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三國志/卷39 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

三國志さんごくし/まき39

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しょくしょはち もと糜孫簡伊はたつたえ 三國志さんごくし
しょくしょきゅう ただしりゅううまちんただしりょでん
すすむ ちんひさし さく 南朝なんちょうそう 裴松
しょくしょじゅう りゅう彭廖りゅうたかし楊傳


ただし

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  ただし和字わじようおさむみなみぐんえだじん也,其先ほんともえぐんしゅうじんかんまつりつ宗族そうぞく西にし遷,えきしゅうまきりゅうあきら以為うし鞞、おと髀。江原えばらちょう成都せいとれいしょくとみじつぞく奢侈しゃし貨殖かしょくいえほうふくだましょく婚姻こんいん葬送そうそうかたぶけ竭產。躬率以儉,あくころも蔬食,防遏ぼうあつ逾僭,為之ためゆき軌制,所在しょざいみなうつりふうへんぜんかしこ而不はんしかけんかいごうきょうはばかかずいわおほうせつあきらてんためともえひがし屬國ぞっこくじょう。吏民老弱ろうじゃくしょう攜乞とめしゃすうせんにんあきら聽留ねんかえ遷益しゅう太守たいしゅ,其清やく如前。あずか蠻夷ばんい從事じゅうじつとむ推誠しんみなみあい而信

  さきぬしていしょくしるしためてのひらぐんちゅうろうはたあずか軍師ぐんし將軍しょうぐんしょかずらあきらなみしょひだり將軍しょうぐんだい司馬しばごとけんじがえいなきょうため歡交。きょかんしょく祿ろく外牧ほかまきこといき,內幹衡,じゅう馀年,にち儋石ざいあきらため丞相じょうしょうきょうあずかぐん曰:「おっとさんしょしゃしゅう眾思こうちゅうえき也。わかとおしょういやなん相違そういくつがえ,曠闕そん矣。たがえくつがえ而得ちゅうなお棄弊蹻而珠玉しゅぎょくしか人心じんしん不能ふのうつきおもんみじょもとちょくしょ不惑ふわくまたただしようおさむさんしょななねんことゆういたりいたりじゅうたんしょうけいつげ。苟能慕元直之なおゆきじゅういちようおさむいんつとむゆうちゅう於國,のりあきらしょう矣。」また曰:「むかしはつ交州ひらめ,屢聞得失とくしつ交元じきつとむけい誨,ぜん參事さんじ於幼おさむまいげんそくつきこう從事じゅうじ於偉すうゆう諫止;雖姿せいひなくら不能ふのう悉納,しかあずかよん終始しゅうしこうごうまたあし以明其不うたぐ直言ちょくげん也。」其追おもえ如此。 えらしゃせいえびすめいずみじんためあきらぬし簿ゆうちゅう藎之こう褒述。あきらそつためちゅうてんぐんみつるしょぐんふうなりていこう,遷中かんぐんぜん將軍しょうぐんとくかんちゅうかりふしりょう兗州刺史ししいたりみぎ驃騎將軍しょうぐんすみおとうとはくれきちょうみずこうじょう尚書しょうしょ

