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三國志/卷28 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

三國志さんごくし/まき28

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 しょ·じょえびす二王におうでん 三國志さんごくし
しょ·おう、毌丘、しょかずら、鄧、鍾傳
しょ·かたわざでん 

おうりょう 毌丘儉 しょかずら誕 鄧艾 鍾會


おうりょう[编辑]

  おうりょう彥雲,ふとしげん祁人也。叔父おじまことためかん,誅董たくたくはた傕、かく汜等ためたくほうかたきにゅう長安ながやすころせまことつきがい其家。しのげ及兄晨,ねんみなしょう,逾城とくぬげ亡命ぼうめい歸鄉ききょうさとしのげ舉孝れんためはつちょうりゃく》曰:しのげためちょうぐうごと,髡刑さいとうみち掃除そうじときふとししゃもん此何左右さゆう以狀たいふとし曰:「此子兄子せこ也,しょすわまたおおやけみみ。」於是ぬししゃせんため驍騎ぬし簿やや遷至中山なかやま太守たいしゅ所在しょざいゆうふとし辟為丞相じょうしょうじょうぞく

  ぶんみかど踐阼,はいつねさむらいため兗州刺史ししあずかちょうりょうとういたり廣陵こうりょう討孫けん。臨江,よる大風おおかぜすすむりょはんとうせん漂至北岸ほくがんしのげあずかしょしょうぎゃくげき斬首ざんしゅとりこふねせん有功ゆうこうふうむべしろていこうけん武將ぶしょうぐんうたてざいあおしゅう海濱かいひんじょうらんこれ法度はっとせいしのげぬのせいほどこせきょうしょうぜんばつあく,甚有綱紀こうき百姓ひゃくしょうしょうよう於口。したがえ曹休せいあずかぞくぐう於夾せききゅうぐんしつしのげ力戰りきせんけつかこえきゅうとくめんなん。仍徙ためあげしゅう刺史しし,咸得軍民ぐんみん歡心かんしんはじめいたりしゅう,旌先けんこれもとめあらわかくゆうじょうきょう意義いぎ甚美。はつしのげあずか司馬しばあきら、賈逵ともぜん,及臨兗、つぎ其名あとせいはじめはつためせいひがし將軍しょうぐんかりふしとくあげしゅうしょ軍事ぐんじねん大將たいしょうぜん琮數まん眾寇芍陂,しのげりつしょぐんぎゃく討,あずかぞくそう塘,力戰りきせん連日れんじつぞく退すさはしすすむふう南鄉なんごうこう,邑千さんひゃくじゅう,遷車將軍しょうぐんただしどうさん

  しのげがいおいれいきつね才能さいのうため兗州刺史ししたむろひらめおもねしゅうとおいなみてんへいせん淮南ワイナンおもしのげ就遷ためそら司馬しばせんおうすんで誅曹爽,しんしのげためふとしじょうかりふし鉞。しのげみつきょうけいいいひとしおうにんてんすわえおうぴょうちょう而才,よくむかいたてあやもとあきら嘉平かへい元年がんねんきゅうがつはたちょうしきいたり白馬はくばあずかあやしょうとい往來おうらいしのげまた舍人とねりろうしらげまい洛陽らくようひろ廣言こうげん:「廢立はいりつ大事だいじ,勿為さき。」かんすすむ春秋しゅんじゅう》曰:しのげはかりごと,以帝ようせい於強しん不堪ふかんためぬしすわえおうぴょうちょう而才,よくむかえりつ,以興曹氏。しのげ使じんつげひろこう曰:「凡舉大事だいじおうほん人情にんじょうこん曹爽以驕奢きょうしゃしつみんなにひら叔虛而不治ふちちょう、畢、桓、鄧雖なみゆう宿望しゅくぼうみなせんきおい於世。へんやすあさてん政令せいれいすうあらため所存しょぞん雖高而事したせっみん習於きゅう,眾莫したがえ雖勢かたぶけ四海しかいこえふるえ天下でんか同日どうじつ戮,名士めいしげんはん,而百姓ひゃくしょうやす,莫或あいしつみん也。こん懿情雖難りょうことゆうぎゃく,而擢ようけんのう廣樹ひろき勝己かつみおさむさきあさ政令せいれいふく眾心ところもとむ。爽之所以ゆえんため惡者わるものかれ莫不必改,夙夜匪解,以恤みんためさき父子ふし兄弟きょうだいなみにぎへいようえきほろび也。」りょうしたがえしんまつ以為如此ごとこれるいみな前史ぜんししょ,而猶習氏。且制げん法體ほうたい於昔,うたぐ悉鑿しょみやつこしゃ也。じゅういちがつふくしきまいあやかえかい病死びょうししょ》曰:こう本名ほんみょう浚,はつちゅうためえびすまもるぐん烏丸からすまこうじょう討胡有功ゆうこうしょうたがえ節度せつど以法なわみかどいか,械系免官めんかんざいみことのり曰「浚何」!とげ以名せいはじめちゅうため曹爽ちょうため兗州刺史しし。《りゃく》曰:聞楚おうぴょうゆう智勇ちゆうはつひがしぐんゆうなまりげんうん:「白馬しろうま河出かわで妖馬,よるかんまきあたりよび,眾馬みなおう明日あした其跡,だい如斛,ぎょうすうかえにゅう河中かわなか。」またゆう謠言ようげん:「白馬はくばもと西南せいなんはせ,其誰じょうしゃしゅとら。」すわえおう小字こあざしゅとらあずかおうりょう陰謀いんぼうりつすわえおう。乃先使人通ひとどおり於王,げん使つかいくんしゃおう天下てんかごと可知かちはらおう自愛じあい」!あやまたかげ其意,とうごとしゃ使くん厚意こうい也。」

  ねん,熒惑もりみなみしのげいい:「中有ちゅううぼしとうゆう暴貴しゃ。」りゃく》曰:しのげ聞東平民へいみんひろししょうぼしよびといしょうしょううたぐしのげゆうしょはさみよくえつ其意,不言ふげんとうゆう,而言淮南ワイナンすわえぶん也,こんすわえどう佔,とうゆう王者おうじゃきょうしのげけいとげじょうさんねんはるぞくふさがぬりすいしのげよくいん此發,だいいむしょぐんひょうもとめ討賊;みことのりほう聽。しのげ陰謀いんぼうしげる甚,將軍しょうぐん楊弘以廢立はいりつごとつげ兗州刺史ししはなはなひろ連名れんめい白太しらたでん司馬しばせんおうせん王將おうしょうちゅうぐんじょう水道すいどう討凌,さき赦赦しのげざいまたはた尚書しょうしょ廣東かんとん使つかいためしょ喻凌,大軍たいぐん掩至ひゃくしゃく逼凌。しのげぜいきゅう,乃乘船じょうせんたん出迎でむかえせんおうじょうおう謝罪しゃざいおく印綬いんじゅふし鉞。ぐんいたおかあたましのげめんばく水次みつぎせんおううけたまわみことのりおも簿かいばくはんふくしのげ慰勞いろうかえ印綬いんじゅふし鉞,ろくひゃくにん送還そうかん京都きょうとしのげいたりこういんやくりゃくしのげ與太よたでんしょ曰:「そつ聞神ぐんみつはつざいひゃくしゃく,雖知いのちきゅうつきおそ於相くび分離ぶんり以為恨,前後ぜんご使つかいゆうしょかえむくいくわだてかかと西にしもちもの以譬。さくしょこれ便乘びんじょうせんらいしょうむかえ宿やどおかあたまだんはつ於浦こうたてまつぬの赦書,またじゅうさんにちきょうるい誨示,聞命驚愕きょうがく內失もり不知ふちなん以自しょぼくひさしかたじけな朝恩ちょうおんれきためし無效むこう統御とうぎょえびすただしひとしひがしなつことゆう闕廢,中心ちゅうしんはんよしつみざいさんひゃく妻子さいしどうけんしょ禱矣。聖恩せいおんてんくつがえよここうむいき,复睹日月じつげつほろびおいれいきつね攜惑ぐんしょうげんぼく即時そくじしかそもそも使つかいとく竟其すんでじんやめ神明しんめいしょかんおっとことかげそついたり發露はつろ此梟夷之えびすのざい也。なましゃ父母ちちははかつしゃ也。」又重またしげ曰:「おちいけいざい,謬蒙赦宥。いまじょうおく印綬いんじゅごろいたりとう如詔しょ自縛じばく歸命きみょう。雖足わたしかんほうゆうぶん。」及到,如書。ふとしでん使つかいじんかい其縛。しのげすんでこうむ赦,怙舊このみふくうたぐみちじょう小船おぶねおもむきふとでんふとしでん使つかいじんぎゃくとめじゅうせん淮中,相去あいさりじゅうあまりたけしのげ知見ちけんがい,乃遙いいふとでん曰:「きょうちょく以折簡召わがわがとう敢不いたりよこしま?而乃引軍らい乎!」ふとしでん曰:「以卿肯逐おり簡者也。」りょう曰:「きょう!」ふとしでん曰:「わがやすしきょうまけ國家こっか。」とげ使じんおくらい西にししのげざいじゅうためしさくかんくぎ,以觀ふとでんふとしでんきゅうりょうぎょういたこうよるよびじょうぞくあずかけつ曰:「行年ぎょうねんはちじゅうめいなみめつよこしま!」とげ自殺じさつたからすすむ》曰:しのげいたこう賈逵ほこらざいみずがわしのげよび曰:「賈梁どうおうりょうかたただ於魏社稷しゃしょくしゃただなんじゆうしん知之ともゆき。」其年はちがつふとしでんゆうやましゆめしのげ、逵為癘,甚惡とげ薨。

  せんおうとげいたりことぶきはるちょうしきとうみな自首じしゅ,乃窮其事。あやたまもの諸相しょそうれんしゃ悉夷さんぞくりゃく山陽さんようたんかたきょうなつためじんゆうせいはじめちゅう,兗州刺史ししれいきつねあずかかたちちはくりゅうよし,辟固,よく以為べつかたらくためしゅう吏,以疾。れいいよいよあつしかたよくおうかたははなつこういいかた曰:「使つかいくんあずかなんじちちひさぜんいのちなんじとめなんじまたとうつかまつすすむ往耳。」かたやめとげ往,あずか兼治けんじちゅう從事じゅうじ楊康なみため腹心ふくしんこうあずかおうりょう通謀つうぼうかんかたみな其計。かいびょうかんおう召詣洛陽らくようかたまた以疾かい祿ろくかん在京ざいきょう其事,ふとしでん乃東おうりょういたことぶきはるかたぶとでんふとしでんとい曰:「きょう其事ためよこしま?」かたたい不知ふちふとしでん曰:「且置近事きんじといきょうれいきつねはん乎?」かたまた曰無。而楊やすししろ事事ことごとあずかかたれんとげおさむかた及家ぞくみながかり廷尉,こう實數じっすうじゅうかたうんゆうふとしでんろく楊康,あずかかたたいしょうつめ固辭こじきゅう,乃罵やすし曰:「ろういさおすんでまけ使くんまたほろびわがぞく,顧汝とうかつよこしま!」じょうことじょう,須報廷尉,以舊みな聽得あずか其母妻子さいししょうかた其母,仰視ぎょうし,其母其慚也,いい曰:「きょうなつなんじほんよくおうしゅうぐん也,わがつよみみなんじためじん吏,とうなんじみみ。此自門戶もんこおとろえわが恨也。なんじ本意ほんいあずかわがかたり。」かたおわおおせまたかたり,以至於死。はつ,楊康以白其事,冀得ふうはい以辭頗參錯,またなみ。臨刑,俱出獄しゅつごくかたまたののしかん曰:「ろうやつなんじ自分じぶんみみわかれい死者ししゃゆうなんじなん面目めんぼく以行地下ちか也。」朝議ちょうぎ咸以ため春秋しゅんじゅうよしひとしちぇていせいみなつい戮,ちんかばね斫棺,ざい方策ほうさくしのげざいむべ如舊てん。乃發しのげづか,剖棺,暴屍於所きんさんにちしょう印綬いんじゅちょうふくおやうめこれたからすすむ》曰:兗州たけ吏東ひらたうまたかしたくためきゃく,以私ざいさら殯葬,ぎょうふくさんねんしゅ植松うえまつかしわ一州いっしゅうこれ愧之。進弘のぶひろはな爵為きょうこうこう有志ゆうしなおがくゆき死時しにどきねんよんじゅうあまりたかし春秋しゅんじゅう》曰:こうこうふちおとうとふくろうきむとらなみざいたけひとふとしでん從容しょうようとい蔣濟,すみ曰:「しのげ文武ぶんぶ俱贍,當今とうぎん無雙むそうこうとうこころざしりょく有美ゆみ於父みみ。」退すさ而悔つげしょおや曰:「われ此言,めつじんもんむね矣。」《まつでん》曰:しのげ少子しょうし明山めいさん最知さいちめいぜんしょ技藝ぎげいにんとく其書,みな以為ほうはしむかいふとしはらおいぐん及之,ゆう飛鳥あすかしゅうくわじゅずいえだてい卬,舉弓しゃそくたおせおいじん乃止ふくしん明山めいさんとうおやしょくおやつげ吏,乃就執

毌丘儉[编辑]

  毌丘儉字仲恭ちゅうきょう河東かわとう聞喜じん也。ちちきょうはつちゅうため武威ぶい太守たいしゅ叛柔ふく開通かいつうかわみぎ名次なつぎ金城きんじょう太守たいしゅのり。討賊ちょうすすむ及討叛胡有功ゆうこうふうだかきょうこうめいしんそう雍州刺史ししちょうすんでひょう曰:「かわみぎ遐遠,らんわたるひさ武威ぶいとうしょぐんどうのど轄之ようみんえびすざつしょすうゆうへいなんりょう太守たいしゅ毌丘きょういたかん,內撫吏民,そとふところ羌、えびすそつ使やわためかん效用こうようはなちょうすすむはつぎゃくみだれ扇動せんどう左右さゆうきょう志氣しきちゅうれつ,臨難顧,ため將校しょうこうみんえびすひねせつ禍福かふくげんそく涕泣ていきゅう。於時男女だんじょまんくち,咸懷感激かんげきかたち毀髮みだれちかいこころ致命ちめいひろりつ精兵せいびょう踧脅ちょうわきすみ拔領太守たいしゅもりどおり西海にしうみ太守たいしゅちょうあつしちょうわきばん、驪靬二縣吏民及郡雜胡棄惡詣興,きょうみなやす卹,使つかい盡力じんりょくでんきょうごとしょれきつき竭心りょくまことこく良吏りょうり殿下でんか即位そくいとめしんまん,苟有毫毛ぜん,必有しょうろくしんふくえん聖旨せいしゆびひね其事。」にゅうためしょうさくだいたくみ。儉襲ちち爵,為平ためひらげんこう文學ぶんがくあかりみかど即位そくいため尚書しょうしょろう,遷羽りんかん以東いとうみやきゅう,甚見おやまちため洛陽らくようてんのうとき農民のうみん以治宮室きゅうしつ,儉上疏曰:「しん以為天下でんかしょきゅうじょしゃぞくしょ急務きゅうむしゃ衣食いしょくまこと使ぞく不滅ふめつ士民しみんかつえこお,雖崇宮室きゅうしつなお無益むえき也。」遷荊しゅう刺史しし

