桓公かんこう (てい)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
桓公かんこう
てい
はつおおやけ
王朝おうちょう てい
在位ざいい期間きかん 紀元前きげんぜん806ねん - 紀元前きげんぜん771ねん
都城みやこのじょう てい
せいいみな ひめとも
諡号しごう 桓公かんこう
生年せいねん しょう
没年ぼつねん 紀元前きげんぜん771ねん
ちち 厲王

桓公かんこう(かんこう、紀元前きげんぜん?とし - 紀元前きげんぜん771ねん)は、てい初代しょだい君主くんしゅしゅう厲王末子まっしせんおうおとうと

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

厲王の末子まっしとしてまれる。

せんおう22ねんぜん807ねん)、とも以降いこう桓公かんこう表記ひょうき)はていふうぜられた。

桓公かんこう33ねんぜん774ねん)、てい領民りょうみんはみな安堵あんどして桓公かんこう敬愛けいあいするようになった。そこでしゅうかそけおう桓公かんこうしゅうつかさ任命にんめいした。

桓公かんこう34ねんぜん773ねん)、桓公かんこうしゅう王室おうしつ将来しょうらいあやぶみ、ふとしはくはく)に相談そうだんしたうえ、ていらくすいひがしうつした。すると、の2こくが10邑を桓公かんこう献上けんじょうしてきた。

桓公かんこう36ねんぜん771ねん)、かそけおう失政しっせいがたたり、さるきさきちちであるさるこういぬえびす[1]などをまねせてかそけおう驪山ふもと殺害さつがいし、桓公かんこうをも殺害さつがいした。ていひとたちはとも桓公かんこうである突(くつとつ)をててていくんたけこう)とした。

てい桓公かんこう主人公しゅじんこうとした作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 西にし民族みんぞく

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 史記しき』(ていだいじゅう
先代せんだい
-
てい君主くんしゅ
初代しょだいぜん806ねん - ぜん771ねん
次代じだい
たけこう