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三國志/卷15 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

三國志さんごくし/まき15

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 しょ·ほどかくただしりゅう蔣劉でん 三國志さんごくし
しょ·りゅう司馬しばりょうちょうあつし賈傳
しょ·にんもりていくらつたえ 

りゅう司馬しばあきら はりちょうすんで ゆたか恢 賈逵

りゅう[编辑]

りゅう馥字もと穎,沛國しょうじん也。避亂あげしゅうたてやすしはつせつ袁術はた戚寄、はた翊,使つかいりつしゅあずか俱詣ふとしふとし恱之,つかさ辟為じょうこうまごさくしょおけいおりこう太守たいしゅじゅつおさむころせあげしゅう刺史ししげんぞういおりこううめかみなりいとぐちちんらんとう聚衆すうまん在江あるえ、淮間,こおりけんざんやぶふとしかたゆう袁紹なんいい馥可にん以東いとうみなみこととげひょうためあげしゅう刺史しし

馥旣受命じゅめいたんうまづくりごうこえ空城そらじょう建立こんりゅうしゅうみなみふところいとぐちとうみなやすしゅう貢獻こうけんしょうつぎすうねんちゅうおんだいぎょう百姓ひゃくしょうらく其政,流民りゅうみんこし江山えやま而歸しゃ以萬すう。於是聚諸せいたて學校がっこうこう屯田とんでんきょう芍陂及茹陂、ななもん塘諸堨以溉稻官民かんみん有畜ゆうちくまたこうためじょうるい積木つみきせきへんさくくさとますうせんまんまいえき貯魚あぶらすうせん斛,ためせん守備しゅび

けんやすじゅうさんねんそつまごけんりつじゅう萬衆攻圍合肥城百餘日,てんれんしろよくくずれ,於是以苫みのくつがえこれよるしかあぶらあきらしろがいぞく所作しょさ而為備,ぞく以破はしあげしゅう士民しみんえきついおもえこれ,以為雖董やす于之もりすすむ不能ふのう也。及陂塘之いたりこんためよう

 やすし[编辑]

馥子やすしはつちゅうしたがえ黃門こうもんさむらいろう遷廬こう太守たいしゅみことのり曰:「きょうちちむかしためかれしゅうこんきょうふくよりどころ此郡,いいかつ負荷ふかしゃ也。」てんざいかわ內,遷尚しょたまもの爵關內侯,ため河南かなんいんつねさむらいおう璩書あずかやすし曰:「いれさく納言なごん臨京にん富民とみんじゅつにち引月ちょうはん落高たかしぜっ穿ほじ窬之しん種別しゅべつとお水火すいかわざわいのう必具,しつ闕。かいこむぎゆうとま備之ようあめしめこれおそれふうゆび流連りゅうれん吏。鰥寡孤獨こどくこうむ廩振以明擿幽ほろじゅう以秉けん不撓ふとう有司ゆうしきょううけたまわ王命おうめい百里ひゃくりたれ拱仰べん。雖昔ちょうちょうさんおうあし以方也。」やすし為政いせいるい如此。はつ雖如碎密,おわり百姓ひゃくしょう便びんゆう馥遺ふうははかんためだいつかさみのりまもるじょうしんふうじこうりくていこう,邑さんひゃくうえ疏陳儒訓ほん曰:「おっと學者がくしゃ治亂ちらん軌儀,聖人せいじんだいきょう也。はつ以來いらいたかしたてふとしがくじゅうねん,而寡ゆうなりしゃぶたよし愽士せんけいしょなま避役,高門たかかど子弟していはじ其倫,無學むがくしゃ。雖有其名而無其人,雖設其教而無其功。むべこうせん博士はかせ行為こういじんひょうけいにんじんしゃてのひらきょう國子くにこ遵古ほう使つかいせんせき以上いじょう子孫しそんねんしたがえじゅうみないれたいがくあかりせい黜陟榮辱えいじょくみち;其經あかりぎょうおさむしゃのり進之しんの以崇とくあらきょう廢業はいぎょうしゃのり退すさこれ以懲あく;舉善而教不能ふのうそくすすむ浮華ふか交游,きんいき矣。闡弘だい,以綏賔;ろくごううけたまわふうとおじんらいかく。此聖じんきょう,致治ほん也。」遷鎮きた將軍しょうぐんかりふしとく河北かわきたしょ軍事ぐんじやすし以為「經常けいじょう大法たいほう,莫善於守ぼう使つかいみんえびすゆうべつ」。とげ開拓かいたくもりたむろよりどころ險要けんようまたおさむこうもどりょうみぞだい堨,みず溉灌あざみ南北なんぼく三更さんこうしゅいねへんみん利之としゆき嘉平かへいろくねん薨,追贈ついぞうせいきた將軍しょうぐんしん封建ほうけんなりきょうこう,謚曰けいこう熙嗣。

すすむあき》曰:りゅうひろし叔和,熙之おとうと也。ひろしあずかすすむ同年どうねんきょどうさと,以舊恩きゅうおん屢登あらわやすしいたりひろし曠名,而有政事せいじざいすすむ西にしあさこれまつひろためしゃ大將軍だいしょうぐん開府かいふ,荊州刺史ししかりふしとく荊、交、廣州こうしゅうしょ軍事ぐんじふう新城しんじょうぐんおおやけ。其在こうかん,值王しつ多難たなんとくせんいのち一方いっぽうつき其器のう。推誠羣下,厲以公義きみよし,簡刑ごくつとむのうくわまいゆうきょうはつ手書しゅしょぐんこく丁寧ていねい款密,莫不かん恱,顛倒てんとう奔赴,咸曰「とくりゅう公一こういちしょけんじゅう從事じゅうじ也」。ときみかどざい長安ながやすいのちひろとくせんようおさむもりしるしたけりょうあさ高尚こうしょう其事,きばもんはたかわはつゆうくん江漢こうかんひろしじょうあさためれいりょう太守たいしゅはつためじょう太守たいしゅ詔書しょうしょ以襄あきらぐんはつめいけいあさ,以弘むこなつほうのぼるためじょうひろ曰:「おっとすべ天下てんかしゃとうあずか天下てんか同心どうしん一國者當與一國推實。われすべ荊州じゅうぐんやすとくじゅうじょむこしかこうため哉!」乃表「のぼる姻親,舊制きゅうせいとくしょうかん臨事,はつくんむべむくい」。ほう聽之,しゅうえきふく其公とうこうかん太守たいしゅからし冉以天子てんし蒙塵もうじん四方しほうくも擾,しんしたがえよこけい於弘。ひろしいかこれ時人じじん莫不しょうぜん。《すすむ諸公しょこうさん》曰:于時天下でんか雖亂,荊州安全あんぜんひろしゆうりゅうけいます保有ほゆう江漢こうかんこころざしふとでんつかさ馬越うまごええつ甚銜かいひろびょうそつ璠,北中きたじゅうろうしょう

司馬しばあきら[编辑]

司馬しばあきらはくたち河内かわうちあつしじん也。司馬しばぴょうじょでん曰:ろう祖父そふ雋,もとこと博學はくがく好古こうこ,倜儻ゆう大度たいどちょうはちしゃくさんすん腰帶こしおびじゅうかこえじょうさきがけがんあずか眾有こと鄉黨きょうとう宗族そうぞく咸景焉。いたり穎川えいせん太守たいしゅちちぼうたてこう性質せいしつちょく公方くぼう,雖閑居かんきょえんしょ威儀いぎ忒。まさよしみ漢書かんしょめいしん列傳れつでん》,しょ諷誦ふうしょうしゃすうじゅう萬言まんげんしょうつかまつしゅうぐんれきかん洛陽らくようれいきょうちょういん,以年ろうてんはい骑都じょうやしなえこころざし閭巷,闔門もり諸子しょし雖冠成人せいじんいのち曰進敢進,いのち曰坐敢坐,ゆびゆうしょとい敢言,父子ふしあいだ肅如也。としななじゅういちけんやすじゅうよんねんおわり有子ゆうこはちにんろう最長さいちょうそくすすむせん皇帝こうてい也。きゅうさいにん有道ありみち其父しゃろう曰:「慢人おやしゃ不敬ふけい其親しゃ也。」きゃくしゃじゅうためしけいため童子どうじろうかんためししゃ以其身體しんたい壮大そうだいうたぐろう匿年,劾問。ろう曰:「ろう内外ないがいるい長大ちょうだいろう雖穉じゃくおおせだかふうそんねん以求なりこころざし所爲しょい也。」かんためししゃこれこう關東かんとうへいおこり冀州刺史しし家居かきょおう近山ちかやまけんよく徙居ゆたかろういい邵曰:「脣齒喻,あにただおそれ、虢,ゆたか與野よのおうそく是也これやいまかれ而居此,ため避朝ほろびこれみみ。且君,國人くにびともち也,こん寇未いたり而先徙,帶山おびやまけん必駭,摇動みんこころ而開かん宄之げん也,竊爲ぐん内憂ないゆう。」邵不したがえあたりやまみんはてらんない徙,あるため寇鈔。

