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えき人生じんせい

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少年しょうねんこうえきとくしゅうえきけいつばさどおり解讀かいどく反覆はんぷく玩味がんみややつうえき。而後はんもとめこれぐんせきちゅう涉獵しょうりょう頗勉。じゅうねん於茲。はじめはさみうたぐ於序もとめ筮於經驗けいけん渾然こんぜん如會。きよし乎似しゃくだつ舊套きゅうとうべつなり此說。不遜ふそんつみ。謭劣そしところ古人こじん曰。われ可愛かわい如道。ゆうしょ信也しんや大正たいしょうねんきゅうがつ上旬じょうじゅん遠藤えんどう隆吉りゅうきち識於えん學舍がくしゃ


えき人生じんせい

文學ぶんがく博士はかせ 遠藤えんどう隆吉りゅうきち ちょ


いち えき人生じんせい

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ろくじゅうよん順序じゅんじょ

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 此のしゅうえきろくじゅうよんはなしは、全体ぜんたいあまりスペシヤルであつて、興味きょうみいだらうとおもふけれども、えきせんもん方面ほうめんからると興味きょうみのあることゝ自分じぶんしんじてる。斯ううん意見いけん腦髓のうずい破壞はかいするやうなおそれがあつて隨分ずいぶん精神せいしん刺激しげきすることゝおもふ。

 全体ぜんたいろくじゅうよん順序じゅんじょうんふのは、しゅうえきおい一定いっていしてるが、此の順序じゅんじょかならずしも學理がくりてきでないとうんふことはろくじゅうよんをーればのうぶんる。じゅうつばさちゅう最後さいごじょでんうんふのがあつて、ろくじゅうよんは斯ううん道理どうり順序じゅんじょであるとうんつていてあるけれども、おっと全然ぜんぜん牽强けんきょう附會ふかいせつ聖人せいじんいたとはおもはれない。おっとうさぎかくえき排列はいれつおっと自身じしんおい學理がくりてきでないとおもふ。しょろくじゅうよん順序じゅんじょ順序じゅんじょかわへたかたよろしからう、しんらしい順序じゅんじょ排列はいれつせらるゝであらうとうんかんがえはどううんふところからつてたかとうんふとしゅうえき哲學てつがくとして抽象ちゅうしょうしてたいとうん硏究けんきゅう結果けっかからたのである。しゅうえきには上下じょうげけいと其他にじゅうつばさうんふのがある、じゅうつばさ普通ふつう文章ぶんしょうであるからして其じゅうつばさかくへんづけ哲學てつがく抽象ちゅうしょうすることは容易たやす出來できる、たとへばうえぞうぞううえぞうしもぞううえ繫辞、しも繫辞、文言もんごんせつじょざつ哲學てつがくのやうな工合ぐあいに、かくへんおいて其哲がく思想しそう抽象ちゅうしょうすることが出來できる、おっとれにじゅうつばさ全体ぜんたいわたるつて抽象ちゅうしょうするとうんふことは出來できないことではない、ところうえけいけいになるとどうもひとつにへんつて哲學てつがく系統けいとうとしていちしゅ思想しそうはすことは出來できない、どうかんがへても上下じょうげけいから哲學てつがく系統けいとう編出あみだすとうんふこと困難こんなんである。上下じょうげけいろくじゅうよん行列ぎょうれつしてながあいだ歷史れきしてきに此順じょ排列はいれつされてるからこれくずすことも出來できない、くずさないでかんがへてるとどうかとうんふと言葉ことばあま簡單かんたんで其上ろくじゅうよんあるものが如何いかにも種類しゅるい一樣いちようでないから、ろくじゅうよん方面ほうめんおい哲學てつがく抽象ちゅうしょうすることは出來できない。

ロ かく爻の哲學てつがく

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 つぎなにこれ西洋せいよう哲學てつがくりゅうかんがへたならばろくじゅうよん解釋かいしゃくることは出來できまいか、其に就て苦心くしんしてたのである。どうかろくじゅうよんから哲學てつがく思想しそう抽象ちゅうしょうしてたい、一種いっしゅ哲學てつがくさくつてたいとかんがへた。ナカこうへがなかつたとうんふのはろくじゅうよんみなろく爻からなりつてつて、いちさんよんろくしたからろくほんである、一番いちばんはじめが人民じんみんくらいつぎつぎ大夫たいふつぎ公卿くぎょうつぎ天子てんし、其次が無位むい地位ちいうんふやうなわけ社會しゃかいてき順序じゅんじょとうはまつてる、たとへばいぬいに就てげんふと「はつきゅう潛龍せんりゅう勿用』といて人民じんみんであるから意見いけんしたりなにかすることはせぬほうよろしいとうんふ、だいのことがいてある、りゅうはじめてところであるから『九二見龍在田利見大人』といてある、九三くぞうすなわ大夫たいふいまげんふと縣知事けんちじ位置いち段々だんだん貴顯きけんちかい、おっとれで『きゅうさん君子くんし終日しゅうじついぬいゆう惕若厲无とがめ』といてある、きゅうよん宰相さいしょうくらいあるい公卿くぎょうくらいであるから『九四或躍在淵无咎』といてある、きゅう天子てんしくらいであるから『九五飛龍在天利見大人』つぎに『うえきゅう亢龍こうりょうゆう悔』といてある、天子てんしつぎ無位むい位置いちおっと社會しゃかいてき位置いちとうめてある、其社會しゃかいてき位置いち相當そうとうした言葉ことばいてある。くずして哲學てつがく思想しそう抽象ちゅうしょうすることは困難こんなんである。

 ある場合ばあいにはうんさまにやつてた。一番いちばん人民じんみんはどううんふことをやるべきかうんはゞ人民じんみん處世しょせいくんとかまた道德どうとくくんとかいふようかんがへてことがある、おっとから如何樣いかさまにやるかといふことをしたからばんの爻辞をろくじゅうよんあわせてかんがへたこともある、さん番目ばんめよん番目ばんめものどうろくじゅうよん言葉ことばおっとあつめて大夫たいふはどううんあるい公卿くぎょうはどううんうんふやうにかんがへてたこともあつた。つぎ天子てんしくらいであるから天子てんしはどううん具合ぐあいはりろくじゅうよんあわせてかんがへたこともある、あるい在野ざいや賢人けんじん如何樣いかさまにすべきかと全体ぜんたいむっつにけてかんがへてたならば哲學てつがく思想しそう抽象ちゅうしょうすることが出來できまいかとおもふたのである、倂しそううん工合ぐあいにやるとまったろくじゅうよん言葉ことば彼方かなたからも此方こちらからもあつめてたけまる。而もおっとれがろくしょうだけとごくつてる、おっとではあま意味いみ淺薄せんばく面白おもしろくないとおもえつたのである。

