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りゅう

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りゅう(りゅう しょ、生年せいねんしょう - 紀元前きげんぜん203ねん)はすわえかん戦争せんそう時代じだいすわえ勇将ゆうしょうこうはり項羽こうう信任しんにんされ戦功せんこうげる。濰水のたたかいにおいてかんうえすすむかんしんやぶ戦死せんしした。

経歴けいれき

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紀元前きげんぜん208ねんなつひがしおもねたたかいにおいて、りゅう且のがはじめてあらわれる。はたすすむあきらたかし本拠地ほんきょち・臨済を攻略こうりゃくすわえひとし援軍えんぐんもろとも撃破げきはする。ひとしはたさかえひがしおもね退却たいきゃくおうおとうとひょうもまたそこへみ、あきら邯は両者りょうしゃ追撃ついげきする。さかえすわえぐん救援きゅうえん要請ようせいこうはりはこれにおうりゅう且を派遣はけんした。りゅう且とさかえ内外ないがい呼応こおうし、しんぐん攻囲こういやぶる。あきら邯の数少かずすくない敗戦はいせんげきであった。

これ以降いこうりゅう且はこう一族いちぞく将軍しょうぐんかたをならべて戦陣せんじん出動しゅつどうすることがおおくなる。のちに陳平ちんぺいかんおう劉邦りゅうほう腹心ふくしんとなり進言しんげんしている。「項羽こううしょう信任しんにんされ、なおかつほねのある人物じんぶつは、范増鍾離眜りゅう且・しゅういんすうにんです。黄金おうごんまんきん使つかあいだしゃ流言りゅうげんさせ、君臣くんしん離間りかんはかりましょう」[1] 劉邦りゅうほうはこれを裁可さいかした。りゅう且のたか評価ひょうかがうかがいれる。

紀元前きげんぜん206ねんかんおう劉邦りゅうほうおこりへいしてさんはた平定へいていすると、りゅう且はくにしょうこうとともにていすえみなみかんぐん灌嬰たたかったがやぶれた[2]紀元前きげんぜん204ねんりゅう且はこうごえとともに淮南ワイナンめ、えいぬのぐんろくやぶった。えいぬのかんたよって逃亡とうぼうした[3]

紀元前きげんぜん203ねん10がつかんしん臨淄平定へいていすると、項羽こううりゅう且にめいじて、しゅうらん副将ふくしょうしょう)として将兵しょうへい20まんひきいさせて派遣はけんさせた。ふゆ11がつ[4] のことであった。持久じきゅうせんにすべきとりゅう且に進言しんげんするものもいたが、かれかんしんのことを「またおっと」とあなどってこれをかずそくせんのぞんだ。

りゅう且としゅうらんかんしんと濰水をはさんで対陣たいじんした。かんしん夜間やかんのうちに濰水の上流じょうりゅう土嚢どのうんでせきつくり、みずふさいでおいた。かんしんぐんひきいてなかばがわたったところでりゅう且のぐん攻撃こうげきし、いつわって敗走はいそうした。りゅう且は「わたし以前いぜんからもともとかんしん臆病おくびょうなのはっていた」と嘲笑あざわらって追撃ついげきした。これをみたかんしん土嚢どのうせき決壊けっかいさせた。りゅう且のぐん大半たいはんわたりきらないうちにかんしん反撃はんげきくわえ、りゅう且は灌嬰の軍勢ぐんぜいによってられた[5]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 史記しきちん丞相じょうしょう
  2. ^ 史記しき』樊酈滕灌列伝れつでん
  3. ^ 史記しき』黥布列伝れつでん
  4. ^ 史記しきさんいえ註』まき94
  5. ^ 史記しき』淮陰こう列伝れつでん