ただしたく天子あまこ長安ながやすたくいんとめ洛陽らくようろうちちぼうためしょとう徙西,以四方しほうくも擾,乃遣ろう將家しょうかぞくかえほんけんあるゆうつげろうよく逃亡とうぼうしゃ以詣たくたくいいろう曰:「きょうあずかわれ亡兒ぼうじどうとしいくだいしょうまけ!」ろういん曰:「あきらおおやけ以高とく,遭陽きゅうこれかいきよしじょ羣穢,こう舉賢,此誠虚心きょしんたれおもんばかはたきょういたり也。威德いとく以隆,功業こうぎょう以著,而兵なんおこりしゅうこおりかなえにえ,郊境これないみん不安ふあんぎょう,捐棄さん流亡りゅうぼうぞう竄,雖四せきしつらえきんじゅうけい戮,なお絕息ぜっそく,此朗所以ゆえん於邑也。ねがいあかりこうかんかん往事おうじしょう三思さんしそくさかえめいなみ於日がつしゅう不足ふそく侔也。」たく曰:「われまたさとこれきょうごと有意ゆうい!」しんまつあんろう此對,ただしためしょうじゅつたく功德くどくあい箴誨而已。りょうさるしゃく,而卓便びんうんわれまたさとこれきょうげん有意ゆうい」!きゃくぬしやめ如爲あいむくいふさが也。

ろうたく必亡,おそれとめそく散財さんざいぶつ以賂のこたく用事ようじしゃもとめ歸鄉ききょうさといたいい父老ふろう曰;「ただしたくもとぎゃくため天下でんかしょ讎,此忠臣ちゅうしん義士ぎし奮發ふんぱつとき也。ぐんあずか京都きょうとさかい壤相せっらくひがしゆうなり皋,きたかい大河たいが天下てんかきょう義兵ぎへいしゃわかとくすすむ,其勢必停於此。此乃四分五裂しぶんごれつ戰爭せんそうなん以自やす如及道路どうろひさしどおり,舉宗ひがしいたはじむはじむゆう營兵,ちょうたけしまご鄉里きょうりきゅうこんためかん營謁しゃみつる兵馬へいばそく以爲ぬしわかのちゆうへんじょふく觀望かんぼうばん也。」父老ふろうこいきゅう,莫有從者じゅうしゃおもんみどうけんちょう咨,將家しょうかぞく俱與ろう往焉。こうすうがつ關東かんとうもろしゅうぐんおこしへい,眾數じゅうまんみなしゅう滎陽及河ないしょしょう不能ふのうしょういちたてへい鈔略,みんじん死者ししゃ且半。久之ひさゆき關東かんとうへいふとしあずかりょぬのしょう於濮ろう乃將かえぬるときとしだいひだる人相にんそうしょくろうおさむ恤宗ぞく教訓きょうくんしょおとうと不爲ふためおとろえかいぎょう

としじゅうふとし辟爲そらじょうぞくじょなり皋令,以病ふくためどうちょう。其治つとむ寬惠ひろえくだりむちつえ,而民不犯ふぼんきんさき民有みんゆう徙充都内とないしゃけん調ちょうとうさくせん,徙民おそれ其不辦,乃相りつわたしかえじょこれ,其見あい如此。遷元じょうれいにゅうため丞相じょうしょうぬし簿ろう以爲天下でんかくずしいきおいゆかりはためつとうこれせい,而郡こく蒐狩習戰備故也。こん雖五とうふくぎょうれいしゅうぐん並置へいちへいそと備四えびすない不軌ふき,於策ためちょうまた以爲よろし復井ふくい往者おうしゃ以民かくゆうるいこれぎょうなんちゅうだつこれ以至いまいまうけたまわ大亂たいらんこれみんじん分散ぶんさんぎょう無主むしゅみなため公田くでんむべ及此ふく雖未施行しこうしかしゅうぐん领兵,ろう本意ほんい也。遷兗しゅう刺史ししせいだいぎょう百姓ひゃくしょうしょう。雖在軍旅ぐんりょつね粗衣そい恶食,俭以りつまさよしみじん伦典せきさとじん觌等もりどく名誉めいよろうつね显贬觌等はい時人じじんふく焉。锺繇、おうつばらちょ论云:「圣人不能ふのう太平たいへい。」ろう以爲「、颜之雖非圣人,使つかいとくすうせい相承そうしょう太平たいへい致」。しょ曰:ぶんみかど善朗よしろう论,いのち秘書ひしょ录其ぶんまごもり曰:繇既しつろうまたためとく也。むかし「汤舉いん,而不仁者じんしゃ远矣」。えきしょう「颜氏之子ゆきこ,其殆庶幾しょき乎!ゆう不善ふぜん不知ふち知之ともゆき尝復ぎょう」。よし此而ごと,圣人あずか大賢たいけん行藏こうぞうどういち,舒卷斯同,御世みよたれふう理無わりなくだます泰之やすゆきあに俟积哉?「善人ぜんにんためくにひゃくねんまた以胜ざん杀」。また曰「践迹,また不入ふにゅう于室」。すうせい论,其在斯乎!かた大賢たいけん固有こゆうあいだ矣。

けんやすじゅうねんあずかなつほうあつし、臧霸とうせいいたきょぐんだい疫,ろう躬巡视,致医药。ぐうやましそつねんよんじゅうなな遺命いめい布衣ふいはばはば,敛以時服じふくしゅうじんついおもえこれしょ曰:ろう临卒,いい將士しょうし曰;「刺史ししこうむくに厚恩こうおんとくまんほろこうこう,而遭此疫疠,すんで不能ふのうすくえ,辜負こくおんぼつこれ,其布ころもはばはば,敛以時服じふく,勿违われこころざし也。」あかりみかど即位そくいふう朗子あきこのこあきらたけちんこう,邑ひゃく户。ろうおとうとまことまた以子もち继朗のこ薨,もちひろし嗣。すすむ諸公しょこう赞曰:もちはつまこと長子ちょうしゆうざい识,はや知名ちめい。咸熙中位ちゅういいたりにゅうすすむふうおう,遷太じょうだい司馬しばときまことため太宰だざい父子ふしきょじょうおおやけ中代なかだい以来いらいひつじゆう也。ひろしあなぎょうふう河間こうまおう

はつろう所與しょよ俱徙ちょう咨,かんいたりふとつねためこう咨字くんはつ酆字すすむ骠骑將軍しょうぐんふう東平とうへいりょうこうなみ百官ひゃっかんめいこころざし)。

りょう[编辑]

りょう習字しゅうじおそれひねぐん柘人也,ためぐん纲纪。ふとしためそら,辟召ため漳長,るい轉乘てんじょううみ西にししも邳令,所在しょざいゆうめいかえため西にし曹令,遷爲ぞく。并土新附しんぷ,習以别部司馬しば领并しゅう刺史ししときうけたまわこうみきあららんこれあまりえびす狄在かいちょうつよし跋扈ばっこ,吏民ほろび叛,にゅう部落ぶらく兵家へいか拥眾,作爲さくい寇害,さらしょう扇動せんどう往往おうおう釭跱。習到かん,诱谕招纳,みなれい召其ごうみぎやややや荐舉,使つかいまい幕府ばくふごうみぎやめつき,乃次发諸ちょうつよし以爲したがえまたいん大軍たいぐん出征しゅっせいふん请以ためいさみりょく。吏兵やめこれややうつり其家,ぜん後送こうそう鄴,凡數まんくち;其不したがえいのちしゃきょうへい致讨,斩首せんすうくだしゃまん计。单于きょう顺,めいおう稽颡,きょくふくごときょう职,どう於编户。邊境へんきょう肅清しゅくせい百姓ひゃくしょう布野ふのつとむすすむ农桑,れいくだり禁止きんし。贡達名士めいし,咸显於世,语在《つねはやしつたえ》。

