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地方ちほうかん会議かいぎ

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地方ちほうかん会議かいぎ(ちほうかんかいぎ)とは、戦前せんぜん日本にっぽんにおける府県ふけん長官ちょうかん会議かいぎである。

はじまりは、明治めいじ政府せいふ招集しょうしゅうした府県ふけん長官ちょうかん会議かいぎである。戦前せんぜん府県ふけん知事ちじ内務省ないむしょうから各地かくち派遣はけんされる官僚かんりょう官選かんせん知事ちじ)であり、1890ねん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう施行しこうされると、地方ちほう長官ちょうかん会議かいぎ名称めいしょう変更へんこうされ、内務ないむ大臣だいじん招集しょうしゅうによって、毎年まいとし東京とうきょう開催かいさいされた。

戦後せんごにも、内閣ないかく招集しょうしゅうするかたち継続けいぞくした。全国ぜんこく知事ちじかい前身ぜんしん全国ぜんこく地方ちほう自治じち協議きょうぎかい連合れんごうかい1947ねん組織そしきされ、民選みんせん知事ちじ時代じだいつながる。

当初とうしょ地方ちほうかん会議かいぎ

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当初とうしょ1874ねん明治めいじ7ねん)の設置せっちは、大阪おおさか会議かいぎ木戸きど孝允たかよし構想こうそうし、開設かいせつ決定けっていした。1875ねん明治めいじ8ねん以来いらい3かい地方ちほう民情みんじょうるために、県令けんれいおよび府知事ふちじ招集しょうしゅうした。地方ちほうみんかいさん新法しんぽうなど地方ちほう自治じち関係かんけいのある、地方ちほう行政ぎょうせいめぐしょ問題もんだい審議しんぎした。なお、元老げんろういんたいする下院かいんのつもりであるが、実質じっしつ官選かんせん事務じむかん会議かいぎであった。

1875ねん6がつ20日はつか地方ちほうかん会議かいぎ開院かいいんしきが、7がつ17にち閉院へいいんしきがおこなわれた(明治めいじよう 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさん所蔵しょぞうばん)。1878ねん4がつ10日とおかだい2かい地方ちほうかん会議かいぎ開会かいかいしき議長ぎちょう伊藤いとう博文ひろぶみ)、さん新法しんぽうなどを審議しんぎし、5月3にち閉会へいかい明治めいじよう 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさん所蔵しょぞうばん)。1880ねん2がつ5にちだい3かい地方ちほうかん会議かいぎ開会かいかい議長ぎちょう伊藤いとう博文ひろぶみ)、町村ちょうそんかいほう備荒びこうもうか蓄法などを審議しんぎし、2がつ28にち閉会へいかい明治めいじよう 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさん所蔵しょぞうばん)。

地方ちほう長官ちょうかん会議かいぎ

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内務ないむ大臣だいじんが、北海道庁ほっかいどうちょう長官ちょうかんかく府県ふけん知事ちじ東京とうきょう招集しょうしゅうしておこなわれた。地方ちほう長官ちょうかん会議かいぎでは、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん内務ないむ大臣だいじんなどの各省かくしょう大臣だいじんにより訓示くんじ演説えんぜつおこなわれ、指示しじ協議きょうぎ諮問しもん事項じこう提示ていじされた。このようにして、くに総合そうごう出先でさき機関きかんちょうとしての地方ちほう長官ちょうかん北海道庁ほっかいどうちょう長官ちょうかん府県ふけん知事ちじ)に、政府せいふ各省かくしょう方針ほうしんつたえられていた。

関連かんれん書籍しょせき

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  • 池田いけだじゅん昭和しょうわせん前期ぜんき内務ないむ行政ぎょうせい史料しりょう昭和しょうわ元年がんねん~21ねん地方ちほう長官ちょうかん警察けいさつ部長ぶちょう会議かいぎ書類しょるい」〈だい19~36かん〉』 ゆまに書房しょぼう
  • だいかすみかい内務省ないむしょうぜん4かん はら書房しょぼう
  • だいかすみかい内務省ないむしょう外史がいしはら書房しょぼう
  • だいかすみかいぞく内務省ないむしょう外史がいしはら書房しょぼう

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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