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三國志/卷23 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

三國志さんごくし/まき23

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 しょ·桓二陈徐卫卢傳 三國志さんごくし
しょ·つね楊杜ちょう裴傳
しょ·韩崔だかまごおうつたえ 

かずひろし つねはやし 楊俊 もりかさね ちょう俨 裴潜


かずひろし[编辑]

かずひろしなんじ南西なんせいたいらじん也。舉孝れん大將軍だいしょうぐん辟,みな就。袁紹ざい冀州,使つかいむかえなんじみなみ大夫たいふひろしどく以「冀州平民へいみんつよしえい桀所よんせん本初ほんしょじょう,雖能つよしだいしかごうかたおこりぜん必也。荊州りゅうひょうどおこころざし愛人あいじん樂士がくし土地とち險阻けんそやまえびすみんじゃくえき倚也」。とげあずかしんきゅう俱南したがえひょうひょう以上いじょうきゃくまちひろし曰:「所以ゆえんしたがえ本初ほんしょ,辟爭也。昏世おも不可ふか黷近,ひさ而阽危,しんまつあん漢書かんしょ文紀ふみのり》曰「阽於死亡しぼう」,《しょく貨志》曰「阽危わか」,ちゅう曰「阽音しお,如屋簷,近邊きんぺんよく墮之也。」いち曰「臨危曰阽」。必有讒慝あいだ其中しゃ。」とげみなみたけりょう

ふとしてい荊州,辟爲丞相じょうしょうじょうぞくどき玠、ちぇ琰並以忠きよし幹事かんじ,其選ようさきなお儉節。ひろしげん曰:「天下てんか大器たいき在位ざいいあずかひと不可ふかいちせつけん也。儉素けんそなか以處そく,以此ぶしかくぶつしょしつあるこん朝廷ちょうてい,吏有ちょしんころもこうくるましゃいいきよしちょう吏過營,形容けいようかざりころも裘敝壞者,いい廉潔れんけついたりれい大夫たいふ汙辱其衣,ぞう其輿ふく朝府あざぶだい吏,ある挈壺餐以いれかんてらおっと立敎りっきょうかんぞくしょ中庸ちゅうようためつぎ也。いまたかし一概難堪之行以檢殊塗,つとむ而爲,必有つかれ瘁。いにしえだいきょうつとむざいつう人情にんじょう而已。凡激詭之ぎょうのりようかくれにせ矣。」まごもり曰:むかし先王せんおう御世みよかんみんしつらえきょう,雖質ぶんいん損益そんえき代用だいよういたり於車ふくれい秩,賤等,其歸一揆いっきうけたまわかんらん風俗ふうぞく侈泰,まことむべおおせおもえ古制こせいくん以約簡,使つかいおごりょう肆,儉足ちゅうれいしん蜉蝣かげろうとげ退すさめんさい莫之そし;如此そく道隆みちたか而頌ごえさく矣。おっと矯枉正則せいそくたくみにせしげるせい,以克くんのりみんこころざしけん隘,聖王せいおう所以ゆえんすえみんぶつ,閑邪そん誠之せいしどうかずひろしげん,於是まこと矣。

こくすんでけんためさむらいちゅうこうゆうしろ玠謗毀太ふとし近臣きんしんいか甚。ひろしひね玠素ぎょう有本ありもともとめあんじつ其事。やめあさふとしれい曰:「こんげんごとしゃしろ玠不ただしそしわれ也。乃復ためちぇ琰觖もち。此損君臣くんしん恩義おんぎ,妄爲とも怨歎,殆不可ふかにん也。むかししょう、曹與高祖こうそなみおこりほろ賤,致功りつくん高祖こうそごとざいこごめ笮,そう恭順きょうじゅんしんどうえきあきら所以ゆえん祚及後世こうせい也。さむらいちゅうもとめ所以ゆえん聽,よくしげるさんみみ。」あまねたい曰:「如言ごとしゃげん,玠罪過ざいかふかおも天地てんちしょくつがえしん敢曲玠以枉大りん也,以玠羣吏なかとく拔擢ばってき顯在けんざいくびしょく歷年れきねんちょう剛直ごうちょくちゅうこうためしゅしょはばかよろしゆう此。しか人情にんじょうなんたもてようむべこう覈,りょうけん其實。こん聖恩せいおんたれ含垢ひとしにん致之于理,さら使曲直きょくちょくぶん不明ふめいうたぐきんはじめ。」ふとし曰:「所以ゆえんかんがえよく兩全りょうぜん玠及げんごとしゃみみ。」あまねたい曰:「玠信ゆうそし上之うえのげんとう肆之巿朝;わか玠無此,げんごとしゃ大臣だいじん以誤ぬし聽;二者不加檢覈,しん不安ふあん。」ふとし曰:「ほうゆう軍事ぐんじやす受人げん便びんこうよこしまきつねしゃしゅうととげしょちち於朝,此爲くん誡也。」

ふとしかつちょう魯,ひろしひね便宜べんぎ以時拔軍徙民,しょうおけ守之もりゆきふとし未納みのう,其後竟徙みん棄漢ちゅうためろうちゅうれいぶんみかど踐阼,ためこう祿ろくくんふう安城あきちんこうあかりみかど即位そくいしんふう西陵せいりょうきょうこう,邑ひゃく

ふとしちゅうつねさむらい高堂こうどうたかしそう:「ときふういたり,而有休ゆうきゅうはい,必有つとむしょくごと以失てんつね也。」詔書しょうしょ謙虛けんきょ引咎,ひろしはか異同いどうひろし以爲「みんまれたがやせしょう,浮食しゃくに以民爲本ためもとみん以穀ためいのちゆえいちのうのりしつそだていのちほん以先おうつとむ蠲煩,以專こうのうはるなつ以來いらいみんきゅう於役,農業のうぎょうゆうはい百姓ひゃくしょう囂然,ふういたり未必みひつよし此也。しょうふくじゅつ莫大ばくだい節儉せっけんふとし建立こんりゅうひろしぎょうたてまつ徒之かちのきょうぐんしょうもちい,吏士ゆたか於資しょくくら衍於こく帛,ゆかりかざり無用むようみやぜっ浮華ふかこれ方今ほうこんようかたざいいきしょうろううるさこれやくそんじょあまりつとむ,以爲ぐんえびすもうかさんへんもり禦,むべざい備豫。りょうぞく虛實きょじつ,蓄士やしなえしゅさんびょう勝之かつゆきさくあきらおさむこれはかりごとしょう詢衆庶以もとめ厥中。わかはかりごともとじょうけい弱小じゃくしょうてき軍人ぐんじんすう舉,舉而いさお所謂いわゆるえつたけふるえ』,古人こじん誡也。」

うたてためふとつね清貧せいひんもりやくいたりうりたく自給じきゅうあかりみかど聞之,たまものこく帛。薨,おくりな曰簡こう嗣。おとはなれおとうとざい爽開ずみかんいたり廷尉、吏部尚書しょうしょすすむ諸公しょこうさん曰:かず嶠字ちょう輿こし之子ゆきこ也。しょう知名ちめい,以雅じゅうしょうつね慕其しゅうとなつこうげんためじんあつふううえ,嶷然羣。於黃もんろう遷中しょれいてん尚書しょうしょ。愍懷太子たいしはつだて,以嶠ためしょうたもてつねさむらい家產かさん豐富ほうふなずらえ王公おうこう,而性いたり儉吝。嶠同ははおとうといく無名むめい,嶠輕侮けいぶ,以此ためそんそつ於官,おくひかり祿ろく大夫たいふいく以公つよし當世とうせい,致位尚書しょうしょれい