  あおりゅうちゅうみかど討遼ひがし,以儉ゆうみきさく,徙為かそけしゅう刺史ししりょう將軍しょうぐん使つかいぶしまもる烏丸からすまこうじょうりつかそけしゅうもろぐんいたりじょうひらめたむろりょう隧。みぎ北平きたひら烏丸からすまたん于寇婁敦、りょう西にし烏丸からすまとくりつ眾王まもるとめとうむかしずい袁尚奔遼ひがししゃりつ眾五せん餘人よにんくだ。寇婁あつしおとうとおもね槃等まい朝貢ちょうこうふう其渠りつじゅう餘人よにんためこうおうたまもの輿こし繒採かくゆう公孫こうそんふちぎゃくあずか儉戰,不利ふり,引還。明年みょうねんみかどふとじょう司馬しばせんおうみつるちゅうぐん及儉とう眾數まん討淵,てい遼東りゃおとん。儉以こうしんふうやす邑侯,しょくさんせんきゅうひゃく

  せいはじめちゅう,儉以だか驪數おかせ叛,とくしょぐんまん人出ひとでげんうさぎしたがえ諸道しょどう討之。王宮おうきゅうはたまんにん進軍しんぐんにえ流水りゅうすいじょう大戰たいせんはりこうはりおん渴。みや連破れんぱはし。儉遂たばけんしゃ,以登まるほふ驪所くびとりこ以千すう驪沛しゃめいとくらいかず諫宮,しんまつ東夷あずまえびすでん:沛者,驪國かんめいみやしたがえ其言。とくらい歎曰:「立見たちみ此地はたなまよもぎ蒿。」とげしょく而死,舉國けん。儉令しょぐん不壞ふえ其墓,其樹,とく妻子さいしみなこれみやたんしょう妻子さいし逃竄。儉引ぐんかえろくねん,复征みやとげ奔買みぞ。儉遣げんうさぎ太守たいしゅおう頎追》曰:頎字あなせきひがし萊人,すすむえいよしみちゅう大賊たいぞくおうわたる,頎之まご沃沮せん有餘ゆうよさといたり肅慎みなみかいこくせききのいさおかんまるやまめいたいしろもろしょ誅納はちせんくち論功ろんこう受賞じゅしょうほうしゃひゃく餘人よにん穿ほじやま溉灌,みんよりゆき其利。

  遷左將軍しょうぐんかりふしかんしゅうしょ軍事ぐんじりょうしゅう刺史ししてんため鎮南將軍しょうぐんしょかずら誕戰於東おひがしせき不利ふり,乃令誕、儉對かわ。誕為鎮南,とくしゅう。儉為鎮東,とく楊州。ふとしでんしょかずらつとむかこえあいこえ新城しんじょう,儉與ぶん欽御ふとしじょう司馬しばまこととくちゅうぐんひがしかいかこえつとむ退すさかえ

  はつ,儉與なつほうげんゆたかとうあつぜんあげしゅう刺史ししぜん將軍しょうぐんぶん欽,曹爽邑人也,驍果もうすうゆう戰功せんこうこのみぞうとりこ,以徼ちょうしょうもと怨恨えんこん甚。儉以けいあつまち欽,じょうこう歡洽。欽亦かん戴,とうこころせいもとねん正月しょうがつゆう彗星すいせいすうじゅうたけ西北せいほく竟天,おこり於吳、すわえこれぶん。儉、欽喜,以為おのれさちとげ矯太きさきみことのり罪狀ざいじょう大將軍だいしょうぐん司馬しばけいおううつりしょぐんこく,舉兵はんせりおびえ淮南ワイナンしょうもりしょべつたむろしゃ,及吏みん大小だいしょうみなにゅうことぶき春城しゅんじょうためだん城西じょうさい,歃血しょうへいためめいふん老弱ろうじゃくもりじょう,儉、欽自しょうろくまん眾渡淮,西にしいたるこう。儉堅守けんしゅ,欽在外為がいためゆうへい儉、欽等ひょう曰:「相國しょうこく懿,ただし輔魏しつれきごとちゅうさだれつあかり皇帝こうてい授以寄託きたくにん。懿戮力盡ちからつきぶし,以寧はななつまた以齊おう聰明さとあきゆうけがれとく,乃心つとむ盡忠じんちゅう以輔じょう天下てんかよりゆきこれ。懿欲討滅とりこ以安宇內,はじめぶんぐんかてかつどう舉,未成みせい而薨。ひとしおう以懿ゆう輔己大功たいこうとげ使師承ししょうすべ懿業,大事だいじ。而師以盛ねん在職ざいしょくやましたくびょうすわよう強兵きょうへいゆうしんれい朝臣あそん義士ぎしそしこれ天下てんかしょ聞,其罪一也かずや。懿造けいぞくうすぐんかて,剋期ゆうため大臣だいじんとうじょ國難こくなんまたためじんとうそつちちぎょうあいごえぜっ而便やめいきためしん不忠ふちゅうため不孝ふこう,其罪也。ぞく退すさ東關ひがしせきすわおこり眾,さんせいどうすすむ眾敗績,歷年れきねんぐん一旦いったん而盡,致使ぞくらい天下てんか騷動そうどう死傷ししょう流離りゅうり,其罪三也みつやぞく舉國悉眾,ごうじゅうまんらいむかいひさしはるまい洛陽らくようかいふとしじょうまことあずかしんとうけんけい,乃杜ふさがようけんあずかそうほこさきかえかた新城しんじょう淮南ワイナン將士しょうし,衝鋒くつ晝夜ちゅうやしょうもりつとむひゃくにち死者ししゃぬりゆうぐんやめらいためなん甚,莫過於此。而師とげ自由じゆうろんふうしょう權勢けんせい自在じざい所領しょりょうろく,其罪よん也。中書ちゅうしょれいゆたかとう,以師無人むじん臣節しんせつよく退すさこれ而請ゆたか,其夕ひしげころせかばねうめかんゆたかとうため大臣だいじん帝王ていおう腹心ふくしん,擅加こく暴,無罪むざいめい有無うむくんしん,其罪也。懿每嘆說ひとしおうこらえじんぬし君臣くんしんじょうたてまつこと以來いらいじゅうゆうはじめよくせい,按行武庫むこみことのりといきんへいとく妄出。かん慝,にん神所こうどころゆう,矯廢君主くんしゅ以罪。まこと叔父おじせい甚仁こうついおくひとしおう,悲不かち群臣ぐんしんみないか而師ふところしのべ大義たいぎ,其罪ろく也。またひかり祿ろく大夫たいふちょう緝,無罪むざい而誅,えびす妻子さいしなみ母后ぼこう,逼恐至尊しそんつよ催督臨時りんじあい愕,莫不きずつう;而師しょうけいはん歡喜かんき,其罪なな也。陛下へいか踐阼,聰明そうめい神武じんむことけい聖心せいしんよくたかししょうやく天下てんか聞之,莫不歡慶;而師あらため悔脩复臣れい,而方徵兵ちょうへいつの,毀壞みや內,列侯れっこう自衛じえい陛下へいかそく阼,はつあさ覲。陛下へいかよく臨幸りんこうしゃ以省其疾,复拒不通ふつうたてまつ法度はっと,其罪はち也。こんしゃりょうぐんもとまこと當為とうい鎮北,以廚ぜにきゅうたまもの,而師舉奏辟,雖云りゅう徙,道路どうろかつえころせ天下てんか聞之,莫不哀傷あいしょう,其罪きゅう也。三方さんぽうもり一朝いっちょう闕廢,多選たせん精兵せいびょう,以自營衛,營領へい,闕而うつわつえたかし本營ほんえい天下てんかしょ聞,にんなつけいきどお怨,なまりごとみつる,以疑うみ內,其罪じゅう也。きゅう守兵しゅへい,以佔だかだい,以空虛くうきょよんひょうよく擅強ぜい,以逞かんしんつの屯田とんでん其復しょう,阻兵やすしのべ壞亂かいらん舊法きゅうほうごう聚諸籓王公おうこう以著鄴,よく悉誅一旦いったん舉事はいぬしてんちょうあく使つかいしゅなり,其罪じゅう一也かずやしんとう先人せんじんみな隨從ずいじゅうふとたけ皇帝こうてい征討せいとう凶暴きょうぼうなり大功たいこうあずか高祖こうそぶん皇帝こうていそく受漢ぜん開國かいこくうけたまわいえなお堯舜相傳そうでん也。しんあずかあんゆたかまもるぐんていつばさいおりこうまもるぐんりょせん太守たいしゅちょうきゅう淮南ワイナン太守たいしゅちょうたかしとくあいこえまもるぐんおうきゅうとうかく以累受恩,千載せんざい風塵ふうじんおもえつき軀命,以完ぜん社稷しゃしょくやすしゅためこう。斯義苟立,雖焚妻子さいし,吞炭うるし而不恨也。按師つみむべだい辟,以彰かん慝。春秋しゅんじゅうよし一世いっせいためぜんいちせいなだめこれ。懿有大功たいこううみ內所しょ古典こてんはい以侯就弟。おとうとあきらちゅう肅寬あきららくこうゆう高世たかせ君子きみここれ忠誠ちゅうせい為國ためくにあずかどうしんとう碎首しょたもて以代輔導ほどうせい躬。ふとしじょうまこと忠孝ちゅうこう小心しょうしんしょむべおやちょう,授以でんまもるぐんつねさむらいもちちゅうこうおやごととうかんしょうのうとおむかえじょう輿こしゆう宿衛しゅくえいこうためちゅうりょうぐん春秋しゅんじゅうよし大義たいぎめつおやしゅうこう誅弟,せき碏戮とも鴆兄,うえ為國ためくにけいしたぜん宗族そうぞく。殛鯀よう禹,聖人せいじん明典あきのり古今ここんしょしょう。乞陛下下しもじもしんとうしょかなでちょうどうはくしんげんとうみち使つかいへりくだくらい避賢しゃやめへい備,如さんすめらぎ舊法きゅうほうのり天下でんか協同きょうどうわかまけぜい恃眾退すさしゃしんとうりつはた所領しょりょう晝夜ちゅうや兼行けんこうおもんみいのち授。しんとう今日きょうしょかなでおもんみほっ使だい永存えいぞん使つかい陛下へいかとくこうくんとおぜっほろびこれ百姓ひゃくしょう安全あんぜんろくごう一體いったい使つかい忠臣ちゅうしん義士ぎし愧於さんすめらぎみかどみみしんおそれへいおこり天下てんか擾亂じょうらんしん輒上ごとうつり三征及州郡國典農,かくやす慰所吏民,とく妄動もうどう,謹具以狀聞。おもんみ陛下へいかあいやしなえ精神せいしんあきらおもんばか危害きがい,以寧うみ內。專權せんけんようぜい賞罰しょうばつ自由じゆう,聞臣とう舉眾,必下みことのり禁絕きんぜつ關津せきのつ使つかいえきしょ不通ふつう,擅复ちょう調ちょうゆう所收しょしゅう。此乃みことのり陛下へいか詔書しょうしょ在所ざいしょみなとくふくうけたまわようしんとうみちとお,懼文書ぶんしょとくみなどおり,輒臨賞罰しょうばつ,以便宜べんぎ從事じゅうじ,須定ひょうじょう也。」

