座標 ざひょう : 北緯 ほくい 26度 ど 24分 ふん 2.4秒 びょう 東経 とうけい 127度 ど 43分 ふん 47.4秒 びょう / 北緯 ほくい 26.400667度 ど 東経 とうけい 127.729833度 ど / 26.400667; 127.729833
楚辺 そべ 通信 つうしん 所 しょ Sobe Communication Site沖縄 おきなわ 県 けん 中頭 なかがみ 郡 ぐん 読谷 よみたん 村 むら 楚辺 そべ 通信 つうしん 所 しょ の通称 つうしょう 「象 ぞう の檻 おり 」
種類 しゅるい 通信 つうしん 施設 しせつ FAC6026施設 しせつ 情報 じょうほう 管理 かんり 者 しゃ 海軍 かいぐん 航空 こうくう 施設 しせつ 指令 しれい 部 ぶ 歴史 れきし 建設 けんせつ 1945年 ねん 使用 しよう 期間 きかん 1945年 ねん - 2007年 ねん
楚辺 そべ 通信 つうしん 所 しょ (そべつうしんじょ)(Sobe Communication Site) は、沖縄 おきなわ 県 けん 読谷 よみたん 村 むら にあった在 ざい 日米 にちべい 軍 ぐん 施設 しせつ で、キャンプ・ハンザ (Camp Hanza) とも呼 よ ばれていた。ハンザタワーは通称 つうしょう 「象 ぞう の檻 おり (オリ)」として知 し られ、米 べい 軍 ぐん 軍事 ぐんじ 通信 つうしん の傍受 ぼうじゅ 施設 しせつ として使用 しよう されていた。1996年 ねん 12月のSACO最終 さいしゅう 報告 ほうこく により、アンテナ施設 しせつ 等 とう をキャンプ・ハンセン に移設 いせつ することを条件 じょうけん に返還 へんかん が示 しめ され、日米 にちべい 間 あいだ で合意 ごうい された。
傍受 ぼうじゅ 施設 しせつ は1950年代 ねんだい 後半 こうはん に建設 けんせつ され、敷地 しきち 面積 めんせき は53万 まん 5000平方 へいほう メートル(0.53平方 へいほう キロメートル)で直径 ちょっけい 約 やく 200m、高 たか さ28mの巨大 きょだい な檻 おり のようなケージ(檻 おり )型 がた アンテナ を持 も ち、軍事 ぐんじ 通信 つうしん の傍受 ぼうじゅ 施設 しせつ として使用 しよう されていた[1] 。
所在地 しょざいち :読谷 よみたん 村 むら (字 じ 波平 なみひら 、字 じ 座喜味 ざきみ 、字 じ 上地 じょうち )
施設 しせつ 面積 めんせき :535千 せん m2
地主 じぬし 数 すう :457人 にん
年間 ねんかん 賃借 ちんしゃく 料 りょう :365百 ひゃく 万 まん 円 えん
駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん 従業 じゅうぎょう 員数 いんずう :31人 にん
管理 かんり :米 べい 海軍 かいぐん
施設 しせつ 番号 ばんごう
返還 へんかん
FAC6026
楚辺 そべ 通信 つうしん 所 しょ
楚辺 そべ 海軍 かいぐん 通信 つうしん 補助 ほじょ 施設 しせつ
53.5ha
2006年 ねん 12月31日 にち
(SACO)
楚辺 そべ 方向 ほうこう 探知 たんち 東 ひがし サイト
-
楚辺 そべ 方向 ほうこう 探知 たんち 西 にし サイト
2.33ha
1972年 ねん 4月 がつ 18日 にち
1945年 ねん 4月 がつ 、米 べい 軍 ぐん が読谷 よみたん に上陸 じょうりく して以降 いこう 、軍事 ぐんじ 占領 せんりょう の継続 けいぞく として使用 しよう 開始 かいし 。
