史記しき/まき006

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始皇帝しこうてい[編集へんしゅう]

はた始皇帝しこうていしゃ秦莊はたしょうじょう王子おうじ也。そうじょうおうためはたただし於趙,りょ韋姬,えつ而取なまはじめすめらぎ。以秦あきらおうよんじゅうはちねん正月しょうがつせい邯鄲かんたん。及生,めい為政いせいせいちょうとしじゅうさんさいそうじょうおう政代まさよたてためしんおうとうときしんやめ并巴、しょくかんちゅうえつあてゆう郢,おけみなみぐん矣;きたおさむ上郡かみごおり以東いとう有河あるがひがしふとしはらうえとうぐんひがしいたり滎陽,めつしゅうおけ三川さんかわぐんりょ韋為しょうふうじゅうまんごう曰文しんこう招致しょうち賓客ひんきゃくゆうよく以并天下でんか斯為舍人とねりこうむ驁、おう齮、麃公とうため將軍しょうぐんおう年少ねんしょうはつ即位そくい國事こくじ大臣だいじん

すすむはん元年がんねん將軍しょうぐんこうむ驁擊定之さだゆきねん,麃公將卒しょうそつおさむまき斬首ざんしゅさんまんさんねんこうむ驁攻かんじゅう三城みきおう齮死。じゅうがつ將軍しょうぐんこうむ驁攻たかしとおるゆう詭。としだいひだるよんねん,拔暢、ゆう詭。三月さんがつぐんやめはたただしちょうちょう太子たいし歸國きこくじゅうがつかのえとら蝗蟲ばったしたがえ東方とうほうらい,蔽天。天下てんか疫。百姓ひゃくしょう內粟せんせきはい爵一きゅうねん將軍しょうぐん驁攻ていさんなつめつばめきょ長平ながだい、雍丘、山陽さんようじょうみな拔之,じゅうしろはつおけひがしぐんふゆかみなりろくねんかんちょうまもるすわえどもげきしんことぶきりょうはた出兵しゅっぺいこくへいやめ。拔衛,さこひがしぐん,其君かくりつ其支ぞく徙居おう,阻其やま以保かわ內。ななねん彗星すいせいさき東方とうほう北方ほっぽう月見つきみ西方せいほう將軍しょうぐん驁死。以攻りゅうけいかえへいおさむ汲。彗星すいせいふく西方せいほうじゅうろくにちなつふとしきさきはちねんおうおとうと長安ながやすくんなり蟜將ぐんげきちょうはんたむろとめぐん吏皆斬死きりじに,遷其みん於臨洮。將軍しょうぐんかべそつたむろとめかばつるはん,戮其しかばねかわぎょ大上おおかみけいくるまじゅううまひがし就食。

嫪毐ふうため長信ながのぶこう山陽さんようれい毐居宮室きゅうしつ車馬しゃば衣服いふくえん囿馳りょうほしいまま毐。ことしょうだいみなけつ於毐。また河西かさいふとしはらぐんさらため毐國。きゅうねん彗星すいせいある竟天。おさむかきかばようよんがつ上宿かみじゅく雍。おのれとり王冠おうかん帶劍たいけん長信ながのぶこう毐作らん而覺,矯王御璽ぎょじ及太きさき璽以はつけんそつ及衛そつかんえびす君公くんこう舍人とねりはたよくおさむ蘄年みやためらんおう知之ともゆきれい相國しょうこく昌平しょうへいくん昌文まさふみくんはつそつおさむ毐。せん咸陽,斬首ざんしゅすうひゃくみなはい爵,及宦しゃみなざい戰中せんちゅうまたはい爵一きゅう。毐等敗走はいそうそくれいこくちゅう有生ゆうせいとく毐,たまものぜにひゃくまんころせこれじゅうまんつき毐等。まもるじょう竭、內史肆、弋竭、ちゅう大夫たいふれいひとしひとしじゅうにんみな梟首きょうしゅくるまきれ以徇,めつ其宗。及其舍人とねりけいしゃためおにたきぎ。及奪爵遷しょくよんせんいえ家房かぼうりょう。(よん)[月寒つきさむこおゆう死者ししゃ。楊端かずおさむ衍氏。彗星すいせい西方せいほうまた北方ほっぽうしたがえ以南いなんはちじゅうにちじゅうねん相國しょうこくりょ韋坐嫪毐めん。桓齮ため將軍しょうぐんひとしちょうらいおけしゅひとしじんちがやこげせつしんおう曰:「しんかた以天為事しごと,而大おうゆう遷母ふとしきさきおそれ諸侯しょこう聞之,ゆかり此倍しん也。」はたおう乃迎ふとしきさき於雍而入咸陽,ふくきょあま泉宮いずみみや

だいさく,逐客,上書うわがきせつ,乃止逐客れい斯因せつしんおう,請先取せんしゅかん以恐他國たこく,於是使斯下かんかんおう患之。あずかかんはかりごとじゃくしんだいはりじんじょう繚來,せつしんおう曰:「以秦つよし諸侯しょこうたとえ如郡けんきみしんただしおそれ諸侯しょこう合從がっしょう,翕而不意ふい,此乃さとしはくおっと、湣王所以ゆえんほろび也。ねがい大王だいおう毋愛財物ざいぶつまいない其豪しん,以亂其謀,ほろびさんじゅうまんきんのり諸侯しょこうつき。」はたおうしたがえ其計,じょう繚亢れい衣服いふくしょくいんあずか繚同。繚曰:「しんおうためじんはちなずらえ長目ながめ,摯鳥膺,豺聲,しょうおん而虎おおかみしんきょやくえきじんとくこころざしまた輕食けいしょくじんわが布衣ふいしかわがつねしたまこと使しんおうとくこころざし於天天下てんかみなためとりこ矣。不可ふかあずかひさしゆう。」乃亡はたおうさとしかたやめ,以為しんこくじょうそつよう其計さく。而李斯用事ようじ

じゅういちねんおう翦、桓齮、楊端かずおさむ鄴,きゅうしろおう翦攻閼與、橑楊,みな并為一軍いちぐん。翦將じゅうはちにちぐんしょく以下いか,什推二人從軍取鄴安陽,桓齮しょうじゅうねん文信ふみのぶこう韋死,竊葬。其舍じん臨者,すすむじん也逐しんじんろくひゃくせき以上いじょうだつ爵,遷;ひゃくせき以下いか臨,遷,勿奪爵。自今じこん以來いらいみさお國事こくじみち如嫪毐、韋者せき其門,此。あきふく嫪毐舍人とねり遷蜀しゃとうとき天下てんか大旱たいかんろくがついたりはちがつ乃雨。

じゅうさんねん,桓齮おさむちょうひらころせちょうすすむ扈輒,斬首ざんしゅじゅうまんおう河南かなん正月しょうがつ彗星すいせい東方とうほうじゅうがつ,桓齮おさむちょうじゅうよんねんおさむちょうぐん於平むべやすやぶこれころせ其將ぐん。桓齮定平さだへいたけじょうかん使つかいしんしんよう斯謀,とめくもかんおう請為しん

じゅうねんだいきょうへい一軍いちぐんいたり鄴,一軍いちぐんいたりふとはらおおかみはじめどうじゅうろくねんきゅうがつはつそつ受地かん南陽なんようかりもりあがはつれい男子だんししょねんたかしけんじ於秦。はたおけうらら邑。じゅうななねん,內史あがおさむかんとくかんおうやすつきおさめ其地,以其ためぐんいのち曰潁かわどう華陽かようたいきさきそつみんだいひだる

じゅうはちねんだいきょうへいおさむちょうおう翦將上地じょうち下井しもい陘,はしかずすすむかわ內,羌瘣伐ちょうはしかこえ邯鄲かんたんじょうじゅうきゅうねんおう翦、羌瘣つきていちょう東陽とうようとくちょうおう。引兵よくおさむつばめたむろ中山ちゅうざんしんおう邯鄲かんたんしょ嘗與おうせいちょうははゆう仇怨きゅうえんみな阬之。しんおうかえしたがえぶとはら上郡かみごおり始皇帝しこうていははふとしきさきくずしちょう公子きみこよしみりつ其宗すうひゃくにんだい自立じりつためだいおうひがしあずかつばめごうへいぐん上谷うえたにだいひだる

じゅうねんつばめ太子たいし患秦へいいたりこくおそれ使つかい荊軻とげしんおうはたおうさとしからだかい軻以徇,而使おう翦、辛勝しんしょうおさむつばめつばめだいはつへいげきしんぐんしんぐんやぶつばめえきすい西にしじゅういちねんおう賁攻(あざみ)[荊]。乃益はつそつまいおう翦軍,とげやぶつばめ太子たいしぐんつばめあざみじょうとく太子たいしくびつばめおうあずまおさむ遼東りゃおとん而王おう翦謝びょうろうしんていはん昌平しょうへいくん徙於郢。大雨おおあめゆきふかしゃくすん

じゅうねんおう賁攻,引河みぞ灌大はりだいはりじょう壞,其王請降,つき其地。

じゅうさんねんはたおうふく召王翦,つよしおこり使つかいはたげき荊。ひね以南いなんいたりひら輿こしとりこ荊王。はたおうゆういたり郢陳。荊將こうつばめりつ昌平しょうへいくんため荊王,はんしん於淮みなみじゅうよんねんおう翦、こうむたけおさむ荊,やぶ荊軍,昌平しょうへいくんこうつばめとげ自殺じさつ