  大將軍だいしょうぐんみつる中外ちゅうがいぐん討之,別使べっししょかずら誕督しゅうもろぐんしたがえやすふうなずらえことぶきはるせいひがし將軍しょうぐんえびす遵督あおじょしょぐん於譙、そうあいだぜっ其歸大將軍だいしょうぐんたむろなんじ使つかいかんぐんおう基督きりすとぜんほこさきしょぐんよりどころみなみひたぶる以待こんしょぐんみなけんかべ勿與せん。儉、欽進とく鬥,退すさこわことぶき春見はるみかさねとくけいきゅう不知ふち所為しょい淮南ワイナン將士しょうしいえみなざいきた,眾心沮散,くだしゃしょうぞくおもんみ淮南ワイナン新附しんぷ農民のうみん為之ためゆきよう大將軍だいしょうぐん兗州刺史しし鄧艾とく泰山たいざんしょぐんまん餘人よにんいたりらくよしみしめせじゃく以誘大將軍だいしょうぐんひろ洙至。欽不知ふちはて夜來やらいよくかさねもぐさとうかいあきら大軍たいぐん兵馬へいばもり,乃引還。たかし春秋しゅんじゅう》曰:欽中子なかご俶,小名しょうみょう鴦。としなおよういさむつとむぜっじんいい欽曰:「及其未定みていげきやぶ也。」於是ぶんためたいよる夾攻ぐん。俶率壯士そうしさきいたり大呼たいこ大將軍だいしょうぐんぐん中震ちゅうしん擾。欽後おうかいあきら,俶退,欽亦引還。まつつて曰:殿中でんちゅうじんせいいん大目おおめしょうため曹氏やつつねさむらいざいみかどがわ大將軍だいしょうぐんしょう俱行。大目おおめ大將軍だいしょうぐん一目いちもくやめ突出とっしゅつけいうん:「ぶん欽本あかりこう腹心ふくしんただしためじんしょあやまみみまた天子てんし鄉里きょうり大目おおめむかしためぶん欽所しんじ,乞得つい解語かいごれいかえあずかおおやけ复好。」大將軍だいしょうぐん聽遣大目おおめ單身たんしん往,じょうだいよろいかぶとついぶん欽,はるかしょう與語よご大目おおめこころじつよく曹氏やす,謬言:「君侯くんこうなんわか不可ふかふくにんすうにち中也ちゅうや!」よく使欽解其旨。欽殊さとる,乃更厲聲ののし大目おおめ:「なんじ先帝せんてい家人かじん不念ぶねん報恩ほうおん,而反あずか司馬しばさくぎゃく上天じょうてんてんゆうなんじ!」乃張ゆみでんよくしゃ大目おおめ大目おおめ涕泣ていきゅう曰:「世事せじはい矣,ぜん努力どりょく也。」大將軍だいしょうぐんたて驍騎追擊ついげき大破たいは,欽遁走とんそう,儉聞欽戰敗せんぱい恐懼きょうくよるはし,眾潰。いたりまきけん左右さゆうじんへいやや棄儉,儉獨あずか小弟しょうていしゅう及孫重藏じゅうぞう水邊みずべそうちゅうやすふうじょう部民ぶみんちょうぞく射殺しゃさつ儉,つてくび京都きょうとぞくふうこうしゅうじゅう走入はしりくれ將士しょうししょため儉、欽所せりおびえしゃ,悉歸くだ欽與かく淮書曰:「大將軍だいしょうぐんあきらはく與太よたでんはく)俱受顧命,とうゆかひじたくづけ天下でんか,此遠近所きんじょこう以勢,乃絕其祀,及其おやとうみないちしゅんため痛心つうしん奈何いかん奈何いかんおおやけこう恃與だい司馬しばこうおん親分おやぶんちょつらぬけ金石かねいしとう此之そうえきどくつうゆう不可ふかこらえ也。おうふとしじょういや其專あさせんよく舉兵,こと竟不とし,复受誅夷,がい及楚おうそう甚追恨。ふとしでんすんでほろびしか其子繼承けいしょうちちぎょう,肆其しいたげ暴,日月じつげつしげる甚,しゅ弒後,ざん戮忠りょう包藏ほうぞうこころとげいたり篡弒。此可にん也,孰不可ふかにん?欽以名義めいぎだいことくんゆうぶしちゅういきどお內發,忘寢あずかしょくところしわ顧也。かい毌丘くにあずかちちしょあがせつおおやけこうつきごとぬしよしよく奮白かみどうふとしおおやけおもんみ須東とえ影響えいきょう相應そうおう,聞問これにちのう慷慨こうがい以不顧妻孥之つうそくあずか毌丘鎮東舉義へいさんまん餘人よにん西にし趨京よく扶持ふち王室おうしつ掃除そうじ奸逆,くわだてかかと西にしもちとく聲問こえとい,魯望高子たかこ不足ふそく喻急。おっととうひとしゆずるきょうすくいくんなんどうどお艱,はてようみみしか同舟どうしゅう共濟きょうさい安危あんきぜいどうわざわいつうやめれんげんかざりしょかい自公じこうこうしょ明也あきやきょうこと曹氏,せきしんあさぎょう道之みちゆきじんみなしょ知見ちけんしか在朝ざいちょうおかせ偷生,烈士れっししょはじおおやけこうしょ賤,賈豎しょにんため也,きょうとうぬりよこしまぐんたむろじゅうこう小人こども閏月じゅんげつじゅうろくにちべつしんへい,就於らくよしみじょう討師,眾,ひろ崩潰ほうかい,其所截,ふく訾原,ただしとう長驅ちょうくみちいたり京師けいし,而流言りゅうげんさきいたり,毌丘ふくしょうさらいいしょう人為じんいあやましょぐん便びんしか瓦解がかい。毌丘かえはしついひろしゃくかいしょ及。小人こどもかえこう,复遇おうもととうじゅうぐんついひろ毌丘,しんへい討之,即時そくじかつやぶところこう全勝ぜんしょうようまましなに孤軍こぐんりょうあきら進退しんたいしつしょかえよりどころことぶきはることぶきはる复走,狼狽ろうばい躓閡,ふくけいおもんみとう歸命きみょうだいへい乞食こじきつぎかかといんみみわかぼく隸,如何いかかいしん,复君かたきえい使つかい曹氏しょうとおるしょく,此亦大國たいこくところゆうねん也。そうおおやけこう使つかいほど嬰、うす擅名於前だい,而使だいどく鷹揚おうようあずかこんだいあつしたかし大義たいぎ深見ふかみ愍悼。しかぼく於國大分おおいた連接れんせつとおどういちぜいにちよく俱舉,ふりぶん中國ちゅうごくげんへん以為おのれゆうおおやけこう必欲どもにんそち胸懷きょうかい宜廣のぶひろ大勢おおぜいこわしんがわこれそつ不可ふか舉。いましゃけいむべこごめおのれしんじんたくいのちかん東西とうざい俱舉なんじ,乃可かつじょうとうみみふかおもえひなごとわかけいしたがえむべ使つかいかんぐんかつせいよう使つかいろくごうこうかんがえあずかしゅう、召同封どうふう,以託づけまご。此亦小事しょうじ也,大丈夫だいじょうぶやすししょ其落落,以遠いえんてい忠心ちゅうしんもちよしみおう。」かく淮已そつ,欽未知みちゆう此書。《》曰:毌丘儉之誅,とうあずかななひゃく餘人よにんつてさむらいもり友治ゆうじごくおもんみ舉首ごとじゅうにんみなそうとも季子としこひがしぐんじんつかまつすすむ冀州刺史しし河南かなんいんだまげんれき吏部ろうまもるじょう

  儉子甸為しょさむらいさき儉謀しょうはつわたし將家しょうかぞく逃走とうそうしんやす靈山れいざんじょうべつおさむ下之したのえびす儉三ぞく》曰:甸字くに有名ゆうめいきょう邑。ひとしおうはい也,甸謂儉曰:「大人おとなかたごく重任じゅうにんくにかたぶけくつがえ而晏しかもりはた四海しかいせめ。」儉然大將軍だいしょうぐんあく其為じん也。及儉おこりへいもんこごめ𩑺所在しょざいうんらい無能むのうため也。儉初おこりへいむねよんにんいれくれふとしやすしちゅうひらめそう兄弟きょうだいみなかえ中國ちゅうごくそうひとしゆう儉風,いたりれいりょう太守たいしゅ宗子むねこおくともえひがしかんぐんえきしゅう刺史しし。習鑿曰:毌丘儉感あかりみかど顧命,ため此役。君子くんしいい毌丘儉事雖不なりいい忠臣ちゅうしん矣。おっと竭節而赴しゃわが也,成之しげゆきあずか敗者はいしゃ也,わが苟無なりなん必乎?忘我ぼうが而不必,乃所以為忠也ちゅうや古人こじんゆうごと:「死者ししゃふくせい生者しょうじゃ愧。」わか毌丘儉可いい愧也。

ぶん[编辑]

  欽亡にゅう以欽ためみやこまもるかりふし、鎮北大將軍だいしょうぐんかそけしゅうまぎ、譙侯。欽〈くだくれひょう〉曰:「禀命不幸ふこうつね隸魏こくりょうぜっ於天。雖側ふくすみみち司馬しば滔天とうてんさくぎゃくはいがいぬしからしみずのとこう、莽,あく不足ふそく喻。欽累受魏おんがらすとりじょう,竊懷いきどお踴,ざい三之さんの於弊ぼくまえあずか毌丘儉、かく淮等俱舉義兵ぎへいとうきょう討師,掃除そうじきょう孽,まことしん慺慺かんしょ智慮ちりょ淺薄せんばくほろふし騁,しんしょ悲痛ひつうきりしん退すさおもんみ不能ふのう扶翼ふよく本朝ほんちょうだき愧俯おおせ,靡所厝。おかせえん固有こゆうしょ,庶假てんとくてんまんいち,僵仆にちまたところ恨。輒相りつはた歸命きみょうひじり,慚偷苟生,しょひね謹上きんじょうかえところ受魏使ぶしぜん將軍しょうぐん山桑やまくわこう印綬いんじゅ。臨表惶惑,ふく須罪誅。」《しょ》曰:欽字なかわか,譙郡じんちちきびたて安中あんなかためはたゆういさみりょく。欽少以名將子まさこざい武見たけみしょう諷反,欽坐あずか諷辭しょうれん,及下獄げごくかすめむちすうひゃくとうふとし以稷赦之。ふとしちゅうため營校とくためきばもんはた。欽性つよし無禮ぶれい所在しょざい倨傲きょごうりょうじょうたてまつかんほう,輒見そうあきらみかどそもそもこうふく以為淮南ワイナンきばもんはたうたてためいおりこう太守たいしゅ鷹揚おうよう將軍しょうぐんおうりょうそう欽貪ざんむべなであたりもとめ免官めんかんざいゆかりちょう欽還。曹爽以欽鄉里きょうりあつしやしなえまち不治ふち欽事。ふくかえいおりこう加冠かかんぐん將軍しょうぐんちょう逾前。欽以えきおごこう矜伐,以壯いさみだかじん,頗得虛名きょめい於三ぐん。曹爽誅後,しん欽為ぜん將軍しょうぐん以安其心,後代こうだいしょかずら誕為あげしゅう刺史しし曹爽誅,欽常內懼,あずかしょかずら誕相あく所與しょよはかりごとかい誕去へい,毌丘儉往,乃陰どもゆいはかりごとせん敗走はいそう晝夜ちゅうやあいだぎょうおいしゃ及,とげにゅうまごたかしあつまち。欽雖ざい他國たこく不能ふのうこごめぶし下人げにんりょよりどころしゅこととうしょ大將たいしょうみなにくやましこれおもんみたかしつね左右さゆう

しょかずら[编辑]

  しょかずら誕字公休こうきゅう,琅邪じんしょかずら豐後ぶんご也。はつ以尚しょろうため滎陽れいたかし春秋しゅんじゅう》曰:誕為ろうあずかぼくしゃもり畿試せんすえかわ,遭風覆沒ふくぼつ,誕亦俱溺。とら賁浮かわすくい誕,誕曰:「さきすくいもりこう。」誕飄於岸,ぜっ而復にゅうため吏部ろうひとゆうしょ屬託しょくたく,輒顯其言而承ようこうゆう當否とうひのりこう得失とくしつ以為褒貶ほうへんぐん僚莫まき其所舉。るい遷御ちゅうすすむ尚書しょうしょあずかなつほうげん、鄧颺とうしょうぜんおさむめい朝廷ちょうてい京都きょうと翕然きゅうぜんげんごとしゃ以誕、颺等おさむ浮華ふかごうきょほまれやや不可ふかちょうあかりみかどあくめん誕官。》曰:當世とうせいしゅんつねさむらいなつほうげん尚書しょうしょしょかずら誕、鄧颺ともしょうだいひょう,以玄、疇四人為じんいよんさとし,誕、備八人為じんいはちたち中書ちゅうしょかんりゅう熙、まご資子もとこひそか、吏部尚書しょうしょまもる臻子れつさんにん,咸不及比,以父きょぜいようためさん,凡じゅうにんみかど以構ちょう浮華ふかみな免官めんかんはい錮。かいみかどくずれせいはじめはつげんとうなみ在職ざいしょくふく以誕ためちゅうすすむ尚書しょうしょためあげしゅう刺史しし昭武あきたけ將軍しょうぐん

  おうりょう陰謀いんぼう也,ふとしでん司馬しばせんおうせんぐんひがし,以誕ため鎮東將軍しょうぐんかりふしとくあげしゅうしょ軍事ぐんじふう山陽さんようちんこうしょかずらつとむおき東關ひがしせき誕督しょぐん討之,あずかたたかえ不利ふりかえ,徙為鎮南將軍しょうぐん

  こう毌丘儉、ぶん欽反,使つかいまい誕,招呼しゅう士民しみん。誕斬其使,ぬの天下でんかれい儉、欽凶ぎゃく大將軍だいしょうぐん司馬しばけいおう東征とうせい使つかい誕督しゅうもろぐんわたりやすしふう津向つむぎことぶきはる。儉、欽之やぶ也,誕先いたりことぶきはることぶきはるちゅうじゅうあまりまんくち,聞儉、欽敗,おそれ誅,悉破じょう門出かどでりゅうほとばし山澤やまさわある走入はしりくれ。以誕ひさしざい淮南ワイナン,乃復以為鎮東大將軍だいしょうぐんただしどうさんつかさみやこただしあげしゅう大將たいしょうまごたかしりょよりどころとめさんとう聞淮みなみみだれかいぶん欽往,乃帥眾將欽徑いたりことぶきはる誕諸ぐんやめいたりしろ不可ふかおさむ,乃走。誕遣將軍しょうぐん蔣班追擊ついげきさんつてくびおさむ其印ぶしすすむふう高平たかひらこう,邑さんせんひゃくうたてためせい東大とうだい將軍しょうぐん

  誕既あずかげん、颺等いたりおやまたおうりょう、毌丘儉累えびすほろび,懼不やすかたぶけ帑藏ほどこせ以結眾心,あつ養親ようしん及揚しゅうけい俠者すうせん人為じんいしょ》曰:誕賞賜しょうし過度かどゆうはん死者ししゃ,虧制以活甘露かんろ元年がんねんふゆぞくほしこうじょ堨,けい誕所とく兵馬へいばあし以待,而復請じゅうまん眾守ことぶきはるまたもとめ臨淮築城ちくじょう以備寇,內欲保有ほゆう淮南ワイナン朝廷ちょうていほろ誕有疑心ぎしん,以誕舊臣きゅうしんよくいれねんがつしるしためそら。誕被詔書しょうしょいよいよおそれとげはん。召會しょしょうおさむあげしゅう刺史ししらく綝,ころせこれ》曰:司馬しばぶんおうすんで朝政ちょうせいちょう賈充以為むべさん慰勞いろうよんせい,於是たかしいたりことぶきはるたかし還啟かんけいぶんおう:「誕再ざいあげしゅうゆう威名いめい民望みんぼうしょこんちょう,必不らいわざわい小事しょうじあさちょうことおそわざわいだい。」乃以ためそらしょいたり,誕曰:「わがさくこうとうざいおうぶん舒後,いま便びんためそら使者ししゃけん齎書,使つかい以兵づけらく綝,此必綝所為しょい。」乃將左右さゆうすうひゃくにんいたりあげしゅうあげしゅうじんよく閉門へいもん,誕叱曰:「きょう非我ひが吏邪!」みちいれ,綝逃うえろう,就斬まつつて曰:賈充あずか誕相だんせつ時事じじいんいい誕曰:「洛中らくちゅう諸賢しょけん皆原かいはらぜんだいくんしょ知也ともやくん以為うんなに?」誕厲しょく曰:「きょう賈豫しゅう受魏おん如何いかまけこくよく以魏しつ輸人乎?われしょにん聞。わか洛中らくちゅう有難ありがたわれとう。」たかし默然もくぜん。誕既ちょう,請諸きばもんおけしゅいんえんよびきばもん從兵じゅうへいみなたまものしゅれいよいいい眾人曰:「前作ぜんさくせんにんよろい仗始なりよく以擊ぞくこんとうかえらくふく得用とくようよく蹔出,はたじん遊戲ゆうぎ須臾しゅゆかえみみ諸君しょくん且止。」乃嚴將士しょうしななひゃくにんらく綝聞,閉州もん。誕歷みなみもん宣言せんげん曰:「とうかえらく邑,蹔出遊戲ゆうぎあげしゅうなんため閉門へいもん備?」ぜんいたり東門ひがしもん東門ひがしもん复閉,乃使へいえんじょうおさむもんしゅうじん悉走,いんふう放火ほうか,焚其とげころせ綝。誕表曰:「しん受國重任じゅうにんみつるへいざいひがしあげしゅう刺史ししらく綝專いつわりせつしんあずかくれ交通こうつうまたげんみことのり當代とうだいしんじょうひさしんたてまつくにいのち,以死自立じりつおわり異端いたん。忿綝不忠ふちゅう,輒將ななひゃくにん,以今月こんげつろくにち討綝,即日そくじつ斬首ざんしゅはこあたまえき傳送でんそうわかきよし朝明あさけしんしんそくしん不明ふめいしんしんそくくれしんかち發憤はっぷんゆう,謹拜ひょうひね,悲感泣血,哽咽斷絕だんぜつ不知ふちしょ如,乞朝廷ちょうてい察臣至誠しせい。」しんまつ以為まつつてしょげんりつみな鄙陋ひろううたぐ誕表げんきょくいたり於此也。斂淮みなみ及淮北郡ほくそぎけん屯田とんでんこうじゅうあまりまんかんへいあげしゅう新附しんぷかちへいしゃよんまんにん,聚谷あしいちねんしょく,閉城もりちょうつなはたしょう靚至くれ請救。》曰:はつまつくれじん髮長かみながすなおうくれ芮塚,以其塼於臨湘ためまごけんりつびょう。芮容貌如せい衣服いふく不朽ふきゅうこうはつしゃつな曰:「きみなにるいちょうすなおうくれ芮,ただしほろたんみみ。」つな瞿然曰;「先祖せんぞ也,くんなんよしこれ?」しゃげん所由しょゆうつな曰:「さらそう?」こたえ曰:「そくさらそう矣。」芮之そつねんいたりづかはつよんひゃくねんつな,芮之じゅうろくせいまご矣。じん大喜だいぎはたぜん懌、ぜんはしから咨、おう祚等,りつさんまん眾,みつあずかぶん欽俱らいおう誕。以誕ためひだりみやこまもるかりふしだいつかさ、驃騎將軍しょうぐんあおしゅうまぎことぶきはるこう鎮南將軍しょうぐんおうはじめはじめいたりとくしょぐんかこえことぶきはるごう。咨、欽等したがえ城東北じょうとうきたいんやまじょうけんとくはた其眾突入とつにゅうじょう