りゅうともみ

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  りゅうともみはつれいりょう烝陽じん也。しょう知名ちめいれいりょう先賢せんけんでん曰:ともえ祖父そふ曜,蒼梧そうご太守たいしゅちちさち江夏えなつ太守たいしゅとろけ寇將ぐんときまごけん舉兵討董たく以南いなん太守たいしゅはりはかきゅうぐんかてころせこれさちあずかどうしん南陽なんよう士民しみんよし此怨さち,舉兵おさむあずかたたかえ敗亡はいぼうりゅうひょうまた不善ふぜんさちかかわともえよくころせこれかずさちところおや信人のぶとみついつわりいいともえ曰:「りゅうまきよくしょう危害きがいしょうずい逃之。」如此再三さいさんともえ輒不おう以報ひょうおもて乃不ころせともえとしじゅうはちぐんしょ曹史ぬしおも簿りゅうさきあるじほししゅううたぐ就巴がくともえこたえ曰:「むかしゆう荊北,わたるもんといまなべ不足ふそくめい,內無楊朱もりしずかじゅつそとすみ翟務ふうなおてんみなみきょ而不ようたまものしょ乃欲れいけんおい摧鸞おおとりつやゆう燕雀えんじゃく宇,はたなに以啟あかり哉?愧於‘ゆうわかじつわかきょ’,なに以堪!」荊州まきりゅうおもてれん闢,及舉しげざいみな就。ひょうそつ,曹公ちょう荊州。さきぬし奔江みなみ,荊、すわえぐんしたがえ如雲,而巴きたまい曹公。曹公闢為じょう使つかい招納ちょうすなれいりょうかつらようれいりょう先賢せんけんでん曰:曹公はい於烏りんかえきたほし桓階,かいやめ如巴。ともえいい曹公曰:「りゅう備據荊州,可也かなり。」おおやけ曰:「備如しょう以六ぐんつぎ也。」かいさきおもりゃくゆうさんぐんともえとくはん使つかいとげどおてき交阯,れいりょう先賢せんけんでんうんともえ往零りょうことなりよくゆう交州,みちかえ京師けいしときしょかずらあきらざい臨烝,ともえあずかあきらしょ曰:「危歷けわしいた值思義之よしゆきみんあずかこれ眾,うけたまわてんしんじゅんぶつこれせいはかりごとしょのうすすむどうわかみちきゅうすうつきはたたくいのち滄海そうかいふく顧荊しゅう矣。」あきらついいい曰:「りゅう公雄きみおざい蓋世がいせいよりどころゆう荊土,莫不とく天人てんにん去就きょしゅうやめ可知かち矣。足下あしもとほしなに? 」ともえ曰:「受命じゅめい而來,成當なりとうかえ,此其むべ也。足下あしもとなんことよこしま!」さきおもふか以為恨。

  ともえふくしたがえ交阯いたりしょくれいりょう先賢せんけんでん曰:ともえにゅう交阯,さらせいためはりあずか交阯太守たいしゅ燮計ごう,乃由牂牁どうためえきしゅうぐんしょ拘留こうりゅう太守たいしゅよくころせこれおも簿曰:「此非常人じょうじん不可ふかころせ也。」おも簿請自おくいたりしゅうえきしゅうまきりゅうあきらあきらちち焉昔ためともえちちさちしょ舉孝れんともえ驚喜きょうきまい大事だいじ輒以諮おとずれしんまつあんりゅう焉在かんれいみかどやめけいそう正太しょうたつねためえきしゅうまぎさちはじめ以孫けんさくちょうすなため江夏えなつ太守たいしゅとく舉焉ためこうれん明也あきやにわか而先ぬしていえきしゅうともえ謝罪しゃざいまけさきぬしせめれいりょう先賢せんけんでん曰:あきら法正のりまさむかいりゅう備,ともえ諫曰:「備,ゆうじん也,にゅう必為がい不可ふか內也。」すんでいれともえ复諫曰:「わか使つかい備討ちょう魯,とら於山りん也。」あきら聽。ともえ閉門へいもんしょうやまし。備攻成都せいとれいぐんちゅう曰:「其有害ゆうがいともえしゃ,誅及さんぞく。」及得ともえ,甚喜。而諸かずら孔明こうめいすうしょうこもさきぬし闢為ひだり將軍しょうぐん西にし曹掾。れいりょう先賢せんけんでん曰:ちょう嘗就ともえ宿やどともえ與語よごとげ忿恚。しょかずらあきらいいともえ曰:「ちょう雖實武人ぶじん敬慕けいぼ足下あしもとしゅおおやけ今方いまがたおさむごう文武ぶんぶ,以定大事だいじ足下あしもと雖天もとだかあきらむべしょうくだ也。」ともえ曰:「大丈夫だいじょうぶ處世しょせいとう四海しかい英雄ひでお如何いかあずかへいども乎?」備聞いか曰:「ほしてい天下てんか,而子はつせんらん。其欲かえきたかりみち於此,あによくしげるごとよこしま?」備又曰:「はつ才智さいちぜっじん,如孤,任用にんようしゃなんどくにん也。」あきらまた曰:「うん籌策於帷幄之ちゅうわれ如子はつどお矣!わかひさげならかい軍門ぐんもん使つかい百姓ひゃくしょういさむとうあずかひとみみ。」はつおさむりゅうあきら,備與眾約:「わかことじょうひゃくぶつあずか焉。」及拔成都せいと眾皆しゃ干戈かんか,赴諸ぞうきそえ寶物ほうもつ軍用ぐんよう不足ふそく,備甚これともえ曰:「えきみみただしとうちょくひゃくせんひら諸物しょぶつ賈,れい吏為かん巿。」備從すうがつあいだ充實じゅうじつ

