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新 しん 教会 きょうかい (しんきょうかい、英語 えいご : New Church )とは、キリスト教 きりすときょう 系 けい の新 しん 宗教 しゅうきょう で、スウェーデン の科学 かがく 者 しゃ ・神学 しんがく 者 しゃ 、エマヌエル・スヴェーデンボリ Emanuel Swedenborg (1688–1772)の著作 ちょさく に由来 ゆらい するものである。
スウェーデンボリィは、イエス・キリスト から、少 すく なくとも25年間 ねんかん 以上 いじょう の間 あいだ 、連続 れんぞく した幻 まぼろし を視 み るという体験 たいけん を通 とお して、新 あたら しい啓示 けいじ を受 う けたと公言 こうげん した。彼 かれ の著作 ちょさく によれば、神 かみ は伝統 でんとう 的 てき なキリスト教会 きょうかい に代 か えて、「新 しん 教会 きょうかい 」を設立 せつりつ することを予言 よげん する。そこでは、神 かみ を一人 ひとり の人間 にんげん 、イエス・キリストとして礼拝 れいはい の対象 たいしょう とした。新 しん 教会 きょうかい の教義 きょうぎ では、人 ひと はそれぞれ自分 じぶん 自身 じしん の生 い き方 かた を悔 く い改 あらた め、矯正 きょうせい し、再生 さいせい すべく、積極 せっきょく 的 てき に関与 かんよ しなければならない[ 1] 。
この活動 かつどう は、神 かみ がスウェーデンボリィに聖書 せいしょ の霊的 れいてき 意味 いみ を説明 せつめい し、それはイエス・キリストの再臨 さいりん であり、その再臨 さいりん は真理 しんり の啓示 けいじ という形 かたち でされたという信念 しんねん によって基礎 きそ づけられている。信者 しんじゃ たちは、スウェーデンボリィが霊界 れいかい で最後 さいご の審判 しんぱん と新 しん 教会 きょうかい の創建 そうけん を目撃 もくげき したと信 しん じている。新 しん 教会 きょうかい は、イエス・キリストを天地 てんち の唯一 ゆいいつ の神 かみ として信 しん じ、その戒 いまし めに従 したが うことが救 すく いには不可欠 ふかけつ であると信 しん じる者 もの 達 たち が設立 せつりつ した組織 そしき である。そのため、この信条 しんじょう をもっているキリスト教徒 きりすときょうと は、新 しん 教会 きょうかい 運動 うんどう の部分 ぶぶん であるとも考 かんが えられる。新 しん 教会 きょうかい 組織 そしき は、主 おも の教会 きょうかい の普遍 ふへん 的 てき な性質 せいしつ をも認 みと めている。その普遍 ふへん 性 せい は、自分 じぶん の信 しん じる宗教 しゅうきょう の真理 しんり から善 ぜん を行 おこな う者 もの は主 おも によって天界 てんかい に迎 むか えられということにある。なぜなら神 かみ は善 ぜん そのものであり、善 ぜん を行 おこな うことは神 かみ と一 ひと つに結 むす びつくということであるからだ。
信者 しんじゃ たちは、新 しん 教会 きょうかい 教義 きょうぎ は書物 しょもつ から由来 ゆらい し、真理 しんり に関 かん するさらなる照 て らしの恩恵 おんけい を与 あた え、また疑問 ぎもん を減少 げんしょう させ、個々人 ここじん の過 あやま ちを認 みと めさせ、より方向 ほうこう の確 たし かで幸福 こうふく な生活 せいかつ に向 む かわせてくれると信 しん じている。この動 うご きの別 べつ の名称 めいしょう は、スウェーデンボルグ主義 しゅぎ 、新 しん エルサレム教会 きょうかい 、主 おも の教会 きょうかい 、・・新 しん 教会 きょうかい 、ジェネラルチャーチ・・がある。スウェーデンボリィは、著作 ちょさく を出版 しゅっぱん するとき、自分 じぶん の名 な ではなく匿名 とくめい で出版 しゅっぱん し、またその著作 ちょさく は、信条 しんじょう や教義 きょうぎ による多彩 たさい な教会 きょうかい ではなく、愛 あい と仁愛 じんあい に基 もと づく一 ひと つの教会 きょうかい を目指 めざ している。