ニ ろくじゅうよん人生じんせい

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 其處で今度こんどあらためてかんがへてるのにしゅうえきろくじゅうよんうんふものはなにしめしてるだらうかろくじゅうよん名稱めいしょうかんがへるとあるい人間にんげん社會しゃかい關係かんけいあるものありあるい天地てんち自然しぜん現象げんしょう關係かんけいのあるものもある、またしょくものとかあるいといふやうなごく些細ささいこと關係かんけいのあるものもある、またたん太陽たいようのぼるとかふうこおりくとかいふ工合ぐあい性質せいしつわかくはかつ勒に關係かんけいのあるものもあるろくじゅうよんといふとかずすくないやうだけれどもしめして種類しゅるいはなは多樣たようである、ソコで此方こちらめんからかんがへたけれどもちょう統一とういつ出來できわるい、倂ししゅうえきろくじゅうよんろんずる場合ばあいには折角せっかくむかししからの聖人せいじんいちいちとしてゆうする意味いみたせてつたのであるから、其つもりで系統けいとうさくつてなければ面白おもしろないとかんがへて、自分じぶんは斯ううんふことをかんがへたのである、おっとろくじゅうよんいまいふたよう工合ぐあい種々しゅじゅ現象げんしょうしめしてるけれども、いずれも人間にんげん社會しゃかい關係かんけいがある、直接ちょくせつ間接かんせつ關係かんけいる。其關がかりとはどううん方面ほうめんかといふことを聯想れんそうしたのである、たとへばがあるとうんふと其が如何いか人間にんげん社會しゃかい關係かんけいするかといふと人間にんげんやしなえふといふほう解釋かいしゃくする、またかなえといへば物體ぶったいであるけれどもちょう人間にんげん社會しゃかい關係かんけいする。ヒユウマンライフのなかやしなえふといちゅうふくまれてる、またたけふしといふやうなことがあるがちょう人間にんげん節操せっそうといふやうに解釋かいしゃくされる、其他太陽たいようのぼるといふのはちょう人間にんげん段々だんだん立身出世りっしんしゅっせする意味いみ解釋かいしゃくされる、おっとであるからろくじゅうよんといふものは直接ちょくせつ間接かんせつみなヒユウマンライフのいち方面ほうめんしめしたものであるとかんがへた。これ最後さいごこうへであつた。

 しからば此考へにしたがえつてしゅうえきろくじゅうよん排列はいれつしたら面白おもしろくなからうかとかんがへた。大体だいたい意味いみをいふと斯ういふことになる。ヒユウマンライフといふしゃ方面ほうめん分類ぶんるいするには如何樣いかさまにすべきかこれがナカ問題もんだいであらうとおもふ。けれどもうさぎすみあまねえきろくじゅうよん人間にんげん生活せいかつかく方面ほうめんいたものである。方面ほうめんはどんなものであるか。かた精密せいみつであると精密せいみつでないとはべつとしてうさぎかくろくじゅうよんつてかんがへたらどうかといふに、人間にんげん立身出世りっしんしゅっせといふものをしめした隨分ずいぶんある、また結婚けっこん解釋かいしゃくしたもの隨分ずいぶんある。旅行りょこうまた朋友ほうゆう義理ぎり解釋かいしゃくしたものもある。おっとから食物しょくもつ解釋かいしゃくしたものもありせん解釋かいしゃくしたものもある、またものおくる受るといふことを解釋かいしゃくしたものもあるまた困難こんなんわかくは逆境ぎゃっきょうしょすることを解釋かいしゃくしたものもありあるい順境じゅんきょうしょしたことをいたものもある。其他言たごんはなくともだい槪想ぞうくとおもふけれどもそういふ工合ぐあいにヒユウマンライフのかく方面ほうめん解釋かいしゃくしたものるとろくじゅうよん全体ぜんたいかんがへても此のごと意味いみることとおもふのである。おっとであるからさらに斯ういふやうにちぢめて學理がくりてきにヒユウマンライフといふもの分析ぶんせきする、れがじゅうになりあるいじゅうになる。其處へろくじゅうよん排列はいれつすると完全かんぜんなるしゅうえきろくじゅうよん系統けいとうつと自分じぶんかんがへた。ソコでスツカリ順序じゅんじょなおして分類ぶんるいしたが其分類ぶんるいはたして精密せいみつであるかどうかは疑問ぎもんである。かたかならずしも一致いっちすることが出來できまいとおもふ。おっとひとこまてんである。もひとつはそういふ學理がくりてき分類ぶんるい仕方しかた排列はいれつしたしょで、いち兩方りょうほう關係かんけいしたのがある。此困なんゆるとすればいまいふたやうな順序じゅんじょなおすことが出來できる。おっとさき一段落いちだんらくである。

しゅうえき價値かち

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 ソコでしゅうえきといふ書物しょもつ如何いか利用りようすべきかといふだんになる、元來がんらいしゅうえきといふはもと卜筮ぼくぜいしょであるといふひともあるがおっとべつとしていちしゅ處世しょせいじょう訓戒くんかいとして解釋かいしゃくするほう面白おもしろいかとおもふ。其卜筮ぼくぜい排除はいじょしてまった處世しょせいくん道德どうとくくんとしてのちこん學理がくりてき排列はいれつされたもの應用おうようすることが出來できる、どういふ工合ぐあい應用おうようするかといふと自分じぶん今度こんど結婚けっこんしやうとおもふ。其時にはいままではトひでしてしゅうえきてきテにしたがさうでなく結婚けっこんしょひらいてむかししの聖人せいじんなんうんつてつたかおっと參酌さんしゃくする、またせんをするときにはたたかえさのるとたたかえさにかんする心持こころもちかる。また朋友ほうゆう交際こうさいする場合ばあいにもさうである、ちょう其處をひらいて交際こうさいのこともるといふようになる。斯樣かよう工合ぐあいときえきいふ書物しょもつただ卜筮ぼくぜいといふ方面ほうめんから効力こうりょくがあるのではなくして人々ひとびと實際じっさい生活せいかつ伴侶はんりょとなるものである、ところとうしゅうえきなどアテにするは今日きょうひとからて羞かしくないかどうか、言葉ことばでいふとしゅうえきおっとれだけの價値かちがあるかといふいちだんになる。おっと人々ひとびと見解けんかいで斯んなものはアテにならぬといつておわりへばおっとまでであるが自分じぶんこうへでは大變たいへんアテになるとおもふのである。むかししゅうえき言葉ことばさくつた人々ひとびとは孰れもうみせんねんやませんねん餘程よほどなまへた人間にんげん處世しょせいに就ては隨分ずいぶん精神せいしんねりつたじんであるとおもふ、ぶんおうとかしゅうこうとかがさくつたかいなやはべつとして社會しゃかい經驗けいけんのあるひとさくつたものにたがえひない。社會しゃかい經驗けいけんのあるひとげんふたことごく平々凡々へいへいぼんぼんなか意味いみある。さういうところからかんがへるとたしかにしゅうえき伴侶はんりょとして相談そうだん相手あいてとしてよろしいとおもふのである。これしゅうえきを贔負よう解釋かいしゃくであるが贔負ではない。福澤ふくさわ先生せんせい獨立どくりつ自尊じそんといふことをげんはれた、そんなことは雜作ぞうさなくげんはれるやうにおもへるが其獨立どくりつ自尊じそんといふ言葉ことばはじめてつくるが困難こんなんである。餘程よほどなかれたひとでなければ出來できないとおもふ。おっとであるから平々凡々へいへいぼんぼんなかうごかすべからざる格言かくげんがある。學問がくもんばかり發達はったつしたのでは學問がくもんじょう理窟りくつうまくなるが平々凡々へいへいぼんぼんなか廣大こうだい無邊むへん意味いみ發見はっけんするといふようなことは出來できない。ゆえ議論ぎろんうえからいつても相談そうだん相手あいてにすべしとおもふけれどもおっと人々ひとびとおもところてどうかとおもえはるゝのであるが自分じぶんはさうかんがへてる。これだいさんだんになる。おっとからえき何故なぜ處世しょせいじょう道德どうとくじょう訓戒くんかいとして相談そうだん相手あいてにするか。また座右ざゆうときはどういふ心持こころもち惹起じゃっきすかといふことを一言いちげんしなければならぬとおもふ。處世しょせいじょう訓戒くんかいたとへば朋友ほうゆうと交るとかあるい旅行りょこうするといふやうなことはこれいにしえへとかいまとか時代じだい變遷へんせんつてへんはるべきものではない。もとより朋友ほうゆうあいだ交際こうさいこまかいことになればたがえつてるが心持こころもちことなるやうなことはない。其根本こんぽん心持こころもち修養しゅうようするおっとれがしゅうえきところではないかとおもふ。たとへばひとと交はるに道德どうとくじょうこうへがなくて交つ てはいかぬとかいくらか自分じぶんはら修養しゅうよう出來できつて交はる。さう いふこうへがあつてやるほうよろしいだらう。あるい逆境ぎゃっきょうしょしたときは尙更 のことであるが、どういふ心持こころもちでやつたらよろしいかといふやうな根本こんぽん心持こころもちさくつてくといふことに就てはたしかにしゅうえきいちたすけになる とおもふ。これさきだいよんだんになるのである。

