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飯塚いいづかしみ

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飯塚いいづか しみ(いいづか そめこ、寛文ひろふみ5ねん1665ねん) - 宝永ほうえい2ねん5がつ10日とおか1705ねん6月30にち))は、江戸えど時代じだい女性じょせいで、甲斐かい甲府こうふはんおも柳沢やなぎさわ吉保よしやす側室そくしつちち飯塚いいづか正次まさつぐ

略歴りゃくれき人物じんぶつぞう

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柳沢やなぎさわ家臣かしん飯塚いいづか正次まさつぐむすめとしてまれたとされる。また大納言だいなごん正親おうぎまち三条さんじょう実久さねくむすめ表記ひょうきされる場合ばあいもある(ただし実久さねくしみ年齢ねんれいは9さい)。

よし保生やすおははりょうほんいん侍女じじょで、吉保よしやす天和てんわ元年がんねん(1681ねん)にりょうほんいん江戸えどせたさいに、侍女じじょとしてしたがっている。しみ貞享ていきょう2ねん(1685ねんごろ吉保よしやす側室そくしつとなり、貞享ていきょう4ねん1687ねん)9がつ3にちには吉保よしやすとのあいだ柳沢やなぎさわ吉里よしさとまれている。宝永ほうえい2ねん(1705ねん)、41さい死去しきょ墓所はかしょ東京とうきょう中野なかの龍興寺りゅうこうじ戒名かいみょうれいじゅいん殿どの月光げっこう寿ことぶきこころ大姉だいし

しみ吉保よしやす同様どうよう学芸がくげい素養そようふか人物じんぶつとしてられ、著作ちょさくみずからの参禅さんぜん修行しゅぎょう記録きろくした『故紙こしろく』があり、おおくの和歌わかのこしている。吉保よしやすしみ没後ぼつご宝永ほうえい2ねん8がつ20日はつかしみ和歌わか38しゅを『しみ歌集かしゅう』を編集へんしゅうしている[1]序文じょぶんによれば、吉保よしやす元禄げんろく15ねん1702ねん神田かんだきょう柳沢やぎさわてい焼失しょうしつによりしみ和歌わかうしなわれたため、ぶんはこのこされた38しゅ収載しゅうさいしたという[1]

俗説ぞくせつ

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しみは、近衛このえはじめむすめ熙子きょうからにゅう輿こしさい侍女じじょであったしみ柳沢やなぎさわ吉保よしやす秘密裏ひみつり仕留しとめ、その柳沢やなぎさわていおとずれた5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしまり、愛妾あいしょうになったというせつや、吉保よしやすとのあいだまれた吉里よしさと綱吉つなよしかくであるひとし諸説しょせつある。

しかし、実際じっさいにはしみ柳沢やぎさわ家臣かしんむすめぎず、大奥おおおくがったという記録きろくもなく、信憑しんぴょうせいのないものとされることがおおい。こうした説話せつわおもに『護国ごこくおんな太平たいへい』が流布るふ訛伝かでんされたものとかんがえられている。

登場とうじょう作品さくひん

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映画えいが

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テレビドラマ

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参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 柳沢やなぎさわ吉保よしやす甲府こうふじょう』、p.149