  けんやすじゅうよんねんさきぬしためかんちゅうおうともえため尚書しょうしょ後代こうだい法正のりまさため尚書しょうしょれい。躬履きよし儉,不治ふち產業さんぎょうまた以歸もと,懼見猜嫌,きょうだまもりせい退すさ無私むし交,公事こうじ不言ふげんれいりょう先賢せんけんでん曰:ちゅうなつ人情にんじょういち,聞備ざいしょく四方しほうのべ頸。而備銳意えいいほしそくしんともえ以為如此しめせ天下でんかこう,且欲なるこれあずかおも簿雍茂諫備,備以他事たじころせしげるゆかりとおじんふくいたり矣。さきぬししょう尊號そんごうあきらつげ於皇てん上帝じょうていきさき神祇じんぎ,凡諸ぶん誥策いのちみなともえ所作しょさ也。あきらねんそつそつ尚書しょうしょぼくしゃひねぐんあずか丞相じょうしょうしょかずらあきらしょもんともえ消息しょうそくしょう曰劉君子くんしはつ,甚敬重けいちょう焉。 れいりょう先賢せんけんでん曰:輔吳將軍しょうぐんちょうあきら嘗對まごけんろんともえ褊阨,不當ふとうこばめちょうふとし甚。けん曰:「わか令子れいこはつずい沈浮,ようえつげんとく,交非其人,なんそくたたえため高士こうし乎?」

うまりょう

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  うまりょうつねじょうむべしろじん也。兄弟きょうだいにんなみゆうざいめい鄉里ごうり為之ためゆきことわざ曰:「うま五常ごじょう白眉はくび最良さいりょう。」りょうまゆ中有ちゅううしろ以稱さきぬしりょう荊州,闢為從事じゅうじ。及先ぬしいれしょくしょかずらあきらまたしたがえ往,りょうとめ荊州,あずかあきらしょ曰:「聞雒じょうやめ拔,此天祚也。尊兄そんけいおうさんはいぎょう光國みつくにたまちょう矣。しんまつ以為りょうぶたあずかあきらゆいため兄弟きょうだいあるあいあずかゆうおやあきら年長ねんちょうりょうよびあきらため尊兄そんけいみみおっとへんようみやびおもんばかしんたれあきら,於以簡才,むべてき其時。わか乃和光悅こうえつとお,邁德天壤てんじょう使つかい時閒じかん於聽,せいふく於道,ひとしだかみょうおとせいていまもるこれごえなみ於事,あいだつりん,此乃管弦かんげんいたりきば、曠之調ちょう也。雖非鍾期,敢不げきぶし!」さきぬし闢良ためひだり將軍しょうぐんじょう

  使つかいくれりょういいあきら曰:「こん銜國いのちきょうきよしいえこうため良介りょうすけ於孫將軍しょうぐん。」あきら曰:「きみこころみためぶん。」りょうそくためくさ曰:「寡君じょううまりょうどおり聘繼このみ,以紹こんわれいのこ韋之くん。其人きち,荊楚れい,鮮于造次ぞうじはな,而有かつおわりよしはらくだこころそんおさめ,以慰はたいのち。」けんけいまち