  六月ろくがつくるま東征とうせいいたりこう大將軍だいしょうぐん司馬しばぶんおうとく中外ちゅうがいしょぐんじゅうろくまん眾,臨淮討之。大將軍だいしょうぐんたむろおかあたま使つかいもと及安ひがし將軍しょうぐんひね騫等よんめんごうかこえおもてうらさいじゅう,塹壘甚峻。また使つかいかんぐんせきつと、兗州刺史しししゅうたいとう,簡銳そつためゆうぐん,備外寇がいこう。欽等すうはんかこえぎゃくげきはしこれすすむしゅさい以大眾來迎らいごう誕等,わたりはじむ漿水,たいとうぎゃくあずかたたかえまい摧其ほこさきまご綝以ことせんすすむいか而殺城中じょうちゅうしょくうたてしょうそとすくいいたり,眾無しょ恃。將軍しょうぐん蔣班、こげつねみな誕爪きばけいことしゃ也,棄誕,逾城かえり大將軍だいしょうぐんかんすすむ春秋しゅんじゅう》曰:蔣班、こげつねげん於諸かずら誕曰:「しゅこととう以大眾來而不能ふのうしんまご綝殺而歸江東こうとうそと以發へいためめい,而內じつすわ須成すなりはい,其歸矣。いまむべ及眾こころなおかた士卒しそつおもえようなみりょく決死けっしおさむいちめん,雖不能ふのうつきかつなおゆうぜんしゃ。」ぶん欽曰:「江東こうとうじょう戰勝せんしょうひさ矣,ゆうなん北方ほっぽうしゃ也。きょうこうこん舉十あまりまんこれ眾內,而欽あずかぜんはしとうみな同居どうきょ死地しち父子ふし兄弟きょうだいつき在江あるえひょう,就孫綝不よく主上しゅじょう及其親戚しんせきあに肯聽乎?且中國ちゅうごくとし無事ぶじ軍民ぐんみんなみつかれこんもりわがいちねん勢力せいりょくやめいんせいこころへんしょうおこり以往いおうじゅんいまけい而望也。」はんつねかたすすむ,欽怒,而誕よくころせはん二人ふたり懼,且知誕之必敗也,十一月じゅういちがつ,乃相攜而降。大將軍だいしょうぐん乃使反間はんかん,以奇變說へんせつぜん懌等,懌等りつ眾數せんにん開門かいもんらいしろ中震ちゅうしん懼,不知ふち所為しょい

  さんねん正月しょうがつ,誕、欽、咨等だいためおさむ晝夜ちゅうやろくにちおさむみなみかこえよくけつかこえ而出。かんすすむ春秋しゅんじゅう》曰:ぶん欽曰:「蔣班、こげつねいいわが不能ふのう而走,ぜんはしぜん懌又りつ眾逆くだ,此敵備之也,以戰矣。」誕及から咨等みな以為しかとげきょう悉眾おさむかこえ上諸かみもろぐん,臨高以發せきしゃ火箭かせんぎゃくやきやぶ其攻いしゆみ及石雨下うか死傷ししょうしゃ蔽地,りゅうみつる塹。ふくかえ入城にゅうじょうしろ內食てん竭,くだしゃすうまんくち。欽欲つき北方ほっぽうじんしょうしょくあずかくれじん堅守けんしゅ,誕不聽,ゆかりそう恨。欽素あずか誕有すき以計あいこときゅういよいよあいうたぐ。欽見誕計ごと,誕遂ころせ欽。欽子鴦及とら將兵しょうへいざい小城おぎちゅう,聞欽,勒兵はせ赴之,眾不為ふためよう。鴦、とらたんはし,逾城かえり大將軍だいしょうぐんぐん吏請誅之,大將軍だいしょうぐんれい曰:「欽之ざいよう誅,其子かたおうとう戮,しか鴦、とら以窮歸命きみょう,且城拔,ころせけん其心也。」乃赦鴦、とら使つかい將兵しょうへいすうひゃくはせめぐしろよびじょう內云:「ぶん欽之なおころせ,其餘なん懼?」おもて鴦、とらため將軍しょうぐんかくたまもの爵關內侯。しろ內喜且擾,またかつえこま,誕、咨等智力ちりょくきゅう大將軍だいしょうぐん乃自臨圍,四面しめんしんへい同時どうじ登城とじょうしろ內無敢動しゃ。誕窘きゅうたん乘馬じょうばはた其麾突小じょう門出かどで大將軍だいしょうぐん司馬しばえびす奮部へいぎゃくげき誕,つてくびえびすさんぞく。誕麾すうひゃくにんすわくだみな曰:「ためしょかずらおおやけ恨。」其得人心じんしん如此。たからすすむ》曰:すうひゃくにん拱手こうしゅためれつまい一人ひとり,輒降,竟不變ふへんいたりつき時人じじんよこすすむ於詮曰:「大丈夫だいじょうぶ受命じゅめい其主,以兵すくいじんすんで不能ふのうかつまたたばしゅ於敵,われどる也。」乃免かぶとおかせひね而死。から咨、おう祚及しょ裨將みなめんばくくだくれへいまん眾,うつわ仗軍じつ山積さんせき

  はつかこえことぶきはるしゃ多欲たよくきゅうおさむ大將軍だいしょうぐん以為:「しろかた而眾おさむ必力こごめわかゆう外寇がいこうおもてうら受敵,此危道也みちやいま三叛相聚於孤城之中,てん其或しゃはた使つかいどう就戮,われとう以全さく縻之,すわ而制也。」誕以ねんがつはんさんねんがつ破滅はめつろくぐん按甲,深溝ふかみぞだかるい,而誕こま,竟不はんおさむ而克。たからすすむ》曰:はつことぶきはる每歲まいさいにわたずみ,淮水溢,つね淹城邑。ぶんおうきずけかこえ也,誕笑曰:「かたおさむ而自はい也。」及大ぐんおさむ,亢旱逾年。しろすんでおちい日大にちだいかこえるいみな毀。誕子靚,なかおもえひらかえすすむ。靚子恢,道明どうみょういたり尚書しょうしょれい追贈ついぞうひだりこう祿ろく大夫たいふ開府かいふ及破ことぶきはるしゃまた以為淮南ワイナン仍為叛逆はんぎゃくへいしつ在江あるえみなみ不可ふかたてむべ悉坑大將軍だいしょうぐん以為いにしえ用兵ようへい全國ぜんこくためじょう,戮其もとあく而已。くれへい就得ほろびかえてき以示中國ちゅうごくひろみみいちしょころせふん佈三河近郡以安處之。

から[编辑]

  から咨本じょうじんはつちゅうとぎぐすくぐんはんころせ太守たいしゅじょ,推咨ためぬしぶんみかどしょぐん討破,咨走入海いりうみとげほろびいたりくれかんいたりひだり將軍しょうぐんふうこうぶし。誕、欽屠戮,咨亦せい禽,さん叛皆天下てんかかい焉。でん》曰:そうけんしいうし禱賽,おわり焚滅。ぶん欽日ほこら祭事さいじてん於人しゅしょかずら夫婦ふうふ聚會しんみこいんまつもとめぶくふくしかばね淮南ワイナン,舉族誅夷。此天しょどもあしためあかりかん也。はい咨安どお將軍しょうぐん,其餘裨將咸假ごう悅服えっぷく江東こうとうかんみな誅其。其淮みなみはた士民しみんしょため誕所おびえりゃくしゃおもんみ誅其くびぎゃくあまりみな赦之。聽鴦、とら收斂しゅうれん欽喪,きゅう其車うし,致葬きゅうはか習鑿曰:天下てんかかしこたけしふところとく矣。君子くんしいい司馬しば大將軍だいしょうぐん於是やく也,いいのう以德おさむ矣。おっとけん業者ぎょうしゃ矣,かくゆうしょなお,而不能ふのうけん併也。きゅう武之たけゆき斃於不仁ふじんそん義之よしゆき國喪こくそう於懦退,今一いまいちただし而禽さん叛,だいとりこくれ眾,席捲せっけん淮浦,俘馘じゅうまんいいたけし矣。而未及安坐あんざおう基之もとゆきこうしゅめぐみくれじんゆい異類いるいじょうちょう鴦葬欽,忘疇むかしすきとがめ誕眾,使つかいあげふところ愧,こうだか而人らく其成,ぎょうこう而敵ふところ其德,武昭たけあきすんでじきぶんざんまたひろし,推此道也みちや天下てんか其孰のうとう哉?おうもとざいもとでん》。◎鴦いちめい俶。《すすむ諸公しょこうさん》曰,俶後ため將軍しょうぐんやぶりょうしゅうとりこ名聞みょうもん天下でんかふとしかんちゅうため東夷あずまえびすこうじょうかりふしとうこれしょくにゅうたけみかどみかど而惡たく他事たじめん俶官。ひがしやすおおやけ繇,しょかずら誕外まごよくころせ俶,いん誅楊駿しゅん,誣俶はかりごとぎゃくとげえびすさんぞく

鄧艾[编辑]

  鄧艾よしとげじん也。しょうふとしやぶ荊州,徙汝みなみため農民のうみんやしなえ犢。としじゅうずいははいたり潁川,讀故ふとしおかちょうちんまこと碑文ひぶんげんぶんためはん行為こういそく」,もぐさとげめいはんそくこう宗族そうぞくゆうあずかどうしゃあらため焉。ためじょう學士がくし,以口どもとくさくみきため稻田いなだまもるくさむらくさ吏。どうぐん吏父憐其ひんきゅう甚厚,あいはつしょうしゃまい見高みだかさん大澤おおさわ,輒規ゆび軍營ぐんえいしょしょ時人じじんわらい焉。こうためてんのう綱紀こうき上計あげ吏,いん使ぶとじょう司馬しばせんおうせんおう,辟之ためじょう》曰:鄧艾しょうためじょうじょうのりのう部民ぶみんあずかいしつとみなねんじゅうさん。謁者翟郭げんしんじたけみかどかんぐんかく誕元奕之けんやすちゅうしょう吉本よしもとおこりへいもとげんしんじすわけい在家ありいえしたがえてんのう司馬しば求人きゅうじん禦,以艾、つとあずか禦,ぎょうじゅうあまりさと與語よごえついい二人皆當遠至為佐相。もぐさためてんのうこう曹,たてまつ使つかいまいせんおうゆかり此見とげ拔擢ばってき遷尚しょろう

  ときほし廣田ひろた畜谷,ためめつぞく使つかいもぐさぎょうひねこうやめひがしいたりことぶきはるもぐさ以為「良水よしみしょう不足ふそく以盡むべひらけかわみぞ以引すい澆溉,大積おおつみぐんかてまたつう運漕うんそうみち。」乃著ずみかわろん以喻其指。また以為「むかしやぶはばいんため屯田とんでんせきこく於許以制四方しほういまさんすみやめじょうことざい淮南ワイナンまい大軍たいぐんせい舉,うんへい過半かはんこうきょおく,以為大役たいやくひね、蔡之あいだ下田しもだりょうしょうもとあきら左右さゆうしょ稻田いなだなみすい東下ひがししもれい淮北たむろまんにん淮南ワイナンさんまんにん十二分じゅうにぶんきゅうつねゆうよんまんにん,且田且守。みずゆたかつねおさむさんばい於西,けいじょ眾費,さいかんひゃく萬斛ばんこく以為軍資ぐんしろくなな年間ねんかんせきさんせん萬斛ばんこく於淮じょう,此則じゅう萬之眾五年食也。以此じょう往而かつ矣。」せんおう善之よしゆきことみな施行しこうせいはじめねん,乃開こうこげみぞまい東南とうなん有事ゆうじ大軍たいぐんきょう眾,ひろしふね而下,たち於江、淮,しょくゆうもうか而無水害すいがいもぐさしょけん也。

  さんせい西にし軍事ぐんじ,遷南やす太守たいしゅ嘉平かへい元年がんねんあずかせい西にし將軍しょうぐんかく淮拒しょくへん將軍しょうぐんきょう維。維退,淮因西にしげき羌。もぐさ曰:「ぞくとおあるのうふくかえむべわかしょぐん以備おそれ。」於是とめもぐさたむろ白水しろみずきた三日みっか,維遣廖化自白じはく水南すいなんこうもぐさゆい營。もぐさいいしょしょう曰:「維今そつかえわれ軍人ぐんじんしょうほう當來とうらいわたり而不さくきょう。此維使われれいかえ。維必ひがしかさね洮城。」洮城ざい水北すいほくもぐさたむろろくじゅうさともぐさ即夜そくやせんぐんみちいた,維果らいわたり,而艾さきいたりよりどころじょうとく不敗ふはいたまもの爵關內侯,討寇將軍しょうぐん遷城太守たいしゅ