あまねどうぐんもとこんしゃもと劭子也。せいあつしゆう鑒識,あきらみかどため尚書しょうしょ劭字はたなんじみなみ先賢せんけんでん曰:召陵しゃほろこうざいどお識,劭年じゅうはち,乃歎息たんそく曰:「此則希世きせいしゅ偉人いじん也。」劭始發明はつめい樊子あきら於鬻幘之肆,おそれえいけん於牧豎,召よしざいきょう閭之あいだ,擢郭瑜鞍吏,援楊こう,舉和,茲ろく賢者けんじゃみな當世とうせいれい懿也。其餘中流ちゅうりゅうある舉之於淹滯,あるあらわ乎童,莫不よりゆき劭顧歎之さかえ。凡所拔育,あらわなりれいとくしゃ不可ふか殫記。其探擿僞ぎょうそもそもそん虛名きょめいすなわちしゅうたんじょう尚也なおや。劭宗じんもと栩,沉沒さかえ,致位。舉宗莫不匍匐ほふく栩門,うけたまわふう而驅,かん以賄なりおもんみ劭不其門。廣陵こうりょうじょはじめたま來臨らいりんなんじみなみ,聞劭高名こうみょう,請爲こう曹。饕餮放流ほうりゅう,絜士みつるあさ。袁紹おおやけぞくこのみめいため濮陽ちょう,棄官らいかえゆうふくくるましたがえはたにゅうぐんかい,紹乃歎曰:「われ輿こしふくあに使つかい許子もとこはた乎?」とげ單車たんしゃ而歸。辟公じょうはい鄢陵れい方正ほうせいちょうみな就。避亂江南えなしょれきくに,必翔而後しゅうおわり于豫しょうねんよんじゅうろく有子ゆうこ曰混,あらわめい

つねはやし[编辑]

つねはやしはくえんじゅかわ內溫じん也。としななさいゆうちちとうづくりもんもんりん:「はくさきざいなんじなんはい!」はやし曰:「雖當きゃく,臨子ちちなにはいゆう?」於是咸共嘉之よしゆきりゃく曰:はやししょうたんひん。雖貧,手力てじからこれ於人。せい好學こうがくかんまつためしょせいおびけいこう鉏。其妻つね餽餉はやし雖在田野でんや,其相けい如賓。太守たいしゅおうただしおこりへい討董たくしょなま於屬けんほろ伺吏みんざいまけ便びんおさむこうせめぜにこく贖罪しょくざい,稽遲そくえびすめつ宗族そうぞく,以崇威嚴いげんはやし叔父おじ撾客,ためしょせいしょしろただしいかおさむ。舉宗惶怖,不知ふちしょせめ多少たしょう,懼繫しゃすくいはやし往見ただしどうけんえびすははあや曰:「おうくん文武ぶんぶだかざい,臨吾ひなぐんひなぐん表裏ひょうり山河さんがこうみんいんまたけんのうおもんみしょようこん主上しゅじょうようおき賊臣ぞくしんとらよりどころはななつしん慄,ざい奮用あき也。わかよく誅天下之したのぞく,扶王しつほろ智者ちしゃもちふうおうわかひびきかつらんざいなにせいとし。苟無おんとくにんしつ其人,くつがえほろびはたいたりなにひまただしつばさ朝廷ちょうていたかしたて功名こうみょう乎?くん其藏!」いんせつ叔父おじかかわこれあやそくしょせめただしただしはらりん叔父おじはやし乃避地上ちじょうとうこう種山たねやまおもね當時とうじひでりいなごはやしどくゆたかおさむつきよび鄰,しょうぶん河間こうま太守たいしゅひねのべかべひね、馮せいきゅうぞくかんむり冕。ちょう楊利其婦おんなむさぼ其資貨。はやしりつ其宗ぞく爲之ためゆき策謀さくぼうかこえろくじゅうにちそつぜん堡壁。

幷州刺史ししだかみきひょうためじょうはやし受。こう刺史ししはり習薦しゅうさかい名士めいしりん及楊しゅんおう淩、おうぞう、荀緯,ふとしみな以爲けんちょうはやしおさむみなみかずゆうなりちょう遷博りょう太守たいしゅかそけしゅう刺史しし所在しょざいゆう績。ぶんみかどため五官ごかんはたはやしためこう曹。ふとし西にしせいぎんはくはんかそけ、冀扇動せんどうぶんみかどよくちかし討之,はやし曰:「むかしかたじけなはくりょうまたざいかそけしゅうぞく形勢けいせいりょう也。北方ほっぽう吏民,らくやすいやみだれふくやめひさしまもりぜんしゃぎんはくけんひつじしょう聚,さとししょうはかりごとだい不能ふのうためがい方今ほうこん大軍たいぐんざいとおそとゆうつよしてき將軍しょうぐんため天下でんか鎮也,けいどうどお舉,雖克。」ぶんみかどしたがえこれはた往伐,おうかつめつ

