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松平まつだいらじょうだか

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松平まつだいら じょうだか
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ ぶんろく元年がんねん1がつ25にち1592ねん3月8にち
別名べつめい 出雲いずもまもる
墓所はかしょ 長松ながまついん愛知あいちけん豊田とよだ滝脇たきのわきまち[1]
官位かんい したがえ
主君しゅくん 徳川とくがわ家康いえやす
氏族しぞく 滝脇たきのわき松平まつだいら
父母ちちはは 松平まつだいらじょうとお
兄弟きょうだい じょうだかせいじょう
つま 鈴木すずき三郎さぶろう太夫たゆうむすめ後妻ごさい:三島みしまみやびともむすめ
じょうかち清六せいろく青沼あおぬまあきらしつ三島みしまあきら養女ようじょ
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松平まつだいら じょうだか(まつだいら のりたか、生年せいねんしょう-ぶんろく元年がんねん1がつ25にち1592ねん3月8にち))は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう滝脇たきのわき松平まつだいらの3代目だいめ当主とうしゅ

経歴けいれき

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弘治こうじ2ねん1556ねん)、あにせいじょう大給おぎゅう松平まつだいら松平まつだいらちかしじょうやぶれた。じょうだかかたきるため大給おぎゅうめて尾張おわりこく敗走はいそうさせた[2]ちち後継こうけいとして徳川とくがわ家康いえやすつかえ、えいろく6ねん1563ねん三河みかわ一向いっこう一揆いっきにおいて水野みずの忠重ただしげとも蜂屋はちや貞次ていじたたか武功ぶこうてた。天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつではおおせをうけたまわ小夜さよ中山なかやまにおいて饗応きょうおうをし、茶碗ちゃわんふたつをたまわった[2]ぶんろく元年がんねん1がつ25にち死去しきょ法名ほうみょうじょうだか

墓所はかしょ長松ながまついん愛知あいちけん豊田とよだ滝脇たきのわきまち[3]

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか譜第ふだい1輯』(国民こくみん図書としょ、1922ねん、103p)

脚注きゃくちゅう

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外部がいぶリンク

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