げんふみ/まき001

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  もと卷一けんいち
本紀ほんぎだいいち
まき 

ふとし

ふとしほう天啟てんけいうんひじりたけし皇帝こうていいみなてつしんせい渥溫こうむ古部こぶじん

其十世祖孛端叉兒,はは曰阿らんはてよめだつ奔咩まいる犍,なまちょう曰博かんかずらこたえくろ曰博あい覩撒さとじきすんで而夫ほろびおもねらん寡居,よるちょうちゅうゆめ白光はっこうてんまど中入なかいりため金色きんいろ神人しんじんらい趨臥榻。おもねあららぎおどろきさとしとげゆう娠,さんいちそく孛端また也。孛端またじょう奇異きい,沉默寡言かげん家人かじんいいどくおもねらんじん曰:「此兒後世こうせい子孫しそん必有だいたかしゃ。」おもねらんぼつ諸兄しょけい分家ぶんけ貲不及之。孛端また曰:「ひん富貴ふうきいのち也,貲財なんそくどう。」どくじょうあお白馬はくばいたり八里屯阿懶之地居焉。しょくいん所得しょとくてきゆうあおたか搏野じゅう而食,孛端また以緡しつらえこれたかそく馴狎。乃臂たかりょううさぎ禽以ため饍,ある闕即まましゆうてん相之あいのきょすうがつゆうみんすう十家自統急里忽魯之野逐水草來遷,[1]孛端またゆいちがやあずかこれ出入でいりしょう生理せいりややあしいちにち仲兄ちゅうけいゆるがせおもえこれ,曰:「孛端またどく而無齎,こんしゃとくこお餒乎?」そく來訪らいほう,邀與俱歸。孛端また中路なかじいい其兄曰:「みつるきゅうさとゆるがせ魯之みん無所屬むしょぞくわか臨之以兵,ふく也。」あに以為しかいたりそくせん壯士そうしれい孛端またそちまえぎょうはてつきこれ

孛端また歿,八林昔黑剌禿合必畜嗣,生子おいご曰咩ひねあつあつし。咩撚あつあつしつま曰莫挐倫,なまなな而寡。莫挐りんせいつよしきゅうとき押剌而部ゆうぐん小兒しょうに田間たま草根そうこん以為しょく,莫挐りん乘車じょうしゃてきこれいか曰:「此田乃我はせこれしょぐん輒敢壞之よこしま。」くるまみち,輾傷しょゆういたり死者ししゃ。押剌而忿怨,つき莫挐りん羣以去。莫挐りん諸子しょし聞之,及被かぶと,往追。莫挐りんわたし曰:「われかぶと以往いおうこわ不能ふのうしょうてき。」令子れいこかぶと赴之,やめ及矣。すんで而果為所しどころはいろくみな。押剌而乘しょうころせ莫挐りんめつ其家。ただ一長孫海都尚幼,乳母うば匿諸積木つみきちゅうとくめんさき,莫挐りんだいななおさめしん,於八剌忽民家為贅壻,及難。聞其わざわいらいびょうおうな十數與海都尚在,其計所出しょしゅつこううまあに三次掣套竿逸歸,おさめいたりとくじょう。乃偽ためまきしゃまい押剌而。みち父子ふし先後せんごぎょうひじたか而獵。おさめ識其たか,曰:「此吾けいしょ擎者也。」趨前紿其しょうしゃ曰:「ゆうあか引羣而東,なんじ乎?」曰:「いな。」しょうしゃ乃問曰:「なんじしょ經過けいかゆうけりかり乎?」曰:「ゆう。」曰:「なんじためわれぜんしるべ乎?」曰:「。」とげ同行どうこうてんいちかわくま相去あいさりややとお刺殺しさつ。縶馬あずかたか,趨迎,紿之如初。こうとい曰:「ぜんけりかりしゃ吾子あご也,なにためひさおこり耶?」おさめ以鼻衄對。しゃかたいかおさめしんじょうすき刺殺しさつふくまえぎょういたりいち山下やました有馬ありますうひゃく牧者ぼくしゃただ童子どうじすうにんぽうげき髀石ためおどけおさめ熟視じゅくしまたあにぶつ也。紿問童子どうじまた如之。於是登山とざん四顧しこ,悄無らいじんつきころせ童子どうじうまひじたか而還,うみ并病おうなかえり八剌忽之地止焉。うみややながおさめ真率しんそつ八剌忽怯谷諸民,共立きょうりつためくんうみすんでりつ,以兵おさむ押剌而,しんぞく形勢けいせい寖大。れつ營帳於八剌合黑河くろかわじょうまたがかわためはり,以便往來おうらいよし四傍部族歸之者漸眾。