1953年 ねん 3月 がつ 13、楚辺 そべ 方向 ほうこう 探知 たんち 東 ひがし サイトとして使用 しよう 開始 かいし 。
1970年 ねん 7月 がつ 、施設 しせつ 管理 かんり 権 けん が空軍 くうぐん から陸軍 りくぐん へ移管 いかん 。
1972年 ねん 5月 がつ 15日 にち 、「楚辺 そべ 海軍 かいぐん 通信 つうしん 補助 ほじょ 施設 しせつ 」と「楚辺 そべ 方向 ほうこう 探知 たんち 東 ひがし サイト」が統合 とうごう され、 「楚辺 そべ 通信 つうしん 所 しょ 」(FAC6026) として提供 ていきょう 開始 かいし (使用 しよう 主 ぬし 目的 もくてき :通信 つうしん 所 しょ )。
1975年 ねん 4月 がつ 4日 にち 、通信 つうしん 施設 しせつ として、建物 たてもの 約 やく 50 ㎡及 およ び工作 こうさく 物 ぶつ (給水 きゅうすい 設備 せつび 等 とう )を追加 ついか 提供 ていきょう 。
1981年 ねん 3月 がつ 26日 にち 、通信 つうしん 施設 しせつ として、建物 たてもの 約 やく 520 ㎡を追加 ついか 提供 ていきょう 。
1985年 ねん 2月 がつ 5日 にち 、汚水 おすい 処理 しょり 施設 しせつ として、工作 こうさく 物 ぶつ (浄化槽 じょうかそう )を追加 ついか 提供 ていきょう 。
2006年 ねん 12月31日 にち 、全部 ぜんぶ 返還 へんかん 。
楚辺 そべ 通信 つうしん 所 しょ (2002年 ねん 5月 がつ 19日 にち 撮影 さつえい )
象 ぞう のオリのなかにアメリカと日本 にっぽん の国旗 こっき が掲 かか げられている (2003年 ねん )。
戦略 せんりゃく 通信 つうしん アンテナ基地 きち 建設 けんせつ を阻止 そし [ 編集 へんしゅう ]
1976年 ねん 7月 がつ 、楚辺 そべ 通信 つうしん 所 しょ の戦略 せんりゃく 通信 つうしん アンテナ基地 きち 建設 けんせつ の着工 ちゃっこう が発覚 はっかく すると、読谷 よみたん 村 むら はさらなる負担 ふたん に抗議 こうぎ し工事 こうじ 中止 ちゅうし の要請 ようせい をおこなった。その後 ご も工事 こうじ は進 すす められたが、村議 そんぎ 会 かい と地主 じぬし 会 かい が反対 はんたい 闘争 とうそう に立 た ち上 あ がり、村 むら の55 %が基地 きち であり、これ以上 いじょう の拡大 かくだい は認 みと めることができないとして村民 そんみん 大会 たいかい を開催 かいさい した。大統領 だいとうりょう ジミ―・カーター へ直訴 じきそ 状 じょう も送 おく った。
1977年 ねん 、防衛施設庁 ぼうえいしせつちょう はアンテナ基地 きち の建設 けんせつ 断念 だんねん を発表 はっぴょう した。
象 ぞう の檻 おり 訴訟 そしょう [ 編集 へんしゅう ]
1995年 ねん 、知花 ちばな 昌一 しょういち ら一部 いちぶ の地主 じぬし が賃借 ちんしゃく 契約 けいやく の更新 こうしん を拒否 きょひ し、大田 おおた 昌秀 まさひで 沖縄 おきなわ 県知事 けんちじ (当時 とうじ )も土地 とち 強制 きょうせい 使用 しよう の代理 だいり 署名 しょめい を拒否 きょひ したため、これにより沖縄 おきなわ 代理 だいり 署名 しょめい 訴訟 そしょう が起 お こり、1996年 ねん 8月 がつ に沖縄 おきなわ 県 けん が敗訴 はいそ した。