  并州みぎけんおうりゅうひょうなみため一部いちぶもぐさじょうげん曰:

えびす狄獸しん以義おやつよのりおかせ暴,じゃくのり內附,しゅうせんゆう玁狁寇,かんゆう平城ひらじろかこえまい匈奴きょうどいちもりため前代ぜんだい重患じゅうかんたん于在がい,莫能牽制けんせいちょう卑。さそえ而致使つかいにゅうさむらいよし羌夷しつすべごう無主むしゅ。以單于在內,萬里ばんりじゅん軌。こんたん于之みこと疏,そとひたおものりえびすとりこ不可ふかふか備也。聞劉ひょうゆう叛胡,いん叛割ためこく,以分其勢。卑功あらわぜんあさ,而子つぎぎょうむべ其子あらわごう使つかいきょかりもんはなれこくじゃく寇,追錄ついろくきゅうくん,此禦長計ちょうけい也。

またひね:“羌胡あずかみんどうしょしゃむべ以漸使つかいきょみんひょうたかし廉恥れんちきょうふさがかん宄之。”大將軍だいしょうぐん司馬しばけいおうしん輔政,おさめよう焉。遷汝みなみ太守たいしゅいたりそくひろもとめむかししょあつおのれ吏父,ひさやめ吏祭じゅうのこ其母,舉其あずかけい吏。もぐさ所在しょざい荒野あらの開闢かいびゃく軍民ぐんみんなみゆたか

  しょかずらつとむかこえあいこえ新城しんじょうかつ退すさもぐさげんけいおう曰:「まごけんやめぼつ大臣だいじんめいむねだいぞくみなゆうきょく,阻兵仗勢,そく以建いのちつとむしん國政こくせい,而內其主,不念ぶねんなで上下じょうげ以立根基こんききおい外事がいじしいたげよう其民,悉國眾,ひたすら於堅じょう死者ししゃまんすうわざわい而歸,此恪ざいにち也。むかし胥、おこりしょう鞅、らくあつしみなにんくんしゅぼつ而敗。きょうつとむざいよんけん,而不慮ふりょ大患たいかん,其亡まち也。」つとむはて誅。遷兗しゅう刺史しし將軍しょうぐんうえげん曰:「國之くにゆきしょきゅうおもんみのうあずかたたかえ國富くにとみのりへいきょうへいきょうのり戰勝せんしょうしかのうしゃしょうほん也。孔子こうし曰『あししょくあしへい』,しょくざいへいぜん也。うえしつらえ爵之すすむのりざい畜之こうこん使つかいこう績之しょうざい於積あわ富民とみんのり交遊こうゆうみちぜっ浮華ふかげんふさが矣。」

  高貴こうきごうこうそくみことしんふう方城ほうじょうちんこう。毌丘儉作みだれけん齎書,よく疑惑ぎわくだい眾,もぐさこれけんみち進軍しんぐんさきおもむきらくよしみじょうさく浮橋うきはし司馬しばけいおういたるとげよりどころぶん欽以大軍たいぐんやぶはい於城もぐさおいいたりおかあたま。欽奔くれくれ大將軍だいしょうぐんまごたかし等號とうごうじゅうまん眾,はた渡江とのえ,鎮東將軍しょうぐんしょかずら誕遣もぐさよりどころこえもぐさ以與ぞくぜいしょうとお要害ようがい,輒移たむろてい泰山たいざん太守たいしゅしょかずらいとぐちとう於黎漿拒せんとげはしこれ。其年ちょうはいちょうみずこうじょう。以破欽等こうしんふう方城ほうじょうきょうこうぎょう安西あんざい將軍しょうぐんかい雍州刺史ししおうけいかこえ於狄どうきょう維退ちゅう鍾提,乃以もぐさため安西あんざい將軍しょうぐんかりふしりょうまもるひがし羌校じょうしゃ以為維力やめ竭,のうさらもぐさ曰:

洮西はいしょうしつ也;やぶぐんころせはたくら廩空むなし百姓ひゃくしょう流離りゅうりいく於危ほろびこん以策ごとかれゆうじょう勝之かつゆきぜいわがゆう虛弱きょじゃく一也かずやかれ上下じょうげしょう習,へい犀利さいりわがはたえきへいしんうつわつえふく也。かれ以船ぎょうわれ以陸ぐんろういっ不同ふどう三也みつや。狄道、隴西、みなみやす、祁山,かくとうゆうもりかれせん為一ためいちわがぶんためよんよん也。したがえみなみやす、隴西,いんしょく羌谷,わかおもむき祁山,じゅくむぎせんごろ為之ためゆきけんえさ也。ぞくゆう黠數,其來必矣。

ころ,維果こう祁山,聞艾やめゆう備,乃回したがえただしていおもむきみなみやすもぐさよりどころたけ城山しろやま以相。維與もぐさそうけわしかつ,其夜,わたり渭東ぎょうえんやまおもむきじょう邽,もぐさあずかせん於段だに大破たいは甘露かんろ元年がんねんみことのり曰:「逆賊ぎゃくぞくきょう維連ねんずる黠,みんえびす騷動そうどう西土せいどやすしもぐさ籌畫ゆうかた忠勇ちゅうゆう奮發ふんぱつはたじゅうすう馘首かくしゅせんけい國威こくいふるえ於巴、しょくたけこえあげ於江、岷。こん以艾ため鎮西ちんぜい將軍しょうぐんみやこただし隴右しょ軍事ぐんじしんふう鄧侯。ぶん五百戶封子忠為亭侯。」ねんこばめきょう維於長城ちょうじょう,維退かえ。遷征西にし將軍しょうぐん前後ぜんごぞう邑凡ろくせんろくひゃく

  景元かげもとさんねんまたやぶ維於ほうかず,維卻くつちゅうよんねんあきみことのりしょぐんせいしょく大將軍だいしょうぐん司馬しばぶんおうみなゆび節度せつど使つかいもぐさあずか維相つづりれん;雍州刺史しししょかずらいとぐちよう維,れいとくもぐさ天水てんすい太守たいしゅおう頎等ちょくおさむ維營,隴西太守たいしゅ牽弘とう邀其まえ金城きんじょう太守たいしゅ楊欣とうまいあままつ。維聞鍾會しょぐんやめいれかんちゅう引退いんたいかえ。欣等つい躡於きょう川口かわぐち大戰たいせん,維敗走はいそう。聞雍しゅうやめふさがみちたむろきょうあたましたがえあなはこたに入北にゅうほくどうよくいずる雍州しょかずらいとぐち聞之,卻還さんじゅうさと。維入北道ほくどうさんじゅうあまりさと,聞緒ぐん卻,ひろかえしたがえきょうあたまいとぐちおもむき截維,較いちにち及。維遂ひがし引,かえもりけんかく。鍾會おさむ維未のうかつもぐさじょうげん:「こんぞく摧折,むべとげじょうしたがえ陰平かげひらよしよこしまみちけいかん德陽とくようていおもむき涪,けんかく西にしひゃく成都せいと三百みつお餘里よりへい衝其腹心ふくしんけんかくもり必還赴涪,のりかいかた軌而しんけんかくぐんかえのりおう涪之へい寡矣。ぐんゆう曰:『おさむ其無備,不意ふい。』こん掩其空虛くうきょやぶこれ必矣。」

  ふゆじゅうがつあい陰平かげひら道行みちゆき無人むじんななひゃくあまりさと,鑿山どおりどう造作ぞうさくきょうかく山高やまたかたにふかしいたりため艱險,またかてうんはた匱,しき危殆きたいもぐさ以氈裹,推轉而下。將士しょうしみなよじえんがけ魚貫おにき而進。先登せんとういたりこうゆかりしょく守將しゅしょう邈降。しょくまもる將軍しょうぐんしょかずら瞻自涪還綿めんちくれつひねまちもぐさもぐさめぐみからちんほうただしとう其右,司馬しば纂等其左。ちゅう、纂戰不利ふりなみ退すさかえ,曰:「ぞくげき。」もぐさいか曰:「存亡そんぼうこれぶんざい此一舉,なに不可ふかゆう?」乃叱ちゅう、纂等,はたこれちゅう、纂馳かえさらせん大破たいは瞻及尚書しょうしょちょう遵等くび進軍しんぐんいた雒。りゅうぜん使つかいたてまつ皇帝こうてい璽綬,ため箋詣もぐさ請降。

  あいいたる成都せいとぜんりつ太子たいし諸王しょおう群臣ぐんしんろく十餘人面縛輿櫬詣軍門,もぐさふしかいばく焚櫬,受而なだめこれけん禦將しょとりこりゃく,綏納くだ使つかい復舊ふっきゅうぎょうしょく人稱にんしょう焉。輒依鄧禹故事こじうけたまわせいはいぜんぎょう驃騎將軍しょうぐん太子たいしたてまつくるま諸王しょおう駙馬じょうしょく群司ぐんじかくずい高下こうげはいためおうかんあるりょうもぐさかんぞく。以師纂領えきしゅう刺史しし,隴西太守たいしゅ牽弘とうりょうしょくちゅうしょぐん使つかい於綿ちくちくだい以為きょうかんようあきら戰功せんこう士卒しそつことしゃみなあずかしょくへいどうきょう埋藏まいぞうもぐさふか矜伐,いいしょく大夫たいふ曰:「諸君しょくんよりゆき遭某,とくゆう今日きょうみみわかぐうくれかんやめ殄滅矣。」また曰:「きょう維自いちゆう也,あずかぼうあい值,きゅうみみ。」有識者ゆうしきしゃわらい

  十二月じゅうにがつみことのり曰:「もぐさ曜威奮武,深入ふかいりとりこにわはた搴旗,ふくろう其鯨さんしょううお使つかい僭號おも,稽首けい頸,歷世れきせい逋誅,一朝いっちょう而平。へい逾時,せん終日しゅうじつくもてっ席捲せっけん,盪定ともえしょく。雖白おこりやぶつよすわえかんしんかつ勁趙,かん禽子おっとめつななこくけいこうろん不足ふそくくん也。其以もぐさためふとしじょうぞうまんふうにんちんこうかくしょくせん。」袁子曰:しょかずらあきら重人しげと也,而驟ようしょくへい,此知小國しょうこくじゃくみんなん以久そん也。こん國家こっかいち舉而めつしょく征伐せいばつこうゆう如此これそくしゃ也。かた鄧艾以まんにん入江いりえ由之よしゆき危險きけん,鍾會以じゅう萬眾留劍閣而不得進,三軍之士已飢,もぐさ雖戰かつかつはた使つかいりゅうぜん數日すうじつくだのり二將之軍難以反矣。功業こうぎょう如此なん也。國家こっかぜんゆうことぶき春之はるゆきやくゆうめつしょくろう,百姓貧而倉禀虛,小國しょうこくおもんばかざい於時りつこう自存じそん大國たいこくおもんばかざい於既しょう而力竭,成功せいこうこれ,戒懼とき也。もぐさげん司馬しばぶんおう曰:

へいゆうさきごえ而後しゃこんいんひらしょくいきおい以乘くれくれじんふるえおそれ席捲せっけんとき也。しかだい舉之將士しょうし疲勞ひろう不可ふか便びんよう,且徐なるこれとめ隴右へいまんにんしょくへいまんにんしおきょう冶,ためぐんのう要用ようようなみさくふねせん順流じゅんりゅうことしか後發こうはつ使つげ利害りがい必歸せい而定也。いまむべあつりゅうぜん以致まごきゅうやす士民しみん以來いらいとおじんわか便びんおくぜん京都きょうと以為りゅう徙,のり於向こころすすむむべけん停留ていりゅう,須來年らいねん秋冬あきふゆしかまたあしたいら。以為ふうぜんため扶風おうすず其資ざいきょう左右さゆうこおりゆうただしたく塢,為之ためゆきみやしゃ。爵其ためおおやけこうしょくぐん內縣,以顯歸命きみょうちょうひらき廣陵こうりょう城陽じょうよう以待くれじんのりかしこたけしふところとくもちふう而從矣。

ぶんおう使かんぐんまもる瓘喻もぐさ:「こととう須報,むべ輒行。」もぐさ重言じゅうげん曰:「銜命せいぎょうたてまつゆび授之さくもとあくすんでふくいたり於承せいはいかり,以安はついいごうけんむべこんしょく舉眾歸命きみょうつき南海なんかいひがしせっくれかいむべはや鎮定ちんていわかまちこくいのち往復おうふくどう延引えんいん日月じつげつ春秋しゅんじゅうよし大夫たいふ疆,有可ゆか以安社稷しゃしょく國家こっかせん可也かなりこんまろうどいきおいあずかしょくれん不可ふかかかわつね以失ごと兵法ひょうほうしん求名ぐみょう退すさ避罪,もぐさ雖無古人こじんふしおわりいや以損於國也。」鍾會、えびすれつ纂等みなしろもぐさ所作しょさもとぎゃくへん釁以ゆい詔書しょうしょおりしゃちょうもぐさたかし春秋しゅんじゅう》曰:もぐさ仰天ぎょうてん歎曰:「あい忠臣ただおみ也,いちいたり此乎!しろおこりこくふく於今矣。」

  もぐさ父子ふしすんでしゅう,鍾會いたり成都せいとさきおくもぐさしか後作あとさくらんかいやめもぐさ本營ほんえい將士しょうしおいもぐさおりしゃむかえかえ。瓘遣つづけとう討艾,ぐう於綿ちく西にしこれちゅうあずかもぐさ俱死,餘子よしざい洛陽らくようしゃ悉誅,徙艾妻子さいし及孫於西域せいいきかんすすむ春秋しゅんじゅう》曰:はつもぐさ下江しもえ由也よしや,以續すすむほしすんで而捨。及瓘遣つづけいい曰:「以報こう由之よしゆきはずかしめ矣。」もり預言よげん於眾曰:「はくだま其不めん乎!ため名士めいしもちやめだかすんでとくおんまた御下おしも以正,小人こども而乘君子くんしうつわはたなに以堪其責乎?」瓘聞俟駕而謝。《》曰:纂亦あずかもぐさ俱死。纂性きゅうしょうおんにちたいかんがわ