爲平ためひらげん太守たいしゅぐん東部とうぶじょうにゅうため丞相じょうしょうひがし曹屬。こくすんでけんはい尚書しょうしょぶんみかど踐阼,遷少ふうらくていこうりゃく》曰:はやしせいすんで清白すずしろとうかんまたげんしょうてらあずかおおとり臚對もんちぇりんためおおとり臚。ちぇせい闊達かったつあずかはやしどうすうすう聞林撾吏ごえ以爲はやしよる撾吏,かちつうさけべよび敖敖てっあけぼの明日あしたちぇいずるもんあずかはやししゃしょうぐう,乃啁りん曰:「聞卿ため廷尉,しかよこしま?」はやし不覺ふかくこたえ曰:「也。」ちぇ曰:「きょう不爲ふため廷尉,昨夜さくや何故なぜこうしゅう乎?」はやしだい慚,しか不能ふのうとめうたてだいつかさみのりあかりみかど即位そくいしんふうだかきょうこう,徙光祿ろくくんふとしつねすすむせんおう以林きょう邑耆とくまいためはいあるいいりん曰:「司馬しばこう貴重きちょうきみむべとめ。」はやし曰:「司馬しばこうよくあつし長幼ちょうよう敘,ため後生ごしょうほうわれところかしこはいわれこれしょせい也。」げんしゃ踧踖而退。りゃく》曰:はつはやししょうあずか司馬しばきょうちょうぜんふとしでんまいりん,輒欲跪。はやしとめ曰:「おおやけとうと矣,とめ也!」及司かけふとしでんゆう意欲いよく以林あんりゃく此語,與本よもとつたえはんしんまつ以爲りんためじんかしこけんたかしゃ也。ろん其然いないいほんでんため時論じろん以林節操せっそうせいたかしよく致之こう輔,而林とげしょうやましあつはいこう祿ろく大夫たいふとしはちじゅうさん,薨,追贈ついぞう驃騎將軍しょうぐんそう如公れいおくりな曰貞こう旹嗣,ため泰山たいざん太守たいしゅすわほう誅。旹弟せい紹封。あんすすむしょしょかずら誕反,大將軍だいしょうぐん東征とうせい,旹坐しょうやましため司馬しばぶんおうしょほう
りゃく》以林及吉しげる、沐並、ときなえよん人爲じんい清介せいすけでん》。
よししげる叔暢,馮翊じん也,せいためちょせいこのみしょはじあくころも惡食あくじき,而恥一物いちもつ不知ふちけんやすはつせきなかはじめひらめしげるあずか扶風のりどもにゅう武功ぶこう南山なんざんかくれしょせいおもえすうさいしゅう舉茂ざいじょ臨汾れいきょかんせいしず,吏民にん欺。てんため武德ぶとくこう庶子しょしじゅうねんすわ其宗じん吉本よしもとひとしおこりごとおさむさききん內學及兵しょ,而茂みなゆう,匿不おくかん。及其おさむ不知ふちとうすわほんとう,顧謂其左右さゆう曰:「わがすわしょ也。」かい鍾相こくしょうしげるほんふくだいやめぜっとくすわこう以茂ためたけりょう太守たいしゅこれかんてん酂相,以國しょうはいろうけいはつちゅうびょうほろびしげる修行しゅぎょうしたがえしょういたりちょうふゆそく裘,なつそく裋褐,ぎょうそくわたるしょくそくいばら藿,しんやく妻子さいししつ如懸かおる。其或饋遺,いち肯受。雖不以此だかじんまたこころやまし不義ふぎ而貴且富しゃさき國家こっかはじめせいきゅうひんかく使つかいしょぐんせんおけ中正ちゅうせい敘自公卿くぎょう以下いかいたり于郎吏,功德くどくざいぎょうしょにんしげるどうこおりまもる羌校じょうおう琰,ぜんすうためぐんもりめいため清白すずしろ。而琰よしみつかまつしょけんまたふくため通人つうじんよしみかえためろう,馮翊ぐんうつりよしみため中正ちゅうせいよしみ敘茂雖在じょうだい,而狀甚下,うん:「とくゆうのうしょう。」しげる慍曰:「やめ乎,わがこうなんじ父子ふしかんむり幘劫じんよこしま!」はつしげるどうさんけい,以じゅう二年中從公府掾爲長陵令。きんちょう吏擅去かん,而黃聞司ちょうあつし薨,以爲吏,たがえ奔喪,ため隸鍾繇所收しょしゅうとげふくほうしげるため白衣はくいはじめ有清ありきよめいさん輔,以爲けいすわつい而死,怨怒肯哭。いたりとしおわり,繇舉しげるしゃ以爲しげ必不就,及舉すんでいた而茂就之,時人じじんある以茂ためかしこ繇,ある以茂ため髦士也。
◎沐並とくしんじ河間こうまじん也。しょう,袁紹父子ふしはじめためめい吏。有志ゆうしかい,嘗過姊,姊爲ころせ雞炊きび而不とめ也。しかためじんおおやけはてかしこつよし禦,丞相じょうしょう召署ぐんはかりごとじょうはつちゅうためなり皋令。こうごとりゅうはじめ出過ですぎけんひとよびけん吏,もとめさく稾穀。いなごひでりかんゆう辦之あいだはじめじんしたがえにゅうなみごう,呴呼ののし吏。なみいかいん躧履ひさげがたな而出,したがえ吏卒,よくおさむはじめはじめさとしはし以狀聞。ゆうみことのり:「はじめためまきつかさ爪牙そうが吏,而並よくおさむばくしょ忌憚きたん自恃じじしんめいよこしま?」とげおさむよくころせこれ。(はじめ)髡決げんけい竟復吏,ゆかり放散ほうさんじゅうねんいたりせいはじめちゅうためさんちょうどきくれ使しゅしかしょかずら攻圍こうい樊城,ふねへい於峴山東さんとう斫材,牂牁じんへいさくしょくゆうさきじゅくしゃよびじゅくしゃげん:「共食ともぐいらい。」じゅくしゃこたえごと:「也。」よびしゃ曰:「なんじほっさく沐德しんじよこしま?」其名流布るふ,播於異域いいき如此。雖自はななつ知者ちしゃ以爲ぜん世人せじん也。ためちょうはちねんばんためずみかげ太守たいしゅ召還しょうかんはいろうとしろくじゅうあまりおもんばか無常むじょうさくおわりせい,戒其以儉そう,曰:「つげくもとうおっと禮者れいしゃなまみんはじめきょう,而ひゃくせい中庸ちゅうよう也。力行りっこうしゃそくため君子くんしつとむしゃおわりため小人こどもしか聖人せいじん莫能くつ從容しょうよう也。富貴ふうきしゃゆう驕奢きょうしゃ,而貧賤者そし固陋ころう,於是養生ようじょうおく,苟竊非禮ひれいよし斯觀とら璵璠,甚於暴骨,桓魋せき椁,如速くち。此言儒學じゅがくばちらんはんせい矯俗だい義也よしやおっと窮理きゅうりつきせい陶冶とうや變化へんかろん也。わかのう原始げんしようおわり,以天ためいち萬物ばんぶつため芻狗,該覽げんどおりもとめがたけいそうどう禍福かふくもと一死いっしせいめいじわれゆう慕於どう矣。おっとどうためぶつおもんみとぼけおもんみゆるがせことぶきため欺魄,夭爲けりぼつ有無うむあずかかみ消息しょうそく,含悅陰陽いんようあまゆめ太極たいきょく。奚以かん椁爲ろう衣裳いしょうためまといかばね繫地ながかそけ桎梏しっこくあにあい哉!むかしそうしゅう闊達かったつしょてき莫;また楊王まご裸體らたいひさようみみいたりおっと末世まっせえんせい怨死,乃有含珠うろこ柙,たまゆかぞうおくみ殺人さつじん以狥;壙穴內,錮以紵絮,藉以蜃炭,千載せんざい僵燥,たくるい神仙しんせん。於是だいきょうりょうおそきおい於厚そういいそうため放蕩ほうとう,以王まごため戮屍,あにふく識古ゆうころもたきぎおに,而野ゆう狐狸こり胔乎哉?われ材質ざいしつかすにご,汙於清流せいりゅうむかしかたじけなこくおんれきためしおさむもり所在しょざい無效むこうだいたくみきずゆびおおかみばつ首尾しゅび以雪はじ。如不可ふかもとめしたがえわれしょこのみ今年ことし耳順じじゅん,奄忽無常むじょう,苟得ぼつそく以吾かさね於王まご矣。うえ冀以贖巿あさ逋罪,しも以親道化どうけれい。顧爾よう昏,未知みち臧否,わかはた逐俗,そもそもはいわれこころざしわたしたたえしたがえれい未必みひつためこう;而犯顆聽治之はるゆきけんしかため棄父めいじだれある矜之!使つかい而有われはたかばね。」いたり嘉平かへいちゅうやまい甚。臨困,また敕豫埳。戒氣絕きぜつれい二人舉屍即埳,ぜっ哭泣こえとめ婦女ふじょおくきんちょうさいまろうどしつらえ摶治あわまい奠。また戒後亡者もうじゃとく入藏いりくらとくふうじゅ妻子さいしみな遵之。
とき苗字みょうじとく胄,钜鹿じん也。しょう清白すずしろためじんやましわるけんやすちゅうにゅう丞相じょうしょうためことぶきはるれいれいくだり風靡ふうびあげしゅうざい其縣,蔣濟ためちゅうなえ以初いたり往謁ずみすみもと嗜酒,てきかい其醉,能見のみなえなえ恚恨還,こくためじんしょ曰「酒徒しゅと蔣濟」,おけ牆下,旦夕たんせきしゃしゅうぐん雖知其所爲しょいつとむしか以其履行りこうひとわかなにまた其始かんじょううすおとめしくるま牸牛,ぬの囊。きょかんとしあまり牛生ぎゅういち犢。及其とめ其犢,いいぬし簿曰:「れいらいほん此犢,犢是淮南ワイナン所生しょせいゆう也。」羣吏曰:「ろく畜不識父,とうずいはは。」なえ聽,時人じじんみな以爲げきしかゆかり名聞みょうもん天下でんかかえためふとしかんれいりょう其郡中正ちゅうせいていきゅうひん,於敘人才じんさい不能ふのうひろししかじんたん,雖在久遠くおん,銜之おけ。如所忿蔣ずみしゃつかまつすすむいたりふとしじょうすみ以苗ぜん毀己ためいやなえまた以濟とうとさらこごめためれいすうさい肅而。遷典のうちゅうろうしょうとしななじゅうあまり,以正はじめちゅうびょうほろび也。

楊俊[编辑]

楊俊ざいかわ內獲嘉人よしと也。受學ひねとめゆずるゆずるこれしゅん以兵みだれかたおこり,而河內處よんたち衢,必爲戰場せんじょう,乃扶持ふち老弱ろうじゃくまいきょうみつ山間さんかん同行どうこうしゃひゃくあまりしゅんすみ貧乏びんぼうつう共有きょうゆう宗族そうぞくためじんしょりゃくさく奴僕どぼくしゃろくいえしゅんみなかたぶけざい贖之。司馬しばせんおうねんじゅうろくななあずかしゅんしょうぐうしゅん曰:「此非常ひじょうこれにん也。」また司馬しばあきらゆう聲名せいめい,其族けいしばしゅうこれおもんみしゅんげん曰:「しば雖夙もち及朗,實理じつりただしゆうゆうみみ。」しゅんてん避地幷州。本郡ほんぐおうぞうしょうとくためじんぼく隸,ねんじゅうななはち使牧羊ぼくよう而私讀書どくしょいん箠楚。しゅんよしみ其才しつそく贖象ちょ,聘娶りつしかあずかべつ

