坂本さかもとざい

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坂本さかもとざい
時代じだい 飛鳥あすか時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 天武天皇てんむてんのう2ねん5月29にち673ねん6月18にち
官位かんい だい錦上きんじょうおくしょうむらさき
主君しゅくん 天武天皇てんむてんのう
氏族しぞく 坂本さかもとしん
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坂本さかもと ざい(さかもと の たから)は、飛鳥あすか時代ときよ人物じんぶつせいしんかんむりだい錦上きんじょうおくしょうむらさき

672ねんみずのえさるらん大海人皇子おおあまのおうじ天武天皇てんむてんのうがわにたってたたかい、河内かわうちからやまと大和やまと)にてきふせいでやぶれた。

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

坂本さかもと坂本さかもとしん)は、きのきのしんどうすめらぎべつ氏族しぞくで、かく玄孫げんそんであるけん居住きょじゅう和泉いずみこく和泉いずみぐん坂本郷さかもとごう[1])に由来ゆらいしてさか本姓ほんせいたまものあずかされたのをはじまりとする[2]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

みずのえさるとしの6がつ29にち大伴おおとも吹負へいげてやまときょう占領せんりょうし、つづいて北進ほくしんしたとき、坂本さかもとざいはそのぐんなかにいた。稗田ひえたについたとき、おそらく7がつ2にち、吹負は河内かわちこくから大軍たいぐんるとの情報じょうほうて、かくすうひゃくにんさん部隊ぶたいいてその方面ほうめんまもりにあてた。そのうち竜田たつたかったさんひゃくにん指揮しきかんが、坂本さかもとざい長尾ながおしんすみくら麻呂まろみんしょうまぐろ谷根たんね麻呂まろであった。坂本さかもとらはその日平ひびら石野いしの宿営しゅくえいしたが、高安たかやすしろてきぐんがいるといてそのやまのぼった。近江おうみぐん大友皇子おおとものおうじがわぐん)はぜいくらいてげた。

翌日よくじつ(3にちか)のあさかれらは、西方せいほう大津おおつ両道りょうどういち伎韓こくひきいる大軍たいぐんた。しろからくだってまもるわがかわわたり、かわ西にしたたかった。やぶれてきの大音おおとが懼坂に用意よういしておいた陣営じんえい退しりぞいた。しかし、った韓国かんこくぐんがわでは、河内かわうち国司くにじもりしおかご大海人皇子おおあまのおうじがわくみするためにぐんあつめていた。この計画けいかく韓国かんこくられ、失敗しっぱいさとったしおかご自殺じさつした。ちゅういちにちをおいて、おそらく5にちに、近江おうみぐんはいくつものみちからせてきたため、坂本さかもとらは交戦こうせんせずに退却たいきゃくした。

坂本さかもとざいはこののち大伴おおとも吹負のもとたたかったとかんがえられるが、その様子ようすは『日本書紀にほんしょき』にあらわれない。翌年よくねんの5がつ29にちだい錦上きんじょうかんむりんだ。みずのえさるとし功労こうろうによって、しょうむらさきおくられた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 太田おおたあきら姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん角川書店かどかわしょてん、1963ねん
  2. ^ 新撰しんせん姓氏せいしろく和泉いずみこくすめらぎべつ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • たから寿男としお古代こだい氏族しぞく系譜けいふ集成しゅうせい古代こだい氏族しぞく研究けんきゅうかい、1986ねん