がいよう【2012ねん10がつまつ - 経済けいざい産業さんぎょうしょう 2012ねん12月11にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 文化庁ぶんかちょう文化財ぶんかざいだいしん指定してい文化財ぶんかざい」『月刊げっかん文化財ぶんかざい』687、だいいち法規ほうき、2021ねん

外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい358ふん16.2びょう 東経とうけい13657ふん42.1びょう / 北緯ほくい35.137833 東経とうけい136.961694 / 35.137833; 136.961694