ふとしじょしゅんきょくはりちょうにゅうため丞相じょうしょうじょうぞく,舉茂ざいやすりょうれい,遷南太守たいしゅせんとくきょうたて學校がっこう,吏民しょう。徙爲せいみなみ軍師ぐんしこくすんでけん,遷中尉ちゅういふとしせいかんちゅう諷反於鄴,しゅん劾詣行在所あんざいしょしゅん身方みかたざいまぬかれ,牋辭太子たいし太子たいしえつ,曰:「楊中尉ちゅうい便びんなにふと高遠こうえんよこしま!」とげしょ左遷させん平原へいげん太守たいしゅぶんみかど踐阼,ふくざい南陽なんようどきおうぞうためつねさむらいこもしゅん曰:「伏見ふしみ南陽なんよう太守たいしゅ楊俊,秉純粹じゅんすいしげしつくつちゅう肅之ひろりょうたいひとしあし以育ぶつ篤實とくじつあし以動しゅかつ長後ちょうごすすむめぐみくん倦,そとひろし內直,ひとし而有だんはつだんかんむりしょれきたれさいもり南陽なんようおんとくりゅうちょこと鄰異とう,襁負而至。こんさかいもりせいしずところてん智能ちのうむべかえ本朝ほんちょうせんりょく輦轂,熙帝。」

しゅんしょう及長,以人倫じんりん自任じにんどうぐんしんかたちんとめまもるまことほんみな出自しゅつじへいしゅん拔獎致,咸作けいかたれきぐんもりまこと禦史、縣令けんれい,其明鑒行よし此類也。はつ,臨菑こうあずかしゅんぜんふとしてき未定みていみつおとずれ羣司。しゅん雖並論文ろんぶんみかど、臨菑ざいぶん所長しょちょう不適ふてきゆうしょよりどころとうしかたたえ臨菑なおよしぶんみかどつね以恨はつさんねんくるまいたりあて,以巿豐樂ほうらくはついかおさむしゅん尚書しょうしょぼくしゃ司馬しばせんおうつねさむらいおうぞう、荀緯請俊,叩頭こうとう流血りゅうけつみかどもとしゅん曰:「われざい矣。」とげ自殺じさつしゅう冤痛》曰:俊二しゅんじまごらんこうしつなんじかげ太守たいしゅ;猗字こう彥,尚書しょうしょすすむ東海とうかい王越おうごししゅうと也。らん沈,せんひろしつねさむらい
りゃく》曰:おうぞう羲伯。すんでためしゅんしょ拔,はてゆうざいこころざしけんやすちゅうあずかどうぐん荀緯とう俱爲太子たいししょれいまち。及おうつばらちん琳、阮瑀、みちいきとうほろび新出にいでこれちゅうおもんみぞうざい最高さいこうゆう天下でんかはいぞうさむらいろう,遷爲つねさむらいふう列侯れっこう。受詔せんすめらぎらん》,使つかいぞうりょう秘書ひしょかんぞうしたがえのべやすし元年がんねんはじめ撰集せんしゅうすうさいなりぞう於祕ごうよんじゅう有數ゆうすうじゅうへんつうごうはちひゃくあまりまんぞうすんで性器せいきかずあつしまたぶんさい溫雅おんがよう京師けいししょうため儒宗。くるまみなみじゅん未到みとうあてゆうみことのり百官不得干豫郡縣。及車いた,而宛れいかいみことのりむね,閉巿もんみかど聞之,忿然曰:「われ寇邪?」乃收あてれい太守たいしゅ楊俊。みことのりとい尚書しょうしょ:「かんあかりみかどころせいくせんせき?」ぞうみことのりぶんしゅん必不めん。乃當みかどぜん叩頭こうとう流血りゅうけつ竟面,請俊げん一等いっとうみかどこたえよくしゃくにゅう禁中きんちゅうぞう引帝ころもみかど顧謂ぞう曰:「わが楊俊あずかきょう本末ほんまつみみこん聽卿,無我むが也。きょうやすししゅんよこしま無我むがよこしま?」ぞう以帝言切いいき,乃縮しゅみかどとげいれけつしゅんほうしかこう乃出。ぞう不能ふのうずみしゅんとげ發病はつびょう

もりかさね[编辑]

もりかさねいとぐち,潁川ていりょうじん也。曾祖父そうそふやす祖父そふ著名ちょめい前世ぜんせい先賢せんけん行狀ぎょうじょう曰:やすねんじゅうさい名稱めいしょう鄉黨きょうとういたりじゅうさんいれたいがくごう神童しんどうすんでめい知人ちじんしんだかぜっぞく洛陽らくようれいしゅう紆數こうやすやすつね逃避とうひとき戚慕あん高行たかゆきゆうあずかしょしゃ,輒不はつ,以慮後患こうかんつね鑿壁藏書ぞうしょこうしょあずかしょしゃはてゆう大罪だいざい,推捕所與しょよ交通こうつうしゃ,吏至もんやす乃發かべしょしるしふう如故,當時とうじみなよしみ其慮とおさんなみ辟,おおやけしゃ特徵とくちょうはいあてれいさきあてゆうほう讎者,其令にん致理,はたあずか俱亡。けんちゅうごうつよしゆうつげ其處しゃ,致捕とくやすふかやましあくいたかん戮,肆之於巿。懼有なわだんとげめんこうちょうはいともえぐん太守たいしゅりつせい,以禮ぞく。以病そつかん時服じふくうす斂,もとうるししょうしゃしゅうぐんけんおもてあきら墳墓ふんぼ舉孝れんじょろうちゅう時和ときわ熹鄧きさき臨朝,外戚がいせきよこほしいままやすみかど長大ちょうだいなおせい乃與同時どうじろう上書うわがきちょく諫,鄧后いかおさむとうふく誅。誅者みなきぬ囊盛,於殿じょうなぐほうしゃ以根德重とくしげごとおおやけだま行事ぎょうじじん使つかいりょく。誅訖,車載しゃさいじょうがい以撲かるいきとげ閉目動搖どうようけいさんにち,乃密おこり逃竄,ためむべ城山しろやまちゅう酒家しゅかきゃくせきじゅうねん酒家しゅか其賢,つねあつけいまち。鄧后くずれやすみかどいいひさ。以根とう忠直ただなおひろし下天下しもてがろく誅者子孫しそん乃自ちょうまいおおやけしゃはい符節ふせつれいあるとい:「往日おうじつ遭難そうなん天下てんか同類どうるいしょうなんいたり歷年れきねん如此?」こたえ曰:「周旋しゅうせん人間にんげんぜっあとしょ邂逅かいこう發露はつろわざわい及親不爲ふため也。」遷濟かげ太守たいしゅ,以德ゆずる爲政いせいかぜうつりぞくあらためとしななじゅうはち以壽おわりかんうるし,斂以時服じふくちょう下車げしゃつねさきまいやす致祠。かさね避亂荊州,りゅうおもてまち賓禮ひんれいどうこおりしげる欽數於表,かさね喻之曰:「われしょ以與俱來しゃよくりゅうわだかまかそけやぶまちおおとりしょうあにいいりゅうまき當爲とういばちらんおも,而規長者ちょうじゃ哉?若見わかみのうやめわれ也。われ其與ぜっ矣!」欽慨然がいぜん曰:「請敬受命じゅめい。」かさねとげみなみてきちょうすな