ふとし嘉之よしゆき,赐爵關内せきうちこうさらはい爲真ためざに長老ちょうろうしょう咏,以爲ところ聞识,刺史ししゆう及習しゃけんやすじゅうはちねんしゅうなみぞく冀州,さらはいろう西部せいぶとく從事じゅうじみつるぞく冀州,そうきょくまた使つかい於上とうだいざいきょう鄴宫しつ。習表おけ屯田とんでんじょうにん,领客ろくひゃくおっと,於道こう种菽あわ,以给じんうし费。こう单于にゅうさむらい西北せいほくおそれ,習之绩也。りゃく曰:鲜卑大人おとなそだてのべつねためしゅうしょかしこ,而一旦將其部落五千餘骑詣習,もとめ互市ごし。習念听則おそれ其怨,わか听到しゅうまたおそれ爲所しどころりゃく,於是乃许往與かい空城そらじょうちゅう交市。とげ敕郡けんしょうちゅう以下いかぐん往就えき毕,吏收缚一えびすのべ骑皆惊,上馬かみうま弯弓かこえすうじゅう,吏民惶怖不知ふちしょほどこせ。習乃じょよび吏,もん缚胡,而胡じつ侵犯しんぱんじん。習乃使译呼のべのべいた,習责のべ曰:「なんじえびすはんほう,吏不おかせなんじなんじなんため使しょ骑惊駭邪?」とげ斩之,あまりえびすやぶきも敢動。寇虏。いたりじゅうねんふとし拔漢ちゅうしょぐんかえいた長安ながやすいんとめ骑督ふとげん乌丸おう鲁昔,使つかいたむろいけよう,以備卢水。むかしゆう愛妻あいさいじゅうざいすすむむかしすんでおもえこれまたおそれとげとく,乃以其部五百骑叛還并州,とめ其餘骑置山谷さんやあいだ,而单骑独にゅうすすむぬすめ其妻。やめ出城でしろしゅうぐん乃觉;吏民またかしこむかしぜん敢追。習乃れい從事じゅうじちょうけいつの鲜卑使逐昔。むかしうま其妻,じゅう骑行迟,及與其眾あい,而爲鲜卑しょしゃはじめふとし聞昔叛,おそれ其爲らん於北かい聞已杀之,大喜だいぎ,以習前後ぜんこうゆう策略さくりゃくふうため關内せきうちこうぶんみかど践阼,ふくおけ并州,ふくため刺史しししんふうさるもんちんこう,邑ひゃく户;政治せいじつねため天下でんかさいふとやわねんしるしはいだい农。習在しゅうじゅうねん,而居しょ贫窮,方面ほうめん珍物ちんぶつあきらみかどことれい赐甚あつよんねん,薨,ほどこせ嗣。

王思おうし[编辑]

はつ,济阴王思おうしあずか習俱ため西にし曹令おもえいんちょく日白ひじらごとしつふとしゆびふとしだいいかきょう召主しゃはた加重かじゅう辟。ときおもえきん,習代往對,やめおさむ矣,おもえ乃驰還,ひねおのれざいつみ应受ふとし叹習不言ふげんおもえ识分,曰:「なにわれぐん中有ちゅうう義士ぎし乎?」しんまつ以爲習與王思おうしどうりょう而已,おや骨肉こつにくよし刎颈,而以身代しんだいおもえ,受不测之祸。以之ためよし乃乖先哲せんてつみやびむね乎!遷云「ゆうじゅう太山たいざんゆう轻於鸿毛」,君子くんし不爲ふため苟存,不爲ふため苟亡。わか使つかいおもえ引分ひきわけしゅじょのり所謂いわゆるけい於沟渎而莫之知也ともや。習之しゃあに其然哉!こう同時どうじ擢爲刺史ししおもえ领豫しゅうおもえまた能吏のうりしか苛碎大體だいたいかんいたりきゅうきょうふう列侯れっこうりゃく苛吏でん》曰:おもえあずか薛悌、郤嘉俱從ほろおこり官位かんいりゃくとうさんにんちゅう,悌差はさみ儒术,所在しょざいめいためあいだしょうよしみあずかおもえごとぎょう相似そうじぶんみかどみことのり曰:「薛悌驳吏,王思おうし、郤嘉纯吏也,かく赐關ないこう,以报其勤。」おもえためじん雖烦碎,而晓练文書ぶんしょたかし賢礼よしのり,倾意形勢けいせいまた以是显名。せいはじめちゅうためだいつかさ农,ねんろうつむ,瞋怒しも吏嗷しか不知ふちなにすえせいしょうしんゆう吏父びょう笃,きん在外ざいがいしゃ自白じはくもとめかりおもえうたぐ不實ふじつ,发怒曰:「ゆうおもえ妇病ははしゃあに此謂乎!」とげあずかかり。吏父明日あしたおもえ恨意。其爲こくうす类如此。おもえまた性急せいきゅう,尝執笔作しょ,蝇集笔端,驱去ふくらい如是にょぜ再三さいさんおもえ恚怒,おこり逐蝇不能ふのうかえ笔掷,蹋坏ときゆう丹陽たんようほどこせかしこ、鲁郡倪顗、南陽なんようえびすぎょうまたため刺史ししこおりまもる時人じじんいい苛暴。◎また有高ありだか刘类,れきおさむもり,苛慝ゆう其,以善おさむ人事じんじ废於嘉平かへいちゅうためひろ农太もり。吏ひゃく餘人よにんあずかきゅうかり,专使ため不急ふきゅう。过無轻重,辄捽其头,またらんつえ挝之,牵出ふくいれ如是にょぜすうよん。乃使じんもとめ钱,所在しょざいさとみなゆうあなあなまたそと讬简しょうまいいでゆき敕督邮不とく使かんぞくきょくおさむれいけい,而阴识不来者らいしゃ,辄发いかちゅう伤之。せいまたしょうしんじまいだい吏出,辄使小吏しょうりしたがえくつがえ察之,しろ日常にちじょう於墙壁間へきかん闚闪,よる使つかいみきれん察諸曹,ふく以幹不足ふそくしんじまた铃下及奴婢使てんしょう检验。尝案ぎょう宿やどとめ民家みんか民家みんかいぬ逐猪,いの惊走,头插栅間,ごうよび良久よしひさ。类以ためがい吏擅ども饮食,ふくちょう察,便びん使百曳五官掾孫弼入,顿头责之。弼以じつたい,类自愧不详,いん讬問以他事たじみんいんあきらねんたれひゃくさい,聞类ぎょうとうけい过,いい其兒曰:「扶我むかえくん我欲がよくひねおん。」扶昌ざいみちひだり,类望見ぼうけんしか其兒曰:「よう死人しにん使つかい来見くるみ。」其视じん無礼ぶれいみな此类也。きゅうぞくみん谤官長者ちょうじゃゆうさん肯,いい遷、まぬかれあずか也。类在ひろ农,吏民患之,乃题其門曰:「刘府くんゆうさん肯。」类雖聞之,なお不能ふのうあらため。其後安東あんどう將軍しょうぐん司馬しばぶんおう西にしせいみちけいひろ农,ひろ农人つげ类荒ほけにんおさむぐん,乃召にゅうため五官ごかんちゅうろうしょう

ちょうすんで[编辑]

ちょうすんでとくよう,馮翊高陵こうりょうじん也。としじゅうろくためぐん小吏しょうり

りゃく》曰:すんでたん家富いえとみためじんゆう容儀ようぎしょうしょうこうしょ疏,ためぐん門下もんか小吏しょうり,而家とみおもんみもんかんねん以自たち,乃常畜好がたなひつ及版そう,伺諸だい吏有とぼししゃ給與きゅうよ,以是見識けんしき焉。こうれきみぎしょく,舉孝れんくだりふとしためそら,辟,いたり,舉茂ざいのぞき新豐しんゆたかれいためさん輔第いち。袁尚こばめぶと於黎ところおけ河東かわとう太守たいしゅかく援、なみしゅう刺史ししだかみき及匈やつたん于取ひらはつ使西にしあずかかんちゅうしょしょう合從がっしょうつかさ隷校じょう鍾繇遣すんでせつ將軍しょうぐんあがひとしすんでためげん利害りがいあがとうしたがえこれあがちょう將兵しょうへいまん餘人よにんあずか繇會げきみき、援,大破たいは援首。みき及單于皆くだ。其後みきふく舉並しゅうはんかわちょうあきらしゅまん餘人よにん無所屬むしょぞく,冦崤、澠閒,河東かわとうまもるかたひろのうちょう琰各おこりへい以應ふとし以旣ためろうまいり軍事ぐんじ使つかい西にしちょうしょしょうあがひとしみな引兵かいげきあきらとうやぶこれ琰、かたくびみき奔荊しゅうふうすんでたけはじめちんこう