スウェーデンボリィは神学 しんがく 著作 ちょさく の中 なか で「新 しん 教会 きょうかい 」が設立 せつりつ されることを述 の べているが、彼 かれ 自身 じしん は決 けっ してなんらかの組織 そしき を設立 せつりつ しようとしなかった。1768年 ねん にスウェーデンで、スウェーデンボリィ著作 ちょさく と、この思想 しそう を推進 すいしん しようとした2人 ふたり の人物 じんぶつ に対 たい して、異端 いたん 審査 しんさ が開 ひら かれた。そこではスウェーデンボリィの神学 しんがく 著作 ちょさく がキリスト教 きりすときょう の教義 きょうぎ と矛盾 むじゅん しないかということが本質 ほんしつ 的 てき に注目 ちゅうもく された。1770年 ねん の王室 おうしつ 令 れい で、その神学 しんがく 思想 しそう 体系 たいけい が全 まった く検証 けんしょう されていないにも関 かか わらず、スウェーデンボリィ著作 ちょさく は「明 あき らかに誤 あやま っている」とされ、教 おし えることを禁止 きんし された。スウェーデンボリィを支持 しじ している聖職 せいしょく 者 しゃ は、彼 かれ の教 おし えを用 もち いることをやめるよう命令 めいれい され、税関 ぜいかん 職員 しょくいん たちは彼 かれ の著作 ちょさく を没収 ぼっしゅう し、新 あら たな教会 きょうかい 会議 かいぎ の恩赦 おんしゃ がない限 かぎ りどの地域 ちいき においても発行 はっこう を禁 きん じた。スウェーデンボリィはアムステルダムから王 おう に手紙 てがみ を書 か き、許 ゆる しと保護 ほご を求 もと めた。さらなるスウェーデンボリィに対 たい する捜査 そうさ は立 た ち往生 おうじょう し、事実 じじつ 上 じょう 1778年 ねん に停止 ていし した[ 2] 。
スウェーデンボリィの死 し の時点 じてん で、組織 そしき 的 てき 教会 きょうかい を設立 せつりつ しようという試 こころ みがあったが、ついにその15年 ねん 後 ご の1787年 ねん 5月 がつ 7日 にち に英国 えいこく で新 しん 教会 きょうかい 活動 かつどう が成立 せいりつ する。英国 えいこく はスウェーデンボリィがしばしば訪 おとず れ、亡 な くなった地 ち である。1789年 ねん までに英国 えいこく のあちこちで教会 きょうかい が生 う まれ、その年 とし の4月 がつ に最初 さいしょ の新教 しんきょう 会合 かいごう 同 どう 会議 かいぎ がロンドン のグレート・イーストチープ通 どお りで開催 かいさい された。新 しん 教会 きょうかい 思想 しそう は伝道 でんどう 師 し たちによって米国 べいこく にわたった。有名 ゆうめい な伝道 でんどう 師 し の一人 ひとり がジョン・チャップマン、別名 べつめい ジョニー・アップルシード である。初期 しょき の伝道 でんどう 師 し は、アフリカの一部 いちぶ にも旅 たび をした。
新 しん 教会 きょうかい の主 おも な秘跡 ひせき はバプテスマ と聖餐 せいさん 式 しき (聖体 せいたい 拝領 はいりょう や聖 せい 晩餐 ばんさん 式 しき とも呼 よ ばれる)である。加 くわ えて、内 うち なる霊的 れいてき 生命 せいめい を象徴 しょうちょう する他 ほか の儀式 ぎしき も存在 そんざい する[ 3] 。バプテスマは受礼者 しゃ がキリスト教 きりすときょう に加 くわ わること、そして真理 しんり によって不信 ふしん が清 きよ められる心 しん の改変 かいへん を表 あらわ す。バプテスマの儀式 ぎしき は、イエス・キリストに従 したが う決心 けっしん を理性 りせい 的 てき にすることのできる年齢 ねんれい に達 たっ してからなされるべきとされてはいるものの、スヴェーデンボリは洗礼 せんれい を受 う けた幼児 ようじ たちには、彼 かれ らが適切 てきせつ な年齢 ねんれい に達 たっ するまで、クリスチャン信仰 しんこう に導 みちび くために守護 しゅご 天使 てんし が遣 つか わされていると述 の べている[ 4] 。聖 せい 晩餐 ばんさん 式 しき または聖体 せいたい 拝領 はいりょう は、人間 にんげん の心 しん が神 かみ の律 りつ 法 ほう に従 したが って再 さい 創造 そうぞう され、それによって神 かみ がその者 もの の心 しん に対 たい し、近 ちか く親 した しい交 まじ わりをすることができることを象徴 しょうちょう する。すなわち全 すべ ての者 もの は、聖餐 せいさん 式 しき の真 しん の目的 もくてき を達成 たっせい するために、儀式 ぎしき に参加 さんか する前 まえ に自 みずか らの生活 せいかつ を吟味 ぎんみ するべきである。