  はつあいとうしょくゆめすわ山上さんじょう而有流水りゅうすい,以問殄虜まもるぐん爰邵。邵曰:「按易山上さんじょう有水ありみず曰蹇。あしなえ繇曰:『あしなえ西南せいなん不利ふり東北とうほく。』孔子こうし曰:『あしなえ西南せいなん,往有功ゆうこう也;不利ふり東北とうほく,其道きゅう也。』往必かつしょく,殆不かえ乎!」もぐさ憮然ぶぜんらく荀綽《冀州》曰:邵起みき吏,いたりまもるじょう長子ちょうし翰,河東かわとう太守たいしゅ中子なかごたかしだいつかさみのり少子しょうし倩,くんよう寬厚かんこうゆうきょくつとむ當世とうせいれき冀州刺史しし太子たいしみぎまもるりつ。翰子俞,せいさだもとべん論議ろんぎ公孫こうそんりゅうやめ以談ほろしょう有能ゆうのうめい,辟太じょうややあらわいたりさむらいちゅう中書ちゅうしょれい,遷為かんしんまつ按:あしなえ彖辭うんあしなえ西南せいなん,往得中也ちゅうや」,うん有功ゆうこう」;うん大人おとな,往有功ゆうこう也」。

  やすしはじめ元年がんねんすすむしつ踐阼,みことのり曰:「むかしふとしじょうおうりょうはかりごとはいひとしおう,而王竟不足ふそく以守せい西にし將軍しょうぐん鄧艾,矜功しつぶしじつおうだい辟。しかしょにちやめひと眾,たばしゅ受罪,於求せいとげため惡者わるものまことふく不同ふどうこん大赦たいしゃかえわか子孫しそんしゃ聽使りつれい祭祀さいしぜっ。」さんねんろうだん灼上疏理もぐさ曰:

もぐさこころふところいたりちゅう而荷反逆はんぎゃく平定へいていともえしょく而受えびすめつ誅,しん竊悼。惜哉,げんもぐさはん也!もぐさせいつよしきゅうけいはん雅俗がぞく不能ふのうきょう同朋どうほうるい莫肯理之まさゆきしん敢言もぐさはんこれじょうむかしきょう維有だん隴右こころざしあいおさむ備守,せきこく強兵きょうへい。值歲きょうひでりもぐさためしゅがらすころも耒耜,以率將士しょうし上下じょうげしょうかん,莫不盡力じんりょくもぐさぶしもりしょすべまんすう,而不なんぼくとりころう士民しみんやくふし忠勤ちゅうきん,孰能わか此?落門、だん谷之やのせん,以少げき,摧破きょうぞく先帝せんてい其可にんもぐさびょうしょう,授以ちょうさくもぐさ受命じゅめい忘身,たばけんしゃとう死地しち勇氣ゆうきりょうくも眾乘ぜい使つかいりゅうぜん君臣くんしんめんばくまたしゅこごめひざもぐさ功名こうみょう以成,とうしょ竹帛ちくはくつてまんせいななじゅう老公ろうこうはんよくなんもとむあいまこと養育よういくおんこころうたぐ,矯命うけたまわせいけんやす社稷しゃしょく;雖違つねゆうごうはらこころじょうざいほんざいろん。鍾會もぐさ威名いめい構成こうせい其事。ちゅう而受誅,しん而見うたぐとうけん巿,諸子しょしなみこれしゃたれ泣,聞之しゃ嘆息たんそく陛下へいかりゅうきょう,闡弘大度たいどしゃくしょ嫌忌けんき,受誅いえかかわ敘用。むかししんみん憐白おこり無罪むざいくれじんきず胥之冤酷,みなためりつほこらこん天下てんかみん人為じんいもぐさ悼心痛恨つうこんまたなお是也これやしん以為もぐさくび分離ぶんり,捐棄くさむべおさむかばねかえ其田そのだたく以平いたいらしょくこう,紹封其孫,使つかい闔棺ていおくりな恨。赦冤たましい於黃いずみおさむ信義しんぎ後世こうせいそう一人而天下慕其行,うめ一魂而天下歸其義,所為しょいしゃ寡而えつしゃ眾矣。

きゅうねんみことのり曰:「もぐさ有功ゆうこうくん,受罪逃刑,而子孫しそんためみん隸,ちんつね愍之。其以嫡孫ちゃくそんろうためろうちゅう。」

  あいざい西にし修治しゅうじさわふさがちくおこりじょう塢。たいはじめちゅう,羌虜だい叛,しきころせ刺史ししりょうしゅう道斷どうだん。吏民安全あんぜんしゃみなもぐさしょちく塢焉。》曰:咸寧ちゅうせきしゃ將軍しょうぐん樊震ため西戎せいじゅうきばもんとくやめたけみかどもんふるえ所由しょゆうすすむふるえひね曾為鄧艾しょくちょうはたみかどとげ尋問じんもんもぐさふるえ具申ぐしんもぐさちゅうげん流涕りゅうていさき以艾まごろうためすいれいゆかり此遷ためていりょうれいつぎまご千秋ちあきゆうもちひかり祿ろく大夫たいふおうえびす辟為じょうえいよしみちゅうろうため新都しんと太守たいしゅこれかんざいじょう失火しっかろう及母妻子さいし舉室燒死しょうしおもんみ韜子ぎょうとくめん千秋せんしゅうさきそつまた燒死しょうし

しゅうやすし[编辑]

  もぐさしゅうさとやから南陽なんようしゅうたいまたこうたて功業こうぎょう善用ぜんようへいかんいたりせいとりこ將軍しょうぐんかりふしとく江南こうなんしょ軍事ぐんじ景元かげもとねん薨,追贈ついぞうまもる將軍しょうぐんおくりな曰壯こう》曰:はつ,荊州刺史しし裴潛以泰ため從事じゅうじ司馬しばせんおう鎮宛,せんすうまいせんおうゆかり此為せんおうしょ。及征はじめたちやすしまたしるべぐんとげ辟泰。やすししきかんがえ、妣、きゅうねんきょせんおうとめかけまちいたりさんじゅうろくにち,擢為新城しんじょう太守たいしゅせんおうためたいかい使つかい尚書しょうしょ鍾繇調ちょうやすし:「きみしゃく褐登宰府さいふさんじゅうろくにちよう麾蓋,守兵しゅへい馬郡まごおり乞兒ほいとじょう小車おぐるまいちなん駛乎?」たい曰:「まことゆう此。きみめいおおやけ之子ゆきこしょうゆうぶんさいもり吏職;獼猴うしまたなにおそ也!」眾賓咸悅。こうれき兗、しゅう刺史しし所在しょざいゆう籌算績效。

鍾會[编辑]

  鍾會,潁川ちょう社人しゃにんふとしでん繇小也。しょう敏惠としえ夙成。かいため其母でん曰:「夫人ふじんちょうあきらがまふとしげん茲氏じんふとしでんじょうりょうなりこう命婦みょうぶ也。ちょうせんせき夫人ふじんしょう父母ちちははたかしなりこう修身しゅうしん正行まさゆき非禮ひれい不動ふどうため上下じょうげしょしょうじゅつわらわまご嫡專こころがい其賢,すう讒毀しょいたりまごべんはくゆうさとしたくみげんあし以飾なりしか不能ふのうきず也。及妊娠にんしんいよいよさら嫉妒,乃置やくしょくちゅう夫人ふじん中食ちゅうじきさとし而吐つむまぶししゃ數日すうじつある曰:『なにこう公言こうげん?』こたえ曰:『嫡庶しょうがいやぶいえ危國,古今ここん以為かん誡。かり如公しんじわが,眾誰のうあかり其事?かれ以心わがいいわが必言,かたはたさきわが事由じゆうかれはつ,顧不快ふかい耶!』とげしょうやましまごはていいなりこう曰:『わらわよく其得おとこいん以得おとこくすりはんいいどく!』なりこう曰:『とくおとこやくことやみ於食ちゅうあずかひと非人情ひにんじょう也。』とげ訊侍しゃ俱服,まごよしとくざいなりこうとい夫人ふじんなんのう不言ふげん夫人ふじんげん其故,なりこうだいおどろきえき以此けんはつろくねんなまかい恩寵おんちょういよいよたかしなりこう既出きしゅつまごさらおさめ正嫡せいちゃく賈氏。」しんまつ按:鍾繇於時ろう矣,而方おさめ正室せいしつぶたれいしょうん宗子むねこななじゅう主婦しゅふ義也よしや。《たかし春秋しゅんじゅう》曰:かいははちょう於繇,繇為其夫じん。卞太きさき以為げんぶんみかどみことのり繇復。繇恚憤,はた引鴆,どる,餐椒致噤,みかど乃止。なかまもるぐん蔣濟ちょろんいいかん其眸そく以知じん。」かいねんさい,繇遣ずみすみ甚異,曰:「非常ひじょうじん也。」及壯,ゆうざいすう技藝ぎげい,而博がく精練せいれんめい,以夜ぞくひるゆかり聲譽せいよ

  せいはじめちゅう,以為秘書ひしょろう,遷尚書中しょちゅうしょさむらいろう》曰:司馬しばけい王命おうめい中書ちゅうしょれいおそれまつ作表さくひょう再呈さいてい不可ふかいのちまつさらじょう。以經まつおもえ不能ふのうあらためしんかたち於顏しょくかい察其ゆうもんまつまつ以實こたえかいためじょうまつ悅服えっぷく,以呈けいおうおう曰:「不當ふとうしかよこしまだれ所定しょてい也?」まつ曰:「鍾會。こうまたよく啟之ひろゆきかいこうとえ敢饕其能。」おう曰:「如此,大用おおゆうれいらい。」かいといまつおうしょのうまつ曰:「博學はくがくあかり識,しょぬき。」かい乃絕賓客ひんきゃくせいおもえじゅうにちたいらだんいれいたり乃出。出後いずごおうどく拊手嘆息たんそく曰:「此真王佐おうさざい也!」まつ叔茂,ちんとめじん,九江太守邊讓外孫。まつ弱冠じゃっかんゆうざいしたがえ司馬しばせんおうただし遼東りゃおとんせん王命おうめいさくげき,及破ぞくさくぬのまつしたがえかえせんおう辟為じょうねんじゅうよん,遷中しょろうとげいたり太守たいしゅ松子まつこ濬,あらわひろしすすむ廷尉。しんまつ以為鍾會めいおおやけ之子ゆきこ聲譽せいよ夙著,弱冠じゃっかんとうあさやめれきあらわけいおう為相ためすけなによう不悉ふしつ,而方於定おそれまつひょうしかこう乃蒙せっ引乎?しつらえ使さき相識そうしきただし五字而便知可大用,雖聖じん其猶びょうしょ,而況けいおう哉?高貴こうきごうこうそくみことたまもの爵關內侯。

  毌丘儉作みだれ大將軍だいしょうぐん司馬しばけいおう東征とうせいかいしたがえてん密事みつじまもる將軍しょうぐん司馬しばぶんおうため大軍たいぐん後繼こうけいけいおう薨於もとあきらぶんおう總統そうとうろくぐんかいはかりごと帷幄いあくどきちゅうみことのり敕尚しょでん嘏,以東いとうみなみ新定しんじょうけんとめまもる將軍しょうぐんたむろもとあきらため內外援,れい嘏率しょぐんかえかいあずか嘏謀,使つかい嘏表じょう,輒與まもる將軍しょうぐん俱發,かえいた雒水みなみたむろじゅう。於是朝廷ちょうていはいぶんおうため大將軍だいしょうぐん、輔政,かい遷黃もんさむらいろうふう東武とうぶちんこう,邑さんひゃく

  甘露かんろねんちょうしょかずら誕為そらかいやすし在家ありいえさく誕必したがえいのちはせ白文はくぶんおうぶんおう以事やめ施行しこうふくついあらためかい遭所生母せいぼ。其母でん曰:「夫人ふじんせい矜嚴,あきら教訓きょうくんかい雖童ややつとむぶんまわし誨。としよんさい授《こうけい》,ななさい誦《論語ろんご》,はちさい誦《》,じゅうさい誦《尚書しょうしょ》,じゅういち誦《えき》,じゅう誦《春秋しゅんじゅうひだりでん》、《國語こくご》,じゅうさん誦《しゅうあや》、《れい》,じゅうよん誦《なりこうえき》,じゅう五使入太學問四方奇文異訓。いいかい曰:『がく猥則倦,倦則だるわれ懼汝だる以漸くんなんじこん以獨がく矣。』まさこう書籍しょせきわたるれきしょとくこうえき老子ろうしまい讀易孔子こうしせつづるざいかげろうけんくんせきよう白茅ちがや出戶でとにわよしまい使つかいかい反覆はんぷく讀之,曰:『えきさんひゃくあまり爻,なかとくせつ此者,以謙きょうまきひそか樞機すうきはつぎょうおのれ至要しようさかえ所由しょゆう也,じゅん斯術やめ往,そくため君子くんし矣。』せいはじめはちねんかいため尚書しょうしょろう夫人ふじんかいしゅ而誨曰:『なんじ弱冠じゃっかん敘,人情にんじょう不能ふのう自足じそくのりそんざい其中矣,つとむおもえ其戒!』大將軍だいしょうぐん曹爽せん朝政ちょうせいにちたてしゅ沉醉,かいけいさむらいちゅう毓宴かえげん其事。夫人ふじん曰:『らくそくらく矣,しかなん久也ひさやきょおごせいぶし謹度,しかこう乃無危溢患。いまおご僭若此,ちょうもり富貴ふうきみち。』嘉平かへい元年がんねんくるまあさ高平たかひらりょうかいため中書ちゅうしょろうしたがえくだり相國しょうこくせんぶんほうはじめ舉兵,眾人恐懼きょうく,而夫じん自若じじゃく中書ちゅうしょれいりゅうさむらいろうまもる瓘、なつほうかずとうみなかいとい:『夫人ふじん一子在危難之中,なんのうゆう?』こたえ曰:『大將軍だいしょうぐんおご僭無われつねうたぐ不安ふあんふとしでんよし危國,必為大將軍だいしょうぐん舉耳。われざいみかどがわなんゆう?聞且出兵しゅっぺい重器じゅうき,其勢必不ひさせん。』はて如其ごと一時いちじしょうあかりかいれき機密きみつじゅうねん,頗豫せいはかりごと夫人ふじんいい曰:『むかし范氏少子しょうしためちょう簡子しつらえ邾之けいことしたがえみんえついいこう矣。しか其母以為じょう偽作ぎさくいつわりすえぎょうひなごと,必不能久よしひさ。其識ほん深遠しんえんきんひとしょげんわれ常樂じょうらく其為じんなんじきょこころただしわれめん矣。ただしとうおさむしょこころざし以輔えき時化しけかたじけな先人せんじんみみつねげんじんだれのうみなたい自然しぜんただし力行りっこう倦,そもそもまた其次。雖接ひな賤,必以げんしんあずかこれあいだふん分明ぶんめい。』ある:『此無乃小乎?』こたえ曰:『君子くんしこれぎょうみなせきしょう以致高大こうだいわか小善しょうぜんため無益むえき而弗ため,此乃小人こどもことみみまれどおり慕大しゃわれしょこのみ。』かい幼少ようしょうころもあおこんおや家事かじ恭儉きょうけんしかおもえよし,臨財必讓。かい前後ぜんこうたまものぜに帛數ひゃくまんけい,悉送きょう公家くげもちいいちしょとしじゅうゆうきゅう甘露かんろねんがつ暴疾薨。そう天子てんしゆうしゅみことのりいのち大將軍だいしょうぐんだかほうあつし賵贈,ごと鉅細,いちみな供給きょうきゅうしゃ以為おおやけこう有夫ゆうふじんゆうゆうつまゆうわらわ所謂いわゆるそと命婦みょうぶ也。春秋しゅんじゅうなりふうてい姒之よしむべたかし典禮てんれいとく總稱そうしょうわらわめい,於是しょうなりこう命婦みょうぶ。殯葬ことゆう於古せいれい也。」及誕はんしゃじゅうこうぶんおういたることぶきはるかいふくしたがえくだり

