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岩井半四郎 (7代目) - Wikipedia コンテンツにスキップ

岩井いわい半四郎はんしろう (7代目だいめ)

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東海道とうかいどうじゅうさんこれない御油ごゆ赤坂あかさかあいだ 縄手なわて 梅川うめかわ」 なな代目だいめ岩井いわい半四郎はんしろう梅川うめかわ東海道とうかいどう背景はいけいに、当時とうじ役者やくしゃはいした見立みたてよしみひさし5ねん(1852ねん)、さん代目だいめ歌川うたがわ豊国ほうこく

なな代目だいめ 岩井いわい半四郎はんしろう(しちだいめ いわい はんしろう、文化ぶんか元年がんねん1804ねん〉 - ひろし2ねん4がつ1にち1845ねん5月6にち〉)とは、江戸えど時代じだい後期こうき歌舞伎かぶき役者やくしゃ屋号やごう大和屋やまとや、俳名はおうぎあさ紫若しじゃくもん扇子せんす

来歴らいれき[編集へんしゅう]

代目だいめ岩井いわい半四郎はんしろう次男じなんとしてまれ岩井いわいしょうむらさき名乗なのる。文化ぶんか3ねん(1806ねん)11月、江戸えど中村なかむらの『むつみはなゆき陸奥みちのく』に子役こやくとして岩井いわい松之助まつのすけ初舞台はつぶたい。のちわか女形おんながたとしてちちあに代目だいめ岩井いわいさんろう(のちのろく代目だいめ岩井いわい半四郎はんしろう)と舞台ぶたいともにする。文政ぶんせい5ねん(1822ねん)、岩井いわい紫若しじゃく改名かいめい江戸えど大坂おおさか舞台ぶたいつとめる。天保てんぽう7ねん(1836ねんあにろく代目だいめ半四郎はんしろう夭折ようせつし、以降いこうちち(すでに岩井いわい杜若かきつばた改名かいめい)のげい後継こうけいしゃとして活躍かつやくする。天保てんぽう15ねん(1844ねん)3がつにはちちあに名跡みょうせきぎ、なな代目だいめ岩井いわい半四郎はんしろうとして中村なかむら舞台ぶたいった。しかしひろし2ねん1がつ中村なかむらたのを最後さいごに、以前いぜんからのやまいおもくなり同年どうねん4がつ1にちぼっした。享年きょうねん42。あにろく代目だいめ同様どうよう、これからという矢先やさきやまいたおれたのだった。

容貌ようぼうすぐむすめやく若衆わかしゅなどをあたやくとし、岩井いわいげいいで世話物せわもの本領ほんりょう発揮はっきした。「紫若しじゃく半四郎はんしろう」とあだされる。ふでち『狂言きょうげんはかまもんつき』などの著作ちょさくがある。ただし楽屋がくやないではかなり辛辣しんらつ人物じんぶつだったらしく、河竹かわたけ黙阿弥もくあみもかなわなかったというはなしつたわる。実子じっし幕末ばくまつから明治めいじにかけてのめい女形おんながたはち代目だいめ岩井いわい半四郎はんしろう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]