  さきぬししょう尊號そんごう,以良ためさむらいちゅう。及東征とうせいにゅうりょう招納けい蠻夷ばんい蠻夷ばんいみぞそちみな受印ごう,咸如意にょいゆびかいさきしゅはい績於えびすりょうまたぐうがいさきぬしはい良子りょうこ秉為じょうりょうおとうと謖,ようつね,以荊しゅう從事じゅうじずいさきしゅいれしょくじょ綿めん竹成たけなりれいえつ雋太もりざいひとこうろんぐんけい丞相じょうしょうしょかずらあきらふかことさきぬし臨薨いいあきら曰:「馬謖ばしょくげん其實,不可ふか大用おおゆうきみ其察!」あきらなおいいしか,以謖ためさんぐんまい引見いんけん談論だんろんひるたちよるじょう》曰:けんきょうさんねんあきらせい南中なんちゅう,謖送すうじゅうさとあきら曰:「雖共謀きょうぼう歷年れきねんこんさら惠良えらぶんまわし。」謖對曰:「南中なんちゅう恃其けわしとお不服ふふくひさ矣,雖今やぶこれ明日あしたふくはんみみこん公方くぼう傾國けいこくきた以事きょうぞくかれかんいきおい內虛,其叛またそくわか殄盡のこるい以除後患こうかんすんで仁者じんしゃじょう,且又不可ふか倉卒そうそつ也。おっと用兵ようへいみちおさむこころためじょうおさむじょうためしんせんためじょうへいせんためはらこうふく其心而已。」あきらおさめ其策,赦孟以服南方なんぽうおわりあきらこれせい南方みなかた敢復はんけんきょうろくねんあきらぐんこう祁山,ゆう宿將しゅくしょうのべいちとう論者ろんしゃみなげん以為よろしれいため先鋒せんぽう,而亮たがえ眾拔謖,みつるだい眾在まえあずかはたちょう郃戰於街ていため郃所やぶ士卒しそつ離散りさんあきらすすむところよりどころ退すさぐんかえかんちゅう。謖下獄げごく物故ぶっこあきら為之ためゆき流涕りゅうていりょう死時しにどきねんさんじゅうろく,謖年さんじゅうきゅうじょう曰:謖臨終りんじゅうあずかあきらしょ曰:「あきらおおやけ謖猶,謖視あかりこうなおちちはらふかしおもんみ殛鯀きょう禹之よし使つかい平生へいぜい交不虧於此,謖雖恨於壤也。」於時じゅう萬之眾為之垂涕。あきら臨祭,まち其遺わか平生へいぜい。蔣琬まいかんちゅういいあきら曰:「むかしすわえころせしんしかこうぶんこう知也ともや天下てんか未定みてい而戮智計ともよしこれあに惜乎!」あきら流涕りゅうてい曰:「まごたけ所以ゆえんのうせいかち於天しゃ用法ようほう明也あきや以楊いぬいらんほう絳戮其僕。四海しかい分裂ぶんれつへい交方はじめわかふくはいほうなによう討賊よこしま!」習鑿曰:しょかずらあきら不能ふのうけんうえこく也,あにむべ哉!おっとすすむじんぶんまわしりんちちこうすみはいほう而收こうすわえなりやみとくしんえきおのれ故殺こさつ以重はいこんしょくへき一方いっぽうざいしょううえこく,而殺其俊傑しゅんけつ退すさおさむ駑下もちいあかりほうかちざいさんはいみちはた成業せいぎょうまたなん乎!且先ぬし誡謖不可ふか大用おおゆうあにいい非才ひさい也?あきら受誡而不たてまつうけたまわあきら謖之なんはい也。ため天下でんかおさむたくみよくだいおさむぶつちから,而不りょうざいぶしにんずいづけぎょう知之ともゆき大過たいかのりたがえ明主めいしゅ誡,たっしつちゅうそくころせ有益ゆうえきこれにんなん乎其あずかげん智者ちしゃ也。

