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みなもと方子のりこ

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みなもと 方子のりこ(みなもと の まさこ、れき2ねん1066ねん〉 - 仁平にだいら2ねん3月21にち1152ねん4がつ27にち〉)は、中納言ちゅうなごん藤原ふじわらちょうみのるつま村上むらかみはじめちち堀河ほりかわ左大臣さだいじんみなもとしゅんぼう美福門院びふくもんいん藤原ふじわら得子とくこ鳥羽天皇とばてんのう皇后こうごう近衛天皇このえてんのう生母せいぼ)のはは

ながうけたまわ2ねん8がつ19にち1133ねん9月19にち)におっとちょう死別しべつしたのち翌年よくねん出家しゅっけして越後えちご尼公にこうばれた。久安ひさやす2ねん10がつ4にち(1146ねん11月9にち)、せいいちじょする詔書しょうしょ位記いきおよ下記かき宣命せんみょうけた。生前せいぜんにおけるせいいち叙位じょい史上しじょう6にんで、以後いご700ねんあまりにわたってれいがなかった。むすめ藤原ふじわら得子とくこ鳥羽とば法皇ほうおう寵愛ちょうあいけていたこと、永治えいじ元年がんねん(1141ねん)にまごからだじん親王しんのう近衛天皇このえてんのうとして即位そくいしたことなどがせいいち叙位じょい理由りゆうであった。聖武天皇しょうむてんのう母親ははおや藤原ふじわら宮子みやこ生前せいぜんせいいちじょされていた前例ぜんれいも、この生前せいぜん叙位じょい要因よういんひとつであったとかんがえられている。

仁平にだいら2ねん3がつ21にち(1152ねん4がつ27にち)、87さいぼっした。

みなもと方子のりこ じょせいいち宣命せんみょう

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出典しゅってん:「本朝ほんちょう世紀せいき

天皇てんのうわがみことのりむねまんとめせん勅命ちょくめいとお聞食とめせんみことがいてんつい餝給みちなみ禮典れいてんつねもう所存しょぞん奈利、無位むいげん朝臣あそん方子のりこなみちん外祖母がいそぼ奈利、くにつねぶんまわしとめこころざしてん奈牟、以正いちおくきゅうとめみことのりぬの天皇てんのうわがみことのりむねとお聞坐とめせん
久安ひさやすねんじゅうがつよんにち
訓読くんどくぶん天皇てんのう(すめら)がみことのりむね(おほみこと)らまと、せん(のりたま)ふ勅命ちょくめい(おほみこと)を聞食(きこしめ)さへとせん(の)る、そとみこと(たふと)びてつい餝(つゐしょく)しきゅうどうは、礼典れいてん(ゐやわざ)のつねそんするところなり、(かれ)無位むいげん朝臣あそん方子のりこは、ちん外祖母がいそぼなり、くにつねぶんまわし(こうき)としてなむ、(かれ)以(ここも)てせいいちおくきゅうへとみことのり(のりたま)ふ天皇てんのう(すめら)がみことのりむね(おほみこと)を聞坐(きこしめ)さへとせん(の)る、久安ひさやす2ねん10がつ4にち