ちょう皇后こうごう (から粛宗)

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ちょう皇后こうごう
とう皇后こうごう
在位ざいい いぬいはじめ元年がんねん4がつ8にち - たからおう元年がんねん4がつ21にち
758ねん5月19にち - 762ねん7がつ28にち

出生しゅっしょう しょう
南陽なんようぐん西にし鄂県
死去しきょ たからおう元年がんねん4がつ18にち
762ねん5月16にち
長安ながやす太極たいきょくみや
配偶はいぐうしゃ 粛宗
子女しじょ 佋、
父親ちちおや ちょういっ
母親ははおや 竇氏
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ちょう皇后こうごう(ちょうこうごう)は、とう粛宗皇后こうごうちちちょういっ祖母そぼげんむね生母せいぼである竇徳あきらなり皇后こうごう)のいもうと

経歴けいれき[編集へんしゅう]

皇太子こうたいしとおる後宮こうきゅうはいって娣(側室そくしつ)となった。

至徳しとく元年がんねん756ねん)、粛宗が即位そくいし、よしふうぜられた。いぬいはじめ元年がんねん758ねん)4がつ皇后こうごうてられている。ちょう皇后こうごうは粛宗の寵愛ちょうあい独占どくせんし、朝政ちょうせい実権じっけんちょう皇后こうごう輔国はじめとする宦官かんがんたちに掌握しょうあくされていた。粛宗は上皇じょうこうとなったげんむね冷遇れいぐうした。そのことにもちょう皇后こうごう意向いこうはたらいていたという。

佋と侗の嫡出ちゃくしゅつ皇子おうじ2にんをもうけるが。息子むすこ早世そうせいしていたり幼少ようしょうだったりと、結局けっきょく皇太子こうたいしにはなれなかった。

たからおう元年がんねん762ねん)4がつ、粛宗が重態じゅうたいおちいると、ちょう皇后こうごううま英俊ひでとしらとはかり、皇太子こうたいしだいむね)と輔国を殺害さつがいしてえつおうがかり擁立ようりつくわだてた。しかし輔国は先手せんてってクーデターをこした。ちょう皇后こうごう廃位はいいされて幽閉ゆうへいされ、やがて殺害さつがいされた。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]