ちんしん

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  ちんしんこうおこり南陽なんようじん也。さきぬしりょう荊州まき,闢為從事じゅうじもろぐんずいさきしゅいれしょくしょく既定きていためしょくぐん北部ほくぶじょういんえきぐんめいため汶山太守たいしゅうたてざい犍為。けんきょうさんねんにゅうはい尚書しょうしょ,遷尚しょれいたてまついのち使くれななねんまごけんしょう尊號そんごう,以震ためまもるじょうけん踐阼,しょかずらあきらあずかあに瑾書曰:「こうおこりただしじゅんこれせいろう而益あつし,及其さんじゅつ東西とうざい歡樂かんらく和合わごう有可ゆかたかしゃ。」ふるえにゅうくれかいうつりせきこう曰:

ひがしあずか西にしえき使往來おうらいかんぶたしょうもちさるめいはつこのみ日新にっしん其事。ひがしみことおうせい祚,つげ燎受,剖判土宇つちう天下てんかひびきおうかくゆうしょ。於此也,以同こころ討賊,のりなん不滅ふめつ哉!西にしあさ君臣くんしん,引領欣賴。ふるえ不才ふさいとくたかし使たてまつ聘敘このみ,踐界踴躍,にゅうのり如歸。けんじてき魯,はん其山いみな春秋しゅんじゅうそしこれもち必啟つげ使つかい行人こうじんむつみ焉。即日そくじつちょう旍誥眾,各自かくじやくちかい順流じゅんりゅう漂疾,國典こくてんことせい,懼或ゆうたがえこう必斟誨,しめせ其所よろし

ふるえいたたけあきらまごけんあずかふるえますだん歃盟,交分天下でんか:以徐、かそけあおぞくなみりょう、冀、兗屬しょく,其司しゅう,以函たにせきためかいふるえかえふう城陽じょうようちんこう

  きゅうねんみやこまもる李平すももだいすわ誣罔はいしょかずらあきらあずかちょう蔣琬、さむらいちゅうただしまことしょ曰:「こうおこりぜん臨至くれためわれせつ正方せいほうはら中有ちゅうううろこかぶと鄉黨きょうとう以為不可ふかこんわれ以為うろこかぶとしゃただし不當ふとうはんみみふくゆうちょうこと不意ふい使つかいこうおこり知之ともゆき。」じゅうさんねんふるえそつずみ嗣。

ただしまこと

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  ただしまこときゅうあきらてのひらぐんちゅうろうはたかず之子ゆきこ也。さきぬし立太子りったいしまこと以選ため捨人,徙洗こうしゅかさね,遷黃もんさむらいろう丞相じょうしょうあきらはたきたせいじゅうかんちゅうおもんばかのちしゅとみ春秋しゅんじゅう,硃紫なんべつ,以允秉心こうあきらよくつとむ以宮しょうことうえ疏曰:「さむらいちゅうかく攸之、禕、さむらいろうただしまこととう先帝せんてい簡拔かんばつ以遺陛下へいかいたり斟酌しんしゃくぶんまわしえきしんつき忠言ちゅうげんのり其任也。以為宮中きゅうちゅうことこと大小だいしょう,悉以諮,必能裨補闕漏,ゆうしょこうえきわかきょう德之のりゆきげんのり戮允とう以彰其慢。」あきらひろ請禕ためさんぐんまこと遷為さむらいちゅうりょうとら賁中ろうはたみつる宿衛しゅくえいおやへい。攸之せいもとじゅん,備員而已。すわえこく先賢せんけんでん曰:攸之,南陽なんようじん,以器ぎょう知名ちめい於時。獻納けんのうにんまことみなせん矣。まことしょごとためぼうせい,甚盡ただしすくいこうぬしつねよく採擇さいたく以充きさきみやまこと以為いにしえしゃ天子てんし后妃こうひすうじゅうこん嬪嬙やめよろし增益ぞうえきおわり聽。こうあるじえきげんはばかこれ尚書しょうしょれい蔣琬りょうえきしゅう刺史ししうえ疏以ゆずる禕及まことまたひょうまこと內侍歷年れきねん翼贊よくさん王室おうしつむべたまもの爵土以褒くんろう。」まこと固辭こじ受。こうぬしやや長大ちょうだいあい宦人あきらあきら便びん闢佞としよくよういれまことつねうえそくせいしょくただしぬししたそくすうせめ於皓。あきらかしこまこと敢為かんいおわりまことこれせいあきら黃門こうもんすすむ