うみ歿,はいせいゆるがせ嗣。はいせいゆるがせ歿,あつし必乃嗣。あつし必乃歿,かずらりつかん嗣。かずらりつかん歿,はちまいる嗣。はちまいる歿,也速該嗣,并吞しょ部落ぶらくいきおいいよいよ盛大せいだい。也速該崩,いたりもとさんねんじゅうがつついおくりなれつ祖神そしんもと皇帝こうてい

はつれつせいとうとう其部ちょうてつしんせん懿太きさきがつりんてきせいみかどにぎ凝血ぎょうけつ如赤せきれつこといん以所てつ真名まなこころざし武功ぶこう也。

ぞくじんたいあかがらすきゅうあずかれつしょうぜんいんとうたい用事ようじ[2]とげせいいやすきぜっあずかどおり。及烈くずれみかどかたよう冲,眾多かえりたいあかがらす近侍きんじゆうだつはししんしゃまたはた叛,つね泣留だつはし曰:「深池ふかいけやめいぬい矣,けんせきやめ碎矣,とめふくなんため!」竟帥眾馳せん懿太きさきいか其弱おのれ也,麾旗將兵しょうへい,躬自つい叛者,其太はん而還。

どきみかど麾下きか搠只別居べっきょ薩里かわ[3]札木ふだきごうじん禿かぶろだい察兒きょだまりつ哥泉,[4]どきほっしょうおかせしのげかすめ薩里かわまき以去。搠只麾左右さゆう匿羣ちゅう射殺しゃさつ札木ふだきごう以為怨,とげあずかたいあかがらすしょあいはかりごと,以眾さんまんらいせんみかどちゅうぐんこたえたけなわばんしゅおもえ,聞變,だいしゅうしょへいふんじゅうゆうさんつばさ以俟。やめ而札あいいたりみかどあずか大戰たいせんやぶはしこれ

とうしょなかただたいあかがらすこうみん眾,ごうため最強さいきょう。其族あきられつあずかみかどしょ居相いあいこんみかど出獵しゅつりょう,偶與あきられつりょうしょうぞくみかどいい曰:「今夕こんゆう同宿どうしゅく乎?」あきられつ曰:「同宿どうしゅくかた所願しょがんただし從者じゅうしゃよんひゃくいん糗糧不具ふぐやめはんかえ矣,いまはた奈何いかん?」みかどかた邀與宿やど,凡其とめしゃ,悉飲食いんしょく明日あしたさいごうかこえみかど使左右さゆうししむかいあきられつあきられつとく以歸。其眾かんわたししょう曰:「たいあかがらすあずかわが兄弟きょうだいつね攘我車馬しゃばだつ飲食いんしょく無人むじんくん有人ゆうじんくんしゃ,其惟てつ太子たいし乎?」あきられつこれちょうだまりつためたいあかがらすしょしいたげ不能ふのうこらえとげあずかとうかいこたえ魯領しょらいはたころせたいあかがらす以自こうみかど曰:「わがほうつくづく寐,こうなんじさとわが自今じこんしゃわだち人跡じんせきぬりとうつきだつ以與なんじ矣。」やめにん不能ふのう踐其ごとふく叛去。とうかいこたえ魯至中路なかじためたいあかがらすじんしょころせあきられつとげほろび

どきみかど功德くどくもりたいあかがらすしょ其主ほうみかど寬仁かんじんたまものじん以裘こころえつわかあかろうあつしわかあきらべつわかしつりょく哥也諸人もろびとわか朵郎きちわかさつ剌兒、わかせわし兀諸みな慕義