ふとししょうせい荊州,而騰等分とうぶんよりどころせきちゅうふとしふくすんで喻騰とうれいしゃくきょくもとめかえあがやめもと而更猶豫ゆうよすんでこわためへん,乃移しょけん促儲偫,せんせき郊迎。あがとくやめはつひがしふとしひょうあがためまもるじょうちょうため將軍しょうぐんみつる其衆。こうちょうはんすんでしたがえぶとやぶちょう於華かげ西にしじょうせきみぎ。以旣ためきょうちょういん,招懷流民りゅうみんおきふくけん邑,百姓ひゃくしょうふところこくすんでけんため尚書しょうしょため雍州刺史ししふとしいいすんで曰:「かえきみ本州ほんしゅういいころも繡晝ぎょう矣。」したがえせいちょう魯,べつしたがえせきにゅう討叛氐,おさむ其麥以給ぐんしょく。魯降,すんでせつふとし拔漢ちゅうみんすう萬戶以實長安及三輔。其後あずか曹洪やぶらん於下おしたべんまたあずかなつこうふち討宋けんべつおさむ臨洮、狄道,平之ひらの

ゆうすわえ[编辑]

ふとし徙民以充河北かほく,隴西、天水てんすいみなみやすみんしょうおそれどう,擾擾不安ふあんすんでかり三郡人為將吏者休課,使つかいたくさくすいうす民心みんしんとげやすふとしはた拔漢ちゅうもりこわりゅう備北たけ氐以逼關ちゅうもんすんですんで曰:「すすむ使北出きたいで就穀以避ぞくぜんいたりしゃあつ其寵しょうのりさきしゃ必慕。」ふとししたがえ其策,乃自いたかんちゅう引出しょぐんれいすんでたけ,徙氐五萬餘落出居扶風、天水てんすいかいさん輔決ろくちゅう》曰:すんでため兒童じどうためこおりいさお曹游いん察異,引旣いえすんでけいだくいんさき,勑家しつらえ賔饌。及旣いたりいんつまわらい曰:「きみ其悖乎!ちょういさおようわらわ昏小なにきゃく哉!」いん曰:「きょう勿怪もっけ,乃方はくうつわ也。」いんとげあずかすんでろん霸王りゃくきょう訖,以子すわえたくすんでけん受,いんかたたくすんで以殷邦之くにゆき宿望しゅくぼうなんたがえ其旨,乃許いんさきあずかつかさ隷校じょうえびす軫有すき,軫誣搆殺いんいん月餘げつよ,軫得疾患しっかん自說じせつただしげんふくざいふくざいゆういさお曹將おにらい」。於是とげ。于時せき中稱ちゅうしょう曰:「なまゆう知人ちじんあきらゆうかみれい。」すわえなかまことためがまばんれいふとしじょうせきちゅうかんおきぐんかけふとし以問すんですんでしょうすわえざいけん文武ぶんぶとげ以為かんきょう太守たいしゅこうてん隴西。《りゃく》曰:すわえためじん慷慨こうがいれきおさむもり所在しょざい以恩とくためこうけいころせふとしちゅうしょかずらあきら隴右,吏民騷動そうどう天水てんすいみなみやす太守たいしゅかく棄郡東下ひがししもすわえどくよりどころ隴西,召會吏民,いい曰:「太守たいしゅおんとくこんしょくへいいたりしょぐん吏民みなやめおう,此亦しょきょう富貴ふうきあき也。太守たいしゅほんため國家こっかもりぐんよしざい必死ひっしきょう諸人もろびと便びん太守たいしゅあたま往。」吏民みな涕淚ているいげん死生しせいとうあずかあきらどうゆうしん」。すわえふくごと:「きょう曹若ねがいわがためきょういちけいこん東二ひがしにぐんやめ,必將寇來,ただしきょう堅守けんしゅわか國家こっかすくえいた,寇必ためいちぐん守義もりよし人人ひとびと爵寵也。わかかんすくいいたしょくおさむきゅうしか乃取太守たいしゅ以降いこうためばん也。」吏民とげじょうもり。而南やすはてはたしょくへい,就攻隴西。すわえ聞賊いた,乃遣ちょう顒出もんしつらえじん,而自於城じょうあかつきいいしょくそちげん:「きょうのうだん隴,使つかいひがしへいうえいちがつなかのり隴西吏人おさむふくきょうわか不能ふのうむなし疲弊ひへいみみ。」使つかい顒鳴げきしょくじん乃去。こうじゅうにちしょぐんじょう隴,しょかずらあきらやぶはしみなみやす天水てんすいみなすわおうあきら破滅はめつりょうぐんもりかく重刑じゅうけい,而楚以功ふう列侯れっこうちょうじょうぞくみなたまものはいみかどよしみ其治,みことのりとく聽朝,引上殿どのすわえためじん短小たんしょう而大ごえため吏,はつあさ覲,みことのりとうかい不知ふち儀式ぎしきみかどれいさむらいちゅうさん引,よび「隴西太守たいしゅまえ」,すわえとうげんただ」,而大おうしょうだく」。みかど顧之而笑,とげろうつとむこれやめかいひょう乞留宿衞しゅくえいはい駙馬じょうすわえ學問がくもん,而性こうゆう音樂おんがく。乃畜しゃ琵琶びわそうしょうまい行來いききはた以自ずい所在しょざいぶながまとうつぼ,歡欣娛。すうさいふくため北地きたじ太守たいしゅねんななじゅうあまりそつ

