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田中 光儀(たなか みつよし、文政11年5月26日(1828年7月7日) - 1886年(明治19年)8月31日)は幕末の御家人、明治時代の官吏、篤志家。仮名は廉太郎(れんたろう)。浦賀奉行所の与力を務め、横浜鎖港談判使節団の一員としてヨーロッパに赴くなど、幕末の外交において活躍した[2]。
文政11年(1828年)代官手代八戸厚十郎の子として武蔵国で生まれる[注釈 1]。嘉永4年(1851年)浦賀奉行所御番代の田中信吾の養子に入り、嘉永7年4月10日にその跡を継いだ。
黒船来航の際に、下田でマシュー・ペリーとの交渉に尽力したことに対して、田中に銀15枚が褒美として与えられたことが「浦賀史料」(慶応義塾図書館所蔵)に記されている[5]。
嘉永7年(1854年)、ペリー艦隊が二度目の来航をした際に、随行したエリファレット・ブラウン・ジュニアは遠征先で500枚近くの写真を撮影したが、田中は浦賀奉行所の支配組頭黒川嘉兵衛や通詞の名村八五郎、松前藩の家老・松前勘解由、奉行・石塚官蔵、用人・遠藤又左衛門らとともに被写体となっている。これらは「日本に現存する最古の日本人の銀板写真」[注釈 2]と言われている[6]
文久3年(1864年)、第2回遣欧使節(横浜鎖港談判使節団)に、勘定格調役として随行した[7]。
江戸幕府瓦解後の明治時代には、豊岡県(現・京都府北部と兵庫県北部)の参事となった[8]。
- ^ 代官手附谷戸平九郎の子とする資料もある
- ^ 1851年に、ボルティモアの写真家ヘンドリック・マークスが、アメリカの捕鯨船に助けられた土佐の漂流民をダゲレオタイプのカメラで写真撮影しており、これが「初めてダゲレオタイプで撮影された日本人の現存写真」とされる。
- ^ 『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツ、618-619頁。
- ^ 「ペリー来航時の与力と同心」西川武臣『浦賀奉行所』有隣新書、141-143頁。
- ^ 西川武臣『ペリー来航 日本・琉球をゆるがした412日間』中公新書、117-118頁。広瀬隆『文明開化は長崎から』下巻 集英社、281頁。
- ^ 尾佐竹猛『幕末遣外使節物語 夷狄の国へ』岩波文庫、255頁。同『幕末遣外使節物語』講談社学術文庫、208頁。赤瀬浩『河津祐邦』長崎文献社、118頁。
- ^ 戸森麻衣子『江戸幕府の御家人』東京堂出版、125頁。