二 銭 銅貨 (江戸川 乱歩 )
本文
[上
[- 「あの
泥棒 が羨 ましい」二人 のあいだにこんな言葉 がかわされるほど、そのころは窮迫 していた。場末 の貧弱 な下駄 屋 の二 階 の、ただひと間 しかない六 畳 に、一閑張 りの破 れ机 を二 つならべて、松村 武 (たけし)とこの私 とが、変 な空想 ばかりたくましくして、ゴロゴロしていたころのお話 である。もうなにもかも行 き詰 まってしまって、動 きの取 れなかった二人 は、ちょうどそのころ世間 を騒 がせていた、大 泥棒 の巧 みなやり口 を羨 むような、さもしい心持 になっていた。 - その
泥棒 事件 というのは、このお話 の本筋 に大 関係 を持 っているので、ここにざっとそれをお話 ししておくことにする。 芝 区 のさる大 きな電機 工場 の職工 給料 日 の出来事 であった。十 数 名 の賃金 計算 係 りが、五 千 人 近 い職工 のタイム・カードから、それぞれ一 ヵ月 の賃銀 を計算 して、山 と積 まれた給料 袋 の中 へ、当日 銀行 から引 き出 された、大 トランクに一 杯 もあろうという、二 十 円 、十 円 、五 円 などの紙幣 を汗 だくになって詰 め込 んでいるさなかに、事務所 の玄関 へ一人 の紳士 が訪 れた。受付 の女 が来意 をたずねると、私 は朝日新聞社 の記者 であるが、支配人 にちょっとお目 にかかりたいという。そこで女 が東京 朝日新聞社 社会 部 記者 と肩書 のある名刺 を持 って、支配人 にこのことを通 じた。幸 いなことには、この支配人 は新聞 記者 操縦 法 がうまいことを、ひとつの自慢 にしている男 であった。のみならず、新聞 記者 を相手 に、ほらを吹 いたり、自分 の話 が何 々氏 談 などとして、新聞 に載 せられたりすることは、おとなげないとは思 いながらも、誰 しも悪 い気持 はしないものである。社会 部 記者 と称 する男 は、快 く支配人 の部屋 へ請じられた。大 きな鼈甲 縁 (べっこうぶち)の目 がねをかけ、美 しい口髭 (くちひげ)をはやし、気 のきいた黒 のモーニングに、流行 の折鞄 (おりかばん)といういでたちのその男 は、いかにも物慣 れた調子 で、支配人 の前 の椅子 に腰 をおろした。そしてシガレット・ケースから、高価 なエジプトの紙巻 煙草 を取 り出 して、卓上 の灰皿 に添 えられたマッチを手際 よく擦 ると、青 味 がかった煙 を、支配人 の葉 先 へフッと吹 き出 した。- 「
貴下 の職工 待遇 問題 について御 意見 を」とか、なんとか、新聞 記者 特有 の、相手 を呑 んでかかったような、それでいて、どこか無邪気 な、人懐 っこいところのある調子 で、その男 はこう切 り出 した。そこで支配人 は、労働 問題 について、多分 は労資 協調 、温情 主義 というようなことを、大 いに論 じたわけであるが、それはこの話 に関係 がないから略 するとして、約 三 十 分 ばかり支配人 の室 におったところの、その新聞 記者 が、支配人 が一 席 弁 じ終 って、「ちょっと失敬 」といって便所 に立 ったあいだに、姿 を消 してしまったのである。 支配人 は、不作法 なやつだくらいで、別 に気 にもとめないで、ちょうど昼食 の時間 だったので、食堂 へと出掛 けて行 ったが、しばらくすると、近所 の洋食 屋 から取 ったビフテキかなんかを頰ばっていたところの支配人 の前 へ、会計 主任 の男 が、顔色 を変 えて飛 んできて、報告 することには、- 「
賃銀 支払 いの金 がなくなりました。とられました」 - というのだ。
驚 いた支配人 が、食事 などはそのままにして、金 のなくなったという現場 へきて調 べてみると、この突然 の盗難 の仔細 は、だいたい次 のように想像 することができたのである。 - ちょうどその
当時 、工場 の事務 室 が改築 中 であったので、いつもならば、厳重 に戸締 まりのできる特別 の部屋 で行 なわれるはずの賃銀 計算 が、その日 は、仮 りに支配人 室 の隣 の応接間 で行 なわれたのであるが、昼食 の休憩 時間 に、どうした物 の間違 いか、その応接間 が空 (から)になってしまったのである。事務 員 たちは、お互 いに誰 か残 ってくれるだろうというような考 えで、一人 残 らず食堂 へ行 ってしまって、あとにはシナ鞄 に充満 した札束 が、ドアには鍵 もかからない部屋 に、約 半時 間 ほども、ほうり出 されてあったのだ。そのすきに、何者 かが忍 び入 って、大金 を持 ち去 ったものにちがいない。それも、すでに給料 袋 に入 れられた分 や、細 かい紙幣 には手 もつけないで、シナ鞄 の中 の二 十 円 札 と十 円 札 の束 だけを持 ち去 ったのである。損害 高 は約 五 万 円 であった。 - いろいろ
調 べてみたが、結局 、どうもさっきの新聞 記者 が怪 しいということになった。新聞 社 へ電話 をかけてみると、やっぱり、そういう男 は本社 員 の中 にはいないという返事 だった。そこで、警察 へ電話 をかけるやら、賃銀 の支払 を延 ばすわけにはいかぬので、銀行 へ改 めて二 十 円 札 と十 円 札 の準備 を頼 むやら、大 へんな騒 ぎになったのである。 - かの
新聞 記者 と自称 して、お人 よしの支配人 に無駄 な議論 をさせた男 は、実 は、当時 、新聞 が紳士 盗賊 という尊称 をもって書 き立 てていたところの、有名 な大 泥棒 であったのだ。 - さて、