武威ぶいがお雋、ちょうわき鸞、さけいずみはな西平にしだいら麴演とうなみ舉郡はんごう將軍しょうぐんさらしょう攻擊こうげき。雋遣使送しそうはは及子まいふとためしつもとめすけふとしといすんですんで曰:「雋等がいかり國威こくい,內生傲悖,けいじょうぜいあしそくはんみみ今方いまがたごとていしょく,且宜りょうそん而鬬なお卞莊とげとらすわおさむ其斃也。」ふとし曰:「ぜん。」としあまり,鸞遂ころせ雋,武威ぶいおうまたころせ鸞。おけりょうしゅうさん輔拒西域せいいきみなぞく雍州。ぶんみかどそく王位おういはつおけりょうしゅう,以安定あんてい太守たいしゅ鄒岐ため刺史ししちょうわきちょうすすむぐんもり舉兵こばめ岐,はな、麴演かく逐故太守たいしゅ,舉兵以應すんでしんへいためまもる羌校じょうのりごえぜいのりとく有功ゆうこうすんでしん爵都きょうこうりょうしゅうみずえびすけんわらわもととうはん河西かさいだい擾。みかどこれ,曰:「すんで莫能やすりょうしゅう。」乃召鄒岐,以旣だいみことのり曰:「むかし賈復請擊郾賊,光武みつたけえみ曰:『金吾きんごげき郾,われふくなんゆう?』きょう謀略ぼうりゃくひとこんのり其時。以便宜べんぎ從事じゅうじ,勿復さき請。」まもるぐんなつこう儒、將軍しょうぐん曜等つぎ其後。すんでいたり金城きんじょうよく渡河とかしょしょうもり以為「へいしょうみちけわし深入ふかいり」。すんで曰:「みち雖險,陘之隘,夷狄いてき烏合うごうひだりしゃけいこん武威ぶい危急ききゅう,赴之よろしそく。」とげ渡河とかぞくなな千餘騎逆拒軍於鸇陰口,すんであげごえぐんしたがえ鸇陰,乃潛よし且次いたり武威ぶいえびす以為しん,引還あらわすんでやめよりどころ武威ぶい,曜乃至ないし,儒等なおひつじたちすんでろうたまもの將士しょうしよく進軍しんぐんげきえびすしょしょうみな曰:「士卒しそつつかれ倦,とりこしゅ氣銳きえいなんあずかそうほこさき。」すんで曰:「こんぐんかてとういんてきためわかとりこへいごう退すさ深山ふかやまおい則道のりみちけんきゅうかつえへいかえのりこう寇鈔。如此,へいとくかい所謂いわゆるいちにちたててき,患在すうせい』也。」とげぜんぐんあらわえびすすうせんいん大風おおかぜよく放火ほうかしょう營,將士しょうしみなこわすんでよるぞうせいそつさんせん人為じんいふく使つかいさんぐんなり公英きみひでとくせん挑戰ちょうせん,勑使退すさえびすはてそう奔之,いんはつふく截其首尾しゅび進擊しんげき大破たいは斬首ざんしゅなま以萬すうりゃく》曰:なり公英きみひで金城きんじょうじん也。中平なかひらまつずいかんやくため腹心ふくしんけんやすちゅうやくしたがえはなかげやぶはしかえ湟中,とうただえいどくしたがえ。《てんりゃく》曰:かんとげざい湟中,其壻閻行よくころせとげ以降いこうよるおさむとげしたとげ歎息たんそく曰:「丈夫じょうぶこまやくわざわいおこり婚姻こんいん乎!」いいえい曰:「こん親戚しんせき離叛りはんにんしゅうたてしょうとうしたがえ羌中西南せいなんまいしょくみみ。」えい曰:「きょうぐんすうじゅうねんこん雖罷はいなにゆう棄其もん而依於人乎!」とげ曰:「われねんろう矣,ほしなにほどこせ?」えい曰:「曹公不能ふのう遠來えんらいどくなつこうなんじなつこうしゅう不足ふそく以追わがまた不能ふのう乆留;且息かた於羌ちゅう,以須其去。招呼故人こじん,綏會羌、えびすなお有為ゆうい也。」とげしたがえ其計,隨從ずいじゅうしゃ男女だんじょなおすうせんにんとげ宿やどゆうおん於羌,羌衞まもるこれ。及夏こうふちかえ使つかい閻行とめ。乃合羌、えびすすうまんはたおさむぎょうぎょうほしはしかいとげえいくだふとふとしえい甚喜,以為軍師ぐんしふう列侯れっこうしたがえくだり出獵しゅつりょうゆうさん鹿しかはしまえおおやけいのちえいしゃさんはつさんちゅうみなおうつる而倒。おおやけ抵掌いい曰:「ただしかんぶんやくためつきぶし,而孤どく不可ふか乎?」えい下馬げば而跪曰:「欺明こうかり使つかいえいほん主人しゅじんざいじつらい此也。」とげ流涕りゅうてい哽咽。おおやけよしみ其敦きゅうとげしん敬之たかゆきのべやすしはつさい河西かさいゆうぎゃくはかりごとみことのりえいりょうしゅうたいら隴右,やまいそつ。《りゃく》曰:閻行,金城きんじょうじん也,めいつや彥明。しょうゆうけんめいはじめため小將こしょうずいかんやくけんやすはつやくあずかうまあがあい攻擊こうげきあがちょうまたごうためけんくだり嘗刺ちょうほこおりいん以折ほこ撾超こういくころせこれいたりじゅうよんねんためやくところ使まいふとふとし厚遇こうぐうおもてはい犍為太守たいしゅくだりいん請令其父にゅう宿衞しゅくえい西にしかえやくせんふときょううん:「しゃぶんやくきょうはじめおこりへいゆうしょ逼,わがところ明也あきやとう早來はやきたきょうただし輔國あさ。」ぎょういんいいやく曰:「くだりまたため將軍しょうぐんきょうぐん以來いらいさんじゅうねん民兵みんぺいつかれ瘁,しょしょまたせまむべはや以前いぜんざい鄴,けいとうれい老父ろうふまい京師けいしまこといい將軍しょうぐんまたむべいち,以示あか。」やく曰:「且可ふく觀望かんぼうすうさいちゅう!」とげ其子,あずかあるき父母ちちはは俱東。かいやく西にしちょうたけしとめゆき守舊しゅきゅう營,而馬ちょうとうゆいはんはかりごと,舉約ためとく。及約かえちょういいやく曰:「ぜん鍾司隷任ちょう使つかい將軍しょうぐん關東かんとうじん不可ふかふく信也しんやこんちょう棄父,以將ぐんためちち將軍しょうぐんまたとう棄子すてご,以超ため。」ぎょう諫約,よくれいあずかちょうごうやくいいぎょう曰:「こんしょしょうはかりごと而同,ゆうてんすう。」乃東まいはなかげ。及太あずかやく交馬ぎょうざい其後,ふとしもちいいぎょう曰:「とうねんさく孝子こうし。」及超とうやぶはしぎょうしたがえやくかえ金城きんじょうふとし聞行ぜんただし誅約子孫しそん在京ざいきょうしゃ。乃手書しゅしょあずかあるき曰:「かんぶんやく所為しょい使つかいじんわらいらいわれ前後ぜんこうあずかこれしょしょせつ,如此なんふくにんきょうちち諫議,平安へいあん也。雖然,牢獄ろうごくなか養親ようしんしょ,且又かんまた不能ふのう乆為じん養老ようろう也。」やく聞行ちちどくざいよく使なみぐうがい,以一其心,乃彊以少女しょうじょつまぎょうぎょうやめふとしはてうたぐくだりかいやく使つかいぎょうべつりょう西平にしだいらぐんとげ勒其きょくあずかやくあい攻擊こうげきくだりかち,乃將家人かじんひがしまいふとふとしひょうはい列侯れっこうみかど甚恱,みことのり曰:「きょう踰河れきけん,以勞げきはぐれ,以寡かちしゅ功過こうか南仲みなみなかつとむ踰吉はじめ。此勳ただしやぶえびす,乃永やすしかわみぎ使つかいわれちょう西にし顧之ねん矣。」徙封西鄉さいごうこうぞうひゃくなみまえよんひゃく

さけいずみ衡反,あずか羌豪鄰戴及丁れいえびすまんおさむけんすんであずかなつこう擊破げきは,衡及鄰戴とうみなくだとげじょう疏請與儒治ひだりじょうちく鄣塞,おけ烽候、やしきかく以備えびすりゃく》曰:儒字しゅんりんなつこうなお從弟じゅうていはつため鄢陵ほうあきら驍騎司馬しばせんおうためせいみなみ將軍しょうぐんとく荊、しゅうせいはじめねんしゅしかかこえ樊城,城中じょうちゅう守將しゅしょうおつおさむとうもとめすくい甚急。儒進たむろ鄧塞,以兵しょう敢進,ただしさく鼓吹こすいしつらえしるべしたがえしかろくなな,翱翔而還,使つかいおさむとうはるかこれすうすう如是にょぜ月餘げつよ,及太でんいた,乃俱すすむしかひとしはしときいい儒為おびえある以為あかつき以少うたぐしゅうとくごえすくいむべ。儒猶以此召還しょうかんためふとぼく西にし羌恐,りつしゅまんあまり落降。其後西平にしだいら麴光とうころせ其郡もりしょしょうよくげきすんで曰:「ただこうとう造反ぞうはんぐんじん未必みひつ悉同。わか便びん以軍臨之,吏民羌胡必謂國家こっかべつ是非ぜひさら使みなしょうちょ,此為とらでんつばさ也。ひかりとうよく以羌えびすため援,こんさき使羌胡鈔擊,じゅう其賞つのしょとりこしゃみな以畀そと沮其ぜい,內離其交,必不せん而定。」乃檄告諭こくゆしょ羌,ためこうとうしょ詿誤しゃ原之はらののうぞくそちおくくびしゃとうふうしょう。於是こうとうおくひかりくび,其餘咸安堵あんど如故。

すんでしゅうじゅうねん政惠まさえ著聞ちょぶん,其所れい辟扶ふう龐延、天水てんすい楊阜、安定あんていえびす遵、さけいずみ龐淯、燉煌ちょうきょうしゅうせいれつとうおわりみな有名ゆうめいりゃく》曰:はつすんでためぐん小吏しょうりこう曹徐えい嘗自むちすんでさんじゅう英字えいじはくずみ,馮翊ちょせいたてやすしはつためがまばんれいえいせいつよし爽,ぞく氏勝うじかつすんで,於鄉里名さとみょうゆきざいまえ以前いぜんはずかしめすんで,雖知すんで貴顯きけんおわり肯求於旣。すんで雖得こころざしまた顧計本原もとはらなおほしあずか英和えいわ。嘗因よいほししん狎英,えいこう不納ふのうえいよし此遂ふくしんよう時人じじんぜんすんではさみ舊怨きゅうえん,而壯英之ひでゆき不撓ふとうはつよんねん薨。みことのり曰:「むかし荀桓たてくん翟土,すすむこうしょう以千しつ邑;馮異輸力かんあさ光武みつたけふう其二そのじりょうしゅう刺史ししちょうすんでのうようみん畜衆,使つかい羣羌いいこくりょうしん不幸ふこう薨隕,ちん甚愍,其賜しょうおう爵關內侯。」あきらみかど即位そくいつい謚曰肅侯。緝嗣。

 緝[编辑]

