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ちょうしげるまゆ

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ちょう しげるまゆ(ちょう しゅうび、Zhāng Xiùméi1823ねん1872ねん)は、きよしすえしゅうしょうこったなえみんミャオぞく蜂起ほうき咸同おこりよし英語えいごばん、かんどうきぎ)の指導しどうしゃ

咸同おこりよし

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しゅうしょうたい拱庁出身しゅっしんおさなくして父母ちちははをなくし、地主じぬしいえはたらいた。ちょうしげるまゆまれるやく90ねんまえ清朝せいちょう少数しょうすう民族みんぞくによる自治じち廃止はいしして、中央ちゅうおうから官僚かんりょうおくむ「あらためりゅう」という政策せいさくをとった。これにより各地かくちかんぞく地主じぬしはいむようになり、だい多数たすうのミャオぞく清朝せいちょう官吏かんりかんぞく地主じぬし一部いちぶなえ民地みんちぬし収奪しゅうだつけるようになった。そのような背景はいけいのもと、1855ねんたい拱でまずしいなえみんぜい軽減けいげんもとめると、清朝せいちょう官吏かんり漢人かんど地主じぬしだんねり組織そしきさせ、なえみん殺害さつがいゆるした。こうしてなえみんたちはちょうしげるまゆ指導しどうのもとに蜂起ほうきし、たんこうちょう占領せんりょうした。

なえみんぐん1856ねんから1858ねんあいだに、清江きよえちょうだい拱庁・鎮遠などを占領せんりょうし、各地かくちとりできずいて、しゅうしょうひがし南部なんぶ支配しはいした。このとき光明こうめいひきいるとききょうきょううつかおるひきいる侗族(トンぞく)・りゅうただしじゅんひきいるはな教徒きょうとごうぐん)・ちょうりょうしょうひきいるかいぞく白旗はっきぐん)など、しゅう各地かくち民衆みんしゅう蜂起ほうきがあったが、ちょうしげるまゆはこれらの勢力せいりょく提携ていけいして、湖南こなんしょうまで勢力せいりょくばした。

しかし1864ねん太平たいへい天国てんごく滅亡めつぼうすると、せき宝田たからだひきいる湘軍しゅう蜂起ほうき鎮圧ちんあつにあたることになった。なえみんぐんいくか湘軍を撃退げきたいしたもののやがてめられていき、1870ねんにはたい拱庁が、1871ねんにはちょう陥落かんらくした。1872ねんちょうしげるまゆしんぐん決戦けっせんいどんだが敗北はいぼくし、らえられてちょうすなられた。

関連かんれん人物じんぶつ

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • なんじつな太平たいへい天国てんごく中華ちゅうかしょきょく

関連かんれん項目こうもく

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