  まこと嘗與尚書しょうしょれい禕、ちゅうてんぐんえびすずみとうどもゆうえんいむやめ辦,而郎ちゅうじょうただし恢詣まことおさむけい。恢年少ねんしょうかんほろまこととま逡巡しゅんじゅんもとめまこともと,曰:「本所ほんじょ以出しゃほしあずかどうこうゆうだん也,いまくんやめこごめぽうてん闊積,捨此だん,就彼うたげ所謂いわゆる也。」乃命かい驂,禕等やめくだり。其守せい下士かし,凡此るい也。じょう》曰:ただし恢字きゅういとぐちじょうじんにゅうしょく,以宣しんじちゅうろうふく禕使くれまごけん大醉たいすいとい禕曰:「楊儀、のべまき豎小じん也。雖嘗ゆうほえこれえき時務じむしかすんでやめにんいきおいとくけいわか一朝いっちょうしょかずらあきら,必為らん矣。諸君しょくん憒憒,曾不知ふちぼうおもんばか於此,あに所謂いわゆる貽厥まごはかりごと乎?」禕愕然がくぜん四顧しこ不能ふのう即答そくとう。恢目禕曰:「そくげん延之のぶゆききょうおこり於私忿耳,而無黥、かんなんこれこころ也。今方いまがた掃除そうじきょうぞくこんいちなつこう以才なりぎょうよしざいひろわか捨此にんぼう後患こうかんこれなお備有風波ふうは而逆はいぶねかじ長計ちょうけい也。」けんだいわらいらくしょかずらあきら聞之,以為ごとかえ未滿みまんさんにち,闢為丞相じょうしょうぞく,遷巴ぐん太守たいしゅしんまつあん:《かんすすむ春秋しゅんじゅうまた此語,うんただし恢所きょうまた小異しょうい,此二書俱出習氏而不同若此。ほんつてうん「恢年少ねんしょうかんほろ」,わかやめため丞相じょうしょうぞく出作しゅつさくともえぐんのりかんほろ矣。以此疑習氏げんため不審ふしんてき也。のべろくねん輔國將軍しょうぐんななねん,以侍ちゅうもり尚書しょうしょれいため大將軍だいしょうぐん禕副きゅうねんそつ華陽かようこくこころざし》曰:どきしょくじん以諸かずらあきら、蔣琬、禕及まことためよんそういちごうよん英也ひでや

ちん

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  ちん祗代まことためさむらいちゅうあずかあきら互相ひょううらあきらはじめあずか政事せいじ。祗死あきらしたがえ黃門こうもんれいためちゅうつねさむらいたてまつくるまじょうみさおろうがらおわりいたりくつがえこくしょくじんおいおもえまこと。及鄧あいいたるしょく,聞皓奸險,おさむ閉,はたころせこれ,而皓あつまいないもぐさ左右さゆうとくめん