所轄 警察 署 の司法 主任 その他 が臨検 して調 べてみると、手掛 りというものがひとつもない。新聞 社 の名刺 まで用意 してくるほどの賊 だから、なかなか一筋縄 で行 くやつではない。遺留 品 などあろうはずもない。ただひとつわかっていたことは、支配人 の記憶 に残 っているその男 の容貌 風采 であるが、それが甚(はなは)だたよりないのである。というのは、服装 などはむろん取 りかえることができるし、支配人 がこれこそ手掛 りだと申 し出 たところの、鼈甲 縁 の目 がねにしろ、口髭 にしろ、考 えてみれば、変装 には最 もよく使 われる手段 なのだから、これも当 てにはならぬ。そこで、仕方 がないので、めくら探 しに、近所 の車夫 だとか、煙草 屋 のおかみさんだとか、露店 商人 などという連中 に、かくかくの風采 の男 を見 かけなかったか、若 (も)し見 かけたらどの方角 へ行 ったかと尋 ねまわる。むろん市内 の各 巡査 派出所 へも、この人相書 きが廻 る。つまり非常 線 が張 られたわけであるが、なんの手 ごたえもない。一 日 、二 日 、三 日 、あらゆる手段 が尽 された。各駅 には見張 りがつけられた。各 府県 の警察 署 へは依頼 の電報 が発 せられた。こうして、一 週間 が過 ぎさったけれども賊 は挙 がらない。もう絶望 かと思 われた。かの泥棒 が、何 か別 の罪 をでも犯 して挙 げられるのを待 つよりほかはないかと思 われた。工場 の事務所 からは、その筋 の怠慢 を責 めるように、毎日 毎日 警察 署 へ電話 がかかった。署長 は自分 の罪 ででもあるように頭 を悩 ました。 - そうした
絶望 状態 の中 に、一人 の同 じ署 に属 する刑事 が、市内 の煙草 屋 の店 を一 軒 ずつ丹念 に歩 きまわっていた。 市内 には、舶来 の煙草 をひと通 り備 え付 けているという煙草 屋 が、各区 に、多 いのは数 十 軒 、少 ない所 でも十 軒 内外 はあった。刑事 はほとんどそれを廻 りつくして、今 は山 の手 の牛込 と四谷 の区内 が残 っているばかりであった。きょうはこの両 区 を廻 ってみて、それで目的 を果 たさなかったら、もういよいよ絶望 だと思 った刑事 は、富籤 の当 り番号 を読 むときのような、楽 しみとも恐 れともつかぬ感情 をもって、テクテクと歩 いていた。時々 交番 の前 で立 ち止 まっては、巡査 に煙草 屋 の所在 を聞 きただしながら、テクテクと歩 いた。刑事 の頭 の中 はFIGARO,FIGARO,FIGAROと、エジプト煙草 の名前 で一 杯 になっていた。ところが、牛込 の神楽 坂 に一 軒 ある煙草 屋 を尋 ねるつもりで、飯田橋 の電車 停留所 から神楽坂 下 へ向 かって、あの大通 りを歩 いていたときであった。刑事 は、一 軒 の旅館 の前 で、フト立 ち止 まったのである。というのは、その旅館 の前 の、下水 の蓋 を兼 ねた御影石 の敷石 の上 に、よほど注意深 い人 でなければ目 にとまらないような、ひとつの煙草 の吸殻 が落 ちていた。そして、なんとそれが、刑事 の探 しまわっていたところのエジプト煙草 と同 じものだったのである。- さて、このひとつの
煙草 の吸殻 から足 がついて、さしもの紳士 盗賊 もついに獄 裡 (ごくり)の人 となったのであるが、その煙草 の吸殻 からは盗賊 逮捕 までの経路 に、ちょっと探偵 小説 じみた興味 があるので、当時 のある新聞 には、続 き物 になって、そのときの何某 刑事 の手柄 話 が載 せられたほどであるが――この私 の記述 も、実 はその新聞 記事 に拠 ったものである――私 はここには、先 を急 ぐために、ごく簡単 に結論 だけしかお話 している暇 がないことを残念 に思 う。 読者 も創造 されたであるように、この感心 な刑事 は、盗賊 が工場 の支配人 の部屋 に残 して行 ったところの、珍 らしい煙草 の吸殻 から探偵 の歩 を進 めたのである。そして、各区 の大 きな煙草 屋 をほとんど廻 りつくしたが、たとえ同 じ煙草 を備 えてあっても、エジプトの中 でも比較的 売行 きのよくない、そのFIGAROを最近 に売 った店 はごく僅(わず)かで、それがことごとく、どこの誰 それと、疑 うまでもないような買 い手 に売 られていたのである。ところがいよいよ最終 という日 になって、今 もお話 ししたように、偶然 にも、飯田橋 附近 の一 軒 の旅館 の前 で、同 じ吸殻 を発見 して、実 はあてずっぽうに、その旅館 に探 りを入 れてみたのであるが、それがなんと僥倖 にも、犯人 逮捕 の端緒 となったのである。- そこで、いろいろ
苦心 の末 、たとえば、その旅館 に投宿 していたその煙草 の持 ち主 が、工場 の支配人 から聞 いた人相 とはまるで違 っていたりして、だいぶ苦労 をしたのであるが、結局 、その男 の部屋 の火鉢 の底 から、犯行 に用 いたモーニングその他 の服装 だとか、鼈甲 縁 の目 がねだとか、つけ髭 だとかを発見 して、逃がれぬ証拠 によって、いわゆる紳士 泥棒 を逮捕 することができたのである。 - で、その
泥棒 が取 り調 べを受 けて白状 したところによると、犯行 の当日 ――もちろん、その日 は職工 の給料 日 と知 って訪問 したのだが――支配人 の留守 のまに、隣 の計算 室 にはいって例 の金 を取 ると、折鞄 の中 にただそれだけを入 れておいたところの、レインコートとハンチングを取 り出 して、その代 りに、鞄 の中 へは、盗 んだ紙幣 の一部分 を入 れて、目 がねをはずし、口髭 をとり、レインコートでモーニング姿 を包 み、中折 れの代 りにハンチングをかぶって、きたときとは別 の出口 から、何 くわぬ顔 をして逃 げ出 したのであった。あの五 万 円 という紙幣 を、どうして、誰 にも疑 われぬように、持 ち出 すことができたかという訊問 に対 して、紳士 泥棒 がニヤリと得意 らしい笑 いを浮 かべて答 えたことには、 - 「わたしどもは、からだじゅうが
袋 でできています。その証拠 には、押収 されたモーニングを調 べてごらんなさい。ちょっと見 ると普通 のモーニングだが、実 は手品 使 いの服 のように、付 けられるだけの隠 し袋 が付 いているんです。五 万 円 くらいの金 を隠 すのはわけはありません。シナ人 の手品 使 いは、大 きな、水 のはいったどんぶり鉢 でさえ、からだの中 へ隠 すではありませんか」 - さて、この
