きむ鍾甲

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きむ 鍾甲
김 종갑
生誕せいたん 1922ねん10月1にち
大日本帝国の旗 日本にっぽん統治とうち朝鮮ちょうせん忠清ただきよ南道みなみどう舒川
死没しぼつ (1996-11-03) 1996ねん11月3にち(74さいぼつ
大韓民国の旗 大韓民国だいかんみんこく
所属しょぞく組織そしき 大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
大韓民国だいかんみんこく陸軍りくぐん
最終さいしゅう階級かいきゅう 少尉しょうい日本にっぽん陸軍りくぐん
中将ちゅうじょう韓国かんこく陸軍りくぐん
墓所はかしょ 国立こくりつソウルあきらちゅういん将軍しょうぐんだい3墓域ぼいき57ごう
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きむ 鍾甲(キム・ジョンガプ、김종갑)は大韓民国だいかんみんこく軍人ぐんじん国会こっかい議員ぎいん太極たいきょく武功ぶこう勲章くんしょう授与じゅよしゃ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1922ねん10がつ忠清ただきよ南道みなみどう舒川にまれる。京都きょうと桃山ももやま中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう。1940ねんのべ禧専もん学校がっこう英文えいぶん卒業そつぎょう

学徒がくと出陣しゅつじんさいりょうんとおるたずねると「この戦争せんそうはいずれ日本にっぽんける。そのときこそ独立どくりつときだ。けば3ぶんの2は戦死せんしするだろうが、独立どくりつすれば軍隊ぐんたいる。ってのこり、建国けんこくいしずえになってくれたまえ」とわれたので福知山ふくちやま予備よび士官しかん学校がっこう入校にゅうこうし、卒業そつぎょう岸和田きしわだ独立どくりつ山砲さんぽうたい配属はいぞくされ、種子島たねがしま終戦しゅうせんむかえた。

1945ねん9がつ帰国きこく

1946ねん1がつ28にちづけ軍事ぐんじ英語えいご学校がっこう卒業そつぎょうして少尉しょうい任官にんかんぐんばん10030ばん[1]同年どうねん3がつにん中尉ちゅうい。4月、春川はるかわだい8連隊れんたい創設そうせつにんじ、どう連隊れんたいAちゅう隊長たいちょう[2]。12月に編成へんせい完結かんけつするとふく連隊れんたいちょう大尉たいい[3]

1947ねん3がつ10日とおか陸軍りくぐん本部ほんぶ作戦さくせん教育きょういくしょちょうしょうりょう[4]。7がつ20日はつか警備けいび士官しかん学校がっこう憲兵けんぺい課長かちょう[4]。10月30にちそう司令しれい軍紀ぐんき司令しれい設置せっちされ、初代しょだい司令しれいかん就任しゅうにん[4]。12月1にちだい6連隊れんたいちょう[5]

1949ねん4がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう生徒せいと隊長たいちょう。8月12にちだい18連隊れんたいちょう大領だいりょう[6]。11月13にちだい7師団しだん参謀さんぼうちょう[7]

1950ねん6がつ朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつしてソウルが陥落かんらくするとはじめきょう戦闘せんとう司令しれい参謀さんぼうちょう同年どうねん7がつ5にちはじめきょう戦闘せんとう司令しれいだい1軍団ぐんだん改編かいへんされると同軍どうぐんだん作戦さくせん参謀さんぼうとなる[8]。9月16にちだい1軍団ぐんだん参謀さんぼうちょう[9]軍団ぐんだんちょう補佐ほさし、9月になぞらえしょう昇進しょうしんした。

1950ねん12月、だい9師団しだんちょう任命にんめいされ、後方こうほうのゲリラ討伐とうばつ指揮しきした。3月、陸軍りくぐん本部ほんぶ防衛ぼうえい局長きょくちょう[† 1]だい5軍団ぐんだんちょう[† 2]。1951ねん11月、だい2訓練くんれん所長しょちょう

1952ねん8がつだい5師団しだんちょう東部とうぶ北朝鮮きたちょうせんぐんだい9師団しだんと351高地こうち争奪そうだつせんひろげた。1953ねん1がつ少将しょうしょう昇進しょうしんし、5月にアメリカ陸軍りくぐん指揮しき幕僚ばくりょう大学だいがく留学りゅうがく。1954ねん6がつ帰国きこくし、だい5師団しだんちょう復帰ふっき

1955ねん8がつ陸軍りくぐん大学だいがくふく総長そうちょう[10]。のちに陸軍りくぐん本部ほんぶ管理かんり局長きょくちょう代理だいりつとめ、1956ねん7がつ中将ちゅうじょう昇進しょうしん同時どうじ予備よびやく編入へんにゅうとなった。編入へんにゅう国防こくぼう次官じかん任命にんめいされた。1963ねんだい6だい国会こっかい議員ぎいんやすし舒川民主みんしゅ共和党きょうわとう)に当選とうせんし、国会こっかい国防こくぼう委員いいんちょう。1972ねん善仁よしひと財団ざいだん理事りじ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 国民こくみん防衛ぼうえいぐん育成いくせいたるきょく
  2. ^ 国民こくみん防衛ぼうえいぐん50まんにんで10予備よび師団しだん造成ぞうせいしたもの。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 佐々木ささき 1976, p. 86.
  2. ^ 佐々木ささき 1976, p. 174.
  3. ^ 佐々木ささき 1976, p. 175.
  4. ^ a b c 国防こくぼうぐん研究所けんきゅうじょ 1997, p. 596.
  5. ^ 佐々木ささき 1976, p. 196.
  6. ^ 佐々木ささきはるたかし朝鮮ちょうせん戦争せんそう/韓国かんこくへん 上巻じょうかん』、208ぺーじ 
  7. ^ 佐々木ささき 1976, p. 214.
  8. ^ 김행복 2005, p. 55.
  9. ^ 김행복 2005, p. 54.
  10. ^ きむ鍾甲少將しょうしょう就任しゅうにんりく大副おおそい總長そうちょう에(鎭海)” (韓国かんこく). 国史こくし編纂へんさん委員いいんかい. 2015ねん11月8にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 佐々木ささきはるたかし朝鮮ちょうせん戦争せんそう/韓国かんこくへん 上巻じょうかん けんぐん戦争せんそう勃発ぼっぱつまえまで』はら書房しょぼう、1976ねん 
  • 호국전몰용사공훈록 제5권(창군기)” (PDF). 韓国かんこく国防こくぼうぐん編纂へんさん研究所けんきゅうじょ. 2020ねん2がつ20日はつか閲覧えつらん
  • 김행복 (2005). 흥남철수작전. 국가보훈처