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川村 惇(かわむら じゅん、文久元年12月3日[1](1862年1月2日) - 昭和5年(1930年)4月11日)は、ジャーナリスト、政治家、教育者。子に川村貴一。
常陸国(現・茨城県)出身。明治16年(1883年)慶應義塾を卒業後、富山県師範学校校長兼任女子師範学校校長。明治19年(1886年)の教員集団辞職事件により辞任。
1898年(明治31年)に行われた第5回衆議院議員総選挙に茨城県郡部選出で当選し、憲政会所属(3回当選)。また、『静岡大務新聞』主筆を経て、玄洋社の機関紙『福陵新報』の創刊に携わり初代主筆に就任し、のちに『朝野新聞』主筆兼社長となる。ほか、台湾鉄道常務委員、帝国活動写真株式会社取締役となる。
- ^ 漆崎多四郎『貴衆両院議員名鑑』、1919年、p.6。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。