じゅうねんだいきょうへい使つかいおう賁將,おさむつばめ遼東りゃおとんとくつばめおうかえおさむだいとりこだいおうよしみおう翦遂てい荊江みなみくだこしくんおけかい稽郡。五月ごがつ天下てんかだい酺。

じゅうろくねんひとしおうけんあずか其相かちはつへいもり其西かい不通ふつうしんしん使將軍しょうぐんおう賁從つばめみなみおさむひとしとくひとしおうけん

はたおうはつ并天れい丞相じょうしょう曰:「にちかんおう納地のうちこう璽,請為はんしんやめ而倍やくあずかちょう合從がっしょうほとりしんきょうへい誅之,とりこ其王。寡人以為ぜん庶幾しょきいき兵革へいかくちょうおう使其相まきらいやくめい其質やめ而倍めいたんわがふとはらきょうへい誅之,とく其王。ちょう公子きみこよしみ自立じりつためだいおう舉兵擊滅げきめつおうはじめやくふくにゅうはたやめ而與かんちょうはかりごとかさねしんしんへい吏誅,とげやぶこれ。荊王けんじあお以西いせいやめ而畔やくげきわがみなみぐんはつへい誅,とく其王,とげてい其荊つばめおう昏亂,其太子たいし乃陰れい荊軻ためぞくへい吏誅,めつ其國。ひとしおうようきさきしょうけいぜっしん使ほしためみだれへい吏誅,とりこ其王,たいらひとし。寡人以眇すがめきょうへい誅暴みだれよりゆき宗廟そうびょうれい,六王咸伏其辜,天下てんかだいじょうこん名號みょうごうさら以稱成功せいこうつて後世こうせい。其議みかどごう。」丞相じょうしょうたがね大夫たいふこう、廷尉斯等みな曰:「むかししゃみかど地方ちほう千里せんり,其外こうふくえびすふく諸侯しょこうあるあさあるいや天子てんし不能ふのうせいこん陛下へいかきょう義兵ぎへい,誅殘ぞく平定へいてい天下でんかうみ內為こおりけん法令ほうれいよし一統いっとう上古じょうこ以來いらい嘗有,みかどしょ及。しんとう謹與博士はかせ曰:『ゆう天皇てんのうゆうすめらぎゆうたいすめらぎたいすめらぎさいとうと。』しんとう昧死じょう尊號そんごうおうためたいすめらぎ』。いのちためせい』,れいためみことのり』,天子てんし自稱じしょう曰『ちん』。」おう曰:「やすし』,ちょすめらぎ』,さい上古じょうこみかどごうごう曰『皇帝こうてい』。如議。」せい曰:「。」ついみことそうじょうおうためふとし上皇じょうこうせい曰:「ちん太古たこゆうごう毋謚,中古ちゅうこゆうごう而以行為こうい謐。如此,則子のりこちちしんくん也,甚無いいちんどる焉。自今じこんやめらいじょ謚法。ちんため始皇帝しこうてい後世こうせい以計すうせいさんせいいたりまんせいつて無窮むきゅう。」

はじめすめらぎ終始しゅうし五德ごとくつて,以為しゅうとくとくしんだいしゅういさおしたがえしょかち方今ほうこんみず德之のりゆきはじめあらため年始ねんし朝賀ちょうがみなじゅうがつついたち衣服いふく旄旌ぶしはたみなじょうくろかずろくためほうかんむりみなろくすん,而輿ろくしゃくろくしゃくためじょうろくうまさらめいかわ曰德すい,以為すい德之のりゆきはじめ剛毅ごうきもどふかことみなけつ於法,こくそぎ毋仁おん和義かずよししかこうごう德之のりゆきすう。於是きゅうほうひさしゃ赦。

丞相じょうしょうたがねとうげん:「諸侯しょこうはつやぶつばめひとし、荊地とお不為ふためおけおう,毋以填。請立諸子しょしただうえみゆきもと。」はじめすめらぎ其議於群臣ぐんしん群臣ぐんしんみな以為便びん。廷尉斯議曰:「しゅう文武ふみたけしょふう子弟してい同姓どうせい甚眾,しかこうぞく疏遠,あい攻擊こうげき如仇讎,諸侯しょこうさらしょう誅伐ちゅうばつしゅう天子てんしどるのう禁止きんしこんうみ內賴陛下へいか神靈しんれい一統いっとうみなためこおりけん諸子しょし功臣こうしん以公ぜいじゅう賞賜しょうし,甚足えきせい天下てんかのり安寧あんねいじゅつ也。おけ諸侯しょこう不便ふべん。」はじめすめらぎ曰:「天下てんかども苦戰くせん不休ふきゅう,以有こうおうよりゆき宗廟そうびょう天下てんかはつじょうまたふく立國りっこくじゅへい也,而求其寧いきあになん哉!廷尉。」

ぶん天下てんか以為さんじゅうろくぐんぐんおけもりじょうかんさらめいみん曰「黔首」。だい酺。おさむ天下てんかへい,聚之咸陽,銷以ためがね鐻,かねじんじゅうじゅうかくせんせきおけ廷宮ちゅういち法度はっと衡石たけじゃくくるまどう軌。しょどう文字もじひがしいたりうみ朝鮮ちょうせん西にしいたる臨洮、羌中,みなみいたる北向きたむききたよりどころかわためふさが,并陰やまいたり遼東りゃおとん。徙天ごうとみ於咸じゅうまんしょびょう及章だい上林うえばやしみなざい渭南。しんごとやぶ諸侯しょこううつし其宮しつさく咸陽北阪きたさかじょうみなみ臨渭,雍門以東いとういたり涇、渭,殿しんがりふくどうしゅうかくしょうぞく所得しょとく諸侯しょこう美人びじん鐘鼓しょうこ,以充いれ

じゅうななねんはじめすめらぎじゅん隴西、北地きたじ雞頭さんかいちゅう。焉作しんみや渭南,やめさらいのちしんみやためごくびょうぞうてんきょくきょくびょうどうどおり酈山,さくあまいずみぜん殿しんがり。筑甬どう咸陽ぞくこれさいたまもの爵一きゅうはせどう

じゅうはちねんはじめすめらぎひがしゆきこおりけんうえ鄒嶧やま立石たていしあずか魯諸儒生じゅせいこくせき頌秦とくふうぜんもちさい山川やまかわこと。乃遂じょう泰山たいざん立石たていしふうじほこらまつした風雨ふうう暴至,きゅう於樹いんふう其樹ため大夫たいふぜんはりちちこくしょ立石たていし,其辭曰:

皇帝こうてい臨位,さくせいあかりほう臣下しんかおさむ飭。じゅうゆうろくねんはつ并天,罔不まろうどふくおやじゅん遠方えんぽうはじむみんとう泰山たいざんしゅうらんひがしきょくしたがえしんおもえあと本原もとはら事業じぎょう,祗誦功德くどくどう運行うんこうもろさんとくよろしみなゆう法式ほうしき大義たいぎきゅうあきらたれ後世こうせいじゅんうけたまわ勿革。皇帝こうてい躬聖,すんでたいら天下でんかたゆ於治。夙興よる寐,建設けんせつ長利ながとしせんたかし教誨きょうかいくんけいせんたち遠近えんきん畢理,咸承せいこころざし分明ふんみょう男女だんじょれいじゅんまき遵職ごとあきらへだた內外,靡不きよし凈,ほどこせ後嗣こうし及無きゅう遵奉じゅんぽうのこみことのりながうけたまわじゅう戒。

於是乃并勃海以東いとう、腄,きゅう成山なりやま登之とし罘,立石たていし頌秦とく焉而去。

みなみとう瑯邪,だいらくとめさんがつ。乃徙黔首さんまん瑯邪臺下だいかふくじゅうさいさく瑯邪だい立石たていしこく,頌秦とくあかり得意とくい。曰:

じゅうはちねん皇帝こうていさくはじめはしひら法度はっと萬物ばんぶつ。以明人事じんじ合同ごうどう父子ふしひじりさとし仁義じんぎあらわしろ道理どうりひがしなでひがし,以省そつことやめだい畢,乃臨于海。皇帝こうていこうすすむろうほんごとうえみのりじょまつ,黔首とみ普天ふてんした,摶心揖志。器械きかいいちりょう同書どうしょ文字もじ日月じつげつしょあきらふね輿こし所載しょさいみなおわり其命,莫不得意とくいおうどうごと皇帝こうていただし飭異ぞくりょうすいけいゆう恤黔くび朝夕ちょうせきたゆじょうたぐ定法じょうほう,咸知しょ辟。かたはくぶんしょくしょけいえき。舉錯必當,莫不如畫。皇帝こうていあきら,臨察四方しほう尊卑そんぴ賤,踰次ぎょう。瑯邪ようみなつとむ貞良さだよし細大さいだい盡力じんりょく,莫敢だるあらとお邇辟かくれ專務せんむ肅莊。はしちょくあつしただし事業じぎょうゆうつね皇帝こうていとくそんじょうよんきょく。誅亂じょがいきょう致福。ふしごと以時,もろさん繁殖はんしょく。黔首安寧あんねい不用ふよう兵革へいかくろくおやしょうたもておわり寇賊。驩欣奉きょうつき法式ほうしきろくごう內,皇帝こうてい西にしわたるりゅうすなみなみつききたあずまゆう東海とうかいきた過大かだいなつ人跡じんせきしょいたりしんしゃこうぶたみかどさわ及牛。莫不受德,かくやす其宇。

