広州城足球倶楽部 |
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各種表記 |
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繁体字: |
廣州城足球俱樂部 |
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簡体字: |
广州城足球俱乐部 |
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拼音: |
Guǎngzhōu chéng Zúqiú Jùlèbù |
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発音: |
グゥァンヂョウ チォン ズーチィゥ ジュラブー |
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英文: |
Guangzhou City Football Club |
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広州城足球倶楽部(中国語: 广州城足球俱乐部)は、中華人民共和国の広東省広州市をホームタウンとしていたプロサッカークラブ。中国プロサッカーリーグ(中国超級)に加盟していた。
1986年創立。ホームタウンは広東省広州市である。ホームスタジアムは広東省広州市の越秀山体育場(収容人員は18,000人)。中国超級リーグにおいてのリーグタイトルはない。
運営会社には広州に拠点を置く不動産会社である広州富力地産(广州富力地产)。
- 1986年
瀋陽足球倶楽部(沈阳足球俱乐部)として発足。
- 1994年
瀋陽東北六薬足球倶楽部(沈阳东北六药足球俱乐部)に改名。
- 1995年
瀋陽華陽足球倶楽部(沈阳华阳足球俱乐部)に改名。
- 1996年
瀋陽海獅足球倶楽部(沈阳海狮足球俱乐部)に改名。
- 2001年
瀋陽金徳足球倶楽部(沈阳金德足球俱乐部)に改名。ホームスタジアムの瀋陽五里河体育場も、正式には「瀋陽五里河金徳体育場」と命名される。
- 2004年
超級リーグ開始当初より参加。
- 2007年
湖南省長沙に移転。長沙金徳足球倶楽部に改名。
- 2010年
2010年度リーグで最下位となり、甲級リーグへ降格。
- 2011年
2月にアメリカのスポーツ製品会社がスポンサーとなり深圳鳳凰足球倶楽部(深圳凤凰足球俱乐部)に改名し深圳に移転したが、6月に広州の不動産会社がスポンサーとなり、広州富力足球倶楽部(广州富力足球俱乐部)と再び改名し広州に移転することになった。中国甲級リーグで2位となり超級リーグに昇格。
- 2014年
17勝6分7敗67得点39失点の勝点57で3位。AFCチャンピオンズリーグ2015のプレーオフの出場権を獲得した。
- 2015年
コスミン・コントラが監督に就任。
呉坪楓が引退。ダヴィが上海上港、許博が石家荘、朱宝傑が貴州人和へ移籍した。
北京国安から于洋、梅県客家から叶楚貴、杭州緑城から汪嵩、ヘタフェCFからミチェル、上海申鑫から劉殿座、大連阿爾濱から金洋洋を獲得。
AFCチャンピオンズリーグの本戦をかけて予選2回戦から広州富力は出場した。2月10日、AFCチャンピオンズリーグ2015の予選2回戦ホームでシンガポールのウォリアーズFCと戦い3-0で勝利した。2月17日にはAFCチャンピオンズリーグ2015のプレーオフラウンドで本戦出場をかけてアウェイでオーストラリアのセントラルコースト・マリナーズFCと戦い3-1で勝利し、初の本戦出場を果たした。
AFCチャンピオンズリーグ2015でACL初出場すると予選でG大阪、城南、ブリーラムのグループFに入った。7月15日川崎フロンターレのブラジル人FWレナトを獲得することで合意したことをクラブ公式HP上で発表した。
7月22日成績不振によりコスミン・コントラを解任、アシスタントコーチのリュー・ビンを暫定監督に充てる。8月24日にクラブより後任監督として元名古屋グランパスエイト監督、セルビア人のドラガン・ストイコビッチが就任する旨発表。契約期間は2017年シーズン終了まで。リュー・ビンはそのままアシスタントコーチとしてクラブに残留。またストイコビッチの要望で名古屋グランパスエイト所属、喜熨斗勝史コーチを8月25日付けでコーチとして招聘した。
- 2016年
ドラガン・ストイコビッチ体制で低迷していた広州富力を6位まで浮上させたが、50失点のため好成績とは言えずにシーズンは終了した。
- 2017年