1996年 ねん 4月 がつ 、賃借 ちんしゃく 契約 けいやく が切 き れたため、日本 にっぽん 国 こく による不法 ふほう 占拠 せんきょ 状態 じょうたい となった。この賃貸借 ちんたいしゃく 契約 けいやく の期限切 きげんぎ れに先立 さきだ って、木製 もくせい の柵 しがらみ が設置 せっち された(それまでは、基地 きち 警備 けいび 員 いん の制止 せいし を受 う けるものの鉄塔 てっとう に近寄 ちかよ ることは不可能 ふかのう ではなかった)。
1997年 ねん 4月 がつ 、米 べい 軍 ぐん 用地 ようち 特別 とくべつ 措置 そち 法 ほう を改正 かいせい することで不法 ふほう 占拠 せんきょ 状態 じょうたい は解消 かいしょう されたが、不法 ふほう 占拠 せんきょ 状態 じょうたい は389日間 にちかん にもなった。国 くに の不法 ふほう 占拠 せんきょ 状態 じょうたい が続 つづ く中 なか で、一部 いちぶ 地主 じぬし らは土地 とち の明 あ け渡 わた し等 とう を国 くに に求 もと める訴 うった えを起 お こしていた(米 べい 軍 ぐん 用地 ようち 特別 とくべつ 措置 そち 法 ほう 改正 かいせい 後 ご は一部 いちぶ 地主 じぬし らは米 べい 軍 ぐん 用地 ようち 特別 とくべつ 措置 そち 法 ほう 改正 かいせい の憲法 けんぽう 判断 はんだん や不法 ふほう 占拠 せんきょ に対 たい する国家 こっか 賠償 ばいしょう 請求 せいきゅう 訴訟 そしょう が争点 そうてん となったが、米 べい 軍 ぐん 用地 ようち 特別 とくべつ 措置 そち 法 ほう 改正 かいせい は合憲 ごうけん であること及 およ び国家 こっか 賠償 ばいしょう 請求 せいきゅう については国 くに が供託 きょうたく 金 きん を既 すで に払 はら っているとして請求 せいきゅう を棄却 ききゃく する判決 はんけつ が2003年 ねん 11月に確定 かくてい した)。
SACO の条件 じょうけん 付 つ き返還 へんかん [ 編集 へんしゅう ]
1996年 ねん の米 べい 軍 ぐん 基地 きち 再編 さいへん (SACO最終 さいしゅう 報告 ほうこく )により、本 ほん 施設 しせつ の返還 へんかん はキャンプ・ハンセン 内 うち に施設 しせつ を新設 しんせつ 移設 いせつ することが条件 じょうけん とされた。2005年 ねん 5月 がつ 末 まつ をめどとされていたが、金武 かなたけ 町 まち は施設 しせつ 受 う け入 い れに抵抗 ていこう 、またロッキード社 しゃ の新 あたら しい通信 つうしん システムの導入 どうにゅう が遅 おく れたことにより返還 へんかん はさらにずれこんだ[2] 。
SACO 最終 さいしゅう 報告 ほうこく (1996年 ねん ) における楚辺 そべ 通信 つうしん 所 しょ の項目 こうもく
返還 へんかん 区域 くいき : 読谷 よみたん 村 むら の楚辺 そべ 通信 つうしん 所 しょ (約 やく 53ha)
返還 へんかん 条件 じょうけん : アンテナ施設 しせつ 及 およ び関連 かんれん 支援 しえん 施設 しせつ をキャンプ・ハンセン に移設 いせつ
返還 へんかん 予定 よてい : 2000年度 ねんど 末 まつ まで
返還 へんかん 日 び : 2006年 ねん 12月31日 にち
ギンバル訓練 くんれん 場 じょう の移設 いせつ と同 どう 時期 じき に象 ぞう のオリ の代替 だいたい 施設 しせつ まで負担 ふたん を強 し いられる金武 かなたけ 町 まち では、なかなか得 え ることができなかった。また恩納 おんな 村 むら 喜瀬武原 きせんばる 区 く からも大 おお きな反対 はんたい の声 こえ が上 あ がった。