泥棒 事件 がこれだけでおしまいなら、別段 の興味 もないのであるが、ここにひとつ、普通 の泥棒 とちがった妙 な点 があった。そして、それが私 のお話 の本筋 に、大 いに関係 があるわけなのである。というのは、この紳士 泥棒 は、盗 んだ五 万 円 の隠 し場所 について、一 ことも白状 しなかったのである。警察 と、検事 廷と、公判廷 と、この三 つの関所 で、手 を換 え品 を換 えて責 め問 われても、彼 はただ知 らないの一点張 りで通 した。そしておしまいには、その僅 か一 週間 ばかりのあいだに、使 い果 たしてしまったのだというような、でたらめをさえい出 したのである。その筋 としては、探偵 の力 によって、その金 のありかを探 し出 すほかはなかった。そして、ずいぶん探 したのらしいのであるが、いっこう見 つからなかった。そこで、その紳士 泥棒 は、五 万 円 隠匿 のかどによって、窃盗 犯 としては可 なり重 い懲役 に処 せられたのである。 困 ったのは被害 者 の工場 である。犯人 よりは五 万 円 を発見 してほしかったのである。もちろん、警察 の方 でも、その金 の捜索 をやめたわけではないが、どうも手 ぬるいような気 がする。そこで、工場 の当 の責任 者 たる支配人 は、その金 を発見 したものには、発見 額 の一 割 の賞 を懸 けるということを発表 した。つまり五 千 円 の懸賞 である。- これからお
話 ししようとする、松村 武 と私 自身 に関 するちょっと興味 のある物語 は、この泥棒 事件 がこういうふうに発展 しているときに起 こったことなのである。
中
[- この
話 の冒頭 にもちょっと述 べたように、そのころ、松村 武 と私 とは、場末 の下駄 屋 の二 階 の六 畳 に、もうどうにもこうにも動 きがとれなくなって、窮乏 のドン底 に沈 んでいたのである。でも、あらゆるみじめさの中 にも、まだしも幸運 であったのは、ちょうど時候 が春 であったことだ。これは貧乏人 だけにしかわからない、ひとつの秘密 であるが。冬 の終 りから夏 のはじめにかけて、貧乏人 はだいぶ儲 けるのである。いや、儲 けたと感 じるのである。というのは、寒 いときだけ必要 であった、羽織 だとか、下着 だとか、ひどいのになると、夜具 、火鉢 の類 に至 るまで、質屋 の蔵 に運 ぶことができるからである。私 どもも、そうした気候 の恩恵 に浴 して、あすはどうなることか、月末 の間 代 の支払 いはどこから捻出 するか、というような先 の心配 をのぞいては、先 ずちょっと息 をついたのである。そして、しばらくは遠慮 しておった銭湯 へも行 けば、床屋 へも行 く、飯 屋 ではいつもの味噌汁 と香 の物 の代 りに、さしみで一 合 かなんかを奮発 するといったあんばいであった。 - ある
日 のこと、いい心持 になって、銭湯 から帰 ってきた私 が、傷 だらけの毀 れかかった一閑張 (いっかんば)りの机 の前 に、ドッカと坐 ったときに、一人 残 っていた松村 武 が、妙 な、一種 の興奮 したような顔 つきをもって、私 にこんなことを聞 いたのである。 - 「
君 、この、僕 の机 の上 に二 銭 銅貨 をのせておいたのは君 だろう。あれはどこから持 ってきたのだ」 - 「ああ、おれだよ。さっき
煙草 を買 ったおつりさ」 - 「どこの
煙草 屋 だ」 - 「
飯 屋 の隣 の、あの婆 さんのいる不景気 なうちさ」 - 「フーム、そうか」
- と、どういうわけか、
松村 はひどく考 えこんだのである。そして、なおも執拗 にその二 銭 銅貨 について訊 ねるのであった。 - 「
君 、そのとき、君 が煙草 を買 ったときだ、誰 かほかにお客 はいなかったかい」 - 「
確 か、いなかったようだ。そうだ。いるはずがない、そのときあの婆 さんは居眠 りをしていたんだ」 - この
答 えを聞 いて、松村 はなにか安心 した様子 であった。 - 「だが、あの
煙草 屋 には、あの婆 さんのほかに、どんな連中 がいるんだろう。君 は知 らないかい」 - 「おれは、あの
婆 さんとは仲 よしなんだ。あの不景気 な仏頂面 が、妙 に気 に入 っているのでね。だから、おれは相当 あの煙草 屋 については詳 しいんだ。あそこは婆 さんのほかに、婆 さんよりはもっと不景気 な爺 さんがいるきりだ。しかし、君 はそんなことを聞 いてどうしようというのだ」 - 「まあいい。ちょっとわけがあるんだ。ところで
君 が詳 しいというのなら、もう少 しあの煙草 屋 のことを話 さないか」 - 「ウン、
話 してもいい。爺 さんと婆 さんとのあいだに一人 の娘 がある。おれは一 度 か二 度 その娘 を見 かけたが、そう悪 くないきりょうだぜ。それがなんでも、監獄 の差入 屋 とかへ嫁 入 っているという話 だ。その差入 屋 が相当 に暮 らしているので、その仕送 りで、あの不景気 な煙草 屋 も、つぶれないで、どうかこうかやっているのだと、いつか婆 さんが話 していたっけ……」 私 が煙草 屋 に関 する知識 について話 しはじめたとき、驚 いたことには、それを話 してくれと頼 んでおきながら、もう聞 きたくないといわぬばかりに、松村 武 が立 ち上 がったのである。そして、広 くもない座敷 を、隅 から隅 へ、ちょうど動物 園 の熊 のように、ノソリノソリと歩 きはじめたのである。私 どもは、二人 とも、日頃 からずいぶん気 まぐれなほうであった。話 のあいだに突然 立 ち上 がるなどは、そう珍 らしいことでもなかった。けれども、この場合 の松村 の態度 は、私 をして沈黙 せしめたほども、変 っていたのである。松村 はそうして、部屋 の中 をあっちへ行 ったり、こっちへ行 ったり、約 三 十 分 くらい歩 きまわっていた。私 はだまって、一種 の興味 を持 って、それを眺 めていた。その光景 は、若 し傍観 者 があって、これを見 たら、おそろしく気 ちがいじみたものであったにちがいないのである。- そうこうするうちに、
私 は腹 がへってきたのである。ちょうど夕食 時分 ではあったし、湯 にはいった私 は余計 に腹 がへったような気 がしたのである。そこで、まだ気 ちがいじみた歩行 を続 けている松村 に、飯 屋 に行 かぬかと勧 めてみたところが、「すまないが、君 一人 で行 ってくれ」という返事 だ。仕方 なく、私 はその通 りにした。 - さて、
