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円 えん 頂 いただき 党 とう 、ジョン・ペティ 画 が
円 えん 頂 いただき 党 とう (えんちょうとう、英 えい :Roundheads)とは、清教徒 せいきょうと 革命 かくめい (イングランド内戦 ないせん )において議会 ぎかい を支持 しじ した人々 ひとびと を指 さ した語 かたり である。円 えん 頭 あたま 派 は とも。彼 かれ らは議会 ぎかい 派 は (ぎかいは、英 えい :Parliamentarians)とも呼 よ ばれ、絶対 ぜったい 君主 くんしゅ 主義 しゅぎ や王権 おうけん 神授 しんじゅ 理論 りろん を標榜 ひょうぼう するイングランド 王 おう チャールズ1世 せい とその支持 しじ 者 しゃ である王 おう 党派 とうは (騎士 きし 党 とう )と敵対 てきたい した[1] 。円 えん 頂 いただき 党 とう の政治 せいじ 的 てき な目標 もくひょう は、議会 ぎかい (立法府 りっぽうふ )による行政 ぎょうせい 組織 そしき の完全 かんぜん な支配 しはい を実現 じつげん させることであった。
大 だい 多数 たすう の円 えん 頂 いただき 党員 とういん は立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい を望 のぞ んでいたが、1649年 ねん に第 だい 二 に 次 じ イングランド内戦 ないせん が終 お わる頃 ころ にはオリバー・クロムウェル を始 はじ めとする共和 きょうわ 派 は の指導 しどう 者 しゃ が権力 けんりょく を握 にぎ り、王制 おうせい を完全 かんぜん に廃止 はいし してイングランド共和 きょうわ 国 こく (コモンウェルス )を樹立 じゅりつ した。第 だい 一 いち 次 じ イングランド内戦 ないせん における円 えん 頂 いただき 党 とう の最高 さいこう 司令 しれい 官 かん だったトーマス・フェアファクス 卿 きょう や、第 だい 2代 だい マンチェスター伯爵 はくしゃく エドワード・モンタギュー ら円 えん 頂 いただき 党 とう 指導 しどう 層 そう の大半 たいはん は立憲 りっけん 君主 くんしゅ 体制 たいせい の支持 しじ 者 しゃ であり続 つづ けた。
円 えん 頂 いただき 党 とう は主 おも にピューリタン や長老 ちょうろう 派 は から構成 こうせい されたが、独立 どくりつ 派 は 、真正 しんせい 水平 すいへい 派 は 、平等 びょうどう 派 は 、第 だい 五 ご 王国 おうこく 派 は といった少数 しょうすう の政治 せいじ 的 てき な徒党 ととう も含 ふく まれていた。
当時 とうじ 、議会 ぎかい 派 は に属 ぞく する清 きよし 教派 きょうは の一部 いちぶ は頭 あたま を短 みじか く刈 か り上 あ げていたが、この髪型 かみがた はロンドン 宮廷 きゅうてい の派手 はで 好 この みな男性 だんせい たちに流行 りゅうこう していた長 なが い巻 ま き髪 かみ とは対照 たいしょう 的 てき であった。このピューリタンの丸刈 まるが り頭 あたま が円 えん 頂 いただき 党 とう (ラウンドヘッド)の語源 ごげん である。イングランド内戦 ないせん の最中 さいちゅう とそのしばらく後 ご まで、円 えん 頂 いただき 党 とう という言葉 ことば は侮蔑 ぶべつ 的 てき なニュアンスを含 ふく んでいた。このため、議会 ぎかい 派 は の率 ひき いるニューモデル軍 ぐん では、同僚 どうりょう の兵士 へいし を「丸刈 まるが り頭 あたま (ラウンドヘッド=円 えん 頂 いただき 党 とう )」と呼 よ ぶと、罰 ばっ が与 あた えられた。これは王 おう 党派 とうは の呼 よ び名 な である騎士 きし 党 とう (Cavaliers)という語 かたり の扱 あつか われ方 ほう とは異 こと なっていた。騎士 きし 党 とう という語 かたり はもともと、王 おう 党派 とうは の人々 ひとびと をエリザベス1世 せい 女王 じょおう の治世 ちせい にネーデルラント のプロテスタント を迫害 はくがい していたスペイン人 じん の騎士 きし (Caballeros)たちと重 かさ ね合 あ わせるために議会 ぎかい 派 は の用 もち いた侮蔑 ぶべつ の言葉 ことば だった。しかし議会 ぎかい 派 は が「円 えん 頂 いただき 党 とう 」と呼 よ ばれるのを嫌 きら ったのとは対照 たいしょう 的 てき に、王 おう 党派 とうは は政敵 せいてき によって付 つ けられた仇名 あだな を好 この んで自分 じぶん たちの呼称 こしょう として用 もち いた。