維秦おう兼有けんゆう天下でんかだてめいため皇帝こうてい,乃撫ひがしいたり于瑯よこしま列侯れっこうたけじょうこうおうはなれ列侯れっこうどおりたけこうおう賁、りんこうたてしげるこうちょうりんほうあきらたけほうしげるりんこう武信たけのぶこう馮毋擇、丞相じょうしょう隗林、丞相じょうしょうおうたがねきょう斯、きょうおうつちのえ大夫たいふちょう嬰、大夫たいふ楊樛したがえあずか於海じょう。曰:「いにしえみかどしゃ千里せんり諸侯しょこうかくもり其封いきあるあさあるそうおかせ暴亂,ざんとめなおきざめ金石かねいし,以自ためいにしえみかどさんおうきょう不同ふどう法度はっと不明ふめいかり鬼神きじん,以欺遠方えんぽうじつ稱名しょうみょう久長ひさなが。其身歿,諸侯しょこうばい叛,法令ほうれいくだりこん皇帝こうてい并一うみ內,以為こおりけん天下てんか和平わへい昭明しょうめい宗廟そうびょうたい道行みちゆきとく尊號そんごう大成たいせい群臣ぐんしんしょうあずか皇帝こうてい功德くどくこく于金せき,以為ひょうけい。」

すんでやめひとしじんじょとう上書うわがきげん海中かいちゅうゆうさん神山かみやまめい曰蓬萊、方丈ほうじょう、瀛洲,僊人きょ。請得齋戒さいかいあずかわらわ男女だんじょもとめこれ。於是じょはつわらわ男女だんじょすうせんにん入海いりうみもとめ僊人。

はじめすめらぎかえ彭城,齋戒さいかい禱祠,よくいずるしゅうかなえ泗水しすい使つかいせんにんぼつすいもとめどるとく。乃西南せいなんわたり淮水,これ衡山、みなみぐん。浮江,いたり湘山ほこら。逢大ふういくとくわたりうえとい博士はかせ曰:「湘君しん?」博士はかせたい曰:「聞之,堯女,しゅんつま,而葬此。」於是はじめすめらぎだいいか使つかいけいさん千人皆伐湘山樹,赭其やまうえみなみこおりゆかりたけせき

じゅうきゅうねんはじめすめらぎあずまゆういたり武博たけひろおおかみすなちゅうためぬすめしょおどろきもとめどる,乃令天下でんかだいさくじゅうにち

登之とし罘,こくせき。其辭曰:

じゅうきゅうねん在中ざいちゅうはるかたおこり皇帝こうていひがしゆうじゅん登之とし罘,臨照于海。したがえしんよしみかんはらねんきゅうれつつい誦本はじめ大聖たいせい作治さくじたてじょう法度はっとあらわばし綱紀こうき外教がいきょう諸侯しょこうひかりほどこせ文惠ふみえあきら義理ぎりろくこくかい辟,むさぼもどいや虐殺ぎゃくさつやめ皇帝こうていあい眾,とげはつ討師,奮揚武德ぶとく誅信ぎょう燀旁たち,莫不まろうどふく。烹滅つよし暴,すくい黔首,しゅうじょう四極よんきょくひろしほどこせあかりほう經緯けいい天下でんかながためそくだい矣哉!宇縣なかうけたまわじゅんせい群臣ぐんしん誦功,請刻于石,おもてたれ于常しき

其東かん曰:じゅうきゅうねん皇帝こうていはるゆうらんしょう遠方えんぽう。逮于うみすみとげ登之とし罘,あきら臨朝觀望かんぼうこううららしたがえしん咸念,原道はらみちいたりあかりひじりほうはつきょうきよし疆內,そと誅暴つよし武威ぶいつくりとおる振動しんどうよんきょく,禽滅ろくおう。闡并天下でんか,甾害絕息ぜっそくえい偃戎へい皇帝こうてい明德めいとく經理けいり宇內,視聽しちょうだるさくりつ大義たいぎあきら設備せつび,咸有あきらはたしょくしん遵分,かく所行しょぎょうこと嫌疑けんぎ。黔首あらためとお邇同,臨古ぜっゆうつねしょく既定きてい後嗣こうし循業,ちょううけたまわせい群臣ぐんしん嘉德かとく,祗誦ひじりれつ,請刻罘。

旋,とげ瑯邪,道上みちがみとういれ

さんじゅうねん無事ぶじ

さんじゅういちねん十二月じゅうにがつさらめい臘曰「嘉平かへい」。たまもの黔首うらろくせきまいひつじはじめすめらぎため微行びこう咸陽,あずか武士ぶしよんにん俱,よる逢盜らん窘,武士ぶしげきころせぬすめせき中大ちゅうだいさくじゅうにちべいせきせんろくひゃく

さんじゅうねんはじめすめらぎ碣石,使つかいつばめじんなまもとめとももんこうちかいこく碣石もん。壞城郭じょうかくけつどおり隄防。其辭曰:

とげきょうたび誅戮ちゅうりく無道むどうためぎゃくめついきたけ殄暴ぎゃくぶんふく無罪むざい,庶心咸服。めぐみろん功勞こうろうしょう及牛おん肥土ひどいき皇帝こうてい奮威,とく并諸こうはついち泰平たいへい墮壞だかい城郭じょうかくけつどおりかわぼうえびす險阻けんそ地勢ちせい既定きていはじむ庶無繇,天下てんか咸撫。おとこらく其疇,じょおさむ其業,ことかくゆうじょめぐみもろさんひさ并來,莫不安ふあんしょ群臣ぐんしん誦烈,請刻此石,たれちょのり

いん使かんおわりほうこう石生いしゅうもとめ僊人不死ふしくすりはじめすめらぎじゅん北邊ほくへんしたがえ上郡かみごおりいれつばめじんなま使つかい入海いりうみかえ,以鬼神事しんじいんそうろく圖書としょ,曰「ほろびしんしゃえびす也」。はじめすめらぎ乃使將軍しょうぐんこうむ恬發へいさんじゅうまんにんきたげきえびす略取りゃくしゅ河南かなん

さんじゅうさんねんはつしょ嘗逋ほろびじんぜい婿むこ、賈人略取りゃくしゅりくはりためかつらりんぞうぐん南海なんかい,以適戍。西北せいほく斥逐匈奴きょうど榆中并河以東いとうぞくかげさん,以為(さん)[よんじゅうよんけんじょう河上かわかみためふさがまた使つかいこうむ渡河とかむら闕、(すえ)[やまきたかりちゅう,筑亭さわ以逐えびすじん。徙謫,はつけんきんとくほこら明星みょうじょう西方せいほうさんじゅうよんねんてき獄吏ごくりじきしゃ,筑長じょう及南越地こえち

はじめすめらぎおけしゅ咸陽みや博士はかせななじゅう人前にんまえためことぶき。仆射しゅうあおしんしん頌曰:「しん千里せんりよりゆき陛下へいか神靈しんれいあきらきよし平定へいていうみ內,放逐ほうちく蠻夷ばんい日月じつげつしょあきら,莫不まろうどふく。以諸こうためこおりけん人人ひとびと安樂あんらく戰爭せんそう患,つてまんせい上古じょうこ及陛威德いとく。」はじめすめらぎえつ博士はかせひとしじんじゅん于越しん曰:「しん聞殷しゅうおうせんさいふう子弟してい功臣こうしんためえだ輔。こん陛下へいか有海あるみ內,而子弟していため匹夫ひっぷそつ有田ありたつねろくきょうしん輔拂,なに以相すくい哉?こと而能長久ちょうきゅうしゃしょ聞也。こんあおしんまためん諛以じゅう陛下へいか忠臣ちゅうしん。」はじめすめらぎ其議。丞相じょうしょう斯曰:「五帝不相復,さんだいあいかさねかく以治,相反あいはん變異へんい也。こん陛下へいかそう大業おおわざけんまんせいこうかた儒所。且越げんさんだいことなんそくほう也?こと諸侯しょこう并爭,あつ招游がくこん天下てんかやめじょう法令ほうれいいち,百姓當家則力農工,のり學習がくしゅう法令ほうれい辟禁。こんしょなまこん而學いにしえ,以非當世とうせい惑亂わくらん黔首。丞相じょうしょうしん斯昧げんいにしえしゃ天下でんか散亂さんらん,莫之のういち以諸こう并作,みな道古どうこ以害いまかざり虛言きょげん以亂じつにんぜん其所私學しがく,以非上之うえのしょ建立こんりゅうこん皇帝こうてい并有天下でんかべつ黑白くろしろ而定いちみこと私學しがく而相あずかほうきょうにん聞令のりかく以其がくにゅうのりこころそくちまた,夸主以為めい以為だかりつぐん以造そし。如此どるきんのりぬしいきおいくだ乎上,とうあずかなる乎下。きん便びんしん請史かんしんみなしょう博士はかせかんしょしょく天下てんか敢有ぞうしょ百家はっけしゃ,悉詣もりじょうざつしょうゆう敢偶詩書ししょしゃ棄市。以古いましゃぞく。吏見舉者あずか同罪どうざいれいしたさんじゅうにちやき,黥為じょうだんところしゃ醫藥いやく卜筮ぼくぜいしゅじゅこれしょわかよくゆうがく法令ほうれい,以吏ため。」せい曰:「。」