満腹 した私 が、飯 屋 から帰 ってくると、なんと珍 らしいことには、松村 が按摩 (あんま)を呼 んで、もませていたではないか。以前 は私 どものお馴染 であった若 い盲 啞学校 の生徒 が、松村 の肩 につかまって、しきりに何 か、持 ち前 のおしゃべりをやっているのであった。 - 「
君 、贅沢 だと思 っちゃいけない。これにはわけがあるんだ。まあ、しばらく黙 って見 ていてくれ、そのうちにわかるから」 松村 は、私 の機先 を制 して、非難 を予防 するようにいった。きのう、質屋 の番頭 を説 きつけて、むしろ強奪 して、やっと手 に入 れた二 十 円 なにがしの共有 財産 の寿命 が、按摩 賃 六 十 銭 だけ縮 められることは、この際 、贅沢 にちがいなかったからである。私 は、これらの、ただならぬ松村 の態度 について、或 る言 い知 れぬ興味 を覚 えた。そこで、私 は自分 の机 の前 に坐 って、古本屋 で買 ってきた講談 本 か何 かを、読 みふけっている様子 をした。そして、実 は松村 の挙動 をソッと盗 み見 ていたのである。按摩 が帰 ってしまうと、松村 は彼 の机 の前 に坐 って、何 か紙 きれに書 いたものを読 んでいるようであったが、やがて彼 は懐中 からもう一 枚 の紙切 れを取 り出 して、机 の上 に置 いた。それは、ごく薄 い二 寸 四方 ほどの小 さな紙切 れで、細 かい文字 が一 面 に書 いてあった。彼 はこの二 枚 の紙片 を、熱心 に比較 研究 しているようであった。そして、鉛筆 で新聞紙 の余白 に、何 か書 いては消 し、書 いては消 ししていた。そんなことをしているあいだに、電灯 がついたり、表通 りを豆腐 屋 のラッパが通 り過 ぎたり、縁日 にでも行 くらしい人通 りが、しばらく続 いたり、それが途絶 えると、シナ蕎麦 屋 の哀 れげなチャルメラの音 が聞 こえたりして、いつの間 にか夜 が更 けたのである。それでも、松村 は食事 さえ忘 れて、この妙 な仕事 に没頭 していた。私 はだまって自分 の床 を敷 いて、ゴロリと横 になると、退屈 にも、一度 読 んだ講談 本 を、さらに読 み返 しでもするほかはなかったのである。- 「
君 、東京 地図 はなかったかしら」 突然 、松村 がこういって、私 の方 を振 り向 いた。- 「さア、そんなものはないだろう。
下 のおかみさんにでも聞 いてみたらどうだ」 - 「ウン、そうだね」
彼 はすぐに立 ち上 がって、ギシギシという梯子段 を、下 へ降 りて行 ったが、やがて、一 枚 の折 り目 から破 れそうになった東京 地図 を借 りてきた。そして、また机 の前 に坐 ると、熱心 な研究 をつづけるのであった。私 はますます募 (つの)る好奇心 をもって、彼 の様子 を眺 めていた。下 の時計 が九 時 を打 った。松村 は、長 いあいだの研究 が一段落 を告 げたと見 えて、机 の前 から立 ち上 がって、私 の枕 もとへ坐 った。そして少 し言 いにくそうに、- 「
君 、ちょっと、十 円 ばかり出 してくれないか」 - というのだ。
私 は松村 のこの不思議 な挙動 については、読者 にはまだ明 かしていないところの、深 い興味 を持 っていた。それゆえ、彼 に十 円 という、当時 の私 どもに取 っては、全 財産 の半分 であったところの大金 を与 えることに、少 しも異議 を唱 えなかった。 松村 は、私 から十 円 札 を受 け取 ると、古 袷 (ふるあわせ)一 枚 に、皺 くちゃのハンチングといういでたちで、何 もいわずに、プイとどこかへ出 て行 った。一人 取 り残 された私 は、松村 のその後 の行動 についていろいろの想像 をめぐらした。そして独 りほくそ笑 んでいるうちに、いつか、ついうとうとと夢路 に入 った。しばらくして松村 の帰 ったのを、夢 うつつに覚 えていたが、それからは、何 も知 らずに、グッスリと朝 まで寝込 んでしまったのである。- ずいぶん
朝寝坊 の私 は、十 時 頃 でもあったろうか、眼 を醒 ましてみると、枕 もとに妙 なものが立 っているのに驚 かされた。というのは、そこには縞 の着物 に、角帯 を締 めて、紺 の前垂 れをつけた一人 の商人 風 の男 が、ちょっとした風呂敷 包 みを背負 って立 っていたのである。 - 「なにを
妙 な顔 をしているんだよ。おれだよ」 驚 いたことには、その男 が松村 武 の声 をもって、こういったのである。よくよく見 ると、それはいかにも松村 にちがいないのだが、服装 がまるで変 っていたので、私 はしばらくのあいだ、何 がなんだか、わけがわからなかったのである。- 「どうしたんだ。
風呂敷 包 みなんか背負 って。それに、そのなりはなんだ。おれはどこの番頭 さんかと思 った」 - 「シッ、シッ、
大 きな声 だなあ」松村 は両手 で抑 えつけるような恰好 をして、ささやくような小声 で、「大 へんなお土産 を持 ってきたよ」というのである。 - 「
君 はこんな早 く、どこかへ行 ってきたのかい」 私 も、彼 の変 な挙動 につられて、思 わず声 を低 くしてき返 した。すると、松村 は、抑 えつけても抑 えつけても、溢 れ出 すようなニタニタ笑 いを、顔 一 杯 にみなぎらせながら、彼 の口 を私 の耳 のそばまで持 ってきて、前 よりはいっそう低 い、あるかなきかの声 で、こういったものである。- 「この
風呂敷 包 みの中 には、君 、五 万 円 という金 がはいっているのだよ」
下
[読者 もすでに想像 されたであろうように、松村 武 は、問題 の紳士 泥棒 の隠 しておいた五 万 円 を、どこからか持 ってきたのであった。それは、かの電機 工場 へ持参 すれば、五 千 円 の懸賞 金 にあずかることのできる五 万 円 であった。だが、松村 はそうしないつもりだといった。そして、その理由 を次 のように説明 した。彼 にいわせると、その金 をばか正直 に届 け出 るのは、愚 かなことであるばかりでなく、同時 に、非常 に危険 なことであるというのであった。その筋 の専 門 の刑事 たちが、約 一 ヵ月 もかかって探 しまわっても、発見 されなかったこの金 である。たとえこのまま、われわれが頂戴 しておいたところで、誰 が疑 うもんか。われわれにしたって、五 千 円 より五 万 円 の方 が有難 いではないか。それよりも恐 ろしいのは、あいつ、紳士 泥棒 の復讐 である。これが恐 ろしい。刑期 の延 びるのを犠牲 にしてまで隠 しておいたこの金 を、横取 りされたと知 ったら、あいつ、あの悪事 にかけては天才 といってもよいところのあいつが、見逃 しておこうはずがない――松村 はむしろ泥棒 を畏敬 しているような口 ぶりであった――このまま黙 っておってさえあぶないのに、これを持 ち主 に届 けて、懸賞 金 を貰 いなどしようものなら、すぐ松村 武 の名 が新聞 に出 る。それは、わざわざ、あいつに、かたきのありかを教 えるようなものではないか、というのである。- 「だが、