 おっとからまた最後さいごひとしゅうえきからしてわれ々がえきてんは斯ういふこ とにあるとおもふ。逆境ぎゃっきょうしょして泰然たいぜん自若じじゃくたり、順境じゅんきょうしょしてかならずしも 順境じゅんきょうのまゝによろこばない。さういふ精神せいしん狀態じょうたいやしなえふのが肝要かんようてんでは ないかとおもふのである。げんかわれば人間にんげん精神せいしんといふものを通常つうじょうかん じょう狀態じょうたいよりさら一段いちだんふかくせしめて社會しゃかいしょするといふやうな意味いみあい になつてる。だから愉快ゆかい無闇むやみさわまわるといふやうなことはなく なつてる、愉快ゆかいさわいだりあるいただちにあいんだりすることはある意味いみらいふとよろしいことであるけれどもちょうはらたいへるといふにいたりつては左樣さようでなく通常つうじょう以上いじょうすすんではら置場おきばきわめてほうよろしいとおも後世こうせい道家どうか一般いっぱんにさういふことをやつた。ツマリわれ々がしゅうえき書物しょもつなかからみとめたる實際じっさいじょう價値かちは其等のてんであつてうたぐふことは出來できない。これだいだんになる。さき大体だいたいてんはさういふしょやめるのである。

 えきうらない

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イ 占筮せんぜい原理げんり

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 占筮せんぜい未來みらい現象げんしょうらんとするものである。ゆえに曰はくうらないごと知來ちらいしも繫第じゅうしょうまた曰はくとげ知來ちらいぶつうえ繫第じゅうしょうまた曰はくきょくすう知來ちらいいいうらないうえ繫第しょうすなわ未來みらいである。占筮せんぜいつかさどところるべきである。また曰はく

かず往者おうしゃじゅん知來ちらいしゃぎゃくえきぎゃく數也かずやせつだいさんしょう

往をかずふるとは過去かこるのにあらずして筮竹ぜいちくかずふることをいいふ。筮竹ぜいちくかずふるはのり過去かこ因果いんがてき連絡れんらくを踪蹤するにかたどるのである。れより一直線いっちょくせんすすむで未來みらいなるぼう現象げんしょうらんとす。すなわ本文ほんぶん未來みらいることをげんふたのである。しかるに未來みらいかんする「ぎゃく」なる文字もじよりただちに「えきぎゃく數也かずや」とげんへるをもっれば占筮せんぜい未來みらいにあるをるにる。また曰はく。

おっとえきあきら往而察來。而顯微けんびせきかそけひらき而當めいべんぶつせいげんだんそく備矣。しも繫第ろくしょう

あきら往とはすなわ筮竹ぜいちくかずふるにそとならない。えき占筮せんぜい過去かこ進路しんろよりしてもっ未來みらいらんとするものなることとう引用いんようぶんによりてかである。しからば占筮せんぜいの此の思想しそうえき哲學てつがくより如何いかにしておこるかとうんふにちゅう生成せいせい思想しそうよりするものそとならない。えき哲學てつがく宇宙うちゅう生成せいせい進路しんろもって「太極たいきょくりょうよんぞう八卦はっけ」となす。自然しぜん現象げんしょうすのである。八卦はっけかさねたるろくじゅうよん社會しゃかいけるろくじゅうよん狀態じょうたいしめせめすものしかしてこんうらないせんとするぼう現象げんしょうなかいずれかいちに該とうすとなす。すなわぼう現象げんしょうすなわろくじゅうよんあるいちは「太極たいきょくりょうよんぞう八卦はっけ」の順序じゅんじょ生成せいせいせしものとなさゞるをない。えき哲學てつがくにありては正當せいとうなる思想しそうである。

