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法典ほうてん論争ろんそう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

法典ほうてん論争ろんそう(ほうてんろんそう、どく: Kodifikationsstreit)とは、19世紀せいきドイツにおいて、おもサヴィニーティボーあいだあらそいになった法典ほうてん編纂へんさん是非ぜひめぐ議論ぎろん

概要がいよう[編集へんしゅう]

こと発端ほったんは、ナポレオンの失脚しっきゃくあいだもないドイツで、レーベルクドイツばんが『ナポレオン法典ほうてんとそのドイツへの導入どうにゅうをめぐって』(Über den Code Napoléon und dessen Einführung in Deutschland. )との著書ちょしょ発表はっぴょうし、ナポレオンの進行しんこうともな導入どうにゅうされたフランス民法みんぽうてんはいし、旧来きゅうらいのゲルマンほう復活ふっかつさせるべきだと主張しゅちょうしたことにある。

これにたいし、1814ねん、ティボーは、『統一とういつてきドイツ一般いっぱん民法みんぽうてん必要ひつようせいについて』(Über die Notwendigkeit eines allgemeinen bürgerlichen Rechts für Deutschland) をあらわして複数ふくすうのゲルマンほうによって分裂ぶんれつ状態じょうたいにあったドイツに統一とういつてき法典ほうてん導入どうにゅうすることによって統一とういつ障害しょうがいになっている法制ほうせい統一とういつすべしと反論はんろんをすると、同年どうねん、これを現実げんじつてきるサヴィニーが『立法りっぽう法学ほうがくたいするわれわれの時代じだい使命しめいについて』(Vom Beruf unserer Zeit für Gesetzgebung und Rechtswissenschaft)を発表はっぴょうして論争ろんそうくわわった。

この論争ろんそう歴史れきし学派がくは台頭たいとうとそのロマニステンゲルマニステン分裂ぶんれつ対立たいりつまねき、そのドイツほうのありかたにも影響えいきょうあたえた。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]