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だいシク戦争せんそう

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だいシク戦争せんそう
Second Anglo-Sikh War

パンジャーブ地方ちほう地図ちず
戦争せんそうシク戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1848ねん4がつ18にち - 1849ねん3月26にち
場所ばしょインドパンジャーブ地方ちほう
結果けっかイギリス勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスひがしインド会社かいしゃ シク王国おうこく

だいシク戦争せんそう(だいにじシクせんそう、英語えいご: Second Anglo-Sikh War)は、イギリスひがしインド会社かいしゃぐんシク王国おうこくぐんのとのあいだ勃発ぼっぱつした戦争せんそう1848ねん - 1849ねん)。この戦争せんそうにより、イギリスはインドにおける最後さいご独立どくりつこくであるシク王国おうこく併合へいごう成功せいこうし、ぜんインドを植民しょくみんした。

戦争せんそういたるまで[編集へんしゅう]

1846ねんラホール条約じょうやくより、首都しゅとラホールにはイギリスじんちゅう在官ざいかんかれ、王国おうこくジャンムーカシミールジャーランダル・ドアーブなどおおくの領土りょうど割譲かつじょう余儀よぎなくされた[1]。また、軍隊ぐんたい歩兵ほへい20,000と騎兵きへい12,000に縮小しゅくしょう余儀よぎなくされた[1]

同年どうねん12月16にちにはべつ条約じょうやく締結ていけつ余儀よぎなくされ、イギリスのちゅう在官ざいかん王国おうこくにおいてあらゆる権限けんげん行使こうしできるようになった[1]。また、イギリスはみずからの判断はんだんによって、王国おうこく各地かくち駐屯ちゅうとんくことがみとめられた[2]

しかし、これらの植民しょくみん支配しはいによる各種かくしゅ改革かいかく王国おうこく導入どうにゅうされると、人々ひとびと不満ふまんたかまり、領土りょうどからイギリス勢力せいりょくすようのぞこえおおくなっていた[2]。イギリスのがわもまた、一部いちぶ徹底てっていした帝国ていこく主義しゅぎしゃ官僚かんりょうらはシク王国おうこく領土りょうど併合へいごうし、パンジャーブを直接ちょくせつ統治とうちするようにかんがえるようになった[2]

戦争せんそう[編集へんしゅう]

1848ねん5月、ついにイギリスへの不満ふまん爆発ばくはつし、シク王国おうこくない各地かくち自由じゆううったえる人々ひとびとらは反乱はんらんこした。これがだいシク戦争せんそうである。おも指導しどうしゃムール・ラージ・ムルターンワーラーチャタル・シング・アッターリーワーラーであった[2]

1848ねん4がつ19にち以降いこう、シク王国おうこくぐんムルターン籠城ろうじょうし、これをめるイギリスぐんたたかった(ムルターン包囲ほういせん)。

同年どうねん11月22にち、シク王国おうこくぐんはイギリスぐんとラームナガルで開戦かいせんし、イギリスぐんやぶった(ラームナガルのたたか)。だが、このたたかいでイギリスぐん打撃だげきあたえることはほとんどできなかった。

1849ねん1がつ13にち、シク王国おうこくぐんチリヤーンワーラーでイギリスぐんたたかい、これに勝利しょうりした(チリヤーンワーラーのたたか)。だが、双方そうほうともにおおきな打撃だげきこうむった。

だが、同年どうねん1がつ22にちにムルターンに籠城ろうじょうしていたムール・ラージ・ムルターンワーラー降伏ごうぶくし、ムルターンはイギリス占領せんりょうはいった。

同年どうねん2がつ21にち、シク王国おうこくぐんグジュラートでイギリスぐん激突げきとつし、これがシク戦争せんそう最後さいごたたかいとなった(グジュラートのたたか)。このたたかいでシクがわは2000にん死傷ししょうしゃして大敗たいはいきっし、たたかいの帰趨きすうがきまった。

こうして、シクがわ徹底的てっていてきかされ、1849ねん3月26にちにシク王国おうこく敗北はいぼくみとめ、イギリスに降伏ごうぶくした[2][3][4]

戦後せんご[編集へんしゅう]

インド総督そうとくダルハウジー侯爵こうしゃくはパンジャーブで2騒動そうどうきない方法ほうほうは、間接かんせつてき統治とうちではなくイギリスの直接ちょくせつ統治とうちであるとかんがえた。ヘンリー・モンゴメリー・ローレンス英語えいごばんは「賢明けんめい政策せいさくではない」としたが、そのかんがえはるがなかった。

3月29にち、イギリスはシク王国おうこく領土りょうどカイバルとうげさかい併合へいごうされたと宣言せんげんし、インドの植民しょくみん完成かんせいした[2][3]

同年どうねん12月21にちドゥリープ・シングは5まんポンドの年金ねんきんをあてがわれ、パンジャーブのラホールからアワドファテーガル移動いどうさせられた。またこのとき、インド総督そうとくダルフージーによって、かれとその一族いちぞく土地とちげられ、ちちランジート・シングがれたコーヒ・ヌールのダイヤモンドもげられた。これはイギリス女王じょおうヴィクトリアに献上けんじょうされ、現在げんざいいたるまでイギリス君主くんしゅ王冠おうかんかざ宝石ほうせきとなっている。

さて、イギリスはシク王国おうこく領土りょうど併合へいごうし、じついち世紀せいき以上いじょうにわたるインド植民しょくみんというだい事業じぎょうげたわけだが、これが最後さいご戦争せんそうではなかった。かれらはインドの人々ひとびとがその統治とうちたいして、どれほどの不満ふまんいているかなどるはずもなかった[5]

こうして、1857ねん5月にイギリスの植民しょくみん支配しはい打倒うちたおすべく、ムガル帝国ていこく皇帝こうていバハードゥル・シャー2せい最高さいこう指導しどうしゃに、デリーをはじめとするインド各地かくち人々ひとびとがった。イギリスとインドの事実じじつじょう最後さいご戦争せんそうインドだい反乱はんらんである[5]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c チャンドラ『近代きんだいインドの歴史れきし』、p.81
  2. ^ a b c d e f チャンドラ『近代きんだいインドの歴史れきし』、p.82
  3. ^ a b チョプラ『インド』、p.308
  4. ^ 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.285
  5. ^ a b チャンドラ『近代きんだいインドの歴史れきし』、p.138

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]