緝以中書ちゅうしょろうやや遷東ふとい太守たいしゅ嘉平かへいちゅうおんなため皇后こうごうしるしはいこう祿ろく大夫たいふ特進とくしんふうつまこうため安城あききょうくん。緝與中書ちゅうしょれいゆたかどうはかりごと,誅。かたりざいなつほうげんでん》。りゃく》曰:緝字けいなかふとしちゅうためゆたかれいめいゆうのうかいしょかずらあきら,緝上便宜べんぎみことのり以問中書ちゅうしょ令孫れいそん以為ゆう籌略,とげ召拜じょうさんせいしょくぐんぐんやめにゅうため尚書しょうしょろう,以稱しょくためあかりみかどしょ識。みかど以為緝之ざいのうしょこらえにんためしよびしょうこう相之あいの相者そうしゃうん:「せんせき。」みかど曰:「なにざい如是にょぜ而位とめせんせき乎?」及在ひがしふといりょうへいすうせんにん。緝性しわ於財而矜於勢,一旦以女徵去郡,かえすわさとしゃ,悒悒躁擾。かずため國家こっかひねげきくれしょく形勢けいせいまた嘗對司馬しば大將軍だいしょうぐんりょうしょかずらつとむ雖得しょう於邊誅不乆。大將軍だいしょうぐんとい其故,緝云:「ふるえ其主,こうぶたいちこくよく不死ふしとく乎?」及恪したがえあいこえかえはてころせこれ大將軍だいしょうぐん聞恪いい衆人しゅうじん曰:「しょかずらつとむやからみみきんちょうたかしちゅうけんろんつとむ,以為必見ひっけんころせいま果然かぜん如此。たかし仲之なかのさとしためかつつとむ也。」緝與ゆたかどおりまた居相いあい側近そっきんゆたかきゅう藐往これゆうしょ咨道。ゆたかおさむことあずか緝連,とげおさむおく廷尉,たまもの獄中ごくちゅう,其諸子しょしみななみ誅。緝孫いんすすむ永興りょうごちゅうためやなしゅう刺史ししすすむしょ》。

ゆたか[编辑]

ゆたか恢字曼基,ふとしげん祁人也。ちちじょため涿郡太守たいしゅそつ。恢年じゅうおく丧還歸鄉ききょうさとないあし於財。恢曰:「かたみだれやす以富ため?」一朝いっちょうつきほどこせ宗族そうぞくしゅうさとだか郇越。舉孝れんため廪丘ちょう,鄢陵、廣川ひろかわれい,彭城、鲁相,所在しょざいしょうにゅうため丞相じょうしょうぬし簿ため扬州刺史ししふとし曰:「甚欲使きょうざい親近しんきん,顾以ため如此しゅう事大じだいしょうん:『股肱ここうりょう哉!庶事康哉こうさい!』とくとうとく蒋济ためちゅうよこしま?」济見ため太守たいしゅ,乃遣济還しゅうまた语張辽、乐進とう曰:「扬州刺史しし晓達軍事ぐんじ動静どうせいあずかきょう咨議。」

けんやすじゅうよんねんまご权攻あいこえしょしゅうみなたむろ戍。恢謂兗州刺史しし裴潜曰:「此間雖有贼,不足ふそく,而畏せい南方みなかたゆうへんこん水生すいせい而子こうけんぐんゆう远備。せきはね骁锐,じょう而進,必將ため患。」於是ゆう樊城こと詔書しょうしょ召潜及豫しゅう刺史ししりょ贡等,せんとう缓之。恢密语潜曰:「此必じょうきゅうよく赴之也。所以ゆえん不爲ふためきゅうかいしゃよく惊動远眾。一二日必有密書促卿進道,ちょう辽等またはた召。辽等もとおう召前いたりきょう受其责矣!」せん受其ごとおけ辎重,さらため轻装そく发,はて促令。辽等寻各召,如恢しょさく

ぶんみかど践阼,以恢ためさむらいちゅうためぐん太守たいしゅすうねん,遷凉しゅう刺史ししもち节领护羌こうじょうみちびょうそつねんよんじゅうみことのり曰:「恢有柱石ちゅうせきしつふくごと先帝せんていこうつとむあきらちょ。及爲ちん執事しつじちゅう於王しつ授之以まんにんにん一方いっぽうこれごと如何いかとげわれ甚愍!」赐恢子生こなじ爵關ないこうなまはやそつ,爵絕。

はじめけん[编辑]

恢卒なんじみなみはじめけんため凉州刺史ししゆうめいかんいたりせいひがし將軍しょうぐんりゃく》曰:たてこうしょうあずかしょかずらあきら俱游がくあきら祁山,とう司馬しばせんおうしょ使つかいもり绪宣於公也。

賈逵[编辑]

贾逵はりどう河東かわとうじょうりょうじん也。ため兒童じどうおどけろう常設じょうせつ祖父そふ習異,曰:「なんじだい必爲しょうりつ。」口授くじゅ兵法ひょうほうすう萬言まんげんりゃく》曰:逵世ためちょせいしょう贫,ふゆつねはかま,过其つまけいやなぎまこと宿やど,其明なにしるまことはかま時人じじんいいつうけんはつためぐん吏,まもり絳邑ちょうかく援之おさむ河東かとうしょけいじょう邑皆,逵堅守けんしゅ,援攻不拔ふばつ,乃召たん于並ぐんきゅうおさむこれじょうすすむつぶせ,絳父ろうあずか援要,がい逵。絳人すんでつぶせ,援聞逵名,よく使ためはた,以兵こう,逵不動ふどう左右さゆう引逵使叩头,逵叱曰:「あんゆう國家こっかちょう吏爲ぞく叩頭こうとう!」援怒,はたこれ。絳吏みん聞將ころせ逵,みなじょうじょうよび曰:「ようころせわが賢君けんくんやすし俱死みみ!」左右さゆう逵,ため請,とげめんりゃく》曰:援捕とく逵,逵不肯拜,いい援曰:「おう君臨くんりんぐん積年せきねん不知ふち足下あしもと曷爲しゃ也?」援怒曰:「促斬。」しょはたくつがえまもる,乃囚於壶せき,闭著あなぐらちゅう,以车轮盖じょう使つかいじん固守こしゅほうすすむ杀之,逵從あなぐらちゅういいもりしゃ曰:「此間健兒けんじよこしま,而當使義士ぎし此中乎?」ゆうしゅく公道こうどうしゃあずか逵非故人こじん,而適聞其ごとれい其守せい危厄,乃夜盗やとう往引おり械遣语其姓名せいめいはつ,逵过がわ,曰:「そうさきすえしゃ胜。」及圍怎,めん,乃使人間にんげんぎょうおくしるし绶歸ぐん,且曰「きゅうすえがわ」。援既なみ绛眾,はたすすむへい。逵恐其先とくがわ,乃以计疑援谋じんしゅくおく,援由とめななにちぐんしたがえ逵言,とく無敗むはいまご资别でん》曰:资舉河東かとう计吏,いた许,荐於しょう曰:「逵在绛邑,帅厉吏民,あずか贼郭援交えんこうせん力尽ちからつき而敗,ため贼所俘,ていしか直志ただし,颜辭不屈ふくつ忠言ちゅうげん聞於だい眾,れつ节显於當,雖古ちょく发、すえかなえ,罔以也。其才けん文武ぶんぶまこと利用りよう。」りゃく曰:かく援破,逵乃前出ぜんしゅつおのれしゃためしゅく公道こうどう公道こうどう河南かなんじん也。すわ他事たじとうふくほう。逵救ちから不能ふのうほどけ爲之ためゆきあらためふく焉。

こう舉茂ざいじょ渑池れいこうみきはんちょう琰將舉兵以应。逵不知ふち其谋,往見琰。聞變おこりほしかえおそれ,乃爲琰画计,如與どう谋者,琰信ときけんよせ蠡城,しろ堑不かた,逵從琰求へいおさむじょうしょよくためらんしゃみな隐其谋,逵得つき诛之。とげおさむじょうこばめ琰。琰敗,逵以丧祖ちちかんつかさ辟爲じょう,以議ろうさん軍事ぐんじふとしせいちょういたりひろ农,曰「此西どうよう」,以逵领弘农太もり。召見计事,だいえついい左右さゆう曰:「使つかい天下でんかせんせき悉如贾逵,われなんゆう?」其後发兵,逵疑屯田とんでんじょうぞうほろびみんじょう以不ぞくぐんげん语不顺。逵怒,おさむかず以罪,挝折あしすわめんしかふとしこころぜん逵,以爲丞相じょうしょうぬし簿りゃく》曰:ふとしよくただし而大霖雨,三軍さんぐんはらこうふとし其然,おそれがいゆう谏者,きょう曰:「こん戒严,未知みちしょゆう谏者。」逵受きょういい其同りょうさんおも簿曰:「こん不可ふか,而教如此,不可ふか谏也。」乃建谏草以示さんにんさんにん获已,みな署名しょめいにゅうしろごとふとしいかおさむ逵等。とうおく狱,みやつこしゃ,逵即ごとわがみやつこ」,とげはしまい狱。狱吏以逵ぬし簿也,そくちょ械。いい狱吏曰:「促械尊者そんじゃ且疑わがざいきん职,もとめ缓於きょういまはたじんらい察我。」逵著械適讫,而太はて家中かちゅうじん就狱视逵。すんで而教曰:「逵無恶意,はらふく其职。」はじめ,逵爲しょせいりゃく大義たいぎ其可ようさいこう春秋しゅんじゅうひだりでん,及爲まきまもるつね课读がつつねいちへん。逵前ざいひろ农,あずかてん农校じょうそう公事こうじとく,乃发愤生瘿,しょびょうややだい启原ほっれいわりふとし惜逵ちゅうおそれ其不かつきょうしゃぬし簿われ聞『じゅうにんわり瘿九人死ひとじに』」。逵猶ぎょう其意,而瘿いよいよだい。逵本めい衢,あらためため逵。ふとしせい刘備,先遣せんけん逵至はすたにかん形勢けいせいみち逢水衡,载囚人數にんずうじゅう车,逵以軍事ぐんじきゅう,辄竟じゅうしゃいちにんみな其餘。ふとし善之よしゆきはい谏議大夫たいふあずかなつこうなおなみてのひらぐん计。ふとしくずし洛陽らくよう,逵典丧事。りゃく》曰:とき太子たいしざい鄴,鄢陵こう未到みとう士民しみん颇苦劳役,またゆうやまし疠,於是ぐんちゅう骚動。羣寮おそれ天下でんかゆうへんよく发丧。逵建議けんぎため不可ふかひめ,乃发あいれい内外ないがいみなにゅう临,临讫,かくやすじょとくどう。而青しゅうぐん擅击しょう引去ひきさ。眾人以爲よろし禁止きんし從者じゅうしゃ讨之。逵以ためほうだい丧在殡,嗣王だてむべいん而抚」。乃爲さくちょうげきつげ所在しょざい给其廪食。どき鄢陵ほうあきらぎょうえつ骑將ぐんしたがえちょう安来やすぎ赴,もん逵先おう玺绶所在しょざい。逵正しょく曰:「太子たいしざい鄴,國有こくゆう储副。先王せんおう玺绶,君侯くんこうしょむべとい也。」とげたてまつあずさ宫還鄴。