新 しん 教会 きょうかい における結婚式 けっこんしき は個人 こじん 的 てき な秘跡 ひせき となっているが、それは司祭 しさい による儀式 ぎしき の進行 しんこう が必要 ひつよう のためというよりも便宜上 べんぎじょう のものであると考 かんが えられているためである。結婚式 けっこんしき はバプテスマや聖餐 せいさん 式 しき と一緒 いっしょ に秘跡 ひせき とはされていない。しかしながら他所 よそ でスヴェーデンボリは、結婚 けっこん は司祭 しさい によって行 おこな われるべきであり、その理由 りゆう として「熟考 じゅっこう のすえの結婚 けっこん というものは霊的 れいてき であり、すなわち聖 せい なるものである。なぜならそれは天 てん における善 ぜん と真理 しんり の婚姻 こんいん 関係 かんけい に由来 ゆらい し、結婚 けっこん に関 かん する事柄 ことがら は神 かみ と教会 きょうかい の神聖 しんせい な婚姻 こんいん と一致 いっち するものであるため、神 かみ ご自身 じしん から来 き たものだからである」と述 の べている。[ 5]
加 くわ えて真 しん の結婚 けっこん の愛 あい は、どちらも神 かみ を起源 きげん に持 も っているために信心 しんじん が基礎 きそ となるとする。宗教 しゅうきょう 的 てき な基礎 きそ なしでは、結婚 けっこん 関係 かんけい は冷 ひ える可能 かのう 性 せい がある[ 6] 。真 しん に霊的 れいてき な結婚 けっこん は永遠 えいえん に、言 い うなれば死後 しご の天 てん においてさえ続 つづ くものとされる。これによって、両者 りょうしゃ は姿 すがた 形 がた においては男性 だんせい と女性 じょせい のままであるが、魂 たましい においては1人 ひとり の天使 てんし となる。こうして、彼 かれ らはカップルとして、神 かみ の王国 おうこく における有益 ゆうえき かつ永遠 えいえん に完全 かんぜん な奉仕 ほうし の人生 じんせい を送 おく る。しかしもし未婚 みこん のまま死 し んだ場合 ばあい 、その者 もの は天 てん において配偶 はいぐう 者 しゃ を見 み つけるとされている。
男性 だんせい は真理 しんり のかたち、そして女性 じょせい は愛 あい のかたちであり、両者 りょうしゃ は一 ひと つとなる。婚姻 こんいん における愛情 あいじょう は天 てん から直接 ちょくせつ 全 すべ ての人間 にんげん に与 あた えられたものであり、男性 だんせい の宗教 しゅうきょう 的 てき 理由 りゆう による独身 どくしん 状態 じょうたい はこれと干渉 かんしょう する[ 7] 。すなわち結婚 けっこん は、独身 どくしん のままでいる状態 じょうたい よりも優先 ゆうせん されるべきとされる[ 8] 。
^ 「真 しん のキリスト教 きりすときょう 」エマヌエル スウェーデンボリィ 1771 (TCR). 3 vols. Rotch Edition. New York: Houghton, Mifflin and Company, 1907, in The Divine Revelation of the New Jerusalem (2012), n. 108, 330, 647.
^ 「天界 てんかい の秘 ひ 義 ぎ 」エマヌエル スウェーデンボリィ1749–58 (AC). 20 vols. Rotch Edition. New York: Houghton, Mifflin and Company, 1907, in The Divine Revelation of the New Jerusalem (2012), n. 1799(4).
^ AC, n. 1083(2), TCR, n. 669.
^ TCR, n. 677–678.
^ Swedenborg, Emanuel. The Delights of Wisdom pertaining to Marriage Love (ML), 1768. Rotch Edition. New York: Houghton, Mifflin and Company, 1907, in The Divine Revelation of the New Jerusalem (2012), n. 308.
^ ML, n. 238–243.
^ ML, n. 54.
^ ML, n. 156.