 天文學てんもんがくりて日月じつげつの蝕を豫測よそくするは自然しぜん法則ほうそくかずふるによる。えきまた宇宙うちゅう生成せいせい自然しぜん法則ほうそくかずへてもっ未來みらい豫測よそくせんとするものである。此の「かずふる」とうんふことがえき作者さくしゃりては占筮せんぜい正確せいかくなる所以ゆえんぼういしずえおもはれたのである。ゆえじゅうつばさなかかず」なる文字もじは屢々もちいひられた。えき作者さくしゃ以爲らく。太極たいきょく陰陽いんようよんぞう八卦はっけ順序じゅんじょついふてもっじゅうるときはじゅうたるや自然しぜん法則ほうそくかずへてもったるものなるがゆえ正確せいかくにしてあやまりなきものであると。しかれども今日きょうよりればじゅう所以ゆえんかたほうえき作者さくしゃ符號ふごうにしてらざるものよりればかならずしも宇宙うちゅう自然しぜん法則ほうそくかずふるものとはおもはれないまた天文學てんもんがく計算けいさんによりて未來みらい豫測よそくるはからだてき事實じじつたいするからだてき計算けいさんによるがためであるがえき占筮せんぜいにて宇宙うちゅう自然しぜん進路しんろかずふるとすれば一般いっぱんてき計算けいさんほうにしてしたがえぼうからだてき現象げんしょう豫知よちすることは出來できないわけだ。進化しんかろん比較ひかくしてこれしめさんに進化しんかろんきょうへて曰はく。無機物むきぶつのち有機物ゆうきぶつあり、有機物ゆうきぶつのち精神せいしんあり、精神せいしんのち人類じんるいあり、人類じんるいにはいくしゅありと。わかじんあり。無機むき有機ゆうき精神せいしん人類じんるいよん段階だんかいある有形ゆうけいてき方法ほうほうによりて想像そうぞうし、しかしてわがだしでたりとなさむか。進化しんかろんを其儘しんはんくつがえせるにそとならない。こん占筮せんぜいいちよんはち順序じゅんじょくもまたたんえき哲學てつがくしんはんくつがえせるにそとならない。進化しんか一般いっぱんよん段階だんかい如何いかしん反覆はんぷくするもぼう現象げんしょう指名しめいせられない。占筮せんぜいほうによりてじゅうたりとするもじゅう一般いっぱん理論りろんすものでぼう現象げんしょうすのではない。ただし占筮せんぜいこれもっぼう現象げんしょうすとなす、ぼう現象げんしょうすものとすればかくいち現象げんしょうよんはち順序じゅんじょつくられししゃとなさゞるらずよんはちは其現象げんしょうはらるがゆえからだてきならざるらず。からだてきとなさば占筮せんぜいせんとする刹那せつなおいおのれいま占筮せんぜい普遍ふへんなる意味いみあるものでなくからだてき因果いんが關係かんけいしめせめすものとなさゞるをない。えき占筮せんぜい唯一ゆいいつかくで其理ろんてき方面ほうめんよりげんはんか。天地てんちすうじゅうもてあそびつゝありしあいだいちめんには天文てんもん數學すうがくてき未來みらい豫見よけんすることにおもおよび、またいちめんには天地てんちあいだすすむどう陰陽いんよう分裂ぶんれつもっ抵となすことにおもいたり、此に占筮せんぜいほうしょうつたのである

ロ 占筮せんぜいほう

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 いまただちに占筮せんぜいほう一般いっぱんしめせめしてよう。さきじゅうほん筮竹ぜいちくり內一本いっぽんのぞき、まかせてわかち、みぎ一本いっぽんひだり小指こゆびけ、(これかけうんふ)もっ天地人てんちじんさんさいかたどり、さら左手ひだりてにぎりしものをよんほんづゝすうへ、すなわよんかたどる。其餘れるものを仝じく小指こゆびけ、さら右手みぎてのものをよんほんづゝすうへ、れるものをおなじくひだり小指こゆびかかく。にてだい一變いっぺんおわる。さら左右さゆう筮竹ぜいちくきたり、したがえつてちゅうぶんし、みぎかた一本いっぽん小指こゆびあいだけ、よんもっけ、其餘れるものを小指こゆびあいだけ、左右さゆうのものをあわせてこれにてだいへんおわりふ。さらふたつにいちほんけ、よんほんづゝすうへ、其餘れるものをる。これにてだいさんへんおわりふ。さんへんおわりしのちれるものはじゅうよんほんじゅうはちほんさんじゅうほんさんじゅうろくほん、此よっつの場合ばあいない。これにてー爻をとくすなわひだりなかひとつである。

24=4×6= ⚋゜(ろうかげ
28=4×7= ⚊ (しょう
32=4×8= ⚋ (小陰こかげ
36=4×9= ⚊゜(ろう

 ろうろうかげとはのちへんつてかげとなりとなる。ゆえに゜でしるしてく。ななはちとはしょうしょうかげとにして此等は變化へんかしない。くしていち爻をる。以下いかおな方法ほうほうにてろく爻をるのである。ろく爻をたるこうは其卦をづけてぐうまたほんといふ。ろくほん中老ちゅうろうかげろうあるときはの爻はへんじてとなりかげとなる。此くしてへんつたづけてこれといふ。其二そのじつの關係かんけいによりて吉凶きっきょう善惡ぜんあく判斷はんだんするのである。

ハ こうへんうらない

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 いまろく爻をたとする。たとへば䷉。(註:゜は3ほん)がた。れにてうらないはんとするとき如何いかにすべきかといふに、此卦はほんまたぐうといふので゜のいたものがあればへんずるから䷼となる。ひだりでんなに々のなに々にこれくにぐうふとあるのはこれをいふのである。しかしてへんずるのはいま一本いっぽんれいであるがニほんのこともさんほんのことも乃至ないしろくほんのこともある。へんつたへんまたこれといふ。

 うらないふにはへんはる爻をおもとすべきか如何いかたとへばいまれいでいへばきゅうよんすなわからだいよん)をしゅとしてうらないふべきかといふに、一本いっぽん場合ばあいでもぜんいがよんほんほんとなつたらいずれをおもとすべきか。朱子しゅし易學えきがく啓蒙けいもうおいれにいてつまびらかにべてる。曰はく

いちへんずるときほんへん爻のもっうらないふ。
へんずるときほんふたつのへん爻のもっうらないふ。ただしうえ爻(ふたつのなかの)をもっおもとなす。
さんへんずるときほんおよこれぞういち全体ぜんたい)をうらないふ。しかしてほんもっさだとなし、これを悔となす。まえじゅうさだおもとす。じゅうは悔をおもとす。(ろくじゅうよんいずれもいちへんずるものとすればろくとなり、へんずるものとすればじゅうとなり、さんへんずるものとすればじゅうとなる。以下いかりゃくす。其二そのじじゅうに就てまえじゅうじゅうといふのであるがようするに人爲じんいてきへいまぬかれない。さだ不變ふへん悔はへんずることで不變ふへんへんとの關係かんけいせしむるのである)。
よんへんずるときこれふたつの不變ふへん爻をもっうらないの爻をもっおもなす。
へんずるときこれ不變ふへん爻をもっうらないふ。
ろくへんずるとき乾坤けんこんようようもちいきゅうようろくをいふ。えき本文ほんぶんれば乾坤けんこんかぎりつてろくほん以外いがいもちいきゅうようろくといふ言葉ことばがある。)をもちいひ、これぞううらないふ。

以上いじょう朱子しゅしかいであるが。ところかでない。これれにいて異論いろんもある。たとへば春台しゅんだいごとれである。いまべないが、ようするにうらないひはしゅうえき本文ほんぶん言葉ことばでは出來できない。あま簡單かんたんであるから如何いかしても種々しゅじゅなる聯想れんそうざつへなければ駄目だめである。其故に古來こらい種々しゅじゅなる方法ほうほうもっうらないをなさんとしてる。なかにはえきかつだんだと喝破かっぱしてものもある。