ぶんみかどそく王位おうい,以鄴けん户數まんざい都下とか不法ふほう,乃以逵爲鄴令。月餘げつよ,遷魏ぐん太守たいしゅりゃく》曰:はつぐんかんぞく颇以公事こうじかいゆうしょきゅうきりかい聞逵當爲とういぐん,舉府みなまいけん門外もんがい。及遷しょいた,逵出もん,而郡かんぞく悉當もん,謁逵於车。逵抵てのひら曰:「まいしょなにむべ如是にょぜ!」大軍たいぐん出征しゅっせいふくため丞相じょうしょうぬし簿さいしゅ。逵尝坐人爲じんいざいおう曰:「叔向なおじゅうせいなだめこれ,况逵功德くどくおやざい其身乎?」したがえいたりはじむ渡者わたりもの亂行らんぎょう,逵斩,乃整。いたり谯,以逵ためしゅう刺史ししりゃく》曰:逵爲しゅう。逵進曰:「しんもりてんもん出入でいりろくねんてんかどはじめひらけ,而臣在外ざいがいただ殿下でんかため兆民ちょうみん计,违天じんもち。」天下てんかはつふくしゅうぐん摄。逵曰:「しゅうほん以御かんもろぐん,以六条詔書察長吏二千石已下,其狀みなげん严能鹰扬ゆうとく察之ざい不言ふげん安静あんせい寬仁かんじんゆう恺悌德也とくやいまちょう吏慢ほうとう贼公ぎょうしゅう而不纠,天下てんかふくなにせい乎?」兵曹へいそう從事じゅうじ受前刺史ししかり,逵到かんすうがつ,乃還;こう竟其千石以下阿縱不如法者,みな舉奏めんみかど曰:「逵真刺史しし矣。」布告ふこく天下でんかとう以豫しゅうためほう。赐爵關内せきうちこう

しゅうみなみあずかせっ,逵明斥候せっこう,缮甲へいためもりせん備,贼不敢犯。そとおさむ軍旅ぐんりょない民事みんじ,遏鄢、なんじみやつこしん陂,まただんやまためちょう谿水,みやつこしょう弋陽陂,またつう运渠ひゃくあまりさと所謂いわゆる贾侯みぞしゃ也。はつちゅうあずかしょしょうなみせいやぶりょ范於ほらうらしんふうさとていこうたてたけし將軍しょうぐんあかりみかど即位そくいぞうひゃく户,なみまえよんひゃく户。ときまご权在東關ひがしせきとうしゅうみなみよんひゃくあまりさとまい出兵しゅっぺいため寇,辄西したがえ江夏えなつひがししたがえ庐江。國家こっか征伐せいばつまたよし淮、沔。しゅうぐんざい项,なんじみなみ、弋陽もろぐんまもりさかい而已。权無北方ほっぽうおそれ東西とうざいゆうきゅうなみぐんしょうすくえつねしょうはい。逵以ためむべひらけ直道なおみち临江,わか权自もりのりぽうすくいわかぽうすくえのり東關ひがしせき。乃移たむろにわたずみこうちんおさむこれ计,みかど善之よしゆき

すすむちょう婴、おうたかしりつ眾降。ふとやわねんみかど使逵督ぜん將軍しょうぐん满宠、ひがしふとい太守たいしゅえびすしつとうよんぐんしたがえ西陽にしびちょくこう東關ひがしせき,曹休したがえ皖,司馬しばせんおうしたがえこうりょう。逵至しょうさんきゅうさらひょう贼有请降しゃもとめ深入ふかいり应之。みことのりせんおう驻軍,逵東あずかきゅうあいしん。逵度贼無東關ひがしせき備,必並ぐん於皖;きゅう深入ふかいりあずか贼戰,必敗。乃部しょしょしょうみず並進へいしんぎょうひゃくとくせい贼,げん休戰きゅうせんはい,权遣へいだん夹石。しょしょう不知ふち所出しょしゅつあるよくまちぐん。逵曰:「きゅうへいはい於外,みちぜっ於内,しん不能ふのうせん退すさかえ安危あんき及終。贼以ぐん继,いたり此;いまやましすすむ不意ふい,此所謂いわゆる先人せんじん以奪其心也,贼見われへい必走。わかまちぐん,贼已だんけわしへい雖多なんえき!」乃兼どう進軍しんぐんしつらえ旗鼓きこためうたぐへい,贼見逵軍,とげ退ずさ。逵据夹石,以兵粮给きゅうきゅうぐん乃振。はつ,逵與きゅう不善ふぜんはつちゅうぶんみかどほしかり逵节,きゅう曰:「逵性刚,もとあなどやすしょしょう不可ふかためとく。」みかど乃止。及夹せきはいほろ逵,きゅうぐんいくすくい也。りゃく》曰:きゅう怨逵しん迟,乃呵责逵,とげ使おもしゃ敕豫しゅう刺史しし往拾棄仗。逵恃こころじきいいきゅう曰:「ほんため國家こっかさくしゅう刺史しししょうためじつ棄仗也。」乃引ぐんかえとげあずかきゅうさらしょうひょうかなで朝廷ちょうてい雖知逵直,なお以休ため宗室そうしつにんじゅう,两無しょ也。しょうんきゅうなおはさみぜんほし以後いござい逵,逵終無言むごん時人じじんえき以此逵。習凿曰:おっと賢人けんじんしゃそとむなしおのれない以下いかもの嫌忌けんきめいなんよし而生乎?ゆう嫌忌けんきしゃ,必與ぶつためたいそん胜負於己しゃ也。わか以其わたし憾敗こく殄民,かれ雖倾覆,於我なんわが苟無じょう曷爲?以是しょう说,臧获心耳しんじこんにん其私忿而きゅうかれゆうおかせなんはん危而めん於害,使つかいこう显於明君めいくんめぐみほどこせ百姓ひゃくしょうとう於君涂,愧於敌人しん,雖豺とらなおはた觉所ふく,而况於曹きゅう乎?しかのり济彼危,所以ゆえんなり胜,计宿憾,所以ゆえんふくかれしん公義きみよし既成きせい私利しりまたひろしいいぜんそう矣。ざい於未のう忘胜ながれよし於此而能济胜しゃこれゆう也。

かいびょう笃,いい左右さゆう曰:「受國厚恩こうおん,恨不斩孫权以下見したみ先帝せんてい。丧事一不得有所脩作。」薨,おくりな曰肅こうしょ》曰:逵時ねんじゅうたかし嗣。しゅう吏民ついおもえこれためこく石立いしだてほこらあお龙中,みかど東征とうせいじょう辇入逵祠,みことのり曰:「さく过项,贾逵ぞうねん怆然。古人こじんゆうごと,患名だて患年ちょう。逵存ゆうちゅう勋,ぼつ而見おもえいい不朽ふきゅうしゃ矣。其布告ふこく天下でんか,以勸將来しょうらい。」りゃく》曰:甘露かんろねん,车驾東征とうせいたむろ项,ふくにゅう逵祠みことのり曰:「逵没ゆう遺愛いあい歷世れきせいほこらつい聞風れつちん甚嘉むかし先帝せんてい東征とうせいまたこう于此,おや发德おん,褒扬逵美,徘徊はいかいしんえきゆう慨然がいぜんおっとれいけんよしある扫其坟墓,あるおさむ其門閭,所以ゆえん崇敬すうけい也。其扫じょ祠堂しどうゆう穿ほじしゃ补治。」