2002年 ねん 、恩納 おんな 村 むら 喜瀬武原 きせんばる (きせんばる)の東側 ひがしがわ のキャンプ・ハンセンで事前 じぜん 説明 せつめい もなく工事 こうじ が始 はじ まり、赤土 あかつち 流出 りゅうしゅつ が発生 はっせい した。また電磁波 でんじは 障害 しょうがい の不安 ふあん も高 たか まり、5月に臨時 りんじ 区民 くみん 総会 そうかい で移設 いせつ 工事 こうじ 着工 ちゃっこう に強 つよ く抗議 こうぎ 、工事 こうじ の中止 ちゅうし などを決議 けつぎ した。6月30日 にち に総 そう 決起 けっき 大会 たいかい を開 ひら き、改 あらた めて反対 はんたい 決議 けつぎ 決議 けつぎ を採択 さいたく した[3] 。
新 しん 施設 しせつ の整備 せいび が完了 かんりょう した2006年 ねん 12月末 まつ に日本 にっぽん に全面 ぜんめん 返還 へんかん され、2007年 ねん 5月31日 にち より、アンテナを含 ふく む施設 しせつ の本格 ほんかく 的 てき な撤去 てっきょ 作業 さぎょう が行 おこな われ、2007年 ねん 6月8日 にち 、全 すべ てのアンテナが撤去 てっきょ された。なお、キャンプ・ハンセン 内 うち に新規 しんき に建設 けんせつ された同種 どうしゅ の施設 しせつ には、「象 ぞう の檻 おり 」との名称 めいしょう の元 もと となった鉄塔 てっとう 群 ぐん は存在 そんざい せず、より最 さい 新鋭 しんえい の通信 つうしん 設備 せつび を提供 ていきょう された。
ハンザ・キャンプと呼 よ ばれた楚辺 そべ の米 べい 軍 ぐん 基地 きち (1947年 ねん 米 まい 陸軍 りくぐん 64th engineer base topographic batallion 作成 さくせい )
米 べい 軍 ぐん キャンプ・ハンザ (Camp Hanza) の名称 めいしょう について
読谷 よみたん 村 むら 「波平 なみひら 」(なみひら) の地名 ちめい を琉球 りゅうきゅう 語 ご では「はびら」と発音 はつおん し、それが口語 こうご 的 てき に「はんじゃ」「はんざ」へ音韻 おんいん が変化 へんか したものと考 かんが えられている[4] [5] 。沖縄 おきなわ 戦 せん の侵攻 しんこう 前 まえ からより古 ふる い正確 せいかく な沖縄 おきなわ の地名 ちめい を使用 しよう し写真 しゃしん 解析 かいせき していた米 べい 軍 ぐん は、Hanza も侵攻 しんこう 前 まえ から波平 なみひら の名称 めいしょう として使用 しよう していたものとおもわれる。
スノーデン文書 ぶんしょ について
2017年 ねん 4月 がつ 24日 にち 、エドワード・スノーデン が米国 べいこく 国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう 局 きょく (NSA)から持 も ち出 だ した文書 ぶんしょ の内 うち 、日本 にっぽん に関連 かんれん する文書 ぶんしょ の一 ひと つに、SIGINT施設 しせつ をキャンプ・ハンセンに移転 いてん する費用 ひよう 5億 おく ドルを日本 にっぽん 政府 せいふ が負担 ふたん したことが記 しる されている[6] [7] 。
基地 きち 内 ない の遺構 いこう [ 編集 へんしゅう ]
他 た の米 べい 軍 ぐん 通信 つうしん 施設 しせつ [ 編集 へんしゅう ]
青森 あおもり 県 けん の三沢 みさわ 飛行場 ひこうじょう 近 ちか くにある姉沼 あねぬま 通信 つうしん 所 しょ (「三沢 みさわ 飛行場 ひこうじょう 」記事 きじ 内 ない の当該 とうがい 項目 こうもく 参照 さんしょう のこと)