ニ ざつうらないほう

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 占筮せんぜい方法ほうほうひとつでない。いまべたのは所謂いわゆるほん筮である。もっとかんぜんなものである。これれにいてすら異論いろんがある。いまのはじゅうはちへんの筮法であるがこれれにたいしてさんじゅうろくへんの筮法といふがある。れは繫辞でんちゅうじゅうゆうはちへんしてをなし。八卦はっけしてしょうすとあるにおもいたものでじゅうはちへん出來できるのは八卦はっけすなわさん爻のであるからろく爻をるにはさんじゅうろくへんでなければならぬといふのである。皆川みなかわすなおは此のせつであつたが其筮ほうこころみにさくつたのは根本こんぽんだけおきなである。おうの筮法はしゅうえき復古ふっこ筮法といふに備つてる。自分じぶんは此筮ほうもって穩かでないとする。何故なぜなればよっつゞゝかずへんとしてもおのれさくたけのこと)のなきこともある。れは不都合ふつごうおもはれる。また爻の陰陽いんようていむるしょ如何いかにも人爲じんいてき面白おもしろくない。ゆえ自分じぶんは筮法としてはじゅうはちへんいとおもふ。また谷川たにがわ龍山たつやまごときはよんじゅうきゅうもちいひずしてよんじゅうはちもちいひてる(しゅうえきほん指南しなん)。なかにはよんじゅうほんもちいひてるのもある。また扐でうらないふのもあるし、筮でうらないふのもある。あるいは畧筮とて、はじいちじょ二分にぶんみぎかたいちけ、ひだりかたぶんはちづゝすうけし一本いっぽんれるものとをあわし、其數によしつてただちに一本いっぽんとき)兌(ほんときはなれふるえたつみ坎艮 ひつじさるとうさん爻卦をるとし、かいこれくだりひてろく爻卦をとく。此度ははちづゝのかわりにろくづゝすうへ、れるかずによりしたよりだいいち番目ばんめからへんずる方法ほうほうもある。此塲あいにはへん爻はなんでもひとつだ。またあるいは擲筮ほうといふてさんの筮をきたり、これ同時どうじとうじて陰陽いんよう老少ろうしょうさだめ、ろくかいこころみてろく爻をところものもある。れはむし便法べんぽうである。

 くして筮法には種々しゅじゅあるがいずれがあたるかはわからない。あた根據こんきょがあるかないかこれとうの筮法と原理げんりとをべたらあかりかであらうとおもふ。

ホ えき實用じつよう

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 これゆえ自分じぶん占筮せんぜいもっえきもちいひようとはおもはない。平生へいぜいりてえきもっ相談そうだんたいとなし、なにことあるときえきひもときてれに關係かんけい條項じょうこう參照さんしょうし、のうく其味をあじひてもっしずかにこれれにしょせんとするようにするのが必要ひつようである。れが筮法にらずしてえきもちいひたものである。ゆえ平生へいぜいより熱心ねっしんえきけいあじひ、のう聖人せいじん心理しんりつうずるときのりえきけいひもとかずしてのうまんへんしょすることが出來できようになる。れがえき活用かつようである。おそれみなみきょして曰はくえきまざるものは宰相さいしょうとなすらずと。すなわ這般しゃはん消息しょうそくげんふたものである。

 何人なんにん處世しょせいじょうには相談そうだんたいようするなるべし。えきもっと老練ろうれんなる相談そうだんたいたるべきである。えき中心ちゅうしんとして處世しょせいてき智識ちしき養成ようせいするとき活動かつどう基礎きそることとしんずる。勿論もちろんえきもっ十全じゅうぜんなるものとはしんじない。人生じんせい分類ぶんるいじゅうななといふもうたぐはしい。あるい以上いじょうであらう。經濟けいざいごときがけてるのもえる。しかれどもうさぎかく人生じんせい全般ぜんぱん意味いみ解釋かいしゃくせんとしたものがささえ古代こだいにあつたことはじつ面白おもしろい。えきわれじんよりれば一種いっしゅ處世しょせいがくまた社會しゃかいがく應用おうようてき方面ほうめんしょうすべきである。

 えきのためにとく一室いっしつもうとくに此種の精神せいしんやしなねて世人せじんえきとえふものにこたえへたくおもふ。

さん かげ中陽ちゅうよう中陰ちゅういん

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イ 出處しゅっしょ

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 さてまたかげ中陽ちゅうよう中陰ちゅういんといふことがある。此說は所謂いわゆる道家どうか根本こんぽん主義しゅぎ で、古來こらい其徒のつね唱道しょうどうしてところであるが、其がえきからることは うたぐひない。すなわ八卦はっけなかait=☵みず意味いみし、はなれ☲意味いみするがみずとは陰陽いんよう相對そうたいする天地てんちあいだだい現象げんしょうである。其處で道家どうか水火すいか 兩者りょうしゃもっ陰陽いんよう符號ふごうとなし、これもてあそぶことをした。ついには日月じつげつ火水ひみずきむとりだまうさぎなどとげん陰陽いんよう日月じつげつしたがえしんやしなえふこと をしょうしてとりうさぎよしつてやしなえふとか、あるいきむかなえだまりてやしなえふとかいふようになつた。水火すいかただしくるわといふ文字もじ道家どうか金科玉條きんかぎょくじょうとするところであるがすなわ水火すいかもっ一切いっさい萬物ばんぶつ包含ほうがんするといふ意味いみである。

 そうだい周子かねこ太極たいきょくまた此の水火すいかがたより出來できたものであることは一見いっけんしてかである。水火すいかがたもっとあかりかにかげちゅうちゅうかげ とをしめせめしたものであるが、其意味いみかげなかにもあるごとわざわいなかぶくあり、おとろえなかもりがある。またちゅうかげあるがごと如何いかさかんなものにても其中に衰亡すいぼうなきをたもてせず、わざわいちゅうわざわいそんするものあるがごとくである。

ロ かげけい

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 わざわいなかぶく發見はっけんし、ぶくなかわざわい發見はっけんするなどいふは自身じしんじん意表いひょうでたることにして此說の立脚りっきゃく表裏ひょうりめんいてげんへば 裏面りめんそんすることは槪見することが出來できる。すなわ事物じぶつひょうよりのみずして其裏めんより觀察かんさつせんとするのである。かげけい書物しょもつすなわ這般しゃはん眞理しんり發揮はっきしたものである。著者ちょしゃみかどたたえせらるれどももとよりかん時代じだい產物さんぶつであつて不明ふめいである。わずかによんひゃくよんじゅうよん小篇しょうへんであるがこれ實行じっこうするとき終身しゅうしんきざるものがある。