  祗字たてまつそうなんじみなみじんもとやすしけい外孫そとまご也。しょうちょう於靖弱冠じゃっかん知名ちめいやや遷至せん曹郎,矜厲ゆう威容いよう技藝ぎげいはさみすうじゅつ禕甚ことちょうつぎまこと內侍。りょ乂卒,祗又以侍ちゅうもり尚書しょうしょれい鎮軍將軍しょうぐん大將軍だいしょうぐんきょう維雖はんざい祗上,つねりつ眾在がいまれおや朝政ちょうせい。祗上うけたまわしゅゆびしもせっ閹豎,深見ふかみ信愛しんあいけんじゅう於維。けい耀元ねんそつしゅ痛惜つうせき發言はつげん流涕りゅうてい,乃下みことのり曰:「祗統しょく一紀かずのりやわらよしみおもんみそくみき肅有あきらかず義利よしとしぶつ,庶績まことあかりいのちとおるとおちんよう悼焉。おっとそんゆうれいとえのりほろび加美かみおくりなおくりな曰忠こう。」たまものつばら爵關內侯,拔次ひろしため黃門こうもんさむらいろう祗之ゆうちょうしゅつい怨允ふかいいためけいゆかり祗媚茲いちにんあきら構間浸潤しんじゅんみみ

  まことまごひろしすすむともえ西にし太守たいしゅしんまつ以為ひねぐんたいりくへりくだこうつてみな以子けいちちべつせい,及王肅、もりじょちょううけたまわ、顧劭ながれ,莫不みなしかおもんみただしまことどくしょう其意,とう以允めいゆうじゅう事蹟じせき逾父よこしまなつほうげんひねひょうなみゆう騂角よし,而亦如泰しゃ,《しょそうめい此卷くもしょなつこう曹傳》,ふくややひんちんたけしあずかおもて俱至へん將軍しょうぐん,以位あい也。

りょ

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  りょ乂字南陽なんようじん也。ちちつねおくしょうぐんりゅう焉入しょく,值王へだたふさがとげかえ。乂少こう讀書どくしょきんはつさきおもていえきしゅうおけしおこうじょう,較鹽てつこうじょうおうれん請乂及南もり祺、南鄉なんごうりゅうみきとうなみためてん曹都じょう。乂遷新都しんと綿めんちくれい,乃心かくれ卹,百姓ひゃくしょうしょうため一州諸城之首。遷巴西にし太守たいしゅ丞相じょうしょうしょかずらあきら連年れんねんぐん調しらべはつもろぐんあいすくえ,乂募へいせんにんまいあきら,慰喻けんせい逃竄しゃ。徙為かんちゅう太守たいしゅけんりょうとくのうきょうつぎぐんかてあきらそつるい遷廣かんしょくぐん太守たいしゅしょくぐんいちこれかい戶口とぐち眾多,またあきらそつこれ亡命ぼうめいさらしょうじゅうおかせかんたくみいち。乂到かん為之ためゆきぼうきんひらき喻勸みちびけすうねんなかだつだししゃまん馀口。こういれため尚書しょうしょだいただしまことため尚書しょうしょれい,眾事とめもんとままろうど。乂歷しょく內外,儉約けんやくけんやすししょうげん為政いせい簡而はんごうためきよしのうしかほうこくふかこのみようぶん俗吏ぞくりきょ大官たいかん名聲めいせいそん於郡けんのべじゅうよんねんそつたつけい耀中ため成都せいとれいたつおとうとみやび,謁者。まさきよし厲有文才ぶんさいちょかくろんじゅうへん

  もり祺歷ぐんもりかんぐん大將軍だいしょうぐん司馬しばりゅうみきかんいたりともえ西にし太守たいしゅみなあずか親善しんぜんまたゆう當時とうじたたえ,而儉もともりほう及於乂。

ひょう

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  ひょう曰:ただし蹈羔ひつじもとりゅうともみくつせい尚之なおゆきぶしうまりょうさだじつしょうためれいちんしんちゅうつとむろう而益あつしただしまことただしぬしがた於色,みなしょくしんりょう矣。りょ乂臨ぐんすなわちたれたたえしょあさのりそんまた、薛之りゅう矣。

ほん作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经超过100ねん,并且于1929ねん1がつ1にちぜん出版しゅっぱん

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