みかどかいしょぞく薛徹、だいうし(及薛てっべつきちとう[5]かく以旄車載しゃさい湩酪,うたげ于斡なん河上かわかみみかどあずかしょぞく及薛てっべつ吉之よしゆきははゆるがせ真之まさゆきまえきょうおけ湩一かわ囊;薛徹べつ吉次よしじははべつ該之まえどくおけいちかわ囊。ゆるがせしんいか曰:「こんみことわが,而貴べつ該乎?」うたぐみかどしゅ饍者しつおか所為しょいとげむち。於是頗有すきときすめらぎおとうとべつさといにしえだいてのひらみかど乞列おもえごと乞列おもえはなげんきんがい繫馬しょ也。播里てのひら薛徹べつきち乞列おもえごと。播里從者じゅうしゃいんぬすめうま靷,べつさといにしえだいこれ。播里いか斫別さといにしえだいきず其背。左右さゆうよく鬭,べつさといにしえだいとめ,曰:「なんじとうほしそく復讎ふくしゅう乎?わがきずこう甚,しゅうとまち。」聽,かくちち橦疾鬭,だつゆるがせしんさとしん哈敦以歸。薛徹べつきち使つかい請和,いんれい哈敦かえかいとうとう部長ぶちょう蔑兀わらいさときんやく金主きんしゅ丞相じょうしょうかんがおじょうそちへい逐之きたはしみかど聞之,はつきんへい斡難かわ迎擊げいげき,仍諭薛徹べつきちそちじんらいすけこうろくにちいたりみかどあずかたたかえころせ蔑兀わらいさとつきとりこ輜重しちょう

みかど麾下きか有為ゆうい乃蠻じんしょかすめしゃみかどよく討之,ふくろく十人徵兵於薛徹別吉。薛徹べつきち舊怨きゅうえんころせじゅうにんじゅうにんころも而歸みかどいか曰:「薛徹べつきち曩笞わがしつおか,斫傷べつさといにしえだいいままた敢乘敵勢てきせい以陵わが耶!」いんそちへい踰沙磧攻ころせとりこ其部眾,ただ薛徹、だいうし僅以つま孥免。えつすうがつみかどふく薛徹、だいうしついいたりじょうれつ徒之かちの隘,めつ

かつれつさつおもねこん孛來さつおもねこん孛者,部長ぶちょうひろし罕之おとうと也。ひろし罕名だつさと,受金ふう爵為おうばんげんおとしげるしょうおうためひろし罕。

はつひろし罕之ちちゆるがせさつえびすおもえさかずき祿ろくすんでそつひろし罕嗣殺戮さつりくこんおとうと。其叔父おじきく〔罕〕そちへいあずかひろし罕戰,[6]逼於哈剌ゆたか隘敗;僅以ひゃく脫走だっそう,奔于れつれつおや將兵しょうへい逐菊〔罕〕はし西にしなつふくだつ眾歸ひろし罕。ひろし罕德とげしょうあずかめいしょうため按答。按答,はなげん交物友也ともやれつくずれひろし罕之おとうと也力哈剌,怨汪罕多ころせふく叛歸乃蠻。乃蠻部長ぶちょうまたなんあかためはつへいひろし罕,つきだつ其部眾與ひろし罕走河西かさいかい鶻、かいかいさんこく,奔契すんで而復叛歸,中道ちゅうどうかてぜっ,捋羊ちちためいんとげ橐駝ためしょくこまとぼしこれ甚。みかど以其與れつ交好,近侍きんじ往招みかどおやむかえなでろう安置あんちぐんちゅうきゅうとげかい于土兀剌河上かわかみみことひろし罕為ちち

いくみかど蔑里乞部,あずか其部ちょうだつだっせん于莫察山,とげかすめ其資ざい禾,以遺ひろし罕。ひろし罕因此部眾稍しゅう

きょほろびなにひろし罕自以其ぜいあし有為ゆういつげ於帝,どくりつへいふくおさむ蔑里乞部。じん敗走はいそうだつだつ奔八兒忽真之隘。ひろし罕大かすめ而還,於帝いちしょのこみかど以屑