 かげけい普通ふつうひとよりもふか見識けんしきもっちょはされたるものであるからすべじんかざるところまた氣付きづいても實行じっこうがたしょに其立脚りっきゃくいたものである。されば表面ひょうめんずして裏面りめんどうおもとせずしてせいおもとし、あかりらずして暗部あんぶるといふがごと具合ぐあいである。 ゆえに曰はく

てんはつころせうつりほしえき宿地しゅくじはつころせりゅうへびおこりりくひとはつころせ天地てんち反覆はんぷく

なまころせはしいてころせちからあることをみとめたものである。またてんゆう五賊一見之者昌」とあるようぎょう水火すいかきん)が相剋そうこくすることをいふたまでであるがこれぞくとして觀察かんさつしたのが普通ふつうじんことなるしょである。

 そうしゅうしげる叔は「しゅせい焉」といふたが道家どうかしゃりゅう思想しそうである。かげけい人間にんげん大々的だいだいてき活動かつどうせんことを希望きぼうするけれども而もまた其心をしずかにするの必要ひつようあるをみとめてる。しんしずかにしとき百般ひゃっぱん明々白々めいめいはくはくえいきたりて洞察どうさつせらるゝにいたる。かげけい作者さくしゃは此のたね立脚りっきゃくたんことを希望きぼうしてるのである。

 ようこれかげけいいちしょあるじとするところ事物じぶつ裏面りめん觀察かんさつするにる。ひと氣付きづかざるところるにる。しんしずかにしてよくなるしょさっするにる。獅子ししころすものは匕首ひしゅふところにしてふかあらばくはいるをるやみぎひざ匕首ひしゅみぎにし虛心きょしん平氣へいき些の逼るなし。きゅうしゃくあま猛獸もうじゅうけむり疾驅しっくきたいかりてくちひらきてはたさに嚙まんとす。電光でんこう一閃いっせん匕首ひしゅ其喉をわれ流石さすが猛獸もうじゅうを撼かさんもとりにたおせる。れなどは死中しちゅう活路かつろ發見はっけんするものである。しんしずかにするにあらざれば此種のげいをなすことは出來できない。かげけいあるじとするところ這般しゃはんしんてき狀態じょうたいる。すなわそう養生ようじょうぬし庖丁ほうちょう文惠ふみえくんのためにいたところ同樣どうようである。わざわいちゅうぶくあり、福中ふくなかわざわいがある。これ洞察どうさつするのが人間にんげんつてもっと必要ひつようなることである。れさへ出來できればのり如何いかなる困難こんなん遭遇そうぐうするも捲土重來けんどじゅうらいいきおい挽回ばんかいすることが出來できる。かげ中陽ちゅうよう中陰ちゅういんは此くてきわめて興味きょうみあるしょ主旨しゅしである。

 しゅうえき本文ほんぶんには此くまではる說明せつめいしたしょはないが「ものきゅう必通」といひ、「陰陽いんようしょう倚」といふ思想しそうがあるからかいむればのりかげけい意味いみになるのであるが、えきむで此處ここらまで應用おうよう出來できればのりもっとく其效をみとめることが出來できるのである。

よん 八卦はっけろくじゅうよん生成せいせい

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イ えき中央ちゅうおう亞細亞あじあさん

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 えき哲學てつがく論述ろんじゅつする順序じゅんじょとしてはこれれがだいいちしょうにあるべきなれど本章ほんしょうただしはつ學者がくしゃのためにえき一般いっぱん講述こうじゅつせんとするのみ。所謂いわゆる附錄ふろくるいである。

 えき發明はつめい多分たぶんささえじん中央ちゅうおう亞細亞あじあじゅうして牧畜ぼくちくもっぎょうとしてときにあつたのであらう。すなわふく牧畜ぼくちく時代じだい名稱めいしょうであつてかみみのり耕作こうさく時代じだいすのである。えきふく犧氏のさくだとは古來こらいでんせつであるがすなわえきささえかん人種じんしゅ黃河こうが上流じょうりゅうとき出來できたものであるといふことを證明しょうめいするものとおもわれる。ド・ラクーペリーえきはバビロニアからでんはつたものだといふせつ首肯しゅこう出來できないが、えき創設そうせつ中央ちゅうおう亞細亞あじあにあつたといふことは面白おもしろいとおもふ。

 ふく犧氏は牧畜ぼくちく時代じだい中央ちゅうおう亞細亞あじあかみみのり耕作こうさく時代じだい黃河こうが上流じょうりゅうつたものであることは自分じぶん種々しゅじゅしょおいべたことがあるが、かく社會しゃかいつうじて此のたね變遷へんせんあることは社會しゃかいがくじょう事實じじつにして、ささえおい牧民ぼくみんぐんまきなどいふまきようひられることや、または其中央ちゅうおうほそより移住いじゅうせしことなどが確實かくじつなる以上いじょう斷定だんていまたかならずしもあやまつてるともおもはれない。

ロ 陰陽いんよう

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 かん人種じんしゅちゅう自然しぜんかい觀察かんさつして男性だんせい女性じょせいとなすの習慣しゅうかんがあつた。彼等かれら如何いかなるものをも此方面ほうめんよりた。人間にんげん男女だんじょべつあり、禽獸きんじゅう草木くさき雌雄しゆうべつあるごと一切いっさい萬物ばんぶつにもまた此種の對照たいしょうてき區別くべつがあるものとしんじてた。れをかげまためいけた。日月じつげつ星辰せいしんひる夜寒よさむあつごといずれも此種のなか排列はいれつせられた。數字すうじいても奇偶きぐうべつがあるがすなわ陰陽いんようべつである。

 彼等かれらこれしめすにとをもってした。如何いかなる現象げんしょうみな兩者りょうしゃいずれにか排列はいれつせられたのである。たとへば君臣くんしん上下じょうげ、內外、强弱きょうじゃくごとき、みなしからざるはなしといふべきである。今日きょう言葉ことばにてげんへば位置いちでも、性質せいしつでも、狀態じょうたいでも、物象ぶっしょうでもことごと兩者りょうしゃなかはいせられた。如何いかなる現象げんしょうてもかげいずれかでないものはない。

 男女だんじょ交つてじんしょうずるごと陰陽いんようまじりて一切いっさい萬象ばんしょうしょうずる。有形ゆうけいぶつ以外いがいおい陰陽いんようしゅ假定かていしたるごとおもはれる。しゅうえき書中しょちゅうにはもとひつじさるもとといふてしゅ假定かていしてあることは明白めいはくであるが中央ちゅうおう亞細亞あじあころまたあつたらしい。西洋せいよう男女だんじょ兩性りょうせい原理げんり假定かていしたことはピユタゴラス學派がくはちゅうる。自分じぶん近頃ちかごろこれ綜合そうごう心理しんりがくちゅうべた。あま東西とうざい暗合あんごうはなはだしいからである。