  はつ大將たいしょうぜん琮,まごけんこんおや重臣じゅうしん也,琮子懌、まごせいしたがえはし、翩、緝等,みな將兵しょうへいらいすくい誕。懌兄子せこてるとめけんぎょうあずか其家內爭訟そうしょう,攜其ははしょうきょくすうじゅういえ渡江とのえぶんおうかいけんさくみつためてるさくしょ使つかいてるしょおやしん入城にゅうじょうつげ懌等,せつくれちゅういか懌等不能ふのう拔壽はるよくつき誅諸將家しょうか逃來歸命きみょう。懌等恐懼きょうくとげはた所領しょりょう開東かいとう城門じょうもんみなこうむふうちょう城中じょうちゅうよし乖離かいりことぶき春之はるゆきやぶかいはかりごときょおやまちたかし時人じじんいい子房しぼうぐんかえ,遷為ふとぼく固辭こじ就。以中ろうざい大將軍だいしょうぐんかんしつごとため腹心ふくしんにん。以討しょかずら誕功,しん爵陳こう,屢讓受。みことのり曰:「かいてん軍事ぐんじまいりどうけいさくりょうてき制勝せいしょうゆうはかりごと謨之くん,而推ちょうかたゆずるゆび款實,前後ぜんごるいじゅうこころざし不可ふかだつおっと成功せいこうしょ古人こじんしょじゅう,其聽會所かいしょ,以成其美。」遷司隸校じょう。雖在がい時政ときまさ損益そんえき當世とうせい與奪よだつ綜典。嵇康とう誅,みなかいはかりごと也。

  ぶんおう以蜀大將たいしょうきょう維屢擾邊陲,りょうしょくこくしょうみんつかれ資力しりょくたん竭,よくだい舉圖しょくおもんみかいまた以為しょくども籌度地形ちけいこうろんことぜい景元かげもとさんねんふゆ,以會ため鎮西ちんぜい將軍しょうぐんかりふしとくせきちゅうしょ軍事ぐんじぶんおう敕青、じょ、兗、、荊、あげもろしゅうなみ使さくせんまたれいから咨作浮海大船おおぶね外為がいためはたくれしゃよんねんあき,乃下みことのり使鄧艾、しょかずらいとぐちかくすべしょぐんさんまん餘人よにんもぐさおもむきあままつくつちゅうれんつづり維,いとぐちおもむきたけがいはしあたまぜっ維歸かいすべじゅうあまりまん眾,ふんしたがえはすだに、駱谷いれさきいのちきばもんはたもとざいぜんどうかいざいぎょう,而橋穿ほじうまあしおちい,於是しゃもと褚之有功ゆうこう王室おうしつなおげんかししょぐん聞之,莫不ふるえ竦。しょくれいしょかこえみなとくせん退すさかえかんらくしろもりきょう太守たいしゅりゅう欽趣うまだにしょぐんすうどう平行へいこういたりかんちゅうしょくかんぐんおう含守らくじょうまもるぐん蔣斌もりかんじょうへいかくせんかい使まもるぐん荀愷、ぜん將軍しょうぐん輔各すべまんにん,愷圍かんじょう,輔圍らくじょうかいみち西出にしでよう安口はだかすひとさいしょかずらあきらはか使つかいまもるぐんえびすれつとうぎょうまえおさむやぶ關城せきじょうとくぞうせきこくきょう維自くつちゅうかえいたり陰平かげひらごうしゅう眾,よく赴關じょう未到みとう,聞其やめやぶ退すさおもむき白水しろみずあずかしょくはたちょうつばさ、廖化とうごうもりけんかくこばめかいかいうつりげきしょくしょう士民しみん曰:

  往者おうしゃかん衰微すいび率土そっとぶんくずれなまみんめいじいく於泯めつふとしたけ皇帝こうてい神武じんむ聖哲せいてつばちらんはんせい,拯其はた墜,みやつこなつ高祖こうそぶん皇帝こうていおうてんじゅんみん受命じゅめい踐阼。れつあかり皇帝こうてい奕世重光しげみつ,恢拓ひろしぎょうしか江山えやまそとせいことぞく率土そっとひとしみんこうむ王化おうか,此三祖所以顧懷遺恨也。こん主上しゅじょう聖德せいとく欽明,紹隆ぜんいとぐちおさむ輔忠肅明まこと,劬勞王室おうしつぬのせいたれめぐみ萬邦ばんぽう協和きょうわほどこせとく百蠻而肅慎致貢。悼彼ともえしょくどくため匪民,愍此百姓ひゃくしょう勞役ろうえきやめ以命授六,龔行天罰てんばつせい西にし、雍州、鎮西ちんぜいしょぐんみち並進へいしんいにしえ行軍こうぐん,以仁為本ためもと,以義治之はるゆき王者おうじゃゆうせいせんおそれしゅんまい戚而ふくゆうなえしゅうたけゆう散財さんざいはつ廩、おもて閭之こん鎮西ちんぜいたてまつ銜命,みつるえびすしげる,庶弘ぶんつげくん,以濟元元もともとめいじよくきゅうきょくせん,以快一朝いっちょうせいりゃくひね安危あんきよう,其敬聽話ごと

  えきしゅうさきしゅ以命英才えいさいきょうへいついたちこま躓冀、じょ郊,せいいのち紹、ぬのふとし拯而ずみあずかたかしだいこのみちゅうさらたがえ,棄同そくことしょかずら孔明こうめい仍規しんがわきょうはくやく屢出隴右,ろうどうわが邊境へんきょうおかせ擾我氐、羌,ぽう國家こっかおおゆえ遑修九伐之征也。こん邊境へんきょう乂清,ぽう無事ぶじ畜力ちくりょくまち,并兵一向いっこう,而巴しょくいちしゅう眾,ふんちょう守備しゅびなん以御天下でんかだんだにほうかず沮傷なん以敵堂堂どうどうひねねん以來いらい,曾無やすしとし征夫いくおつとむ瘁,なん以當子來こらいみん。此皆諸賢しょけんしょおや也。しょくしょうたけし禽於しん公孫こうそんじゅつ授首於漢,九州きゅうしゅうけん是非ぜひいちせい。此皆諸賢しょけんしょ備聞也。あかりしゃ危於無形むけい智者ちしゃぶんまわし於未もえ以微しょうながためしゅうまろうど陳平ちんぺいこうたてこう於漢。あに晏安酖毒,ふところ祿ろく不變ふへん哉?

  いまこくあさりゅうたかしくつがえこれおんおさむ輔弘寬恕かんじょとくさきめぐみ誅,好生よしおあくころせ往者おうしゃすすむまごいち舉眾內附,ため上司じょうしちょう秩殊ことぶん欽、から咨為國大こくだいがい,叛主かたきぞくかえためえびすくび。咨困逼禽欽二きんじかえみな將軍しょうぐんふうこう;咨與聞國ごといちとうきゅう踧歸いのちなおもりちょうきょうともえしょくけん知見ちけん而作しゃ哉!まことのうふかかん成敗せいばい,邈然だか蹈,とうあとほろ踪,錯身ひね平之ひらの軌,のりぶくどう古人こじんけいりゅうらい裔,百姓ひゃくしょう士民しみん安堵あんどきゅうぎょうのう不易ふえきうね,巿不かい肆,累卵るいらん危,就永やすぶくあに美與みよわか偷安旦夕たんせき,迷而はん大兵だいひょういちはつ玉石ぎょくせきみな碎,雖欲悔之,また及已。其詳利害りがいもとめぶくかく宣布せんぷ,咸使聞知ぶんち


  鄧艾ついきょう維到陰平かげひら,簡選精銳せいえいよくしたがえかん德陽とくよう入江いりえゆかりひだり儋道まい綿めんちくおもむき成都せいとあずかしょかずらいとぐちどもぎょういとぐち以本受節度せつど邀姜維,西行さいぎょうほんみことのりとげ進軍しんぐんぜんこう白水しろみずあずか會合かいごうかい將軍しょうぐんでんあきらとうしたがえけんかく西にしみちこうゆかりいたりひゃくさとしょうさきやぶしょく伏兵ふくへいさんこうもぐさ使あきら先登せんとうとげ長驅ちょうく而前。かいあずかいとぐちぐんこうけんかくかいよくせん軍勢ぐんぜいみつしろいとぐちかしこ懦不すすむおりしゃちょうかえぐん悉屬かい按《百官ひゃっかんめい》:いとぐちにゅうすすむためふとつねたかしれいまもるじょう衝,廷尉。荀綽《兗州》曰:衝子かいとくりん,玫字じんりんなみ知名ちめいあらわたちかい,兗州刺史しし。玫,さむらいちゅうちゅうすすむ進攻しんこうけんかくかつ引退いんたいしょくぐん保險ほけんこばめもりもぐさとげいたり綿めんちく大戰たいせんしょかずら瞻。維等聞瞻やぶりつ其眾ひがしにゅう於巴。かい乃進ぐんいたり涪,えびすれつつづけ、龐會とうつい維。もぐさ進軍しんぐんこう成都せいとりゅうぜんまいもぐさくだ使つかい敕維とうれいくだ於會。維至こうかん郪縣,れいへい悉放仗,おくふしでん於胡れつ便びんしたがえ東道とうどうまいかいくだかいじょうげん曰:

ぞくきょう維、ちょうつばさ、廖化、ただし厥等逃死遁走とんそうよくおもむき成都せいとしん輒遣司馬しばなつこう咸、まもるぐんえびすれつとうけいしたがえけんかく出新いでしん大渡おおわたり截其まえさんぐん爰𩇕、將軍しょうぐんやすとう躡其さんぐんすめらぎはじめ闓、將軍しょうぐんおうかいとうしたがえ涪南衝其はらしんよりどころ涪縣ため東西とうざいぜい援。維等しょみつるよんまんにん,擐甲厲兵,ふさがかわはまたにすうひゃくちゅう首尾しゅびしょうつぎ,憑恃其眾,ぽう軌而西にししん敕咸、闓等れいぶんへいよりどころぜいこうちょう罔,みなみもりはしくれみち西にしふさが成都せいとこれきたぜっえついっみち四面しめん雲集うんしゅう首尾しゅび並進へいしん,蹊路斷絕だんぜつはしふく無地むじしんまた手書しゅしょさる喻,開示かいじ生路いくじぐん寇困逼,知命ちめいきゅうすうつきかいかぶととうほこめんばくしつ印綬いんじゅまんすう山積さんせきむかししゅんまい戚,ゆうなえふく牧野ぼくやしょうたびたおせほこゆうせいたたかえ帝王ていおう盛業せいぎょう全國ぜんこくためじょうやぶ國次くにつぐぜんぐんためじょうやぶ軍次ぐんじこれ用兵ようへいれいてん陛下へいか聖德せいとく,侔踪前代ぜんだいつばさ輔忠あきらひとし軌公だんじんそだて羣生,せい譓,ことぞくむこうおもえ不服ふふく逾時,へい萬里ばんりどうふう九州きゅうしゅうどもぬきしん輒奉せんみことのりいのちしるべあげおんふく社稷しゃしょくやす其閭,捨其調ちょうたゆ其徵やくくんとくれい以移其風,しめせ軌儀以易其俗,百姓ひゃくしょう欣欣きんきんにんふところいっ後來こうらい其蘇,よし以過。

かい於是きんけん眾不とく鈔略,むなしおのれさそえおさめ,以接しょく群司ぐんじあずか維情こう歡甚。》曰:なつこう霸奔しょくしょくちょうとい司馬しばこう如何いかとく」?霸曰:「とう作家さっかもん。」「京師けいししゅん」?曰:「ゆう鍾士,其人かん朝政ちょうせいしょく也。」《かんすすむ春秋しゅんじゅう》曰:はつなつこう霸降しょくきょう維問曰:「司馬しば懿既どくかれせいとうふくゆう征伐せいばつこころざし?」霸曰:「彼方かなた營立家門かもん外事がいじゆう鍾士しゃ,其人雖少,おわりためくれしょくゆうしか非常ひじょうこれにんまた不能ふのうよう也。」じゅう五年而會果滅蜀。按習鑿齒此言,しょ採用さいよう》而附えき也。十二月じゅうにがつみことのり曰:「會所かいしょこう摧弊,ぜん強敵きょうてき,緘制眾城,罔羅ほとばしいっしょくごうそちめんばく歸命きみょうはかりごとのこさく,舉無はいこう。凡所くだ誅,どうまんけい全勝ぜんしょうどくかつゆうせいせんひらけひら西にしなつぽうすみきよし晏。其以かいためしんふうけんこうぞうまんふうにんちんこう,邑各せん。」