少 なくとも現在 においては、おれはあいつに打 ち勝 ったのだ。え、君 、あの天才 泥棒 に打 ち勝 ったのだ。この際 、五 万 円 もむろん有難 いが、それよりも、おれはこの勝利 の快感 でたまらないんだ。おれの頭 はいい、少 なくとも貴公 よりはいいということを認 めてくれ。おれをこの大発見 に導 いてくれたものは、きのう君 がおれの机 の上 にのせておいた、煙草 のつり銭 の二 銭 銅貨 なんだ。あの二 銭 銅貨 のちょっとした点 について、君 が気 づかないでおれが気 づいたということはだ、そして、たった一 枚 に二 銭 銅貨 から、五 万 円 という金 を、え、君 、二 銭 の二 百 五 十 万 倍 であるところの五 万 円 という金 を探 しだしたのは、これはなんだ。少 なくとも、君 の頭 よりは、おれの頭 の方 がすぐれているということじゃないかね」 二人 の多少 知識 的 な青年 が、ひと間 のうちに生活 していれば、そこに、頭 のよさについての競争 が行 なわれるのが、至極 あたり前 のことであった。松村 武 と私 とは、その日 ごろ、暇 にまかせて、よく議論 を戦 わしたものであった。夢中 になってしゃべっているうちに、いつの間 にか夜 が明 けてしまうようなことも珍 らしくなかった。そして、松村 も私 も互 いに譲 らず、「おれの方 が頭 がいい」ことを主張 していたのである。そこで、松村 がこの手柄 ――それはいかにも大 きな手柄 であった――をもって、われわれの頭 の優劣 を証拠立 てようとしたわけである。- 「わかった、わかった。
威張 るのは抜 きにして、どうしてその金 を手 に入 れたか、その筋道 を話 してみろ」 - 「まあ
急 ぐな。おれは、そんなことよりも、五 万 円 のつかいみちについて考 えたいと思 っているんだ。だが、君 の好奇心 を充 たすために、ちょっと、簡単 に苦心 談 をやるかな」 - しかし、それは
決 して私 の好奇心 を充 たすためばかりではなくて、むしろ彼 自身 の名誉 心 を満足 させるためであったことはいうまでもない。それはともかく、彼 は次 のように、いわゆる苦心 談 を語 り出 したのである。私 は、それを、心 安 だてに、蒲団 の中 から、得意 そうに動 く彼 の顎 のあたりを見上 げて、聞 いていた。 - 「おれは、きのう
君 が湯 へ行 ったあとで、あの二 銭 銅貨 をもてあそんでいるうちに、妙 なことに、銅貨 のまわりに一本 の筋 がついているのを発見 したんだ。こいつはおかしいと思 って、調 べてみると、なんと驚 いたことには、あの銅貨 が二 つに割 れたんだ。見 たまえ、これだ」 彼 は、机 の引 きだしから、その二 銭 銅貨 を取 り出 して、ちょうど練 り薬 の容器 をあけるように、ネジを廻 しながら、上下 にひらいた。- 「そら、ね、
中 が空虚 (うつろ)になっている。銅貨 で作 った何 かの容器 なんだ。なんと精巧 な細工 じゃないか。ちょっと見 たんじゃ、普通 の二 銭 銅貨 とちっとも変 りがないからね。これを見 て、おれは思 い当 ったことがあるんだ。おれはいつか牢破 りの囚人 が用 いるという鋸 の話 を聞 いたことがある。それは懐中時計 のゼンマイに歯 をつけた、小人 島 の帯鋸 みたようなものを、二 枚 の銅貨 を擦 りへらして作 った容器 の中 へ入 れたもので、これさえあれば、どんな厳重 な牢屋 の鉄 の棒 でも、なんなく切 り破 って脱牢 するんだそうだ。なんでも元 は外国 の泥棒 から伝 わったものだそうだがね。そこでおれは、この二 銭 銅貨 も、そうした泥棒 の手 から、どうかしてまぎれ出 したものだろうと想像 したんだ。だが、妙 なことはそればかりじゃなかった。というのは、おれの好奇心 を、二 銭 銅貨 そのものよりも、もっと挑発 したところの、一 枚 の紙片 がその中 から出 てきたんだ。それはこれだ」 - それは、ゆうべ
松村 が一生懸命 に研究 していた、あの薄 い小 さな紙片 であった。その二 寸 四方 ほどの日本 紙 には、細 かい字 で左 のような、わけのわからぬものが書 きつけてあった。
陀、 |
- 「この
坊主 の寝言 みたようなものは、なんだと思 う。おれは最初 は、いたずら書 きだと思 った。前非 を悔 いた泥棒 かなんかが、罪 亡 ぼしに南無阿弥陀仏 (なむあみだぶつ)をたくさん並 べて書 いたのかと思 った。そして、牢破 りの道具 の代 りに銅貨 の中 へ入 れておいたのじゃないかと思 った。が、それにしては、南無阿弥陀仏 と続 けて書 いてないのがおかしい。陀とか、無 弥 仏 とか、どれも南無阿弥陀仏 の六 字 の範囲 内 ではあるが、完全 に書 いたのはひとつもない。一 字 きりのやつもあれば、四 字 五 字 のやつもある。おれは、こいつはただのいたずら書 きではないと感 づいた。ちょうどそのとき、君 が湯屋 から帰 って来 た足音 がしたんだ。おれは急 いで、二 銭 銅貨 とこの紙片 を隠 した。どうして隠 したというのか。おれにもはっきりわからないが、たぶんこの秘密 を独占 したかったのだろう。そしてすべてが明 らかになってから君 に見 せて、自慢 したかったのだろう。ところが、君 が梯子段 を上 がっているあいだに、おれの頭 に、ハッとするようなすばらしい考 えが閃(ひらめ)いたんだ。 - というのは、