2017年は守備に力を入れ、15勝7分8敗の成績であり、失点46得点56で安定した成績を残した。2年で低迷していたクラブを上位まで上げたため来シーズンも期待されていた。
- 2021年
2021年シーズンからクラブ名を「広州城足球倶楽部」(Guangzhou City Football Club)へ改名した。
- 2023年
経営難により中国超級リーグから除外され、3月29日に活動停止が発表された[1]。
同じ広州に本拠地を置く広州足球倶楽部との対戦は広州ダービーとなる。
- 中国サッカー協会
- 超級リーグ
シーズン |
リーグ |
試 |
勝 |
分 |
敗 |
得 |
失 |
差 |
点 |
順位 |
FAカップ
|
1998
|
超級リーグ
|
26
|
7
|
10
|
9
|
19
|
28
|
−9
|
31
|
10位
|
2回戦敗退
|
1999
|
超級リーグ
|
26
|
5
|
13
|
8
|
28
|
32
|
−4
|
28
|
11位
|
1回戦敗退
|
2000
|
超級リーグ
|
26
|
8
|
10
|
8
|
35
|
32
|
+3
|
34
|
7位
|
準々決勝敗退
|
2001
|
超級リーグ
|
26
|
2
|
1
|
23
|
23
|
69
|
−46
|
7
|
14位
|
2回戦敗退
|
2002
|
超級リーグ
|
28
|
8
|
10
|
10
|
34
|
34
|
0
|
34
|
11位
|
1回戦敗退
|
2003
|
超級リーグ
|
28
|
11
|
10
|
7
|
35
|
31
|
+4
|
43
|
5位
|
準決勝敗退
|
2004
|
超級リーグ
|
22
|
7
|
5
|
10
|
23
|
29
|
−6
|
26
|
8位
|
4回戦敗退
|
2005
|
超級リーグ
|
26
|
4
|
7
|
15
|
19
|
43
|
−24
|
18
|
13位
|
1回戦敗退
|
2006
|
超級リーグ
|
28
|
6
|
8
|
14
|
22
|
43
|
−21
|
26
|
13位
|
2回戦敗退
|
2007
|
超級リーグ
|
28
|
8
|
10
|
10
|
17
|
24
|
−7
|
34
|
10位
|
-
|
2008
|
超級リーグ
|
30
|
7
|
13
|
10
|
28
|
36
|
−8
|
34
|
11位
|
-
|
2009
|
超級リーグ
|
30
|
6
|
15
|
9
|
23
|
31
|
−8
|
33
|
14位
|
-
|
2010
|
超級リーグ
|
30
|
6
|
12
|
12
|
24
|
42
|
−18
|
30
|
16位
|
-
|
2011
|
甲級リーグ
|
26
|
13
|
8
|
5
|
36
|
27
|
+9
|
47
|
2位
|
2回戦敗退
|
2012
|
超級リーグ
|
30
|
13
|
3
|
14
|
47
|
49
|
−2
|
42
|
7位
|
4回戦敗退
|
2013
|
超級リーグ
|
30
|
11
|
7
|
12
|
45
|
47
|
−2
|
40
|
6位
|
4回戦敗退
|
2014
|
超級リーグ
|
30
|
17
|
6
|
7
|
67
|
39
|
+28
|
57
|
3位
|
4回戦敗退
|
2015
|
超級リーグ
|
30
|
8
|
7
|
15
|
35
|
41
|
−6
|
31
|
14位
|
4回戦敗退
|
2016
|
超級リーグ
|
30
|
11
|
7
|
12
|
47
|
50
|
−3
|
40
|
6位
|
準決勝敗退
|
2017
|
超級リーグ
|
30
|
15
|
7
|
8
|
59
|
46
|
+13
|
52
|
5位
|
準々決勝敗退
|
2018
|
超級リーグ
|
30
|
10
|
6
|
14
|
49
|
61
|
-12
|
36
|
10位
|
準決勝敗退
|
2019
|
超級リーグ
|
30
|
9
|
5
|
16
|
54
|
72
|
−18
|
32
|
12位
|
4回戦敗退
|
2020
|
超級リーグ
|
20
|
|
|
|
|
|
|
|
11位
|
|
- 2020シーズンは新型コロナウイルス感染拡大の影響により、8チームずつ2つのグループに分かれて予選を行い、各グループ上位4チーム計8チームが優勝を争う決勝トーナメントに、下位4チーム計8チームが降格を争う残留プレーオフに進む形で開催された。
- 2019年3月2日現在
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
※星印は外国人選手を示す。
- 監督