  かい內有こころざしいん鄧艾うけたまわせいせんごとみつしろあいゆうはんじょう》曰:かいぜんこうじんしょ,於劍かくようあいあきら表白ひょうはくごとみなえき其言,れいゆびもと傲,矜伐。また毀文おうほうしょさく以疑也。於是詔書しょうしょおりしゃちょうもぐさ司馬しばぶんおう懼艾あるしたがえいのち,敕會並進へいしんぐん成都せいとかんぐんまもる瓘在かいまえぎょう,以文王手おうてひつれいせん喻艾ぐんもぐさぐんみなしゃく仗,とげおさむもぐさにゅうおりしゃ會所かいしょはばかおもんみもぐさもぐさすんで禽而かいひろいたりどくみつるだい眾,ふるえ西土せいどいい功名こうみょう蓋世がいせい不可ふかふくためじんもうしょうするどそつみなざいおのれしゅとげ謀反ぼうほんよく使きょう維等みなはたしょくへいはすだにかいしょうだい眾隨其後。すんでいたり長安ながやすれい騎士きししたがえりくどう步兵ほへいしたがえ水道すいどう順流じゅんりゅう浮渭にゅうかわ,以為五日可到孟津,あずかかい洛陽らくよう一旦いったん天下てんかてい也。會得えとくぶんおうしょうん:「おそれ鄧艾ある就徵,いまちゅうまもるぐん賈充はたまんにんみちにゅうはすだにたむろらくじょうわれしょうじゅうまんたむろちょうやすそうざいこん。」會得えとくしょおどろきよびしょおや曰:「ただし鄧艾,相國しょうこくわがのうどく辦之;今來こんらい大重おおしげ,必覺わが矣,便びんとうそくはつことなりとく天下でんかなり退すさしょくかんしつさくりゅう備也。わが淮南ワイナン以來いらいかくさく四海しかいしょども知也ともや我欲がよく此安乎!」かいねん正月しょうがつじゅうにちいたり,其明,悉請まもるぐんこおりまもるきばもんとく以上いじょう及蜀かんためふとしきさきはつ於蜀あさどう。矯太きさきのこみことのり使つかいかいおこりへいはいぶんおうみなはんしめせすわ上人しょうにん使つかい訖,しょばんしょおけさら使しょおや信代のぶよりょうしょぐんところ請群かん,悉閉ちょえきしゅうしょ曹屋ちゅう城門じょうもん宮門きゅうもんみな閉,いむへいかこえもりかいちょうとくおかけん本屬ほんぞくえびすれつれつこもぶんおうかい請以したがえにんあいけん愍烈獨坐どくざけいかい使つかい聽內一親兵出取飲食,しょきばもんずいれいかくいちにんれつ紿語おやへい及疏與其子曰:「おかけんみつせつ消息しょうそくかいやめづくだいあなしろ棓與ぼうどうすうせんよく悉呼がいへいいれにんたまものしろあまねはんはいためはた,以次棓殺あなちゅう。」しょきばもんおやへいまた咸說此語,一夜いちやつてしょうつげみなへんあるいいかい:「つきころせきばもんとく以上いじょう。」かい猶豫ゆうよ未決みけつ

  じゅうはちにちちゅうれつ軍兵ぐんびょうあずかれつかみなりもんしょ軍兵ぐんびょうみな譟出,曾無督促とくそくこれしゃ,而爭さき赴城。どきかた給與きゅうよきょう維鎧つえしろがいゆう匈匈ごえ失火しっかゆうごろ白兵はくへいはしこうしろかいおどろきいい維曰:「へいらいほっさくあくとううんなに?」維曰:「ただしとうげきみみ。」かいへい悉殺しょ閉諸きばかどぐんもり,內人ども舉機以柱もんへい斫門,不能ふのうやぶ。斯須,門外もんがい倚梯登城とじょうあるやき城屋じょうやありらんすすむ矢下やおろし如雨,きばもんこおりまもるかくえんあずか其卒へいしょうとくきょう維率かい左右さゆうせんころせろくにん,眾既かく維,そう赴殺かいかいねんよんじゅう將士しょうし死者ししゃすうひゃくにんすすむ諸公しょこうさん》曰:えびすれつめいふちもと,遵之まご也。遵,安定あんていじん,以才けん文武ぶんぶるいきょ籓鎮,いたりしゃ將軍しょうぐん奮,げんまたかたにんおんなためすすむたけみかど貴人きじんゆうちょうふとしやすしちゅう,以奮ため尚書しょうしょぼくしゃ鎮軍大將軍だいしょうぐん開府かいふおとうとこうせんしょうつぎれつ玄武げんぶしんしゅう刺史ししつぎ岐,宇玄嶷,并州刺史しし廣子ひろこりょうしゅう刺史ししふち小字こあざはいたかみみずくねんじゅうはちすんでころせかいすくいちちめいふるえ遠近えんきんこうちょうおうりん篡位,さんおうきょうよしりん使ふちあずかちょう泓將へい禦齊おう,屢破ひとしぐんかい成都せいとせんかつふち乃歸降伏ごうぶくほう

  はつもぐさためふとしじょうかいためみなぶしみやこただししょぐん如故,咸未受命じゅめい而斃。かいけい毓,以よんねんふゆ薨,かい未知みちといかい兄子せこ邕,ずいかいあずか俱死,會所かいしょやしなえ兄子せこあつし及峻、辿たど敕連はんとう下獄げごくとうふく誅。司馬しばぶんおうひょう天子てんしみことのり曰:「たかしとう祖父そふ繇,さんきょくだいいのちりつくんきょうしょくびょうにわちち毓,れきしょく內外,幹事かんじゆう績。むかしすわえおもえぶん不滅ふめつまつすすむろくなりせんちゅうようそんちょうこれ。以會、邕之ざい,而絕繇、毓之るいわれゆう愍然びんぜんたかし辿たど兄弟きょうだいとくばらゆう官爵かんしゃくしゃ如故。おもんみあつし及邕いきふくほう。」ある曰,毓曾みつけい司馬しばぶんおうげんかいはさみじゅつなんたもて不可ふか專任せんにんなだめたかしとううんかんすすむ春秋しゅんじゅう》曰:ぶんおうよしみ其忠あきらわらいこたえ毓曰:「わか如卿ごと,必不以及むね矣。」

  はつぶんおうほっかいしょく西にし曹屬邵悌もとめ曰:「いま鍾會りつじゅうあまりまん眾伐しょくいいかい單身たんしん重任じゅうにんわか使つかい餘人よにんぎょう。」ぶんおうえみ曰:

わがやすしとうふく不知ふち此耶?しょくため天下でんかさく患,使つかいみんとく安息あんそくわがいまこれ如指てのひらみみ,而眾じんみなごとしょく不可ふか夫人ふじんこころおびえそく智勇ちゆうなみ竭,智勇ちゆうなみ竭而きょう使てきためてき禽耳。おもんみ鍾會あずかひとどういまかいしょく,必可めつしょくめつしょくこれ,就如きょうしょおもんばかとうなんしょのういち辦耶?凡敗ぐんはた不可ふか以語いさむ亡國ぼうこく大夫たいふ不可ふかあずかそん心膽しんたん以破也。わかしょく以破,のこみんふるえおそれ不足ふそくあずかごと中國ちゅうごく將士しょうし各自かくじおもえ肯與どう也。わかさくあく,祗自滅じめつぞくみみきょう須憂此,まき莫使じん聞也。

及會しろ鄧艾不軌ふきぶん王將おうしょう西にし,悌復曰:「鍾會しょすべろくばい於鄧もぐさただし敕會もぐさ不足ふそくくだり。」ぶんおう曰:「きょう忘前しょげんよこしま,而更くも須行乎?雖爾,此言不可ふかせん也。わがようとう信義しんぎ待人まちびとただしひとまけわがわがあに先人せんじんせいこころ哉!近日きんじつ賈護ぐんもんわがげん:『頗疑鍾會?』わがこたえごと:『如今きょうぎょうやすしふくうたぐきょうよこしま?』賈亦以易也。わがいた長安ながやすのりりょう矣。」ぐんいたり長安ながやすかいはてやめ,咸如しょさく咸熙元年がんねん百官ひゃっかんめい〉:邵悌もとはく陽平ようへいじん。《かんすすむ春秋しゅんじゅう》曰:ぶんおう聞鍾かいこう曹向ゆうおさむそうかい也,召而せめ曰:「往者おうしゃおうけいきょう於東おひがし而我不問ふもんこん鍾會躬為叛逆はんぎゃく而又輒收そうわかふくしょうよう,其如王法おうほうなに!」曰:「むかし先王せんおう掩骼うめ胔,じんりゅうくちこつ當時とうじあにさきぼく其功ざい而後おさむそう哉?こんおう誅既,於法やめ備,ゆうかんよしおさむそうきょうまた闕。法立ほうりゅう於上,きょうひろ於下おした,以此くんぶつ曰可矣!なに必使ゆうたがえせい,以立於時。殿下でんか讎對枯骨ここつ,捐之中野なかのひゃくさいこれため臧獲しょわらいあに仁賢にんけんしょ掩哉?」おうえつあずかうたげだん而遣。習鑿曰:こうはくしげるいいいさむ於蹈義也よしや,哭王けい而哀かんじんそう鍾會而義どう明主めいしゅかれみなちゅうれつ奮勁,而往,存生ぞんじょう也。きょう使けいかい處世しょせいあるざい急難きゅうなん,而有赴者乎?ひろ其奉しん見事みごとせいじょうらん其忠貞之さだゆきぶしそく以愧義之よしゆき矣。おうれい而遣,いい明達めいたつ

  かい嘗論えき互體、ざいせいどうこと。及會死後しご,於會とくしょじゅうへんめい曰《みちろん》,而實けい名家めいか也,其文かい

おう[编辑]

  はつかい弱冠じゃっかんあずか山陽さんようおう弼竝知名ちめい。弼好ろん儒道じゅどうざいいっべんちゅうえき》及《老子ろうし》,ため尚書しょうしょろうねんじゅうあまりそつ弼字輔嗣。なに劭為其傳曰:弼幼而察慧,ねんじゅうあまりこうろう通辯つうべんのうごとちちぎょうため尚書しょうしょろうとき裴徽ため吏部ろう,弼未弱冠じゃっかん,往造焉。徽一見いっけん而異もん弼曰:「おっとしゃまこと萬物之所資也,しか聖人せいじん莫肯致言,而老さるやめしゃなに?」弼曰:「せい人體じんたいまた不可ふか以訓,せつ也。老子ろうしゆうしゃ也,つねげんしょ不足ふそく。」ひろまたためでん嘏所。於時なん晏為吏部尚書しょうしょ,甚奇弼,嘆之曰:「なかしょう後生ごしょうかしこわか斯人しゃあずかげん天人てんにんさい乎!」せいはじめちゅう黃門こうもんさむらいろうるいかけ。晏既よう賈充、裴秀、しゅせいまたよう弼。ときひのと謐與晏爭衡,致高邑たかむらおうはじむ於曹爽,爽用はじむ。於是以弼だいろうはつじょ,覲爽,請間,爽為へい左右さゆう,而弼與論よろんどううつりしょ及,爽以此嗤とき爽專朝政ちょうせいとうあずかともしょうしんよう,弼通しゅん不治ふちめいだかひろはじむいくびょうほろび,爽用おう沈代はじむ,弼遂とくざい門下もんか,晏為嘆恨。弼在だいすんであさことこうまたみやび所長しょちょうえき留意りゅうい焉。淮南ワイナンじんりゅうとうよしろん縱橫じゅうおうため當時とうじしょ推。まいあずか弼語,つねこごめ弼。弼天才てんさい卓出たくしゅつとう所得しょとく,莫能だつ也。せいらくゆうえんかい音律おんりつぜんとうつぼ。其論どうでんかい文辭ぶんじ如何いか晏,自然しぜんゆうしょ拔得,晏也,頗以所長しょちょうわらいじんふるときため士君子しくんししょやまし。弼與鍾會ぜんかい論議ろんぎ以校ねりためしかまいふく弼之だか致。なに晏以ため聖人せいじん喜怒哀樂きどあいらく,其論甚精,鍾會とうじゅつ。弼與不同ふどう,以為聖人せいじんしげ於人しゃかみ明也あきやどう於人しゃじょう也,神明しんめいしげるのうたいおき以通,五情同故不能無哀樂以應物,しかのり聖人せいじんじょうおうぶつ而無るい於物しゃ也。こん以其るい便びんいいふくおうぶつしつ矣。弼注えき,潁川じん荀融なん弼大衍義。弼答其意,白書はくしょ以戲曰:「おっとあかりあし以尋ごくかそけほろ,而不能ふのう自然しぜんこれせいかおりょうあなちちこれしょあずかざいしかぐう不能ふのうらく不能ふのうあいまたつねせま斯人,以為のう以情したがえしゃ也,而今乃知自然しぜん不可ふかかわ足下あしもとりょう,雖已てい胸懷きょうかい內,しか而隔逾旬ついたちなに相思そうし乎?故知こちあまちち於顏以無大過たいか矣。」弼注《老子ろうし》,為之ためゆきゆびりゃく,致有理ゆうりみつるちょどうりゃくろんちゅうえき》,往往おうおう有高ありだかうららごとふとしはらおうわたるこうだんやまいおいそうつねうん:「弼《えきちゅうしょさとるしゃ。」しか弼為じんあさ而不識物情ぶつじょうはつあずかおうはじむ、荀融ぜんはじむだつ其黃もんろう,於是恨黎,あずかとおるまたおわりせいはじめじゅうねん,曹爽はい,以公事こうじめん。其秋ぐう癘疾ほろびねんじゅうよんぜっ嗣。弼之そつ也,すすむけいおう聞之,嗟嘆さたんしゃ累日るいじつ,其為だか識所惜如此。まごもり曰:えきためしょきゅう神知しんち天下てんかいたりしらげ,其孰のうあずか於此?註解ちゅうかい,殆皆妄也。きょう弼以でんかいわきまえ而欲かごすべげんむねしゃ乎?其敘浮義そくうらら溢目,みやつこ陰陽いんようそくみょう頤無聞,いたりろく變化へんかぐんぞうしょこう日時にちじ歲月さいげつしょう推,弼皆擯落,しょかん。雖有かんしゃ焉,こわはたどろおっと大道だいどう。 《博物はくぶつ》曰:はつおうつばらあずかぞくけい凱俱避地荊州,りゅうおもてよく以女つまつばら,而嫌其形陋而ようりつ,以凱ゆう風貌ふうぼう,乃以つま凱。凱生ぎょうぎょうそくりゅうおもて外孫そとまご也。蔡邕ゆうしょきんまんかんすえねんかずくるまあずかつばらつばらほろび相國しょうこくじょう謀反ぼうほんつばらあずか焉,すんで誅,邕所與しょよしょ悉入ぎょうぎょうちょういとぐちいたり謁者ぼくしゃひろし正宗まさむねつかさ隸校じょうひろし,弼之けい也。《たかし春秋しゅんじゅう》曰:ぶんみかどすんで誅粲,以業嗣粲。

ひょう[编辑]

  ひょう曰:おうりょうふうふしかくなお,毌丘儉才識さいしき拔幹,しょかずら誕嚴あつしじゅう,鍾會精練せいれんさくすう,咸以あらわめい,致茲さかえにん,而皆こころ大志たいしまが不慮ふりょなんへん如發宗族そうぞくぬりあに謬惑よこしま!鄧艾矯然強壯きょうそうたてこうりつごとしかやみ於防患,とがめはい旋至,あにとお乎諸かずらつとむ不能ふのうちか,此蓋古人こじん所謂いわゆるろんしゃ也。史記しき》曰:えつおう疆與中國ちゅうごくそうきょうとうすわえおうえつきたひとしひとしおう使つかいじんせつえつおうえつおう不納ふのうひとし使者ししゃ曰:「幸也ゆきやえつほろび也。われ其用智之としゆき如目,目見まみ毫毛而不其睫也。こんおうともすすむしつけいえつろん也。」

ほん西にしすすむ作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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