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おうしずおさむ

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おうしずおさむ
プロフィール
出生しゅっしょう 1877ねん3月31にち
きよしひかりいとぐち3ねん2がつ17にち
死去しきょ しょう
出身しゅっしん 清の旗 きよしもりきょう将軍しょうぐん管轄かんかつ奉天ほうてんうけたまわとくけん
職業しょくぎょう 軍人ぐんじん政治せいじ
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ おうしずおさむ
簡体字かんたいじ おうしずおさむ
拼音 Wáng Jìngxiū
ラテン Wang Ching-hsiu
和名わみょう表記ひょうき おう せいしゅう
発音はつおん転記てんき ワン ジンシウ
テンプレートを表示ひょうじ

おう しずおさむ(おう せいしゅう、繁体字はんたいじ: おうしずおさむ; 簡体字かんたいじ: おうしずおさむ; 拼音: Wáng Jìngxiū; ウェードしき: Wang Ching-hsiu)は、中華民国ちゅうかみんこく満州まんしゅうこく軍人ぐんじん政治せいじべつごうじょうまこと

事績じせき

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日本にっぽん留学りゅうがくして陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうだい8卒業そつぎょうし、帰国きこく1914ねんみんこく3ねん)にてい陸軍りくぐんぐんかん学校がっこう戦術せんじゅつ教官きょうかんとなった。1916ねんみんこく5ねん)に北京ぺきん政府せいふ陸軍りくぐん営長となり、1918ねんみんこく7ねん)に陸軍りくぐん参謀さんぼう1920ねんみんこく9ねん)に陸軍りくぐんだい7師長もろなが昇進しょうしんしている。1926ねんみんこく15ねん)にひがし三省陸軍講武堂黒竜江こくりゅうこう分校ぶんこう教育きょういくちょうにんぜられ、1929ねんみんこく18ねん)に黒竜江こくりゅうこうしょう国防こくぼう籌備しょ参謀さんぼうちょうとなった[1]

満州まんしゅう事変じへん勃発ぼっぱつおうしずおさむ満州まんしゅうこく建国けんこく活動かつどう参加さんかし、1932ねんみんこく21ねん/大同だいどう元年がんねん)に中央ちゅうおう陸軍りくぐん訓練くんれんしょしょちょうとなった[1]同年どうねん3がつ9にち満州まんしゅうこく正式せいしき建国けんこくされると、よく10日とおか軍政ぐんせい次長じちょう任命にんめいされ[2]、またうま政局せいきょく局長きょくちょうねている[3]1934ねん康徳やすのり元年がんねん)2がつ28にち軍政ぐんせい次長じちょう退任たいにん[4]以後いごだい5ぐん管区かんく司令しれいかん(1934ねん11月15にち就任しゅうにん)、だい1ぐん管区かんく司令しれいかん(1937ねん6がつ19にち就任しゅうにん)、だい6ぐん管区かんく司令しれいかん(1938ねん12月就任しゅうにん、1939ねん6がつ退任たいにん)と歴任れきにんした[5]。なおこのあいだ1936ねん康徳やすのり3ねん)8がつ24にちには、おう殿どのちゅうとも陸軍りくぐんじょうしょう任命にんめいされている[6]1941ねん康徳やすのり8ねん)12月18にち参議さんぎ参議さんぎ任命にんめいされ、満州まんしゅうこく崩壊ほうかいするまでその地位ちいにあった[7]以後いご、その行方ゆくえしょうである。

ちゅう

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  1. ^ a b まんしゅう帝国ていこく名鑑めいかん』「くに」、21ぺーじ
  2. ^ 満州まんしゅう政府せいふかくいん 昨日きのう正式せいしき発表はっぴょう」『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ7ねん(1932ねん)3がつ11にち
  3. ^ りゅうほかへん(1995)、1164ぺーじ
  4. ^ かくあるじへん(1990)、1757ぺーじ
  5. ^ かくあるじへん(1990)、1864-1866ぺーじ
  6. ^ 満州まんしゅう国上くにがみしょうめい」『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ11ねん(1936ねん)8がつ25にち
  7. ^ かくあるじへん(1990)、1769ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 大満だいましゅう帝国ていこく名鑑めいかん挙国きょこくしゃ、1934ねん 
  • かくきょうともぬしへん中華民国ちゅうかみんこく時期じき軍政ぐんせいしょくかん甘粛かんせい人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1990ねんISBN 7-226-00582-4 
  • りゅう寿ひさしりんほかへんみんこくしょくかん年表ねんぴょう中華ちゅうかしょきょく、1995ねんISBN 7-101-01320-1