けんやすはつふとしむかえ天子あまこもとかさね逃還鄉里きょうりふとし以爲西にし鄂長。けんはま南境みなみざかい,寇賊縱橫じゅうおう時長ときなが吏皆斂民城郭じょうかくとく農業のうぎょう野荒のあらみんこまくら空虛くうきょかさねおんゆい於民,乃遣老弱ろうじゃくかく分散ぶんさん就田ぎょうとめちょうつよし備守,吏民歡悅。かい荊州まんにんらいおさむじょうかさね乃悉召縣吏民にんこばめもりしゃじゅう餘人よにんあずかこれようちかい。其親戚しんせき在外ざいがいよく自營じえいまもるしゃほしいまま聽遣みな叩頭こうとうねがい致死ちし。於是せきりつあずか戮力。吏民感恩かんおん,咸爲用命ようめい。臨陳すうひゃくきゅう,而襲しゅ死者ししゃさんじゅう餘人よにん,其餘じゅうはちにんつきそうぞくとく入城にゅうじょうかさねそち傷痍しょうい吏民けつかこえりゃくつき,而無はんしゃとげおさむみん,徙至陂營,吏民慕而したがえ如歸。九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう》曰:けんやすろくねんりゅうひょうおさむ西にし鄂,西にし鄂長もりいとぐちそちけん男女だんじょ嬰城而守。とき南陽なんようこう曹柏こうちょうまたざい城中じょうちゅう,聞兵おさむごえ恐懼きょうく入室にゅうしつ閉戶,牽被覆ひふくあたまあいおさむ半日はんにちやや敢出めん。其明,がわたて而聽。二日ふつか,往出とい消息しょうそくいたりよんにち,乃更だておや鬭,いとぐち曰:「いさむ習也。」

つかさ隸鍾繇表はいろうさん軍事ぐんじ。荀彧またこもかさねふとし以爲丞相じょうしょうぐんさいしゅこくすんでけんためさむらいちゅうあずかおうつばらかずひろしなみようつばらつよし博聞はくぶんふとしゆうかん出入でいりとく驂乘,いたり其見けい及洽、かさねかさね嘗獨いたり夜半やはんつばらせい躁競,おこりすわ曰:「不知ふちこうたいもりかさねどう何等なんら也?」ひろしわらいこたえ曰:「天下てんかごとあにゆうつきよこしまきょうひるさむらい矣,悒悒於此,よくけん乎!」かさねりょう丞相じょうしょうちょうずいふとしいたかんちゅう討張魯。ふとしかえはいかさね駙馬じょうとめとくかんちゅう軍事ぐんじ。綏懷ひらけみちびけ,百姓自樂出徙洛、鄴者,はちまんくちなつほうふかしためりゅう備所ぼつぐん元帥げんすい將士しょうししつしょくかさねあずかちょう郃、かく淮糾しょ軍事ぐんじけんむべ以郃ためとく,以一しゅこころ三軍さんぐんとげじょうふとしひがしかえ當選とうせんとめちょう鎮守ちんじゅ長安ながやすおもしゃしょせん不當ふとうふとしれい曰:「しゃく騏驥而不じょう,焉皇すめらぎ而更さく?」とげ以襲ためとめちょうちゅうかんちゅう

どき將軍しょうぐんもと攸擁きょくふと而有慢言。ふとしだいいかさきほしこれ。羣臣諫:「招懷攸,きょう討彊てき。」ふとしよこがたな於膝,さくしょく聽。かさねにゅうよく諫,ふとしぎゃくいい曰:「われけい以定,きょう勿復ごと。」かさね曰:「若殿わかとのけいよこしましんかたじょ殿下でんか成之しげゆき若殿わかとのけいよこしま,雖成むべあらため殿下でんか逆臣ぎゃくしんれい勿言なにまち闡乎?」ふとし曰:「もと攸慢われ如何いかおけ乎?」かさね曰:「殿下でんかいいもと攸何如人よこしま?」ふとし曰:「凡人ぼんじん也。」かさね曰:「おっとおもんみけん知賢ともかたおもんみせいきよし凡人ぼんじんやすのう非凡ひぼんじんよこしま方今ほうこん豺狼さいろう當路とうろ狐狸こりさきにんはたいい殿下でんか避彊おさむじゃくしん不爲ふためいさむ退すさ不爲ふためじんしん聞千鈞之弩不爲鼷鼠發機,萬石之鍾不以莛撞起音,こん區區くくもと攸,なんそく以勞神武じんむ哉?」ふとし曰:「ぜん。」とげあつなで攸,攸即歸服きふくときなつこうなお暱於太子たいしじょうこういたりみつかさねいいひさし益友えきゆう不足ふそくことまて,以聞ふとしぶんみかどはつ甚不えつこう乃追おもえかたりざいなおつて》。其柔而不はんみな此類也。

ぶんみかどそく王位おういたまもの爵關內侯。及踐阼,ためとくぐんかて禦史,ふう武平ぶへいちんこうさらためとくぐんかてほうにゅうため尚書しょうしょあかりみかど即位そくいしんふうじひらきょうこうしょかずらあきらしんがわ大將軍だいしょうぐん曹真とくしょぐんこばめあきら,徙襲ため大將軍だいしょうぐん軍師ぐんしふん邑百戶賜兄基爵關內侯。薨,司馬しばせん王代おうだいかさねふくため軍師ぐんしぞうさんひゃく,幷前ひゃくじゅう。以疾ちょうかえはいふとなか大夫たいふ。薨,追贈ついぞうしょうおくりな曰定こうかい嗣。

ちょうげん[编辑]

ちょうげんはくしか,潁川翟人也。避亂荊州,あずかもりかさねしげる欽通ざいどうけいごうため一家いっかふとしはじめむかえけんじ帝都ていともとげんいい欽曰:「曹鎮ひがしおういのち,必能ただしずみはななつわれ矣。」けんやすねんねんじゅうななとげ扶持ふち老弱ろうじゃくまいふとふとし以儼ためろうりょうちょうけんごう猾,ところかしこげん其尤甚者,おさむばくあんけんみなとく死罪しざいげんすんでしゅう,乃表解放かいほうおんなみちょとき袁紹舉兵南侵なんしん使つかい招誘しゅうもろぐんしょぐん受其いのちおもんみやすぐん不動ふどう,而都じょうとおるきゅうろく調ちょうげん見通みずうり曰:「方今ほうこん天下てんかしゅうしょぐんなみ叛,ふところしゃふくおさむ其綿そのわたきぬ小人こどもらくみだれのう遺恨いこん!且遠近えんきんおそれ不可ふかしょう也。」どおり曰:「紹與大將軍だいしょうぐんしょう甚急,左右さゆうぐんけん背叛はいはん乃爾。わか綿めんきぬ不調ふちょうおくかん聽者ちょうしゃ必謂わが顧望,ゆうしょ須待也。」げん曰:「まことまた如君おもんばかしかとうけん輕重けいちょうしょうなる調しらべ當爲とういくんしゃく此患。」乃書あずか荀彧曰:「こんやすぐんとうおく綿めんきぬ道路どうろ艱阻,必致寇害。百姓ひゃくしょう困窮こんきゅう,鄰城なみ叛,えきようかたぶけとろけ,乃一方いっぽう安危あんき也。且此ぐんじんもり忠節ちゅうせつざいけんほろぜん必賞,のりためしゃすすむぜん爲國ためくにしゃぞう於民。以爲國家こっかむべたれ慰撫いぶしょ斂綿きぬみな俾還。」彧報曰:「輒白曹公,公文こうぶん下郡しもごおり綿めんきぬ悉以還みん。」上下じょうげ歡喜かんきぐん內遂やす