例 の紳士 泥棒 のことだ。五 万 円 の紙幣 をどこへ隠 したのか知 らないが、まさか、刑期 が終 るまでそのままでいようとは、あいつだって考 えてないだろう。そこで、あいつには、あの金 を保管 させるところの手下 乃至 (ないし)は相棒 といったようなものがあるにちがいない。いま仮 りにだ、あいつが不意 の捕縛 のために五 万 円 の隠 し場所 を相棒 に知 らせる暇 がなかったとしたらどうだ。あいつとしては、未決監 にいるあいだに、何 かの方法 でそのなかまに通信 するほかはないのだ。このえたいのしれない紙片 が、若 しやその通信 文 であったら……こういう考 えがおれの頭 に閃 いたんだ。むろん空想 さ。だが、ちょっと甘 い空想 だからね。そこで、君 に二 銭 銅貨 の出所 についてあんな質問 をしたわけだ。ところが君 は、煙草 屋 の娘 が監獄 の差入 屋 へ嫁 入 っているというではないか。未決監 にいる泥棒 が外部 と通信 しようとすれば、差入 屋 を媒介 者 にするのが最 も容易 だ。そして、若 しその目論見 (もくろみ)が何 かの都合 で手違 いになったとしたら、その通信 は差入 屋 の手 に残 っているはずだ。それが、その家 の女房 によって親類 の家 に運 ばれないと、どうして言 えよう。さア、おれは夢中 になってしまった。 - さて、
若 しこの紙片 の無意味 な文字 がひとつの暗号 文 であるとしたら、それを解 くキイはなんだろう。おれはこの部屋 の中 を歩 きまわって考 えた。可 なりむずかしい。全部 拾 ってみても、南無阿弥陀仏 の六 字 と読点 だけしかない。この七 つの記号 をもってどういう文句 が綴 れるだろう。おれは暗号 文 については、以前 にちょっと研究 したことがあるんだ。シャーロック・ホームズじゃないが、百 六 十 種 くらいの暗号 の書 き方 はおれだって知 っているんだ。で、おれは、おのれの知 っている限 りの暗号 記法 を、ひとつひとつ頭 に浮 かべてみた。そして、この紙切 れのやつに似 ているのを探 した。ずいぶん手間取 った。確 か、そのとき君 が飯 屋 に行 くことを勧 めたっけ。おれはそれをことわって一生懸命 考 えた。で、とうとう少 しは似 た点 があると思 うのを二 つだけ発見 した。そのひとつはベイコンの考案 したtwo letters暗号 法 というやつで、それはaとbとのたった二 字 のいろいろな組 み合 わせで、どんな文句 でも綴 ることができるのだ。たとえばflyという言葉 を現 わすためには、aabab,aabba,ababa.と綴 るといった調子 のものだ。もひとつは、チャールズ一世 の王朝 時代 に、政治 上 の秘密 文書 に盛 んに用 いられたやつで、アルファベットの代 りに、ひと組 の数字 を用 いる方法 だ。たとえば……」 松村 は机 の隅 に紙片 をのべて、左 のようなものを書 いた。- A B C D………………
- 1111 1112 1121 1211……………
- 「つまりAの
代 りには一 千 百 十 一 を置 き、Bの代 りには一 千 百 十 二 を置 くといったふうのやり方 だ。おれは、この暗号 も、それらの例 と同 じように、いろは四 十 八 字 を南無阿弥陀仏 をいろいろに組 み換 えたものだろうと想像 した。さて、こいつを解 く方法 だが、これが英語 かフランス語 なら、ポーのGold bugにあるようにeを探 しさえすれば訳 はないんだが、困 ったことに、こいつは日本語 にちがいないんだ。念 のためにちょっとポー式 のディシファリングをやってみたが、少 しも解 けない。おれはここでハタと行 き詰 まってしまった。六 字 の組 み合 わせ、六 字 の組 み合 わせ、おれはそればかり考 えて、また部屋 を歩 きまわった。おれは六 字 という点 に、何 か暗示 がないかと考 えた。そして六 つの数 でできているものを思 い出 してみた。 - めったやたらに
六 という字 のつくものを並 べているうちに、ふと、講談 本 で覚 えたところの真田 幸村 の旗印 の六連 銭 を思 い浮 かべた。そんなものが暗号 になんの関係 もあるはずはないのだが、どういうわけか「六連 銭 」と、口 の中 でつぶやいた。すると、するとだ。インスピレーションのように、おれの記憶 から飛 び出 したものがある。それは、六連 銭 をそのまま縮小 したような形 をしている盲人 の使 う点字 であった。おれは思 わず「うまい」と叫 んだよ。だって、なにしろ五 万 円 の問題 だからなあ。おれは点字 について詳 しくは知 らなかったが、六 つの点 の組 み合 わせということだけは記憶 していた。そこで、さっそく按摩 を呼 んできて伝授 にあずかったというわけだ。これが按摩 の教 えてくれた点字 のいろはだ」 - そういって
松村 は、、机 の引出 しから一 枚 の紙片 を取 り出 した。それには、点字 の五十音 、濁音 符 、半 濁音 符 、拗音 符 、長音符 、数字 などが、ズッと並 べて書 いてあった。 - 「
今 、南無阿弥陀仏 を、左 からはじめて三 字 ずつ二 行 に並 べれば、この点字 と同 じ配列 になる。南無阿弥陀仏 の一 字 ずつが、点字 のおのおのの一 点 に符合 するわけだ。そうすれば、点字 のアは南 、イは南無 と、いうぐあいに当 てはめることができる。この調子 で、解 けばいいのだ。そこで、これは、おれがゆうべこの暗号 を解 いた結果 だがね。いちばん上 の行 が原文 の南無阿弥陀仏 を点字 と同 じ配列 にしたもの、まん中 の行 がそれに符合 する点字 、そしていちばん下 の行 が、それを翻訳 したものだ。 - こういって、
松村 はまたもや図 に示 したような紙片 を取 り出 したのである。
- 「ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤシヨーテン。つまり
五軒 町 の正直 堂 からおもちゃの紙幣 を受 け取 れ、受取 人 の名 は大黒屋 商店 というのだ。意味 はよくわかる。だが、なんのためにおもちゃの紙幣 なんか受 け取 るのだろう。そこでおれはまた考 えさせられた。しかし、この謎 は割 合 い簡単 に解 くことができた。そしておれはつくづくあの紳士 泥棒 の、頭 がよくって敏捷 で、なおその上 に小説 家 のようなウイットを持 っていることに感心 してしまった。え、君 、おもちゃの紙幣 とはすてきじゃないか。 - おれはこう