かい乃蠻部長ぶちょう(魯欲)〔よく魯〕罕不ふく[7]みかどふくあずかひろし罕征いたりくろからしはちせきぐう其前ほこさき也的だつ孛魯しゃりょうひゃくらいたたかえ軍勢ぐんぜいやや逼,はしよりどころ高山こうざん,其馬くらてん墜,とりこ。曾未幾何きかみかどふくあずか乃蠻驍將ぎょうしょうきょく薛吾撒八剌にんぐう[8]かい日暮ひぐれかくかえ營壘,やく明日あしたせんよるひろし罕多もえ營中,しめせじんうたぐせんうつり眾於べつしょ。及旦,みかどはじめ知之ともゆきいん頗疑其有こころざし退すさ薩里かわすんで而汪罕亦かえいたり兀剌かわひろし罕子また剌合及札おもねこん孛來かいきょく薛吾とう察知さっちじょう不備ふびかさねとりこ其部眾于どうまた剌合奔告ひろし罕,ひろし罕命また剌合あずかぼく魯忽䚟共おい,且遣使らい曰:「乃蠻みちかすめわが人民じんみん太子たいしゆう四良しろうはたのうかりわが以雪耻乎?」みかどひたすらしゃくぜん憾,とげはくしかうけらはなはじむひろし渾、あかろうゆたかよんにんそち以往いおういたりまた剌合やめ追及ついきゅうきょく薛吾,あずかこれせん大敗たいはいぼく魯忽䚟成とりこ流矢ながれやちゅうまた剌合胯,いく為所しどころ須臾しゅゆよんしょういたりげき乃蠻はしつきだつところかすめかえりひろし罕。やめ而與すめらぎおとうと哈撒さい乃蠻,こばめ鬭於ゆるがせたけなわ盞側さん大敗たいはいつきころせ其諸しょうぞく眾,せきかばね以為きょうかん。乃蠻いきおいとげじゃく

どきたいあかがらすなおつよみかどかいひろし罕於薩里かわあずかたいあかがらす部長ぶちょう沆忽とう大戰たいせん斡難河上かわかみ敗走はいそうさん

哈答きんあに兀部、朵魯はんとうとう弘吉ひろきち剌部聞乃蠻、たいあかがらすはいみなかしこたけしやすかい於阿かみなりいずみ白馬はくばためちかいよくかさねみかど及汪罕。弘吉ひろきち剌部ちょう迭夷こわことなりせんひとつげへんみかどあずかひろし罕自とらさわぎゃくせん於盃またれつがわまた大敗たいはい

ひろし罕遂ぶんへい自由じゆうおびえみどり憐河而行。[9]さつおもねこん孛謀於按あつしおもねじゅつつばめだっとう曰:「わがあに性行せいこうつねすんでほふぜっわがこんおとうと我輩わがはいまたあにどくぜん乎?」按敦おもねじゅつ泄其ごとひろし罕令つばめだっとういたりちょうかい其縛,且謂つばめだっ曰:「吾輩わがはいよし西にしなつ而來,道路どうろひだるこま,其相ちかいかたり,遽忘乎?」いんつば其面。すわ上之うえのじんみなおこり而唾ひろし罕又屢責さつおもねこん孛,いたり不能ふのうこらえさつおもねこん孛與つばめだっとう俱奔乃蠻。

みかどちゅうぐん於徹とおる兒山こやまおこりへいとうとう部長ぶちょうおもね剌兀とうらいぎゃくせん大敗たいはい

時弘ときひろよし剌部ほしらい,哈撒不知ふち其意,往掠。於是弘吉ひろきち剌歸札木ふだぎごうあずか朵魯はんまた乞剌おもえ、哈答きん魯剌おもえとうとうただ兀諸かい于犍かわ共立きょうりつ札木ふだぎあいためきょく罕,めい于禿りつべつ河岸かわぎしためちかい曰:「凡我同盟どうめいゆう此謀しゃ,如岸摧,如林。」ちかい畢,きょう舉足蹋岸,揮刀斫林,士卒しそつらいおかせとうかい哈時ざい眾中,あずかみかど麾下きかしょうわれれん姻,しょうわれ偶往其謀,そくかえいたりみかどしょ,悉以其謀つげみかどそくおこりへいぎゃくせん於海剌兒、じょうあま魯罕やぶこれ札木ふだきごう脫走だっそう弘吉ひろきち剌部