にゅうためそらじょうぞくぬし簿りゃく》曰:ふとしきたこばめ袁紹,遠近えんきんわたしのこ牋記,つう於紹しゃげんあずかりょうやす太守たいしゅとおるどうつうまたほし使つかいげんためひね紹必はいつう乃止。及紹やぶはしふとし使じんさがせ閱紹しつおもんみ見通みずうりしょ疏,かげげん必爲けい,乃曰:「此必ちょうはくしか也。」しんまつあん武紀たけのり》:やぶ紹後,とくもとぐんちゅうじんしょみな焚之。わか使つかいじんさがせ閱,有無うむのり所以ゆえんやす人情にんじょう也。うたぐ此語ためしかどき于禁たむろ潁陰,らくしんたむろ翟,ちょうりょうたむろちょうしゃしょしょうにんともきょう使げん幷參三軍さんぐんまいことくん喻,とげしょう親睦しんぼくふとしせい荊州,以儼りょうあきらりょう太守たいしゅ,徙都とくまもるぐんまもる于禁、ちょうりょうちょう郃、しゅれいのりみち招、馮楷ななぐんふくため丞相じょうしょうぬし簿,遷扶ふう太守たいしゅふとし徙出かんとげうまちょうとうへいせん餘人よにん使つかいひらたなん將軍しょうぐんいんしょとうとくりょう,以儼ためせきちゅうまもるぐんつきすべしょぐん。羌虜すう來寇らいこうがいげんりつしょとうおいいた新平にっぺい大破たいは屯田とんでんきゃくりょなみ自稱じしょう將軍しょうぐん,聚黨よりどころひねくらげんふくりつしょとうおさむぞくそく破滅はめつ

どきしょ千二百兵往助漢中守,しょとくおくこれ行者ぎょうじゃそつあずかしつべつみなゆう憂色ゆうしょくしょはついちにちげんおもんばか其有へん,乃自ついいたりはす谷口たにぐち人人ひとびと慰勞いろうまたふか戒署。かえ宿やど雍州刺史ししちょうすんでしゃしょぐんふくまえよんじゅうへいはて叛亂はんらん未知みちしょ吉凶きっきょう。而儼ずいひゃくじゅうにんみなあずか叛者どうきょくある婚姻こんいんとく此問,かくおどろきかぶとへいふくやすげんほしかえすんでとう以爲「こん本營ほんえいとうやめ擾亂じょうらん一身いっしん赴之無益むえき須定とい」。げん曰:「雖疑ほん營與叛者どうはかりごとようとう聞行しゃへん,乃發またゆうよくぜん不能ふのうじょうむべ及猶,促撫やすしこれ。且爲元帥げんすいすんで不能ふのうやす輯,受禍なんいのち也。」とげくだりさんじゅうやめうまいきつきよびしょしたがえじん,喻以成敗せいばい,慰勵懇切こんせつみな慷慨こうがい曰:「死生しせいとうずいまもるぐん敢有。」ぜんいたしょ營,かく召料めしりょう簡諸かんゆい叛者はちひゃく餘人よにん散在さんざい原野げんやおもんみ其造はかりごとさきがけりつ治之はるゆきいち不問ふもんぐんけん所收しょしゅうおくみな,乃即しょうりつかえげんみつしろ:「むべはたまいだい營,請舊へい鎮守ちんじゅせきちゅう。」ふとし將軍しょうぐんりゅうはしらしょうせんにんとう須到乃發,而事しょ營大駭,不可ふかやす喻。げんいいしょしょう曰:「きゅうへいすんでしょうひがしへい未到みとう以諸營圖ためよこしまはかりごとわかあるなりへんためなん不測ふそくよし狐疑こぎとうれいはやけつ。」とげ宣言せんげんとうとめ新兵しんぺい溫厚おんこうしゃせんにん鎮守ちんじゅせきちゅう,其餘悉遣ひがし便びんぬししゃ,內諸營兵名籍めいせきあんるいじゅうたて差別さべつとめしゃじょうあずかげん同心どうしん。其當しゃまた敢動,げんいちにちつき上道じょうとういん使しょとめせんにん分布ぶんぷ落之。ひがしへいひろいたり,乃復おびえ喻,幷徙せんにんれいしょう及共ひがし,凡所ぜんまんくちまごもり曰:もり聞爲こく以禮,みんしんじだてしゅうしげる棄桐げんすすむぶんたがえ原之はらのちかいのうたかしけい措之どう建一けんいちただしこうげんすんでいつわりとめせんにん使つかいこう心力しんりょくはじめ雖權也。むべ以信おわりへいすんでしゅう,而又逼徙。信義しんぎ矣,なに以臨みん

せきはねかこえせいみなみ將軍しょうぐん曹仁於樊。げん以議ろうさんじん軍事ぐんじみなみぎょうひら寇將ぐんじょあきら俱前。すんでいたはねかこえじんとげけんあまりすくいへい未到みとうあきらしょとく不足ふそくかいかこえ,而諸はた呵責かしゃくあきら促救。げんいいしょしょう曰:「こんぞくかこえもとかたみずにわたずみなおもりわがそつたんしょう,而仁隔絕かくぜつとくどうちから,此舉適所てきしょ以弊內外みみ當今とうぎんわかぜんぐん偪圍,諜通ひとし使つかいがいすくえ,以勵將士しょうしけいきたぐんじゅうにちなおあし堅守けんしゅしかこう表裏ひょうり俱發,やぶぞく必矣。如有なるすくい戮,あまりためしょぐんとうこれ。」しょしょうみな便びんさく地道じみちしょあずかひとし消息しょうそくすうつうきたぐんまたいたり,幷勢大戰たいせんはねぐんすんで退すさふねせんなおよりどころ沔水,じょう隔絕かくぜつ不通ふつう,而孫けんかさねはね輜重しちょう聞之,そくはしみなみかえじんかいしょしょう,咸曰:「こんいん危懼きく,必可つい禽也。」げん曰:「けん邀羽れんへいなんよく掩制其後,顧羽かえすくえこわわがうけたまわ其兩つかれじゅんもとめこうじょう釁因へん,以觀利鈍りどんみみ今羽こんばやめほとばしさらよろしそん以爲けんがいわか深入ふかいりついきたけんそくあらためおそれ於彼,はたなま患於わが矣。おう必以此爲深慮しんりょ。」仁乃じんのかいげんふとし聞羽はしこわしょしょうおいはてやまし敕仁,如儼しょさく

ぶんみかどそく王位おういためさむらいちゅうころはい駙馬じょうりょう河東かとう太守たいしゅてんのうちゅうろうしょうはつさんねんたまもの爵關內侯。まごけん寇邊,せい東大とうだい將軍しょうぐん曹休すべしゅうぐん禦之,しるしげんため軍師ぐんしけんしゅ退すさぐんかえふうよろしちんこうてんためささえちゅうろうはた,遷尚しょしたがえせいいた廣陵こうりょうふくとめためせいひがし軍師ぐんしあかりみかど即位そくいしんふうごうこう,邑ろくひゃくかん荊州しょ軍事ぐんじかりふしかいやましくだりふくため尚書しょうしょかんしゅうしょ軍事ぐんじうたてだい司馬しば軍師ぐんしにゅうためだいつかさみのりひとしおう即位そくい,以儼かん雍、すずししょ軍事ぐんじかりふしてんせいしょく將軍しょうぐんまた遷征西にし將軍しょうぐんとく雍、りょうせいはじめよんねんろうやましもとめかえしるしため驃騎將軍しょうぐんりゃく》曰:きゅう四征有官廚財籍,遷轉さい因緣いんねん。而儼义手うえしゃはついた霸上,忘持其常しょ服藥ふくやく。雍州聞之,乃追おくざつやくざいすうはこげんわらい曰:「ひと言語げんごこと不易ふえきわが偶問しょ服藥ふくやくみみなにようためよこしま?」とげ遷司そら。薨,おくりな曰穆こうてい嗣。はつげんあずかどうぐんからし毗、ちん羣、もりかさねなみ知名ちめいごう曰「からしちんもりちょううん

裴潛[编辑]