さんじゅうねんじょどうみちきゅうげん抵雲,塹山堙谷,直通ちょくつう。於是はじめすめらぎ以為咸陽じん先王せんおう宮廷きゅうていしょうわれ聞周ぶんおうみやこゆたかたけおうみやこ鎬,ゆたか鎬之あいだ帝王ていおう也。乃營さく朝宮あさみや渭南上林うえばやしえんちゅうさきさくぜん殿しんがり阿房あほう東西とうざいひゃく南北なんぼくじゅうたけうえ以坐まんにんした以建たけしゅうはせためかくどう殿下でんかちょく抵南やまひょう南山なんざん顛以ため闕。ためふくどう阿房あほうわたり渭,ぞく咸陽,以象てんごくかくどうぜっかん抵營しつ也。阿房宮あぼうきゅう未成みせいなりほしさら令名れいめいめいさくみや阿房あほう天下てんかいい阿房宮あぼうきゅうかくれみや徒刑とけいしゃななじゅうあまりまんにん,乃分さく阿房宮あぼうきゅうあるさくうららやまはつ北山きたやま石槨せっかく,乃寫しょく、荊地ざいみないたりせきちゅうけいみやさんひゃくせき外四がいしひゃくあまり。於是立石たていし東海とうかいじょう朐界ちゅう,以為しん東門ひがしもんよしさんまんいえうらら邑,まんいえくもみなふくことじゅうさい

せいせつはじめすめらぎ曰:「しんとうもとめしばやく僊者つねどるぐうるいぶつ有害ゆうがいこれしゃかたちゅうにんぬしため微行びこう以辟惡鬼あっき惡鬼あっき辟,真人しんじんいたりひとぬししょきょ人臣じんしん知之ともゆきのりがい於神。真人しんじんしゃ入水じゅすい濡,にゅう爇,りょう雲氣うんきあずか天地てんち久長ひさなが今上きんじょう天下でんかのう恬倓。ねがい上所かみところきょみや毋令人知じんちしかこう不死ふしくすり殆可とく也。」於是はじめすめらぎ曰:「われ慕真じんいい真人まさと』,しょうちん』。」乃令咸陽つくり百里內宮觀二百七十復道甬道相連,とばりちょう鐘鼓しょうこ美人びじんたかしかくあんしょ移徙わたましくだりしょこうゆうげん其處しゃつみ始皇帝しこうていみゆきりょう山宮さんぐうしたがえ山上さんじょう丞相じょうしょうしゃ眾,どるぜん也。ちゅうじんあるつげ丞相じょうしょう丞相じょうしょうそんしゃはじめすめらぎいか曰:「此中じん泄吾。」あんとい莫服。とうみことのりしょざいつくりしゃみなころせこれ莫知ぎょう所在しょざい。聽事,群臣ぐんしん受決ごと,悉於咸陽みや

ほうなませいしょうあずかはかりごと曰:「はじめすめらぎためじん天性てんせいつよしもどもちいおこり諸侯しょこう,并天とくよくしたがえ,以為莫及おのれ專任せんにん獄吏ごくり獄吏ごくりとくおやこう博士はかせななじゅうにんとく備員どるよう丞相じょうしょうしょ大臣だいじんみな受成ごと,倚辨於上。うえらく以刑ころせため天下てんかかしこざい祿ろく,莫敢盡忠じんちゅううえ聞過而日おごしも懾伏しょうふく謾欺以取ようしんほうとく兼方かねたかけん,輒死。しかこうぼししゃいたりさんひゃくにんみなりょうかしこ忌諱きき諛,敢端げん其過。天下てんかことしょうだいみなけつ於上,うえいたる以衡せきりょうしょにちよるゆうていちゅうていとく休息きゅうそくむさぼ於權勢至せいし如此,ためもとめ僊藥。」於是乃亡はじめすめらぎ聞亡,乃大いか曰:「われぜんおさむ天下てんかしょちゅうようしゃつきこれ。悉召文學ぶんがく方術ほうじゅつ甚眾,よく以興太平たいへいぽうよくねり以求やくこん聞韓眾去むくいじょとう以巨まんけいおわりとくやくかんしょうつげ聞。せいとうわれみことたまもの甚厚,こん誹謗ひぼうわが,以重われ德也とくやしょなまざい咸陽しゃわれ使じんれんとえあるため訞言以亂黔首。」於是使悉案といしょせいしょなまつてしょうつげ引,乃自じょはんきんしゃよんひゃくろくじゅう餘人よにんみな阬之咸陽,使つかい天下でんか知之ともゆき,以懲えきはつ謫徙はじめすめらぎ長子ちょうし扶蘇諫曰:「天下てんかはつじょう遠方えんぽう黔首しゅうしょなまみな誦法孔子こうし今上きんじょうみなじゅうほうなわしんおそれ天下でんか不安ふあんただじょう察之。」はじめすめらぎいか使つかい扶蘇きたかんこうむ恬於上郡かみごおり

さんじゅうろくねん,熒惑もりしんゆう墜星下東しもひがしぐんいたり為石ためし,黔首あるこく其石曰「始皇帝しこうてい而地ぶん」。はじめすめらぎ聞之,逐問,莫服,つき取石とりいしつくりきょじん誅之,いん燔銷其石。はじめすめらぎらく使つかい博士はかせため僊真じん,及行しょゆう天下てんか傳令でんれい樂人がくじんつるあき使者ししゃしたがえ關東かんとうはな陰平かげひら舒道,有人ゆうじん璧遮使者ししゃ曰:「ためわれのこ滈池くん。」いんごと曰:「今年ことしりゅう。」使者ししゃとい其故,いんゆるがせおけ其璧去。使者ししゃたてまつ璧具以聞。はじめすめらぎ默然もくぜん良久よしひさ,曰:「やまおにかたいちさいごと也。」退すさげん曰:「りゅうしゃにんせん也。」使つかい璧,乃じゅう八年行渡江所沈璧也。於是はじめすめらぎぼくとくゆう徙吉。遷北かわ榆中さんまんいえはい爵一きゅう

さんじゅうななねんじゅうがつみずのとうしはじめすめらぎゆうひだり丞相じょうしょう斯從,みぎ丞相じょうしょうやましもり少子しょうしえびす愛慕あいぼ請從,うえもと十一月じゅういちがつぎょういたりくもゆめもちまつおそれしゅん於九うたぐやま。浮江かんせき柯,渡海とかいなぎさ丹陽たんよういたりぜにとう。臨浙こうみずあく,乃西ひゃくじゅうしたがえせま中渡なかわたうえかい稽,まつりだい禹,もち南海なんかい而立じりつ石刻せっこく頌秦とく。其文曰:

皇帝こうていきゅうれつひらいち宇內,德惠とくえおさむちょうさんじゅうゆうななねんおやじゅん天下でんかしゅうらん遠方えんぽうとげとうかい稽,せんしょう習俗しゅうぞく,黔首ときそう群臣ぐんしん誦功,本原もとはら事跡じせきついくび高明こうめいはたきよし臨國,はじめていけいめいあらわひねきゅうしょうはつひら法式ほうしきしんべつしょくにん,以立恒常こうじょうろくおうせんばいむさぼもど傲猛,りつ自彊じきょう暴虐ぼうぎゃくほしいままぎょうまけりょく而驕,すうどうかぶとへいかげどおりあいだ使,以事合從がっしょう行為こうい辟方。內飾いつわりはかりごと外來がいらいおかせあたりとげおこり殃。誅之,殄熄暴悖,らんぞく滅亡めつぼう聖德せいとくこうみつろくごうなかさわ疆。皇帝こうてい并宇,けん萬事ばんじ遠近えんきん畢清。うんぐんぶつこうけん事實じじつかく其名。賤并どおりいやひねまえ,靡有かくれじょうかざりしょう宣義のぶよし有子ゆうこ而嫁,ばい不貞ふていぼうへだた內外,禁止きんしいん泆,男女だんじょ絜誠。おっと為寄ためより豭,ころせ無罪むざいおとこ秉義ほどつまため逃嫁,とくはは,咸化れんきよし大治おおはる濯俗,天下てんかうけたまわふうこうむきゅうけいみな遵度軌,かずあんあつしつとむ,莫不順ふじゅんれい。黔首おさむ絜,にんたのしどうのりよしみ太平たいへいこうけいたてまつほう常治つねじきょく輿こしぶねかたぶけしたがえしん誦烈,請刻此石,ひかりたれきゅうめい

かえしたがえこうじょうわたり。并海じょうきたいたる瑯邪。かたじょとう入海いりうみもとめかみやくすうさいとくおそれ譴,乃詐曰:「よもぎ萊藥しかつねためだいさめぎょしょとくいたりねがい請善あずか俱,そく以連いしゆみしゃ。」はじめすめらぎゆめあずか海神わたつみせん,如人じょうというらないゆめ博士はかせ曰:「水神すいじん不可ふか,以大ぎょ蛟龍こうりょうためこう今上きんじょう禱祠備謹,而有此惡しんとう除去じょきょ,而善しん致。」乃令入海いりうみしゃ齎捕きょぎょ,而自以連いしゆみこうだいさかな出射しゅっしゃ瑯邪きたいたりさかえ成山なりやまどるいたり罘,きょぎょ射殺しゃさついちぎょとげ并海西にし