「円 えん 頂 いただき 党 とう 」という言葉 ことば は、1641年 ねん 末 すえ に主教 しゅきょう 制 せい 廃止 はいし 法案 ほうあん (Bishops Exclusion Bill 、1640年 ねん 末 すえ の根絶 こんぜつ 請願 せいがん を元 もと に作成 さくせい された法案 ほうあん )をめぐって議会 ぎかい (長期 ちょうき 議会 ぎかい )が紛糾 ふんきゅう していた最中 さいちゅう に、ウェストミンスター で起 お きた暴動 ぼうどう に際 さい して初 はじ めて侮蔑 ぶべつ 語 ご として使 つか われた。ある当局 とうきょく 者 しゃ は暴動 ぼうどう に際 さい して集 あつ まった群衆 ぐんしゅう について以下 いか のように記 しる した。「この者 もの どもの中 なか で髪 かみ の毛 け を耳 みみ より長 なが く伸 の ばしているものは非常 ひじょう に少 すく なく、このためウェストミンスターでの騒 さわ ぎに参加 さんか していた者 もの たちのことを丸刈 まるが り頭 あたま (ラウンドヘッド)と呼 よ ぶようになった」。この暴動 ぼうどう にはロンドン市 し の徒弟 とてい 身分 みぶん (Apprentice )の若者 わかもの も参加 さんか しており、ラウンドヘッド(丸刈 まるが り頭 あたま )というのは、徒弟 とてい たちがギルド の規定 きてい に従 したが って短 みじか く刈 か った髪型 かみがた をしていることを蔑 さげす んで呼 よ んだ言葉 ことば であった。
クロムウェルの秘書官 ひしょかん ジョン・ラッシュワース (英語 えいご 版 ばん ) によれば、「ラウンドヘッド」という言葉 ことば が最初 さいしょ に用 もち いられたのは1641年 ねん 12月27日 にち で、ウェストミンスターでの暴動 ぼうどう の最中 さいちゅう に、暴動 ぼうどう 鎮圧 ちんあつ のために現場 げんば に来 き たある士官 しかん が、剣 けん を抜 ぬ いて「主教 しゅきょう に向 む かって吠 ほ え回 まわ る丸刈 まるが り頭 あたま のイヌどもの喉 のど をかっ切 き れ( "cut the throat of those round-headed dogs that bawled against bishops")[5] 」と叫 さけ んだのが始 はじ まりという。一方 いっぽう 、ピューリタンの論客 ろんかく リチャード・バクスター の主張 しゅちょう では、「ラウンドヘッド」という言葉 ことば の発明 はつめい 者 しゃ は王妃 おうひ ヘンリエッタ・マリア だと言 い う。バクスターの話 はなし では、王妃 おうひ は1641年 ねん 春 はる の初代 しょだい ストラフォード伯爵 はくしゃく トマス・ウェントワース の裁判 さいばん の際 さい 、ストラフォード伯 はく を陥 おとしい れたジョン・ピム を指 さ して、あの丸刈 まるが り頭 あたま の男 おとこ は誰 だれ かと臣下 しんか に尋 たず ねたのだとされる。チャールズ2世 せい の首席 しゅせき 顧問 こもん だった初代 しょだい クラレンドン伯爵 はくしゃく エドワード・ハイド もこの話題 わだい について以下 いか のように書 か いている。「…これらの争 あらそ い以後 いご 、「ラウンドヘッズ(円 えん 頂 いただき 党 とう )」と「キャヴァリアーズ(騎士 きし 党 とう )」という2つの単語 たんご は対 たい の存在 そんざい として語 かた られるようになっていった…国王 こくおう の忠実 ちゅうじつ な家来 けらい は「騎士 きし 党員 とういん 」と見 み なされ、そうでない者 もの たちは軽蔑 けいべつ すべき下 した 賤の者 もの たちと一緒 いっしょ くたにされて「円 えん 頂 いただき 党員 とういん 」と呼 よ ばれた[6] 」