としみずのえいぬみかどはつへい於兀魯回しつれんかわ按赤とうとう、察罕とうとうさきちかい曰:「苟破てき逐北,見棄みすて遺物いぶつまき,俟軍事ぐんじ畢散。」すんで而果しょうぞくじん按彈、察兒、こたえりょくだいさんにんやくみかどいかつきだつ其所ふんぐんちゅう

はつだつだつ敗走はいそうはちゆるがせ隘,すんで而復ため患,みかどそちへい討走いたりまたかい乃蠻(魯欲)〔よく魯〕罕約朵魯はんとうとう、哈答きんただ兀諸らいおかせみかど騎乘きじょうだかよんもち乃蠻へいややいたりみかどあずかひろし罕移ぐんいれふさがまた剌合北邊ほくへんらいよりどころ高山こうざんゆい營,乃蠻ぐん衝之不動ふどうとげかえまた剌合ひろまたにゅうふさがはたたたかえみかど輜重しちょう於他しょあずかひろし罕倚阿らんふさがためかべ大戰たいせん于闕奕壇,乃蠻使かみみこさい風雪ふうせつよくいん其勢進攻しんこうすんで而反ふうぎゃくげき其陣。乃蠻ぐん不能ふのうせんよく引還。ゆき滿まんみぞ澗,みかど勒兵じょう,乃蠻大敗たいはい札木ふだぎごうおこりへい援乃蠻,其敗,そくかえみちけいもろたておのれしゃだいたてかすめ而去。

みかどほしため長子ちょうしうけらあかもとめ昏於ひろし罕女しょうはくひめひろし罕之()〔まご禿かぶろ撒合またほしなおみかどおんな阿真あまはくひめ[10]俱不諧。頗有たがえげんはつみかどあずかひろし罕合ぐんおさむ乃蠻,やく明日あしたせん札木ふだきごうげん於汪罕曰:「わが於君しろ翎雀,他人たにんおおとりかりみみしろ翎雀さむあつつねざい北方ほっぽうおおとりかりぐうかんそくみなみ就暖みみ。」いいみかどしん不可ふか也。ひろし罕聞うたぐとげうつり眾於べつしょ。及議昏不なり札木ふだきごうふくじょうすきいいまた剌合曰:「太子たいし雖言ひろし罕之,嘗通信つうしん於乃蠻,はた不利ふり於君父子ふしきみわかのうへいわがとうしたがえはたすけくん也。」また剌合信之のぶゆきかいこたえりょくだい察兒、按彈とう叛歸また剌合,またせつ曰:「とうねがいたすくくん討宣懿太きさき諸子しょし也。」また剌合大喜だいぎ使つかいげん於汪罕。ひろし罕曰:「札木ふだきごう巧言こうげん寡信じん也,不足ふそく聽。」また合力ごうりょくごと使者ししゃ往返しゃすうよんひろし罕曰:「われそんじつ太子たいしよりゆきひげひげやめしろ遺骸いがい冀得やすなんじ喋喋ちょうちょうやめ耶?なんじぜん為之ためゆき,毋貽われ可也かなり。」札木ふだきごうとげたて焚帝まき而去。