いたり平原へいげん而病。はじめすめらぎあくげん群臣ぐんしん莫敢げんごとうえびょうえき甚,乃為璽書たまもの公子こうし扶蘇曰:「あずかかい咸陽而葬。」しょやめふうじ在中ざいちゅうしゃれいちょう高行たかゆき璽事しょ授使しゃなながつへいとらはじめすめらぎくずし於沙おか平臺ひらだい丞相じょうしょう斯為じょうくずし在外ざいがいこわしょ公子こうし及天ゆうへん,乃祕不發ふはつかん辒涼しゃちゅうこう宦者さんじょうしょ至上しじょうしょく百官ひゃっかんそうごと如故,宦者輒從辒涼しゃちゅう其奏ごとどくえびすちょうだか及所こう宦者ろく人知じんちじょうちょうだか嘗教えびすしょ及獄律令りつりょう法事ほうじえびすわたしこうこう乃與公子こうしえびす丞相じょうしょう陰謀いんぼうやぶはじめすめらぎしょ封書ふうしょたまもの公子こうし扶蘇しゃ,而更いつわりため丞相じょうしょう斯受はじめすめらぎのこみことのりすなおか立子たつこえびすため太子たいしさらためしょたまもの公子こうし扶蘇、こうむ恬,すう以罪,(其)たまものかたりざい斯傳ちゅうくだりとげしたがえ陘抵きゅうばらかいあつうえ辒車しゅう,乃詔したがえかんれい車載しゃさいいちせき鮑魚ほうぎょ,以亂其臭。

くだりしたがえ直道なおみちいたり咸陽,はつ太子たいしえびすかさねためせい皇帝こうてい九月くがつそうはじめすめらぎ酈山。はじめすめらぎはつ即位そくい穿ほじ酈山,及并天下でんか天下てんかおくまいななじゅうあまりまんにん穿ほじさんいずみしもどう而致槨,みやかん百官奇器珍怪徙臧滿之。れいたくみさくいしゆみゆうしょ穿ほじちかしゃ輒射。以水銀すいぎんため百川ももがわ江河こうが大海たいかいしょう灌輸,うえ天文てんもんした地理ちり。以人ぎょあぶらためしょく不滅ふめつしゃ久之ひさゆきせい曰:「先帝せんてい後宮こうきゅう有子ゆうこしゃ焉不よろし。」みなれいしたがえ死者ししゃ甚眾。そうすんでやめあるげん工匠こうしょうため,臧皆知之ともゆき,臧重そく泄。大事だいじ畢,やめ臧,閉中ともしたがいとももんつき工匠こうしょう臧者,ふくしゃ草木くさき以象やま

せい皇帝こうてい元年がんねんねんじゅういちちょうだかためろうちゅうれい任用にんようごと二世にせいみことのりぞうはじめすめらぎびょう犧牲ぎせい山川やまかわひゃくまつこれれいれい群臣ぐんしんみことはじめすめらぎびょう群臣ぐんしんみな頓首とんしゅごと曰:「いにしえしゃ天子てんしななびょう諸侯しょこう大夫たいふさん,雖まん世世せぜ軼毀。いまはじめすめらぎためごくびょう,四海之內皆獻貢職,ぞう犧牲ぎせいれい咸備,毋以先王せんおうびょうあるざい西にし雍,あるざい咸陽。天子てんしとうどくたてまつしゃくほこらはじめすめらぎびょうじょうおおやけやめ軼毀。ところおけななびょう群臣ぐんしん以禮しんほこら,以尊はじめすめらぎびょうためみかどしゃ祖廟そびょう皇帝こうていふく自稱じしょうちん』。」

二世與趙高謀曰:「ちん年少ねんしょうはつ即位そくい,黔首しゅう先帝せんてい巡行じゅんこうぐんけん,以示つよし威服いふくうみ內。こん晏然巡行じゅんこうそくじゃく,毋以しん畜天。」はるせいひがしあるきぐんけん斯從。いた碣石,并海,みなみいたりかい稽,而盡こくはじめすめらぎしょたてこくせきせきつくり著大ちょだい臣從しんじゅうしゃめい,以章先帝せんてい成功せいこう盛德せいとく焉:

皇帝こうてい曰:「金石かねいしこくつき始皇帝しこうてい所為しょい也。こんかさねごう而金石刻せっこくしょう始皇帝しこうてい,其於久遠くおん也如後嗣こうし為之ためゆきしゃしょう成功せいこう盛德せいとく。」丞相じょうしょうしん斯、しんやまし大夫たいふしんとく昧死ごと:「しん請具こく詔書しょうしょこくせき因明いんみょうしろ矣。しん昧死請。」せい曰:「。」

とげいたり遼東りゃおとん而還。

於是二世乃遵用趙高,さる法令ほうれい。乃陰あずかちょうだかはかりごと曰:「大臣だいじん不服ふふく官吏かんりなおつよし,及諸公子こうし必與わがそう為之ためゆき柰何?」こう曰:「しんかたねがいげん而未敢也。先帝せんてい大臣だいじんみな天下でんかるいめい貴人きじん也,せき功勞こうろう相傳そうでんひさ矣。いまだかもとしょう賤,陛下へいかこうしょう舉,れいざい上位じょういかんちゅうこと大臣だいじん鞅鞅,とく以貌したがえしん,其心じつ不服ふふく今上きんじょういん此時あんぐん縣守あがたもりじょう有罪ゆうざいしゃ誅之,うえ以振天下でんかしも除去じょきょじょう生平おいだいらしょ不可ふかしゃ今時いまどきぶん而決於武りょくねがい陛下へいかとげしたがえ毋疑,そく群臣ぐんしん及謀。明主めいしゅおさむ舉餘みん,賤者貴之たかゆき貧者ひんじゃ富之とみゆきとおしゃきんこれのり上下じょうげしゅう而國やす矣。」せい曰:「ぜん。」乃行誅大臣だいじん及諸公子こうし,以罪れん逮少きんかん三郎さぶろうとくりつしゃ,而ろく公子こうし戮死於杜。公子こうしはた閭昆おとうとさんにんしゅう於內みや其罪どく。二世使使令將閭曰:「公子こうししんつみとう,吏致ほう焉。」はた閭曰:「闕廷れいわれ嘗敢したがえまろうどさん也;ろうびょうくらいわれ嘗敢しつ節也せつや受命じゅめい應對おうたいわれ嘗敢しつ也。なにいいしんねがい聞罪而死。」使者ししゃ曰:「しんあずかはかりごと奉書ほうしょ從事じゅうじ。」はた閭乃仰天ぎょうてん大呼たいこてんしゃさん,曰:「てん乎!われ無罪むざい!」こんおとうとさんにんみな流涕りゅうてい拔劍ばっけん自殺じさつ宗室そうしつこわ群臣ぐんしん諫者以為誹謗ひぼうだい吏持祿ろくよう,黔首こわ

よんがつ,二世還至咸陽,曰:「先帝せんていため咸陽朝廷ちょうていしょう阿房宮あぼうきゅうため室堂むろどう就,かいじょうくずれやめ其作しゃふく酈山。酈山事大じだい畢,こんしゃく阿房宮あぼうきゅうどる就,のりあきら先帝せんてい舉事也。」ふくさく阿房宮あぼうきゅうそとなでよんえびす,如始すめらぎけいつきちょう其材五萬人為屯衛咸陽,れいきょうしゃいぬ禽獸きんじゅうとうしょくしゃ不足ふそくした調ちょうこおりけんてん輸菽あわ芻稿,みなれい齎糧しょく,咸陽さん百里內不得食其穀。用法ようほうえきこくふか

なながつ,戍卒ひねかちとう反故ほご荊地,ためちょうすわえ」。かち自立じりつためすわえおうきょひねしょしょう徇地。山東さんとうぐんけん少年しょうねんしん吏,みなころせ其守じょうれいすすむはん,以應ちんわたるあいたてためこうおう合從がっしょう西鄉さいごうめいためはた不可ふかかつ數也かずや。謁者使東方とうほうらい,以反しゃせいせいいかしも吏。こう使者ししゃいたりうえとえたい曰:「群盜ぐんとうこおりまもるじょうかた逐捕,いまつき不足ふそく。」うええつ武臣ぶしん自立じりつためちょうおうとがめためおう儋為ひとしおう。沛公おこり沛。こうはり舉兵かい稽郡。

ねんふゆちんわたるしょ周章しゅうしょうとうはた西にしいたりおどけへいすうじゅうまん二世にせいだいおどろきあずか群臣ぐんしんはかりごと曰:「柰何?」しょうあきら邯曰:「ぬすめやめいたり,眾彊,いまはつ近縣きんけん及矣。酈山,請赦,授兵以擊。」せい大赦たいしゃ天下でんか使つかいあきら邯將,擊破げきは周章しゅうしょうぐん而走,とげころせあきら曹陽。二世益遣長史司馬欣、ただしかげあきら邯擊ぬすめころせちん勝城かつきちちやぶこうりょうじょうすえめつとがめ臨濟。すわえぬすめ名將めいしょうやめしょう邯乃きた渡河とかげきちょうおう歇等於鉅鹿しか