裴潛文行ふみゆき河東かわとう聞喜じん也。りゃく》曰:せんためちょせいちちしげるつかまつれいみかどれき縣令けんれいこおりまもる尚書しょうしょけんやすはつ,以奉使りつしるべせきちゅうしょしょう討李傕有功ゆうこうふう列侯れっこうせんしょうおさむほそゆきゆかり此爲ちちしょれい避亂荊州,りゅうおもてまち賓禮ひんれいせんわたしいいしょ親王しんのうつばら司馬しばしば曰:「りゅうまき霸王ざい,乃欲西伯さいはくしょ,其敗にち矣。」とげみなみてきちょうすなふとしてい荊州,以潛さん丞相じょうしょう軍事ぐんじれきさん縣令けんれいにゅうためくら曹屬。ふとしといせん曰:「きょうまえあずかりゅう備俱ざい荊州,きょう以備才略さいりゃくなん如?」せん曰:「使つかい居中きょちゅうこくのうらんじん不能ふのうため也。わかじょうあいだもりけんそく以爲一方いっぽうあるじ。」

時代じだいぐん大亂たいらん,以潛ためだいぐん太守たいしゅ烏丸からすまおう及其大人おとな,凡さんにんかく自稱じしょうたん于,專制せんせいぐんごとぜん太守たいしゅ莫能ただしふとしよく授潛精兵せいびょう以鎮討之。せん曰:「だいぐん戶口とのくちいんしゅひかえつるどうゆうまんすうたん于自よこひさ,內不やすこん將兵しょうへい往,必懼而拒さかい少將しょうしょうそくはばかむべ以計はかりごと不可ふか以兵はさま也。」とげたん車之くるまのぐんたん驚喜きょうきせんなで以靜。たん于以脫帽だつぼう稽顙,悉還前後ぜんごしょかすめ婦女ふじょ器械きかい財物ざいぶつせんあん誅郡中大ちゅうだい吏與たん于爲表裏ひょうりしゃ郝溫、かくはしとうじゅう餘人よにん北邊ほくへん大震たいしん百姓ひゃくしょう歸心きしんざいだいさんねんかえため丞相じょうしょう曹掾,ふとし褒稱だいこうせん曰:「せん百姓ひゃくしょう雖寬,於諸えびすためたかしこんけいしゃ必以せんためげん,而事寬惠ひろえかれもとおごほしいままひろし必弛,すんでたゆまたはたこれ以法,此訟そう所由しょゆうせい也。以勢りょうだい必復叛。」於是ふとしふか悔還せんこれそくこうすうじゅうにち,三單于反問至,乃遣鄢陵ほうあきらため驍騎將軍しょうぐんせい

せんため沛國しょう,遷兗しゅう刺史ししふとし陂,歎其ぐんちんひとしせいとく賞賜しょうしぶんみかど踐阼,にゅうためつねさむらいためぐん、潁川てんのうちゅうろうはたそうどおりみつぎ舉,ぐんこくゆかりのうかんしんつかまつみちたい。遷荊しゅう刺史ししたまもの爵關內侯。あかりみかど即位そくいにゅうため尚書しょうしょため河南かなんいんうたてふとしじょう軍師ぐんしだいつかさみのりふうきよしていこう,邑ひゃくにゅうため尚書しょうしょれいそうせいぶんしょく料簡りょうけん名實めいじつごと使だんかんしゃひゃくじゅうじょうちちかんはいこう祿ろく大夫たいふせいはじめねん薨,追贈ついぞうふとつねおくりな曰貞こうりゃく》曰:とき遠近えんきんみなうん當爲とういこうかいびょうほろびはじめせんかん所生しょせいほろ賤,しゅうとまたためちちしょれいそく折節おりふしつかまつすすむ,雖多しょさられきしんしょうつとむしかまいこれかんしょう妻子さいし妻子さいし貧乏びんぼうあかざ芘以自供じきょうまたせんため兗州,嘗作いちえびすゆか,及其去也,とめ以掛ばしらまた以父在京ざいきょう出入でいりうす軬車;羣弟いおりつね步行ほこう家人かじんしょうだいある幷日而食;其家きょう上下じょうげしょうたてまつことゆう於石奮。其履檢校けんぎょうきょうしょうのう及者。せんため人材じんざいはくゆうみやびようようしかただし如此而已,おわりしょ推進すいしん其絜而不むね其餘。しゅう嗣。のこれい儉葬,はかちゅうおもんみおけいちすわかわらすうまい,其餘いちしょしつらえ

しゅう,咸熙ちゅうため尚書しょうしょぼくしゃ文章ぶんしょう敘錄》曰:しゅう彥。弘通ぐずうはくずみはちさいのうぞくぶんとげ知名ちめい大將たいしょう軍曹ぐんそう爽辟。ちちふくおわり,推財あずか兄弟きょうだいとしじゅう,遷黃もんさむらいろう。爽誅,以故吏免。遷衛こくしょうるい遷散つねさむらい尚書しょうしょぼくしゃれいひかり祿ろく大夫たいふ。咸熙ちゅうすすむぶんおうはじめけんとういのち秀典ひでのりため制度せいどふう廣川ひろかわこうすすむしつ受禪じゅぜんしんひだりこう祿ろく大夫たいふあらためふう钜鹿こう,遷司そらちょえき及樂ろんまた地域ちいきじゅうはちへんでんこう於世。めいかい及典官制かんせいみな未成みせいとしよんじゅうはちやすしはじめななねん薨,おくりなもとおおやけはいしょく宗廟そうびょう少子しょうし頠,逸民いつみんかさねふう。荀綽《冀州》曰:頠爲じん弘雅ひろまさゆうとお識,博學はくがく稽古けいこ履行りこうだかせいしょう知名ちめいれき太子たいしちゅう庶子しょしさむらいちゅう尚書しょうしょ元康もとやすまつため尚書しょうしょひだりぼくしゃちょうおうりん以其もちじゅうかしこ而惡其不あずか賈氏同心どうしんなお枉害。しんまつあんりくめぐみみかど起居ききょちゅうしょう「頠雅ゆうとおりょうとうあさ名士めいし也」,また曰「みんもち也」。頠理ふちはく,贍於論難ろんなんしるたかしゆう無二むにろん,以矯虛誕きょたんへい文辭ぶんじせいとみため名論めいろんかさどうぶん。荀綽たたえかさみゆう父祖ふそふうため中書ちゅうしょろうはやそつ。頠從ちちおとうと邈,けいごえゆう雋才,ためふとでん司馬しばえつ從事じゅうじちゅうろうかりふしかん中外ちゅうがい營諸軍事ぐんじせんしょうおとうと徽,ぶん,冀州刺史しし有高ありだかざいとおたび善言ぜんげん玄妙げんみょうこと荀粲でんおうかんしょつて。徽長子ちょうしはじむはくむねいち名演めいえんゆうげき將軍しょうぐんつぎやすしなか太子たいしひだりまもるりつつぎ楷,叔則,さむらいちゅう中書ちゅうしょれいひかり祿ろく大夫たいふ開府かいふつぎ綽,舒,黃門こうもんさむらいろうはやそつ追贈ついぞうちょうみずこうじょうかん、楷、綽皆ため名士めいし,而楷ざいもちさいじゅう。《すすむ諸公しょこうさん》曰:かん有弘ありひろりょう,綽以明達めいたつためたたえ,楷少あずか琅邪おうえびす俱爲じょうはつめい,鍾會致之大將軍だいしょうぐん司馬しばぶんおう曰:「裴楷きよしどおりおうえびす簡要。」ぶんおうそく辟爲じょうしんれきあらわしゃ鯤爲たのしこうつてしょう楷雋ろう有識ゆうしき當時とうじ獨步どっぽ黎子れいこつとしんしゅう刺史しし康子やすこじゅん黃門こうもんさむらいろうつぎたてじょしゅう刺史ししつぎ郃,ゆうもちすすむもとみかどため安東あんどう將軍しょうぐん,郃爲ちょうさむらいちゅうおう曠與司馬しばえつしょ曰:「裴郃ざい此,雖不治ふちごとしか識量ひろ淹,此下人士じんしだいけい。」くるわちゅうるい將軍しょうぐん。楷子瓚,中書ちゅうしょろうつぎけんしゅう刺史しし。綽子遐,ふとしでんあるじ簿。瓚、遐並ゆう盛名せいめいはやそつ。《すすむ諸公しょこうさんしょうけん有清ありきよ識。