としみずのとうし)〔〕,[11]ひろし父子ふしはかりごとよくがいみかど,乃遣使者ししゃらい曰:「むこうしゃしょ婣事,こんとうしょうしたがえ請來しょうらいいんぬの渾察。」ぬの渾察はなげんもとおやしゅ也。みかど以為しかりつじゅう赴之。いたり中道ちゅうどうしんゆうしょうたぐいのちいち往謝,みかどとげかえひろし罕謀すんでなりそく舉兵らいおかせ。圉人乞(ちからしつ)〔しつりょく〕聞其ごと[12]みつあずかおとうとたいつげみかどみかどそくはせぐんおもねらんふさが,悉移輜重しちょう於他しょおりさとむぎためぜんほこさき,俟汪罕至そくせいへいせんさきあずかしゅつとむきんぐうあずかただしあいぐう又次またじあずか火力かりょくしつれつ門部かとべぐうみなはい最後さいごあずかひろし罕親へいぐうまたはいまた剌合ぜいきゅう,突來衝陣,しゃちゅう頰,そく斂兵而退。おびえさとまたじんとげ棄汪罕來くだ

ひろし罕既はい而歸,みかどまた將兵しょうへいかえいたりただし哥澤うたざわちゅうぐんおもねさとかい致責於汪罕曰:「きみため叔父おじきく〔罕〕しょ逐,こまさこらいわがちちそくおさむきく〔罕〕,はい於河西にし,其土人民じんみんつきおさむあずかきみ。此大有功ゆうこう於君一也かずやきみため乃蠻しょおさむ西にし奔日ぼつしょくんおとうとさつおもねこん孛在きんさかいわが亟遣じん召還しょうかんいたりまたため蔑里乞部じんしょ逼,わが請我けい薛徹べつ及及わがおとうとだいうし往殺。此大有功ゆうこう於君也。くんこまさこらいわが哈丁さとれきかすめしょひつじうま資財しざいつき以奉くん半月はんつきあいだれいくんひだるしゃ飽,やせしゃこえ。此大有功ゆうこう於君三也みつやきみつげわが往掠蔑里乞部,だい而還,嘗以毫髮ぶんわがわが以為。及君ため乃蠻しょかたぶけくつがえわが四將奪還爾民人,重立しげたてなんじ國家こっか。此大有功ゆうこう於君よん也。わがせい朵魯はんとうとう、哈答きんただ兀、弘吉ひろきち,如海ひがし鷙禽於鵝かりそく必致於君。此大有功ゆうこう於君也。しゃみな有明ありあけけんきみむくいわがのりやめこん乃易おんため讐,而遽へい於我哉。」ひろし罕聞また剌合曰:「わがむこうしゃげんなん如?われむべ識之。」また剌合曰:「こと勢至せいし今日きょう,必不可ふかやめただゆう力戰りきせん鬭。勝則かつのり并彼,彼我ひが勝則かつのり并我みみ多言たげんなんため。」

どきみかどしょぞく按彈、察兒みなざいひろし左右さゆうみかどいんおもねさとかい誚責ひろし罕,就令つげ曰:「むかししゃわれこく無主むしゅ,以薛てっふとしうし二人實我伯祖八剌哈之裔,ほっりつ二人ふたりすんでやめ固辭こじ,乃以なんじ察兒ため伯父おじ聶坤之子ゆきこまたよくりつなんじまた固辭こじしかこと不可ふかちゅう輟,ふく以汝按彈ためわがゆるがせ剌之またよくりつなんじまた固辭こじ。於是なんじとう推戴すいたいわれ為之ためゆきぬしはつあにわがこれ本心ほんしん哉,しょうさこいたる於如此也。三河みかわ祖宗そそうはじめ基之もとゆき,毋為他人たにん所有しょゆうなんじ善事ぜんじひろし罕,ひろし罕性無常むじょうぐうわがなお如此,きょうなんじやから乎。わがいま矣,わがいま矣。」按彈とう一言いちげん

みかどすんで使つかい於汪罕,とげすすむへいとりこ弘吉ひろきち)〔剌〕べつおぼれきん以行。[13]いたりはんしゅかわ河水こうすいかた渾,みかどいん以誓眾。ゆうまた乞烈じん孛徒しゃため魯剌しょはいいんぐうみかどあずかこれ同盟どうめい。哈撒別居べっきょ哈剌渾山,妻子さいしためひろし罕所とりこはさみ幼子おさなごだつとらはしかてぜっさがせとりたまごためしょく來會らいかい于河じょうときひろし形勢けいせいもりつよしみかど微弱びじゃく勝敗しょうはい可知かち,眾頗危懼きく。凡與いん河水こうすいしゃいいいん渾水,げん其曾どう艱難かんなん也。ひろし罕兵いたりみかどあずかせん于哈たけなわすな陀之ひろし大敗たいはい。其臣按彈、察兒、札木ふだきごうとうはかりごと弒汪罕,どるかつ,往奔乃蠻。こたえりょくだい憐等稽顙