皮肉 ひにく なことに、王 おう 党派 とうは のカンタベリー大 だい 主教 しゅきょう ウィリアム・ロード が1636年 ねん に定 さだ めた法令 ほうれい によって、イングランド国教 こっきょう 会 かい の全 すべ ての聖職 せいしょく 者 しゃ が髪 かみ を短 みじか く切 き るように指示 しじ されると、多 おお くのピューリタンはロードの権威 けんい への反抗 はんこう を示 しめ すために髪 かみ の毛 け を伸 の ばし始 はじ めた[7] ものの、依然 いぜん として「円 えん 頂 いただき 党員 とういん 」と呼 よ ばれていた。円 えん 頂 いただき 党 とう のうち、「独立 どくりつ 派 は 」かつ「上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう 」に属 ぞく するピューリタン(クロムウェルもその一員 いちいん である)たちの間 あいだ では、護国 ごこく 卿 きょう 政権 せいけん 末期 まっき までには髪 かみ を長 なが く伸 の ばすことが一般 いっぱん 的 てき となったが、「長老 ちょうろう 派 は 」や議会 ぎかい 派 は の一般 いっぱん 兵士 へいし たちは、長髪 ちょうはつ を忌 い み嫌 きら い続 つづ けた。王政 おうせい 復古 ふっこ 直前 ちょくぜん には、独立 どくりつ 派 は のピューリタンが長老 ちょうろう 派 は のピューリタンを「ラウンドヘッド」と侮蔑 ぶべつ 的 てき に呼 よ ぶようになった。
円 えん 頂 いただき 党 とう という言葉 ことば は、1678年 ねん から1681年 ねん にかけて王位 おうい 排除 はいじょ 法案 ほうあん をめぐる政治 せいじ 危機 きき が起 お きるまで、議会 ぎかい 主義 しゅぎ ・共和 きょうわ 主義 しゅぎ 的 てき 傾向 けいこう をもつ人々 ひとびと を指 さ す語 かたり として使 つか われた。そして王位 おうい 排除 はいじょ 危機 きき の最中 さいちゅう に、彼 かれ らを指 さ す言葉 ことば として新 あら たに登場 とうじょう した「ホイッグ 」にとって代 か わられた。一方 いっぽう 、王 おう 党派 とうは も同 おな じ時期 じき に「騎士 きし 党 とう 」から「トーリー 」へと呼称 こしょう が変 か わった。騎士 きし 党 とう と円 えん 頂 いただき 党 とう の語 かたり が定着 ていちゃく した際 さい と同 おな じく、トーリーとホイッグの語 かたり も互 たが いを侮辱 ぶじょく して使 つか う言葉 ことば として定着 ていちゃく した。
Macaulay, Thomas Babington (1856), The History of England from the Accession of James II , 1 , New York: Harper & Brothers, pp. 105, ISBN 0543931293 , https://books.google.co.jp/books?id=ehoPAAAAYAAJ&pg=PA105&dq=Roundhead+Civil+War&as_brr=1&ie=ISO-8859-1&redir_esc=y&hl=ja
Hanbury, Benjamin (1844), Historical Memorials Relating to the Independents Or Congregationalists: From Their Rise to the Restoration of the Monarchy , 3 , pp. 118, 635
Hunt, John (2010) [1870], Religious Thought in England, from the Reformation to the End of Last Century; A Contribution to the History of Theology , 2 , General Books LLC, p. 5, ISBN 1150980966
Roberts, Chris (2006), Heavy Words Lightly Thrown: The Reason Behind Rhyme , Thorndike Press, ISBN 0-7862-8517-6
Worden, Blair (2009), The English Civil Wars 1640–1660 , London: Penguin Books, ISBN 0-14-100694-3
この記事 きじ にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 うち で著作 ちょさく 権 けん が消滅 しょうめつ した次 つぎ の百科 ひゃっか 事典 じてん 本文 ほんぶん を含 ふく む: Anonymous (1911). "ROUNDHEAD" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語 えいご ). Vol. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 772.