ハ 八卦はっけ生成せいせい

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 陰陽いんよう思想しそういで 符號ふごう出來できた。これもっ自然しぜんかい觀察かんさつするとき不十分ふじゅうぶんてんぃ。すなわいち槪に男性だんせい女性じょせいといふたけでは精密せいみつに其物をしめせめすことが出來できない。如何いかなるものいちめんかられば男性だんせいであるようだけれどもいちめんおいては女性じょせいところもある。此複雜ふくざつなる意味いみしめせめすには如何いかせばなるか。爻をむよりそとはない、此におい爻をはじめたがさん八卦はっけにて一段落いちだんらくとした。すなわひだりごときである。

とく ぞう
けん てんいぬい ☰
せつ さわ 兌 ☱
うらら はなれ ☲
どう かみなりふるえ ☳
にゅう ふうたつみ ☴
おちい みず 坎 ☵
とめ やまうしとら zlt=☶
じゅん ひつじさる ☷

 ぞう自然しぜんかい現象げんしょうてたものでとく性質せいしつである。なにゆえさん八卦はっけめて、よんじゅうろくとしなかつたかといふに、れには 理由りゆうがある。すなわだいいちには天地人てんちじんさんさい古代こだいける主要しゅようなる現象げんしょう であるがいまかれさん爻は此のさんなるかずしめること、だいにははち ぞう自然しぜんかいに於るじゅうもなる現象げんしょうなること、だいさんにはえき根本こんぽん思想しそうおいて は一切いっさい現象げんしょうかげまたなれどもいまさん爻なればかげいちまたいちにして かげつかつかいずれかの場合ばあいにして兩者りょうしゃ平均へいきんといふことなきこと。 とう理由りゆうより彼等かれらさん爻にてめたのである。

 八卦はっけ出來できると一切いっさい現象げんしょうことごと八卦はっけなかはいせられた。いま べたぞうもっと普通ふつうのものであるが其他のものもみな此中にはいせら れたのである。いぬいてんひつじさるなることはだれひとうたぐ餘地よちはない。兌☱さわなることはいちかげうえよろこぶといふところからたものである。 すなわかげしたにあるべきものなれどもいまは却てうえにあるがゆえよろこべ りとなす。せつえつである。よろこぶことはじゅんひを意味いみす。ゆえさわとしたのである。したがえうしとら☶やまとなる。れはいちかげうえやめまつてるとしょうせられてるが泰然たいぜんとしてやめまつてることをしたのである。坎☵いちかげあいだおちいつてるといふ意味いみほぐせられた。おちいつたものはみずであるからつてもっぞうとした。みず反對はんたいであるからはなれ☲とせられた。またがたからうんふても外明そとあきかにして內くらきものはそとやわらにて內剛なるものはみずである。とうみずとをもって坎とはなれとにてた所以ゆえんである。またたつみ☴いれとなすはいちかげしたはいるといふかいしたのであつて、はいるものはふうであるからりてもっぞうとした。ふるえは其反對はんたいうえにあるべきかげしたにあつて奮起ふんきせんとしてるものであるからかみなりもって其象とした。文字もじに就ては一々いちいち說明せつめいするまでもない。

 またこれ人間にんげんにすればいぬいちちとなし、ひつじさるははとなし、ふるえ坎艮をかく長男ちょうなんちゅうおとこしょうおとことなし、たつみはなれ兌をもっかく長女ちょうじょちゅうおんな少女しょうじょとなす。其他のぞうてはえきけいちゅうせつでん參照さんしょうすべきである。

ニ ろくじゅうよん生成せいせい

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 八卦はっけ天地てんちあいだ物象ぶっしょう包含ほうがんするためには充分じゅうぶんなれどもいま一切いっさい事象じしょう包含ほうがんせしむるにりない。たとへば人事じんじかいなる旅行りょこう戰爭せんそうごと敎育きょういく養生ようじょうごとき、あるいまた自然しぜんかいの「しょう」「陰陽いんようじゅん」のごと狀態じょうたいしめせめすことは殆んど不可能ふかのうぞくす。其處で一切いっさい萬象ばんしょう包含ほうがんせんとする勇氣ゆうきゆうつたるえき作者さくしゃさん爻のづゝかさねることによしつて此の目的もくてきたっせんとした。たとへばいぬい☰うえに坎☵かさねて水天すいてんじょうるのぞうとなし、「しょう」を意味いみするとなし、これけて需〈マツの䷄とした。あるいは坎☵ふるえ☳うえかさね、あめかみなり交々いたるのぞうとなし、たむろ䷂命名めいめいした。 ろくじゅうよんみな意味いみあり、意味いみしたがえて其名がある。

 此名をめいじたのはだれかはわからない。あるいふく犧だといひあるいぶんおうだといふ。いずれにしても確實かくじつなる材料ざいりょうはない。とうろくじゅうよんかくいち全體ぜんたい昧を說明せつめいしたぶんみじかいけれども)とろく爻のかくいち意味いみ說明せつめいしたぶんれもみじかい)とがある。とう兩者りょうしゃを倂せていち說明せつめいり、ろくじゅうよん說明せつめいぶんを倂せてえきけいつてる。

 前者ぜんしゃぶんおうさく後者こうしゃしゅうこうさくしょうせられてる。ぶんおうさくつた其文をけてぞうと曰ふ。ぞうだんなりとあつて、いち意味いみ判斷はんだんしたといふである。しゅうこうさくつた其文をけてぞうと曰ふ。いち爻のぞうすなわかたちせすといふ意味いみである。ろくじゅうよんあじ處世しょせいじょう妙味みょうみこれすることが出來できる。

ホ きゅうろく 

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 えき本文ほんぶんときはつきゅうだのきゅうだのまたはつろくろくじょうろくなどいふことがある。れはなにのことかといふに、きゅうしめし、ろくかげしめせめす。 筮法によしつて爻をすにはきゅうはちななろくよん場合ばあいである。きゅうななとはにしてはちろくとはかげである。こんすすむをおもとしかげ退しりぞくをおもとすといふえき根本こんぽん假定かていほんきてきゅうななきゅうもっろうとなし、はちろくろくを以つてろうかげとした。しかしてえきへんを尙ぶがためにきゅうろくかずもっ陰陽いんようしめしたのである。