想像 したんだ。そして、それが幸 いにもことごとく的中 したわけだがね。紳士 泥棒 は、万一 の場合 をおもんぱかって、盗 んだ金 の最 も安全 な隠 し場所 を、あらかじめ用意 しておいたにちがいないんだ。さて世 の中 にいちばん安全 な隠 し方 は、隠 さないことだ。衆人 の目 の前 に曝(さら)しておいて、しかも誰 もそれに気 づかないというような隠 し方 が最 も安全 なんだ。恐 るべきあいつは、この点 に気 づいたんだ。と想像 するんだがね。で、おもちゃの紙幣 という功名 なトリックを考 え出 した。おれは、この正直 堂 というのは、たぶんおもちゃの紙幣 なんかを印刷 する店 だと想像 した。――これも当 っていたがね。――そこへ、あいつは大黒屋 商店 という名 で、あらかじめおもちゃの紙幣 を注文 しておいたんだ。 近頃 、本物 と寸分 違 わないようなおもちゃの紙幣 が、花柳 界 などで流行 しているそうだ。それは誰 かから聞 いたっけ。ああ、そうだ。君 がいつか話 したんだ。ビックリ函 だとか、本物 とちっとも違 わない泥 で作 った菓子 や果物 だとか、蛇 のおもちゃだとか、ああしたものと同 じように、女 の子 をびっくりさせて喜 ぶ粋人 のおもちゃだといってね。だから、あいつが本物 と同 じ大 きさの紙幣 を注文 したところで、ちっとも疑 いを受 けるはずはないんだ。そうしておいて、あいつは、本物 の紙幣 をうまく盗 み出 すと、たぶんその印刷 屋 へ忍 び込 んで、自分 の注文 したおもちゃの紙幣 と擦 り換 えておいたんだ。そうすれば、注文 主 が受 け取 りに行 くまでは、五 万 円 という天下 通用 の紙幣 が、おもちゃとして、安全 に印刷 屋 の物置 に残 っているわけだからね。- これは
単 におれの想像 かもしれない。だが、ずいぶん可能 性 のある想像 だ。おれはとにかく当 ってみようと決心 した。地図 で五軒 町 という町 を探 すと、神田 区内 にあることがわかった。そこでいよいよおもちゃの紙幣 を受 け取 りに行 くのだが、こいつがちょっとむずかしい。というのは、このおれが受 け取 りに行 ったという痕跡 を、少 しだって残 してはならないんだ。もしそれがわかろうものなら、あの恐 ろしい悪人 がどんな復讐 をするか、思 っただけでも、気 の弱 いおれはゾッとするからね。とにかく、できるだけおれでないように見 せなければいけない。そういうわけで、あんな変装 をしたんだ。おれはあの十 円 で、頭 の先 から足 の先 まで身 なりを変 えた。これを見 たまえ、これなんかちょっといい思 いつきだろう」 - そういって、
松村 はそのよく揃 った前歯 を出 して見 せた。そこには、私 がさきほどから気 づいていたところの、一本 の金歯 が光 っていた。彼 は得意 そうに、指 の先 でそれをはずして、私 の目 の前 へつき出 した。 - 「これは
夜店 で売 っている、ブリキにメッキしたやつだ。ただ歯 の上 に冠 せておくだけの代物 さ。わずか二 十 銭 のブリキのかけらが大 した役 に立 つからね。金歯 というやつはひどく人 の注意 を惹 くものだ。だから、後日 おれを探 すやつがあるとしたら、先 ずこの金歯 を目印 にするだろうじゃないか。 - これだけの
用意 ができると、おれはけさ早 く五軒 町 へ出掛 けた。ひとつ心配 だったのはおもちゃの紙幣 の代金 のことだった。泥棒 のやつ、きっと、転売 なんかされることを恐 れて、前金 で支払 っておいただろうとは思 ったが、若 しまだだったら、少 なくとも二 、三 十 円 は入用 だからね。あいにくわれわれにはそんな金 の持 ち合 わせがない。なあに、なんとかごまかせばいいと高 (たか)をくくって出掛 けた。うまいぐわいに、印刷 屋 は金 のことなんか一 こともいわないで、品物 を渡 してくれたよ。かようにして、まんまと首尾 よく五 万 円 を横取 りしたわけさ。……さてそのつかいみちだ。どうだ何 か考 えはないかね」 松村 が、これほど興奮 して、これほど雄弁 にしゃべったことは珍 らしい。私 はつくづく五 万 円 という金 の偉力 に驚嘆 した。私 はその都度 (つど)、形容 する煩 (はん)を避 けたが、松村 がこの苦心 談 をしているあいだの嬉 しそうな顔 というものは、まったく見 ものであった。彼 ははしたなく喜 ぶ顔 を見 せまいとして、大 いに努力 しておったようであるが、努 めても、努 めても、腹 の底 から込 み上 げてくる、なんともいえぬ嬉 しそうな笑顔 を隠 すことができなかった。話 のあいだあいだにニヤリと洩 らす、その形容 のしようもない、気 ちがいのような笑 いを見 ていると、なんだか恐 ろしくなってきた。昔 千 両 の富 くじに当 って発狂 した貧乏人 があったという話 もあるのだから、松村 が五 万 円 に狂喜 するのは決 して無理 ではなかった。私 はこの喜 びがいつまでも続 けかしと願 った。松村 のためにそれを願 った。だが、私 には、どうすることもできぬひとつの事実 があった。止 めようにも止 めることのできない笑 いが爆発 した。私 は笑 うんじゃないと自分 自身 を叱 りつけたけれども、私 の中 の小 さないたずら好 きの悪魔 が、そんなことにはへこたれないで私 をくすぐった。私 は一段 と高 い声 で、最 もおかしい笑劇 を見 ている人 のように笑 った。松村 はあっけにとられて、笑 いころげる私 を見 ていた。そしてちょっと変 なものにぶっつかったような顔 をして言 った。- 「
君 、どうしたんだ」 私 はやっと笑 いを嚙み殺 してそれに答 えた。- 「
君 の想像 力 は実 にすばらしい。よくそれだけの大 仕事 をやった。おれはきっと今 までの数 倍 も君 の頭 を尊敬 するようになるだろう。なるほど君 のいうように、頭 のよさでは敵 わない。だが、君 は、現実 というものがそれほどロマンチックだと信 じているのかい」 松村 は返事 もしないで、一種 異様 の表情 をもって私 を見 つめた。- 「
