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若柳わかやなぎりゅう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

若柳わかやなぎりゅう(わかやぎりゅう)は、日本にっぽん舞踊ぶよう流派りゅうはのひとつである。

手振てぶりのおおいことが特徴とくちょうで、しなのある舞踊ぶようひょうされる[1]1895ねん若柳わかやなぎ吉松よしまつ初代しょだい若柳わかやなぎことぶきわらわ)によりそうながされ、柳橋やなぎはしをはじめ花街はなまち一大いちだい勢力せいりょくきずき、ことぶきわらわのちいだ初代しょだいわかやなぎ吉蔵よしぞうによって日本にっぽん全国ぜんこく勢力せいりょくひろめ、今日きょうでは日本にっぽん舞踊ぶようにおける5だい流派りゅうはのひとつとしてかぞえられる。

分家ぶんけ独立どくりつ勢力せいりょくあらそいなどがもとで、すうおおくの分派ぶんぱ存在そんざいしている。

歴史れきし

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そうりゅうから発展はってんまで

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若柳わかやなぎりゅう創始そうししゃとなった若柳わかやなぎ吉松よしまつは、本名ほんみょう若林わかばやし勇吉ゆうきちといい、もとは花柳かりゅうりゅう家元いえもと花柳はなやぎ壽輔じゅすけ門下もんか舞踊ぶようまなんでいた。勇吉ゆうきち壽輔じゅすけ幼名ようみょうである「芳松よしまつ」のあたえられ、壽輔じゅすけともおおくの舞台ぶたい振付ふりつけたずさわっていたが、意見いけん相違そういがもとで1893ねん破門はもんされる[2]。その、それまでの芸名げいめい花柳はなやぎ芳松よしまつ)と本名ほんみょうわせ「若柳わかやなぎ吉松よしまつ」を名乗なのり、若柳わかやなぎりゅうてた。

そうりゅう吉松よしまつ舞台ぶたい振付ふりつけからはなれて、花柳かりゅうかい勢力せいりょくひろげ、柳橋やなぎばし中心ちゅうしんとして各地かくち地盤じばんきずいた。吉松よしまつ1905ねんに「ことぶきわらわ」に改名かいめいし、1917ねんぼっした。ことぶきわらわ流派りゅうは継承けいしょうする意思いしく、門弟もんていあいだ推挙すいきょされたわかやなぎ吉蔵よしぞうが2代目だいめ家元いえもととなった。

吉蔵よしぞうことぶきわらわきずいた地盤じばんあしがかりに勢力せいりょく拡大かくだいし、また一方いっぽう1920ねん新作しんさく舞踊ぶよう研究けんきゅう機関きかんである「若柳わかやなぎ舞踊ぶよう研究けんきゅうかい」を、1926ねんには歌舞伎かぶき舞踊ぶよう研究けんきゅうする「日本にっぽん舞踊ぶよう研究けんきゅうかい」をげ、すうおおくの門弟もんていそだてた。結果けっか若柳わかやなぎりゅう日本にっぽん全国ぜんこくひろがり、全盛ぜんせいきわめた。

2代目だいめ没後ぼつご分裂ぶんれつ

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1943ねん吉蔵よしぞうぼっしたのちは、その[3]である若柳わかやなぎ正蔵しょうぞう2せい吉蔵よしぞう襲名しゅうめいし、3代目だいめ家元いえもととなった。しかし2せい吉蔵よしぞうはまだわかく、一部いちぶ門弟もんていからは家元いえもとせいはいし、理事りじせいによる流派りゅうは運営うんえい主張しゅちょうするこえがあがった。2せい吉蔵よしぞう一旦いったん理事りじせいへの移行いこう同意どういしたが、のちにそれを撤回てっかい。これにより若柳わかやなぎりゅうは2せい吉蔵よしぞうおもとする宗家そうけ若柳わかやなぎりゅうと、理事りじせいせい若柳わかやなぎりゅう分裂ぶんれつすることとなった。また、はつ吉蔵よしぞう長女ちょうじょ・2せい吉蔵よしぞうあねであり、分家ぶんけして関西かんさい地方ちほう統括とうかつしていたわかやなぎ吉世きちよ独立どくりつ

せい若柳わかやなぎりゅう

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家元いえもとからはなれた一派いっぱは「せい若柳わかやなぎりゅう」をしょうし、理事りじせいによる流派りゅうは運営うんえいおこなうことになった。運営うんえい機関きかんとして1951ねんせい若柳わかやなぎかい設立せつりつことぶきわらわ直弟子じきでしである若柳わかやなぎよし登代とよ総務そうむ理事りじとなる。1955ねんよし登代とよるとわって若柳わかやなぎ寿ことぶきけい総務そうむいた。その寿ことぶきけい派閥はばつあいだ対立たいりつから1971ねん独立どくりつし「じき若柳わかやなぎりゅう」をてるが、同年どうねん寿ことぶきけいぼっすると、若柳わかやなぎきちこま理事りじちょうとする寿ことぶきけい協会きょうかいと、若柳わかやなぎけい会長かいちょうとする寿ことぶきけいかい分裂ぶんれつ。さらに寿ことぶきけい協会きょうかいからはわかやなぎ寿宏としひろじき分家ぶんけ若柳わかやなぎりゅうとして独立どくりつし、寿ことぶきけいかいではわかやなぎひろしひろしさかえかいてた。

若柳わかやなぎりゅう西にし

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関西かんさい勢力せいりょく統括とうかつするため分家ぶんけしていたわかやなぎ吉世きちよ1950ねん独立どくりつし、若柳わかやなぎりゅう西にし家元いえもととなった。初期しょき本拠地ほんきょちから京都きょうと若柳わかやなぎりゅうともしょうした。2せい吉蔵よしぞう薫陶くんとうけた門弟もんていたちが結束けっそくしており、吉蔵よしぞうげいをよくいでいるとひょうされている。[1]吉世きちよ没後ぼつごはその長女ちょうじょ若柳わかやなぎ吉世きちよわらわ吉世きちよ襲名しゅうめいし、いでいる。また、芦屋あしやから練馬ねりま本拠ほんきょをうつした。

参考さんこう資料しりょう

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  • 柴崎しばざき四郎しろう通史つうし花柳かりゅうりゅう はなながいち世紀せいき自由じゆう国民こくみんしゃ、1985ねんISBN 978-4-426-50018-4
  • 演劇えんげき出版しゅっぱんしゃへん日本にっぽん舞踊ぶよう入門にゅうもん』2004ねんISBN 4-900256-89-7
  • 藤田ふじたひろし日本にっぽん舞踊ぶようハンドブック改訂かいていばん三省堂さんせいどう、2010ねんISBN 978-4-385-41066-1

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b 藤田ふじたひろし日本にっぽん舞踊ぶようハンドブック改訂かいていばん
  2. ^ 柴崎しばざき四郎しろう通史つうし花柳かりゅうりゅう はなながいち世紀せいき
  3. ^ 日本にっぽん舞踊ぶようハンドブック改訂かいていばん』では実子じっし、『日本にっぽん舞踊ぶよう入門にゅうもん』では養子ようしとされている

外部がいぶリンク

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