ちょう高說こうせつせい曰:「先帝せんてい臨制天下でんかひさ群臣ぐんしん敢為かんいしん邪說じゃせつこん陛下へいかとみ春秋しゅんじゅうはつ即位そくい,柰何あずか公卿くぎょう廷決ごとことそくゆうあやましめせ群臣ぐんしんたん也。天子てんししょうちんかた聞聲。」於是せいつねきょ禁中きんちゅうあずかこうけつ諸事しょじ。其後公卿くぎょうまれとく朝見ちょうけん盜賊とうぞくえき,而關中卒ちゅうそつはつひがしげきぬすめしゃ毋已。みぎ丞相じょうしょうやましひだり丞相じょうしょう斯、將軍しょうぐん馮劫しん諫曰:「關東かんとう群盜ぐんとう并起,しんはつへい誅擊,しょころせほろび甚眾,しかなおとめぬすめみな以戌こげてん作事さくじぜいだい也。請且どめ阿房宮あぼうきゅう作者さくしゃげんしょうよんへん戍轉。」せい曰:「われ聞之かん曰:『堯舜さい椽不刮,凡所為しょいゆう天下でんかしゃとく肆意しいごくよくしゅじゅうちがやいばら翦,めし塯,すすかたち,雖監もんやしなえ觳於此。禹鑿りゅうもんつうだいなつ決河けっかていすいこれうみ筑臿,ずね毋毛,しんとりころうれつ於此矣。』あかりほうした敢為かんい,以制うみ內矣。おっとおそれなつおもため天子てんしおやしょきゅう,以徇百姓ひゃくしょうなおなに於法?ちんみことまんじょう,毋其われほっづくりせんじょうまんじょうぞくたかしわれごうめい。且先帝せんていおこり諸侯しょこうけん天下てんか天下てんかやめじょうそと攘四夷以安邊竟,さく宮室きゅうしつ以章得意とくい,而君かん先帝せんてい功業こうぎょうゆういとぐちこんちん即位そくいねんあいだ群盜ぐんとう并起,きみ不能ふのうきんまたよくやめ先帝せんてい所為しょいじょう毋以ほう先帝せんてい不為ふためちん盡忠じんちゅうりょくなに以在?」しもやまし、斯、こう吏,あんせめざいやましこう曰:「しょうしょうはずかしめ。」自殺じさつ。斯卒しゅう,就五けい

さんねんあきら邯等はた其卒かこえ鉅鹿,すわえじょう將軍しょうぐん項羽こううはたすわえそつ往救鉅鹿。ふゆちょうだかため丞相じょうしょう,竟案斯殺なつしょう邯等せんすう卻,二世使人讓邯,邯恐,使つかいちょう欣請ごとちょうだかどるまたどるしん。欣恐,ほろびこう使つかいじんつい及。欣見邯曰:「ちょうだか用事ようじ於中,將軍しょうぐん有功ゆうこうまた誅,こうまた誅。」項羽こううきゅうげきしんぐんとりこおうはなれ,邯等とげ以兵くだ諸侯しょこう八月はちがつおのれちょうだかほしためみだれおそれ群臣ぐんしん聽,乃先しつらえけんもち鹿しかけんじせい,曰:「うま也。」せいわらい曰:「丞相じょうしょうあやまよこしまいい鹿しかため。」とい左右さゆう左右さゆうあるだまあるげん以阿じゅんちょうだかあるげん鹿しかしゃ),こういんかげちゅうしょげん鹿しかしゃ以法。こう群臣ぐんしんみなかしこだか

こうまえすうこと關東かんとうとう毋能ため也」,及項とりこはたすすむおうはなれとう鉅鹿而前,しょう邯等ぐんすう卻,上書うわがき請益すけつばめちょうひとしすわえかんみなりつためおうせき以東いとうだい氐盡ほとりしん吏應諸侯しょこう諸侯しょこう咸率其眾西鄉さいごう。沛公しょうすう萬人已屠武關,使つかいじんわたし於高,こうおそれせいいか,誅及其身,乃謝びょう朝見ちょうけん。二世夢白虎齧其左驂馬,ころせこれこころらくかいというらないゆめぼく曰:「涇水ためたたり。」二世乃齋於望夷宮,よくほこら涇,沈四白馬はくば使つかい使せめゆずるだか盜賊とうぞくごとこう懼,乃陰あずか其婿咸陽れい閻樂、其弟ちょうしげるはかりごと曰:「うえ聽諫,こんこときゅうよく於吾むねわれよくえきおけじょうさらりつ公子こうし嬰。嬰仁儉,百姓皆載其言。」使つかいろうちゅうれいため內應,いつわりためゆう大賊たいぞくれいらく召吏はつそつついこうらくははおけだかしゃたのしはた吏卒千餘人至望夷宮殿門,ばくまもるれい仆射,曰:「ぞくにゅう此,なにとめ?」まもるれい曰:「しゅういおりしつらえそつ甚謹,やすとくぞく敢入みや?」らくとげまもるれいちょくしょう吏入,ぎょうろう宦者だいおどろきあるはしあるかくかくしゃ輒死,死者ししゃすうじゅうにんろうちゅうれい與樂ようらく俱入,しゃじょう幄坐幃。せいいか,召左右さゆう左右さゆうみな惶擾鬬。つくりゆう宦者いちにんさむらい敢去。二世にせいにゅう內,いい曰:「おおやけなんのみつげ乃至ないし於此!」宦者曰:「しん敢言,とくぜん使臣ししんのみごとみなやめ誅,やすとくいたりいま?」閻樂ぜんそくせいすう曰:「足下あしもとおごほしいまま誅殺ちゅうさつ無道むどう天下てんかどもほとり足下あしもと足下あしもと其自ためけい。」せい曰:「丞相じょうしょうとく?」らく曰:「不可ふか。」せい曰:「われねがいとくいちぐんためおう。」どるもとまた曰:「ねがいためまんこう。」どるもと。曰:「ねがいあずか妻子さいしため黔首,しょ公子こうし。」閻樂曰:「しん受命じゅめい於丞しょうため天下でんか誅足足下あしもと多言たげんしん敢報。」麾其へいしん二世にせい自殺じさつ

閻樂ほうちょうだかちょう高乃たかの悉召しょ大臣だいじん公子こうしつげ以誅せいじょう。曰:「はた王國おうこくはじめすめらぎくん天下でんかしょうみかどいまろくこくふく自立じりつしんえきしょう,乃以空名くうめいためみかど不可ふかむべためおう如故,便びん。」たて二世之兄子公子嬰為秦王。以黔くびそう二世杜南宜春苑中。令子れいこ嬰齋,とうびょう,受王璽。ときにち嬰與其子にんはかりごと曰:「丞相じょうしょうだかころせせいもちえびすみやおそれ群臣ぐんしん誅之,乃詳以義りつわが聞趙だか乃與すわえやくめつしん宗室そうしつ而王せきちゅうこん使つかいわがときびょう,此欲いんびょうちゅうころせわがわがしょうびょうくだり丞相じょうしょう必自らいらいのりころせこれ。」こう使つかいじん請子嬰數やから嬰不ぎょうこうはて往,曰:「宗廟そうびょうおもことおう柰何くだり?」嬰遂刺殺しさつだか齋宮いつきのみや,三族高家以徇咸陽。嬰為しんおうよんじゅうろくにちすわえはた沛公やぶしんぐんにゅうせきとげいたり霸上,使つかいじんやくくだ嬰。嬰即けい頸以ぐみ白馬はくばもとしゃ奉天ほうてん璽符,くだ軹道つくり。沛公とげにゅう咸陽,ふう宮室みやむろかえぐん霸上。きょ月餘げつよ諸侯しょこうへいいたりこうせきためしたがえちょうころせ嬰及はたしょ公子こうし宗族そうぞくとげほふ咸陽,しょう其宮しつとりこ其子おんなおさむ珍寶ちんぽう貨財,諸侯しょこうどもぶんめつしんこれかくぶん其地ためさんめい曰雍おうふさがおう、翟王,ごう曰三しん項羽こううため西にしすわえ霸王,主命しゅうめいぶん天下てんかおう諸侯しょこうはた竟滅矣。こうねん天下てんかてい於漢。

評論ひょうろん[編集へんしゅう]

ふとしおおやけ曰:はたこれさきはくかげ,嘗有くん於唐おそれさい,受土たまものせい。及殷なつあいだほろいたりしゅうおとろえはたきょう,邑于西にしたれ繆公以來いらいやや蠶食さんしょく諸侯しょこう,竟成はじめすめらぎはじめすめらぎ以為功過こうかみかど廣三こうぞうおう,而羞與侔。善哉ぜんざい乎賈せい推言也!曰:

はた并兼諸侯しょこう山東さんとうさんじゅうぐんつくろえせきよりどころけわしふさがおさむかぶとへい而守しかちんわたる以戍そつ散亂さんらん眾數ひゃく,奮臂大呼たいこ不用ふようゆみ戟之へい,鉏櫌しろてこもち而食,橫行おうこう天下でんかしんじん阻險もりせきりょう闔,ちょう戟不とげつよしいしゆみしゃすわえ深入ふかいりせん於鴻もん,曾無はんませ艱。於是山東さんとうだい擾,諸侯しょこう并起,ごうしゅんしょうりつしん使あきら邯將而東征とうせいあきら邯因以三軍之眾要市於外,以謀其上。群臣ぐんしん不信ふしん於此矣。嬰立,とげ寤。藉使嬰有いさおぬしざい,僅得中佐ちゅうさ山東さんとう雖亂,はたぜん而有,宗廟そうびょうまつとうぜっ也。