言 いかえれば、君 は、あの紳士 泥棒 にそれほどのウイットがあると思 うのかい。君 の想像 は、小説 としては実 に申 し分 がないことを認 める。けれども世 の中 は小説 よりもっと現実 的 だからね。そして、若 し小説 について論 じるのなら、おれは少 し君 の注意 を惹 きたい点 がある。それは、この暗号 文 には、もっとほかの解 き方 はないかということだ。君 の翻譯 したものを、もう一度 翻訳 する可能 性 はないかということだ。たとえばだ、この文句 を八 字 ずつ飛 ばして読 むといううことはできないことだろうか」 私 はそういって、松村 の書 いた暗号 の翻訳 文 に左 のような印 をつけた。
- ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノハナダイコクヤシヨーテン
- 「ゴジヤウダン。
君 、この『御 冗談 』というのはなんだろう。エ、これが偶然 だろうか。誰 かのいたずらという意味 ではないだろうか」 松村 は物 もいわず立 ち上 がった。そして五 万 円 の札束 だと信 じきっているところの、かの風呂敷 包 みを私 の前 へ持 って来 た。- 「だが、この
事実 をどうする。五 万 円 という金 は、小説 の中 からは生 れないぞ」 彼 の声 には、果 たし合 いをするときのような真剣 さがこもっていた。私 は恐 ろしくなった。そして、私 のちょっとしたいたずらの、予想 外 に大 きな効果 を、後悔 しないではいられなかった。- 「おれは、
君 に対 して実 に済 まないことをした。どうか許 してくれ。君 がそんなに大切 にして持 ってきたのは、やはりおもちゃの紙幣 なんだ。まあそれをひらいてよく調 べてみたまえ」 松村 は、ちょうど闇 の中 で物 を探 るような、一種 異様 の手 つきで――それを見 て、私 はますます気 の毒 になった――長 いあいだかかって風呂敷 包 みを解 いた。そこには、新聞紙 で丁寧 に包 んだ二 つの四角 な包 みがあった。そのうちのひとつは新聞紙 が破 れて中味 が現 われていた。- 「おれは
途中 でこれをひらいて、この目 で見 たんだ」 松村 は喉 につかえたような声 でいって、なおも新聞紙 をすっかり取 り去 った。- それは、いかにも
真 にせまったにせ物 であった。ちょっと見 たのでは、すべての点 が本物 であった。けれども、よく見 ると、それらの紙幣 の表面 には、圓 という字 の代 りに團 という字 が、大 きく印刷 されてあった。十 圓 、二 十 圓 ではなくて、十 團 、二 十 團 であった。松村 はそれを信 ぜぬように、幾度 も幾度 も見直 していた。そうしているうちに、彼 の顔 からは、あの笑 いの影 がすっかり消 え去 ってしまった。そして、あとには深 い深 い沈黙 が残 った。私 は済 まぬという気持 で一 杯 であった。私 は、私 のやり過 ぎたいたずらについて説明 した。けれども、松村 はそれを聞 こうともしなかった。その日 一 日 、おしのようにだまり込 んでいた。 - これで、このお
話 はおしまいである。けれども読者 諸君 の好奇心 を充 たすために、私 のいたずらについて一 こと説明 しておかねばならぬ。正直 堂 という印刷 屋 は実 は私 の遠 い親戚 であった。私 は或 る日 、せっぱ詰 まった苦 しまぎれに、そのふだんは不義理 を重 ねているところの親戚 を思 い出 した。そして「いくらでも金 の都合 がつけば」と思 って、進 まぬながら久 し振 りでそこを訪問 した。――むろんこのことについては松村 は少 しも知 らなかった。――借金 の方 は予想 通 り失敗 であったが、その時 はからずも、あの本物 と少 しも違 わないような、その時 は印刷 中 であったところのおもちゃの紙幣 を見 たのである。そしてそれが大黒屋 という長年 の御 得意 先 の注文 品 だということを聞 いたのである。 私 はこの発見 を、われわれの毎日 の話柄 (わへい)となっていた、あの紳士 泥棒 の一 件 と結 びつけて、ひと芝居 打 ってみようと、くだらぬいたずらを思 いついたのであった。それは、私 も松村 と同様 に、頭 のよさについて、私 の優劣 を示 すような材料 が摑みたいと、日頃 から熱望 していたからでもあった。- あのぎこちない
暗号 文 は、もちろん私 の作 ったものであった。しかし、私 は松村 のように外国 の暗号 史 に通 じていたわけではない。ただちょっとした思 いつきにすぎなかったのだ。煙草 屋 の娘 が差入 屋 へ嫁 いでいるというようなことも、やはりでたらめであった。第 一 、その煙草 屋 に娘 があるかどうかさえ怪 しかった。ただ、このお芝居 で、私 の最 も危 ぶんだのは、それらのドラマチックな方面 ではなくて、もっとも現実 的 な、しかし全体 から見 ては極 めて些細 な、少 し滑稽 味 を帯 びた、ひとつの点 であった。それは私 が見 たところのあの紙幣 が、松村 が受 け取 りに行 くまで、配達 されないで、印刷 屋 に残 っているかどうかということであった。 - おもちゃの
代金 については、私 は少 しも心配 をしなかった。私 の親戚 と大黒屋 とは延 べ取 り引 であったし、その上 もっといいことは、正直 堂 が極 めて原始 的 な、ルーズな商売 のやり方 をしていたことで、松村 は別段 、大黒屋 の主人 の受取 証 を持参 しないでも、失敗 するはずはなかったからである。 最後 にあのトリックの出発 点 となった二 銭 銅貨 については、私 はここに詳 しい説明 を避 けねばならぬことを残念 に思 う。若 し、私 がへまなことを書 いては、後日 、あの品 を私 にくれた或 る人 が、とんだ迷惑 をこうむるかもしれないからである。読者 は、私 が偶然 それを所持 していたと思 ってくださればよいのである。
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この
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