 はつきゅうといふはしたよりだい一番いちばんし、きゅうといふはしたよりだいばんじょうきゅうといふはだいろくばんす。ろくいてもまたおなじでる。

 ろくじゅうよん意味いみ

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イ ろくじゅうよん包含ほうがんてきなること

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 ろくじゅうよんきわめて包含ほうがんてきであることは前述ぜんじゅつせるしょりて想像そうぞうせられる。自然しぜんかい現象げんしょう勿論もちろん人事じんじかい一切いっさい現象げんしょうみな其中に包含ほうがんせらる となすのである。すくなくとも占筮せんぜいゆるすの精神せいしんれである。占筮せんぜいなに々と種類しゅるいかぎらない。如何いかなることでもうらないふことが出來できる。如何いかなることでもろくじゅうよんひょうはされてるとるにあらざれば占筮せんぜいせんとす勇氣ゆうきおこるべきはずがない。現在げんざい勿論もちろん未來みらいわたりても一切いっさい現象げんしょうことごとく此中に包含ほうがんせらるべきである。たとへば明日あした天氣てんきうらないはんとしてもれがろくじゅうよんいずれにてもひょうはされなければならない。なにんとなれば占筮せんぜいしてればろくじゅうよんいずれがるともかぎらないからである。また盜難とうなんのことにしてもろくじゅうよんいずれにもこれれにかんする意味いみがなくてはならぬ。すなわまえおな論法ろんぽうじゅうほんつて筮するときろくじゅうよんちゅういずれがるか不明ふめいであるからである。ればろくじゅうよんいずれもちゅう萬般ばんぱん現象げんしょうしめせめすものとして意味いみきわめて廣汎こうはんなるものである。いやむし無限むげんである。此にいたりて一驚いっきょうきっせざるをない。

 しからば何故なぜに此くのごと廣汎こうはんなる意味いみ發見はっけんするかといふにようするに聯想れんそうるのである。たとへば結婚けっこんうらないはんとして䷏たりとせよ。此場合ばあいおいよろこぶとかやわらぐとかたのしむとかいふ意味いみがある。ゆえ結婚けっこんも其方めんからなにんとか聯想れんそうされるに相違そういない。あるい戰爭せんそうにしても、いずれのてんおいてか聯想れんそうされる。くしてろくじゅうよんかくいち宇宙うちゅう萬般ばんぱん意味いみひょうはすといふ廣汎こうはん無限むげんなる解釋かいしゃくただ聯想れんそう一道いちどうるのである

ロ ろく爻のくらい

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 ろく爻はしたより順次じゅんじかずへてじょういたる。これ社會しゃかいてき位置いちてはめて

 ⎧
てん
 ⎩
無位むいうえ
天子てんし
 ⎧
ひと
 ⎩
公卿くぎょうよん
大夫たいふさん
 ⎧

 ⎩
  
 庶人(はつ

としてる。庶人はいまつかまつへざるひとである。大夫たいふ以上いじょう今日きょうおう ようしてほぼれに該當がいとうするものをる。すなわ高等官こうとうかんろくななとうから、知事ちじだいしんといふ具合ぐあいである。無位むいといふは無位むい賢人けんじんすので、したの庶人とは其意味いみだいおなじからず。

 またろく爻づゝを天人てんにん應用おうようしてる。とう古代こだい聖人せいじんさだめたといふのであつて人爲じんいてきなることはげんまでもない。ことろく爻ははつよんさんろくとは相應そうおうしてるとられる。れも一方いっぽう一方いっぽうかげでなければならぬ。かげかげとはおうぜぬ。れに例外れいがいがある。此外にうけたまわじょうおうなどいふろく相互そうご關係かんけいがあるがいまれをべない。またろく爻はうえさん爻(八卦はっけいずれか)したさん爻(同上どうじょう)のふたつにわかれる。 上下じょうげ關係かんけいいち全体ぜんたい意味いみだい關係かんけいがある。うえそとといひくといひ、しもを內といひるといふ。すなわえきは爻をしたからむのであるから自然しぜん此くおもはれるのである。此樣な意味いみからろく爻の全体ぜんたい意味いみかんがしたのである。ゆえろく爻卦には全体ぜんたいとしてひとつの意味いみあることは前述ぜんじゅつとおりである。したがえいにしえからしめせめし爻はしめせめすといふて、此時ぜいあたりて此位につたならば如何いか行動こうどうすべきか。えききょうふるところであるとせられてる。

ハ ろくじゅうよん順序じゅんじょ

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 ろくじゅうよん乾坤けんこんよりはじめて次第しだい排列はいれつせられてる。上下じょうげわかれる。うえけいけいといふのはれだ。とうろくじゅうよん排列はいれつ順序じゅんじょじょでんといふにいてあるが牽强けんきょう附會ふかいへいまぬかれない。古來こらい學者がくしゃこれれに種々しゅじゅ意味いみして神聖しんせいせんとしてるけれども到底とうてい附會ふかいせつたるをまぬかれない。これれをもっ孔子こうしさくだなどいふのはあやまれるはなはだしきものである。れに就て自分じぶん東洋とうよう哲學てつがくちゅうつまびらかにべた。

 ろくじゅうよん順序じゅんじょあらためてもっいちしんなる順序じゅんじょにせんとしたのがすなわ自分じぶん意見いけんのあるところであつて、此のしょうなる論文ろんぶんおおやけにしたしゅおもむきまた此にるのだ。


えき哲學てつがく完全かんぜん叙述じょじゅつするはきわめて困難こんなんなることである。自分じぶん東洋とうよう哲學てつがくだいする著作ちょさくおいつまびらかにこれべた。博文ひろぶみかんから出版しゅっぱんさせるつもりだ。えき十分じゅうぶんむで咀嚼そしゃくすれば其味しんわすがたいものがある。簡單かんたんえきらうとおもふものはしゅうえきじゅつよしけいつばさどおりかいるべく、らい知德ちとくしゅうえきしゅう註は我見がけんおおい。しゅうえきしん疏もまただい價値かちがある。しゅうえきてい詁もまた熟讀じゅくどくすべきものだ。えきかんする書物しょもつきわめておおい。今一いまいちこれげないが、しゅうえき折中せっちゅうえき本義ほんぎ中村なかむら惕齋)、えき註、しゅうえきしゅうかいほどしゅ註易けいまた東涯とうがいの讀易わたしせつなどは忘るべからざるものだ。


どうしゅうおうえき以元とおる利貞としさだためよんとく、而不及誠。孟子もうこ仁義じんぎれいさとしためよんはし、而不及信。よん春木はるきおうなつおうあききんおうふゆすいおう。而土おう於四季之としゆきまつ也者よんすう大成たいせい。而難めいしゃ也。雖四。而可以謂。雖五。而可以謂よん焉。(讀易瑣記所藏しょぞう


えき人生じんせい  おわり

この著作ちょさくぶつは、1946ねん著作ちょさくしゃくなって(団体だんたい著作ちょさくぶつにあっては公表こうひょうまた創作そうさくされて)いるため、著作ちょさくけん保護ほご期間きかん著作ちょさくしゃ共同きょうどう著作ちょさくぶつにあっては、最終さいしゅう死亡しぼうした著作ちょさくしゃ)の没後ぼつご団体だんたい著作ちょさくぶつにあっては公表こうひょうまた創作そうさく)70ねん以下いかであるくに地域ちいきパブリックドメイン状態じょうたいにあります。


この著作ちょさくぶつは、1929ねん1がつ1にちよりまえ発行はっこうされた(もしくはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく著作ちょさくけんきょく登録とうろくされた)ため、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおいてパブリックドメイン状態じょうたいにあります。