はたやまたいかわ以為かた,四塞之國也。繆公以來いらいいたり於秦おうじゅうあまりくんつねため諸侯しょこうゆうあに世世よよ賢哉けんや?其勢居然きょぜん也。且天嘗同こころ并力而攻しん矣。とう此之けんさとし并列,りょう將行まさゆき其師,けんしょうどおり其謀,しかこま於阻けん不能ふのうしんはた乃延いれせん而為ひらけせきひゃく萬之徒逃北而遂壞。あにいさむつとむ智慧ちえ不足ふそく哉?かたち不利ふりいきおい不便ふべん也。はたしょう邑并大城おおきまもりけわしふさが而軍,こうるい毋戰,閉關よりどころ阨,戟而守之もりゆき諸侯しょこうおこり匹夫ひっぷ,以利あいゆうもとおうこれぎょう也。其交おや,其下めいためほろびはた,其實利之としゆき也。かれはた阻之なんはん也,必退安土あづちいきみん,以待其敝,おさむじゃく扶罷,以令大國たいこくきみ患不得意とくい於海內。ため天子てんし富有ふゆう天下でんか,而身ため禽者,其救はい也。

はたおうあしおのれ不問ふもんとげ不變ふへんせい受之,いん而不あらため暴虐ぼうぎゃく以重孤立こりつおや,危弱輔。三主惑而終身不悟,ほろびまたむべ乎?とう此時也,せい深慮しんりょ也,しか所以ゆえん盡忠じんちゅうはらいしゃはたぞく忌諱きききん忠言ちゅうげんひつじそつ於口而身ため戮沒矣。使つかい天下でんかかたぶけみみ而聽,じゅうあし而立じりつ,拑口而不言ふげん以三ぬししつどう忠臣ちゅうしん敢諫,さとし敢謀,天下てんかやめみだれかん上聞じょうぶんあにあい哉!先王せんおう雍蔽きずこく也,おけ公卿くぎょう大夫たいふ,以飾ほうしつらえけい,而天。其彊也,きん暴誅らん而天ふく。其弱也,五伯征而諸侯從。其削也,內守がい社稷しゃしょくそんしんもり也,しげるほう嚴刑げんけい而天;及其おとろえ也,百姓怨望而海內畔矣。しゅうじょとく其道,而千さいぜっはた本末ほんまつ并失,長久ちょうきゅうよし此觀安危あんきすべ相去あいさりどお矣。ことわざ曰「ぜんこと忘,後事こうじ也」。以君為國ためくにかん上古じょうこけん當世とうせいまいり人事じんじ,察盛衰せいすいしん權勢けんせいむべ去就きょしゅうゆうじょ變化へんかゆう曠日長久ちょうきゅう社稷しゃしょくやす矣。

はたたかしおおやけよりどころ殽函かたよう雍州君臣くんしん固守こしゅ而窺しゅうしつゆう席卷せっけん天下でんかつつみ舉宇內,囊括四海しかい,并吞はちあらこれこころとうしょうくん,內立法度はっとつとむたがやせおさむもりせん備,そと連衡れんこう而鬬諸侯しょこう,於是しんじん拱手こうしゅ而取西河にしがわそと

こうこうすんでぼつめぐみおうたけおうこうむぎょういんのこさつみなみけんかんちゅう西にし舉巴、しょくひがしわりあぶら腴之おさむ要害ようがいぐん諸侯しょこう恐懼きょうくかいめい而謀じゃくしんあいちん重寶ちょうほうこえ美之みゆき,以致天下でんか合從がっしょうしめ交,そうあずかためいちとうひとしゆうはじめ嘗,ちょうゆう平原へいげんすわえ有春ありはるさる有信ありのぶりょう。此四くんしゃみな明知めいち而忠しんじ寬厚かんこう而愛じんみことけんじゅうやくしたがえはなれ衡,并韓、つばめすわえひとしちょうそうまもる中山なかやま眾。於是六國之士有寧越、じょしょうはたもり赫之ぞく為之ためゆきはかりごとひとしあきらしゅうさいちん軫、あきらすべりろうなる、翟景、厲、らくあつしどおり其意,おこりまご臏、おび佗、りょうおう廖、れん頗、ちょうおごこれともせい其兵。つねじゅうばいひゃくまんこれ眾,叩關而攻しんしんじんひらきせきのべてき,九國之師逡巡遁逃而不敢進。はたほろびのこ鏃之,而天諸侯しょこうやめこま矣。於是したがえやくかいそうわり而奉しんはたゆう餘力よりょく而制其敝,ついほろび逐北,ふくしかばねひゃくまん流血りゅうけつ漂鹵。よしじょう便びんおさむわり天下でんか分裂ぶんれつ河山かわやまつよしこく請服,弱國じゃっこく入朝にゅうちょうのべ及孝ぶんおうそうじょうおうとおるこく日淺ひあさ國家こっか無事ぶじ

及至しんおうぞくろくせいれつちょうさく而御宇內,吞しゅう而亡諸侯しょこうくつ至尊しそん而制ろくごう棰拊以鞭むち天下でんか四海しかいみなみひゃくえつこれ,以為かつらりんぞうぐん,百越之君俛首系頸,いのち吏。乃使こうむ恬北筑長じょう而守はんませ,卻匈やつななひゃくあまりさとえびすじん敢南而牧敢彎ゆみ而報怨。於是はい先王せんおうみち,焚百げん,以愚黔首。墮名じょうころせごうしゅんおさむ天下でんかへい聚之咸陽,銷鋒鐻,以為きんじんじゅう,以弱黔首みんしかはなためじょういんかわためよりどころおくたけしろ,臨不測ふそく谿以ためかたはた勁弩もり要害ようがいしょしんしんせいそつちんとしへい誰何すいか天下てんか以定。しんおうしん以為せきちゅうかた金城きんじょう千里せんり子孫しそん帝王ていおうまんせいこれぎょう也。

はたおうすんでぼつ餘威よい於殊ぞくちんわたる,罋牖なわくるる之子ゆきこ,甿隸これにん,而遷徙之才能さいのう及中じんゆうなかぼく翟之けんとうしゅ、猗頓とみ,躡足ぎょうあいだ,而倔おこり什伯ちゅうりつやめこれそつはたすうひゃくこれ眾,而轉おさむしんためへい,揭竿ため天下てんか雲集うんしゅうひびきおう,贏糧而景したがえ山東さんとうつよししゅんとげ并起而亡しんぞく矣。

且夫天下でんかしょうじゃく也,雍州,殽函かた自若じじゃく也。ちんわたるこれみこと於齊おさいすわえつばめちょうかんそうまもる中山なかやまきみ;鉏櫌とげ矜,錟於戟長鎩也;てき戍之眾,こう於九國之くにゆき深謀遠慮しんぼうえんりょ行軍こうぐん用兵ようへいみち及鄉也。しか成敗せいばい異變いへん功業こうぎょう相反あいはん也。ためし使さん東之ひがしのこくあずかちんわたるちょう絜大,けんりょうりょくのり不可ふか同年どうねん而語矣。しかはた以區せんじょうこれけん,招はちしゅう而朝同列どうれつひゃく有餘ゆうよねん矣。しかこうろくごうため,殽函ためみや,一夫作難而七廟墮,人手ひとでため天下でんかわらいしゃなに也?仁義じんぎほどこせ而攻もりいきおい也。

はた并海內,けん諸侯しょこう南面なんめんしょうみかど,以養四海しかい天下てんか斐然きょうふうわかしゃなん也?曰:近古きんこ王者おうじゃひさ矣。しゅうしつ卑微,霸既歿,れいくだり於天以諸こうりょくせいつよしおかせじゃく,眾暴寡,兵革へいかく不休ふきゅう士民しみんやめ敝。こん秦南はだみなみめん而王天下でんかじょうゆう天子てんし也。すんで元元もともとみん冀得やす其性いのち,莫不虛心きょしん而仰じょうとう此之まもりていこう安危あんきほんざい於此矣。

はたおうなつけむさぼひなしんぎょう奮之さとし不信ふしん功臣こうしんおや士民しみんはい王道おうどうたて私權しけんきん文書ぶんしょ而酷刑法けいほうさきいつわりりょく而後仁義じんぎ,以暴虐ぼうぎゃくため天下でんかはじめおっと并兼しゃだかいつわりりょく安定あんていしゃじゅんけん,此言あずかもり不同ふどうじゅつ也。しんはなれ戰國せんごく而王天下でんか,其道不易ふえき,其政あらため其所以取守之もりゆきしゃ也。孤獨こどく而有其亡たて而待。使つかいしんおうけい上世じょうせいこと,并殷しゅうあと,以制其政,雖有いんおごこれしゅ而未ゆうかたぶけ危之患也。さんおうけん天下でんか名號みょうごうあらわ功業こうぎょう長久ちょうきゅう