 たかし[编辑]

たかし,咸熙ちゅうためちゅう护軍。すすむ諸公しょこう赞》曰:たかしこう閭,甘露かんろちゅうため大將軍だいしょうぐんちょうこう贵鄉こうなん司馬しばぶんおう赖充以免。ためすすむしつもとこうしんいたり太宰だざいふう鲁公。おくりな曰武こう。《りゃく列傳れつでん》以逵及まこと、杨沛さん人爲じんいいちかんこんれつまこと、沛にん继逵みみ

まこと宪,钜鹿じん也。きょう平中たいらなか本郡ほんぐ人民じんみんひだるこままことためしょせいとう种薤,よく以成计。ゆうしたがえさくしゃまた與一よいちくきまたしょく時人じじんいい能行よしゆきこうため吏。けんやすちゅう,袁尚领冀しゅう,以孚ためぬし簿なおあずか其兄谭爭なおぐんまい平原へいげんとめ别驾审配もり鄴城,まことずい尚行なおゆきかいふとしかこえ鄴,なおかえほしすくい鄴。くだり未到みとうなおうたぐ鄴中守備しゅびしょうふくほっれいはいがいどうどめあずかまことしょまことこたえなおげん:「こん使つかい小人こども往,おそれ不足ふそく以知がいない,且恐不能ふのうたちまこと请自往。」なおといまこと:「とうなん所得しょとく?」まこと曰:「聞鄴かこえ甚坚,ひとそく觉,以爲ちょくとうしょうさん骑足矣。」なおしたがえ其计。まこと选溫信者しんじゃさんにん语所みな敕使脯粮,とく兵仗ひょうじょうかく给快とげひさしらいみなみ所在しょざいとめていでん。及到はり淇,使つかい從者じゅうしゃ斫問ごとつえさんじゅうまいけいちょあたり自著じちょ平上たいらかみ帻,はたさん骑,とうくれまい鄴下。大將軍だいしょうぐん雖有禁令きんれい,而刍牧者ぼくしゃまこといん此夜いた,以鼓いちちゅう自稱じしょうとくれききたかこえ,循表而東,したがえひがしかこえひょうまた循圍而南,步步ほほしか责守かこえ將士しょうしずい轻重ぎょう其罚。とげれきふとし營前,みちみなみ过,したがえみなみかこえかく西にしおりとうしょうもんふく责怒もりかこえしゃおさむ缚之。よしひらき其圍,驰到城下じょうかよび城上じょうかみじん城上じょうかみじん以绳引,まこととくいれはいとうまこと悲喜ひきつづみ譟稱まんさいまもりかこえしゃ以狀聞,ふとしわらい曰:「此非とくにゅう也,ぽう且復とく。」まことごと讫欲かえ,而顾がいかこえ必急,不可ふかふくおかせいいおのれ使命しめいとうそくはん,乃阴こころ计,请配曰:「今城いましろ中谷なかたにしょう無用むよう老弱ろうじゃくため也,如驱以省たに也。」はいしたがえ其计,乃復よる简别とくすうせんにんみな使もち白幡しらはたしたがえさん門並かどなみまた使つかい人人ひとびとまこと乃無なにはた本所ほんじょしたがえさくくだひとふくずい辈夜ときもりかこえ將士しょうし,聞城ちゅう悉降,光照みつてる曜。ただしともかんふく视圍。まこと出北いできたもんとげしたがえ西北せいほくかく突圍。其明,ふとし聞孚やめ,抵掌わらい曰:「はて如吾げん也。」まことなおなお甚欢かいひさし不能ふのうすくい鄴,やぶはしいたり中山なかやま,而袁谭又つい击尚,なおはしまことあずかなおあいしつとげまい谭,ふくため谭主簿ひがしかえ平原へいげんふとし進攻しんこう谭,谭戰まことかえしろ城中じょうちゅう雖必降,なお擾亂じょうらんやすまこと权宜欲得よくとくぶと,乃骑詣きばもんしょう冀州ぬし簿まことよくこうしろ密事みつじふとしこれまこと叩头しゃふとしとい其所しろまことげん今城いましろちゅう强弱きょうじゃくしょうりょうこころみな不定ふてい,以爲よろしれいしんくだため内所ないしょ识信しゃ宣傳せんでんあかりきょう。」おおやけいいまこと曰:「きょう便びんかえ宣之のぶゆき。」まこと跪请きょうおおやけ曰:「便びん以卿せん也。」まことかえ入城にゅうじょう宣教せんきょうかくやすゆえぎょうとくしょうおかせりょう。」城中じょうちゅう以安,乃還报命,おおやけ以孚ためりょうあしよう也。かい爲所しどころあいだたっしょ冗散。だしもりかいちょうめいため严能。やや遷至隶校じょうねんななじゅうあまり矣,其於せいだんおとろえ,而术りゃくそん於故。おわり於陽ひら太守たいしゅまこと本姓ほんせい冯,あらためため
◎杨沛あなみぞ,冯翊まんねんじん也。はつ平中たいらなかためおおやけれい,以牒じょためしん郑長。きょうたいらまつにんおおひだるきゅう,沛课みんえき畜乾さわらおさむ䝁豆,阅其有餘ゆうよ以补不足ふそく,如此积得せんあまり斛,ぞうざいしょう仓。かいふとしため兗州刺史しし西にしむかえ天子てんししょしょうせん餘人よにんみな粮。过新郑,沛謁見えっけん,乃皆しんいぬいさわらふとし甚喜。及太辅政,遷沛ためちょうしゃれいとき曹洪宾客ざいけんかいちょう調ちょう肯如ほう,沛先挝折其脚,とげ杀之。よし此太以爲のうるい遷九こう東平とうへい、乐安太守たいしゅなみゆう迹。すわあずかとくぐんそう,髡刑さい。输作竟,かいふとし出征しゅっせいざい谯,聞鄴颇不たてまつきん,乃发きょう选鄴れいとうとく严能如杨沛比,沛從中起なかおこしため鄴令。やめはいふとしもん曰:「以何鄴?」沛曰:「竭尽心力しんりょくたてまつせんほう。」ふとし曰:「ぜん。」顾謂すわせき曰:「諸君しょくん,此可かしこ也。」赐其せいこうじゅうにん,绢ひゃくひきすんでよく以励,且以报乾さわら也。沛辭去じきょ未到みとう鄴,而軍ちゅうごうみぎ曹洪、刘勋とうかしこ沛名,(驰骑)〔骑驰〕つげ子弟してい使つかい各自かくじ检敕。沛爲れいすうねん,以功のうてんため护羌じょうじゅうろくねんうまちょうはん大軍たいぐん西にし讨,沛随ぐんみやこただしはじめわたりごとふとしやめみなみ过,其餘毕,而中黄門こうもんぜんわたり,忘持ぎょう轩,わたしきたかえこれしたがえ吏求小船こぶねよくどくさきわたり。吏呵肯,黄門こうもんあずか吏爭ごと。沛問黄門こうもん:「ゆう疏邪?」黄門こうもんうん:「疏。」沛怒曰:「なになんじよく逃邪?」とげ使じん捽其头,あずかつえよく捶之,而逸ころも帻皆きれ坏,诉于ふとしふとし曰:「なんじ不死ふしためこう矣。」ゆかり声名せいめいえき。及關ちゅうやぶだいちょうすんで领京ちょういんはつちゅう,儒雅並進へいしん,而沛ほん以事能見のみようとげ以議ろう冗散さとちまた。沛前おさむれきじょうもり以私计介意かいいまた肯以ごと贵人,退すさこれいえ积。やまし於家,しゃしたがえ奴婢ぬひこううらない河南かなんゆうてい荒田あらだ顷,おこりふりうし庐,きょとめ其中,其妻子さいし冻饿。沛病ほろびさとじん親友しんゆう及故吏民ため殡葬也。

ひょう[编辑]

评曰:かん以来いらい刺史しし總統そうとうもろぐんせい于外,わか曩時察之而已。ふとしそうもとまでおわりぎょう,此皆其流たたえほまれゆう名實めいじつしゃ也。咸精たちことおんけんちょのう肅齊まんじゅつ於後也。

 三國志さんごくし/まき14 かえしかいいただき 三國志さんごくし/まき16