りゃく列傳れつでん》以徐ぶくいむみきよしちょうすんでゆうすわえりょう習、ちょうげん、裴潛、かんせんろうじゅうにんどもまき,其既、習、げんせんよんにんゆうでんじょぶくごとざいしょかずらあきらでん》,ゆうすわえごとざいちょうすんででん》。かんとう四人載之於後。
いむみきこうなかよしこう懿,みな馮翊ひがし縣人けんじん也。馮翊ひがしけんきゅう無冠むかんぞく人並ひとなみたん,其器せいみな重厚じゅうこうとう中平なかひらまつ同年どうねんじゅうあまりみきこう擊劍げっけんよしこう辦護ごと。馮翊かぶとぞく桓、よしかく及故さむらいちゅうてい文信ふみのぶとう,頗以其各ゆうきょう識之。かいさん輔亂,にんりゅう宕,而幹、よしあずかしょあい浮沈ふちんきこり自活じかつ。逮建やすはつせきなかはじめひらきみことのりぶん馮翊西にしすうけんためひだり內史ぐんだかりょう以東いとうすうけん爲本ためもとぐん臨晉。於縣ぶんとう西にしぞくいいみき曰:「西にしけん曹,不可ふかあずかそうすわせきこんとうともさくかたゆかみみ。」とげしょうゆいみなつかまつひがしぐんためみぎしょくつかさ隸辟みきいたりとしおわりぐん舉幹こうかどじょうけいじょうとめ京師けいし爲平ためひらりょうれい,遷宂從僕じゅうぼくとげれき顯職けんしょく。逮魏ふうじゅうぐん,請義以爲ぐんさいしゅまたため尚書しょうしょひだりぼくしゃ。及文みかど即位そくいはい諫議大夫たいふ金吾きんごまもるじょうそつかん義子ぎしゆたかせんこくなつほうげんでん》。みき以孝かどはいがまばんれいやめかんふく至孝しこうためおおやけしゃ司馬しばれいためしゅうしょ請,みことのりはいろうかえさんしゅうごとかい以建さくこうみきまた追錄ついろくぜん討郭援功,ふう武鄉たけさとこう,遷弘のう太守たいしゅ。及馬ちょうはんみきぐんちかちょうみんじん分散ぶんさんちょうやぶためかん太守たいしゅ。遷益しゅう刺史しし,以道不通ふつうはつちゅううたてため五官ごかんちゅうろうしょうあかりみかど,遷永あんふとしぼくすうさいそつはじめよし以直どう推誠於人,于時ひね羣等あずかこれひとしこう。雖無ざいりょく,而終つかまつすすむとみ躓。みきしたがえやぶらんこれさら折節おりふし學問がくもんとくぜん春秋しゅんじゅうこうひつじ》。つかさ隸鍾繇不このみおおやけひつじ》而好《ひだり》,いいひだりためたいかん,而謂こうひつじためうりもちすうあずかみきどもべん長短ちょうたん。繇爲じんとしぜん持論じろん,而幹訥口,臨時りんじこごめ以應。繇謂みき曰:「おおやけひつじだか竟爲ひだりおかあきらふく矣。」みき曰:「ちょく吏爲あかり使くんふくみみおおやけひつじ肯也。」
かんせんけいしか,勃海じん也。ためじん短小たんしょうけんやすちゅう丞相じょうしょう召署ぐんはかりごとじょう,宂散在さんざい鄴。嘗於鄴出入でいりみや於東おひがしわきもん內與臨菑こううえしょうぐうときてんしんあめゆうどろにわたずみせんよく避之,閡潦。乃以おうぎさわじゅう於道うえいやせんすんでまた不爲ふためれい,乃駐しゃ使つかい其常したがえといせんなんかんせんうん:「丞相じょうしょうぐんはかりごとじょう也。」うえまたとい曰:「おうどく唐突とうとつ列侯れっこう?」せん曰:「春秋しゅんじゅうよしおうじん雖微,れつ于諸こううえ聞宰而爲下士かし諸侯しょこうれい也。」うえまた曰:「そく如所ごとためじんちち吏,其子おう有禮ありのり?」せんまた曰:「於禮,しんいちれい也,而宣ねんまたちょう。」うえ其枝ばしらなんきゅう,乃釋ため太子たいしげん,以爲べんはつちゅうため尚書しょうしょろう,嘗以しょくごととう受罰於殿まえやめばくたばつえくだりぶんみかど輦過,もん:「此爲だれ?」左右さゆうたい曰:「尚書しょうしょろう勃海かんせん也。」みかどついねんぜん臨菑こう所說しょせつ,乃寤曰:「けんしょどうかんせんよこしま!」とく原之はらのとげかい其縛。ときてん大寒だいかんせんぜん以當受杖,だつはかままといふんどしめんばく;及其ばらふんどしこしした,乃趨而去。みかど而送わらい曰:「此家ゆう瞻諦也。」ため清河きよかわひがしぐん太守たいしゅあかりみかどため尚書しょうしょだいおおとり臚,すうさいそつせん前後ぜんこうとうかんざい能否のうひあいだしかぜん以己じょじんはじめ南陽なんようかん暨以宿德しゅくとくざいせんぜんためだいおおとり臚,暨爲じんけん,及宣ざいまたたたえしょくおおとり臚中爲之ためゆき曰:「だいおおとり臚,しょうおおとり臚,前後ぜんごぎょう曷相如。」あん本志ほんしせんめいおもんみりゃくゆう此傳,而《れつ於名しんこれりゅう
ろうぶんたち,沛郡じん也。ためじん弘通ぐずう有性ゆうせいちち爲本ためもとけんそつろうかん其如此,こうこころざしゆうまなぶゆかりためかたこく及其ぐん大夫たいふしょれいこととくあずか東平とうへいみぎせいおうめぐみためせき交,めぐみ親拜しんぱいろうはは於牀ろうはじめつかまつはつちゅうためちょう吏,遷長やすれいかいはは赴,ふくためれい,遷襄じょうてんのうちゅうろうはた、涿郡太守たいしゅ。以明みかど疾病しっぺいそつはじめろうためくんちょう以父つね呼鈴よびりんはく,而呼其姓いたり忿怒ふんどまたおわり不言ふげんろうすんでつかまついたりせんせき,而惠またれき長安ながやすれいさけいずみ太守たいしゅ時人じじんいいめぐみがい疏而內堅みつのう顧朗本末ほんまつことろうはは如己ははためどおり也。
さかな豢曰:しょう君子くんしとく其猶りゅう乎,ぶた以其ぜんへん也。むかし長安ながやす巿儈ゆうりゅうなかはじめしゃいちため巿吏しょはずかしめ,乃感激かんげき,蹋其じゃくおり遂行すいこう學問がくもんけいあかりぎょうおさむりゅうめいうみ內。こう以有どうちょう肯就,衆人しゅうじん其高。以爲前世ぜんせい偶有ぐうゆう此耳,而今じょいむふくさんわかみなりゅうこころざし也,其何のういたり於此哉?推至どうちょうこうぬしかん見識けんしきことのう拔萃ばっすいかくちょ於石じょう,而垂かげ千里せんりまたためえき也。ゆうおう慷慨こうがいてんぬの腹心ふくしんぜん軀保ぐん見延みのべ帝王ていおうまた陸生りくせいゆうゆうえんおどけまた一實かずみ也。はりちょう及裴,雖張、楊不足ふそくいたり於檢おのれろう而益あきらまたなんのう也。

ひょう[编辑]

ひょう曰:かずひろし清和せいわみきつねはやしもとぎょうじゅんかた,楊俊人倫じんりん行義ゆきよしもりかさねぬるいき識統,ちょうげん剛毅ごうきゆう,裴潛ひらた恆貞つねさだみきみな一世之美士也。いたりりんのう繫心於三,以大夫たいふつげおいよし矣哉!