こんしんせいりつ天下てんか莫不引領而觀其政。おっとかんしゃ裋褐而饑しゃ甘糟あまかすぬか天下てんか嗷嗷,しんあるじ也。此言ろうみんやすためじん也。さと使二世有庸主之行,而任ちゅうけんしんぬし一心而憂海內之患,しまもと而正先帝せんてい裂地きれじぶんみん以封功臣こうしんこれけん國立こくりつくん以禮天下でんかきょ囹圉而免けい戮,除去じょきょおさむ帑汙けがれつみ使つかいかくはん其鄉さとはつくら廩,散財さんざいぬさ,以振孤獨こどくきゅうこまこれけいしょうこと,以佐百姓ひゃくしょうきゅうやくほうしょうけい以持其後,使つかい天下でんかひとみなとくしんさらぶし修行しゅぎょうかくまき其身,ふさが萬民ばんみんもち,而以威德いとくあずか天下てんか天下てんかしゅう矣。そく四海しかい內,みな各自かくじ安樂あんらく其處,ただおそれゆうへん,雖有狡猾こうかつみんはなれ上之うえのしんのり不軌ふきしん以飾其智,而暴らんかんどめ矣。二世にせいくだり此術,而重以無どう,壞宗廟そうびょうあずかみん更始こうしさく阿房宮あぼうきゅうしげるけいげん誅,吏治こくふか賞罰しょうばつ不當ふとう斂無天下てんか多事たじ,吏弗のう,百姓困窮而主弗收恤。しかこうかんにせ并起,而上下相おりあい遁,こうむつみしゃ眾,けい戮相もち於道,而天きみきょう以下いかいたり于眾庶,にんなつけ危之しんおやしょきゅう,咸不安ふあん其位,えきどう也。以陳わたる不用ふよう武之たけゆきけん藉公こうみこと,奮臂於大おだいさわ而天ひびきおうしゃ,其民危也。先王せんおう始終しじゅうへん存亡そんぼう牧民ぼくみんみちつとむざい安之やすゆき而已。天下てんか雖有逆行ぎゃっこうしん,必無ひびきおうじょ矣。曰「やすみんあずか行義ゆきよし,而危みんえきあずかため」,此之いい也。ため天子てんし富有ふゆう天下でんかめん於戮ころせしゃせいかたぶけ也。せい也。

じょう公立こうりつとおるこくじゅうねんはつため西にし畤。そう西にしたれなまぶんこう

ぶん公立こうりつきょ西にしたれみやじゅうねんそう西にしたれなませいこう

しずかこうとおるこく而死。なまけんおおやけ

けんおおやけとおるこくじゅうねんきょ西新にしあら邑。そう衙。なまたけこうとくこう

とおるこくろくねんきょ西陵せいりょう。庶長どるるいまいりちちさんにんりつぞくぞくひな衍,そう衙。たけ公立こうりつ

たけこうとおるこくじゅうねん居平いだいらふうみやそうせん聚東みなみさん庶長ふく其罪。とく公立こうりつ

とくこうとおるこくねんきょ雍大ていみやなませんこうなりこう、繆公。そうはつふく,以御蠱。

せんこうとおるこくじゅうねんきょみやそう初志しょし閏月じゅんげつ

なりこうとおるこくよんねんきょ雍之みやそうひとしやまえびすちく

繆公とおるこくさんじゅうきゅうねん天子てんし致霸。そう雍。繆公がくちょじんなまかんこう

かんこうとおるこくじゅうねんきょ雍高そう竘社。なまともこう

きょうおおやけとおるこくねんきょ雍高そうかんこうみなみなま桓公かんこう

桓公かんこうとおるこくじゅうななねんきょ雍太そううらおかきたなまけいこう

けいこうとおるこくよんじゅうねんきょ雍高そうおかうらみなみなま畢公。

畢公とおるこくさんじゅうろくねんそうしゃうらきたなまえびすこう

えびすこうとおるこくそうひだりみやなまめぐみおおやけ

めぐみおおやけとおるこくじゅうねんそうしゃさとかんけい)。なま悼公。

悼公とおるこくじゅうねんそう僖公西にししろ雍。なま剌龔こう

剌龔こうとおるこくさんじゅうよんねんほうむにゅうさとなま躁公、ふところこう。其じゅうねん彗星すいせい

躁公とおるこくじゅうよんねんきょ受寢。そう悼公みなみ。其元ねん彗星すいせい

ふところこうしたがえすすむらいとおるこくよんねんそうくぬぎ圉氏。生靈いきりょうこうしょしんかこえふところこうふところこう自殺じさつ

肅靈こう昭子あきこ也。きょ涇陽。とおるこくじゅうねんそう悼公西にしなま簡公。

簡公したがえすすむらいとおるこくじゅうねんそう僖公西にしなまめぐみおおやけ。其ななねん百姓ひゃくしょうはつ帶劍たいけん

めぐみおおやけとおるこくじゅうさんねんそうりょう圉。生出おいでこう

こうとおるこくねんだしこう自殺じさつそう雍。

けんじこうとおるこくじゅうさんねんそう囂圉。なまこうこう

こうこうとおるこくじゅうよんねんそうおとうと圉。なまめぐみぶんおう。其じゅうさんねんはじめ咸陽。

めぐみぶんおうとおるこくじゅうななねんそうおおやけりょうなま悼武おう

悼武おうとおるこくよんねんそうながりょう

あきらじょうおうとおるこくじゅうろくねんそう茝陽。なま孝文たかふみおう

孝文たかふみおうとおるこくいちねんそうことぶきりょうなまそうじょうおう

そうじょうおうとおるこくさんねんそう茝陽。なま始皇帝しこうていりょ韋相。

けんじ公立こうりつななねんはつ行為こういじゅうねんため戶籍こせきしょう

こう公立こうりつじゅうろくねんときもも冬華ふゆか

めぐみぶんおうせいじゅうきゅうねん而立じりつだてねんはつくだりぜにゆう新生しんせい嬰兒えいじ曰「はた且王」。

悼武おうせいじゅうきゅうねん而立じりつだてさんねん,渭水あかさんにち

あきらじょうおうせいじゅうきゅうねん而立じりつだてよんねんはつ為田ためだひらく阡陌。

孝文たかふみおうせいじゅうさんねん而立じりつ

そうじょうおうせいさんじゅうねん而立じりつだてねんふとはらそうじょうおう元年がんねん大赦たいしゃおさむ先王せんおう功臣こうしんほどこせとくあつ骨肉こつにくぬのめぐみ於民。あずまあまねあずか諸侯しょこうはかりごとしんはた使つかい相國しょうこく韋誅つきにゅう其國。はたぜっ其祀,以陽じんたまものあまねくんたてまつ祭祀さいし

はじめすめらぎとおるこくさんじゅうななねんそう酈邑。なませい皇帝こうていはじめ皇生きみおじゅうさんねん而立じりつ

せい皇帝こうていとおるこくさんねんそうむべはるちょうだかため丞相じょうしょう安武やすたけこう二世にせいせいじゅうねん而立じりつ

みぎはたじょうおおやけいたりせいろくひゃくいちじゅうさい

孝明たかあき皇帝こうていじゅうななねんじゅうがつじゅうにちおつうし,曰:

しゅうれきやめうつりひとしだいはははたただし其位,りょせい殘虐ざんぎゃくしか以諸こうじゅうさん,并兼天下でんかごくじょうたてよく養育よういくむねおやさんじゅうななねんへいしょ制作せいさく政令せいれいほどこせ於後おうぶたとく聖人せいじんかわ神授しんじゅよりどころおおかみきつね,蹈參、せい驅除くじょ,距之たたえはじめすめらぎ

はじめすめらぎすんで歿,えびすごく,酈山畢,ふくさく阿房あほう,以遂まえさくうん「凡所為しょいゆう天下でんかしゃ肆意しいごくよく大臣だいじんいたりよくやめ先君せんくん所為しょい」。誅斯、やまし任用にんようちょうだかつう哉言乎!人頭じんとう畜鳴。あくあつしきょほろび,距之とくとめ殘虐ざんぎゃく以促,雖居がた便びんくになおとくそん

嬰度とく嗣,かんむりたまかんむり,佩華紱,くるましたがえひゃくつかさ,謁ななびょう小人こどもじょう,莫不怳忽しつもり,偷安日日ひびどくのうちょうねん卻慮,父子ふしさくけんきん於戶牖之あいだ,竟誅猾臣,ためくん討賊。こうこれまろうどこんとくつきしょうろう,餐未及下むせさけ及濡脣,すわえへいやめほふかんちゅう真人まさとしょう霸上,もとしゃ嬰組,たてまつ其符璽,以歸みかどしゃていはくちがや旌鸞がたないむおう退すさしゃかわけつ不可ふかふく壅,さかなただれ不可ふかふくぜん。賈誼、司馬しば遷曰:「こう使つかい嬰有いさおぬしざい,僅得中佐ちゅうさ山東さんとう雖亂,はたぜん而有,宗廟そうびょうまつとうぜっ也。」はたせきおとろえ天下てんかくずし瓦解がかい,雖有しゅうだんざいしょふくひね其巧,而以せめいちにちあやま哉!俗傳ぞくでんはたはじめすめらぎおこり罪惡ざいあくえびすきょくとく其理矣。ふくせめしょううんしんぜん所謂いわゆる不通ふつうへんしゃ也。以酅,春秋しゅんじゅうわれ讀秦いたり於子嬰車きれちょうだか嘗不けん其決,憐其こころざし。嬰死せい備矣。

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