みかどうつりぐん斡難かわげんはかりごとおさむひろし罕,ふく二使往汪罕,にせため哈撒げん曰:「わがあに太子たいしこんすんで不知ふち所在しょざいわがこれつま孥又ざいおうしょたて我欲がよく往,はたやすしょ耶?おう儻棄わがぜん愆,ねんわがきゅうこのみそくたばしゅらい矣。」ひろし罕信いんひとずい使らい,以皮囊盛あずかこれめい。及至,そく以二使ためこうみちびけれいぐん銜枚よる趨折おりうんみやこさん不意ふいかさねひろし罕,はいつきかつれつ眾。ひろし罕與また剌合挺身ていしん遁去。ひろし罕嘆曰:「わがためわれしょあやま今日きょうわざわい悔將なん及!」ひろし出走しゅっそうみち逢乃蠻部將ぶしょうとげため其所ころせまた剌哈走西にしなつにちひょうげかすめ以自すんで而為西にしなつしょおさむはしいたりかめ茲國,かめ茲國ぬし以兵討殺

みかどすんでめつひろし罕,大獵たいりょう於帖むぎ該川,宣布せんぷ號令ごうれい凱而とき乃蠻太陽たいよう罕心みかどのう使つかいはかりごと於白たちたちおもおもね剌忽おもえ曰:「われ東方とうほうゆうしょうみかどしゃてんにちみんあにゆう二王におうよこしまくんのうえきわれ右翼うよくわれはただつ其弧也。」おもね剌忽おもえそく以是はかりごとほうみかどきょなに,舉部らい

とし甲子きのえねみかど大會たいかい於帖むぎ該川,乃蠻。羣臣以方はる瘦,むべ俟秋だかためごとすめらぎおとうと斡赤きん曰:「ことしょ當為とういだんざいはやなに以馬瘦為。」べつさといにしえだいまた曰:「乃蠻ほしだつわが小我しょうが也,我輩わがはいよしとうどうかれ恃其國大こくだい而言ほこ,苟乘其不備ふび而攻いさおとうなり也。」みかどえつ,曰:「以此眾戰,なにかち。」とげすすむへい乃蠻。駐兵ちゅうへい於建忒該さん先遣せんけんとら必來、あきらべつ人為じんいぜんほこさき太陽たいよう罕至按臺,營於沆海さんあずか蔑里乞部ちょうだつだっかつれつ部長ぶちょうおもね憐太せき、猥剌部長ぶちょうゆるがせはなべつきち,暨禿魯班、とうとう、哈答きんただ兀諸ごうへいぜい頗盛。ときわがたいちゅう羸馬ゆう驚入おどろきい乃蠻營中しゃ太陽たいよう罕見あずか眾謀曰:「こうむこれ瘦弱如此,こんとうさそえ深入ふかいりしかこうせん而擒。」其將火力かりょくそくはちあかたい曰:「先王せんおうせんいさむすすむかい馬尾ばびじん使つかいてき人見ひとみこんため遷延せんえんけいとく心中しんちゅうのゆうしょ懼乎?苟懼なにれい后妃こうひらいすべぐん也。」太陽たいよう罕怒,そくおどうまさくせんみかど以哈撒兒ぬしちゅうぐんとき札木ふだき合從がっしょう太陽たいよう罕來,みかどぐんようせい肅,いい左右さゆう曰:「乃蠻はつ舉兵,こうむぐんわか𦍩䍽羔いい蹄皮またとめこんわれかん其氣ぜい,殆非往時おうじ矣。」とげ引所へい遁去。みかどあずか乃蠻ぐん大戰たいせんいたり晡,禽殺太陽たいよう罕。しょぐんいちみなつぶせよるはしぜっけわし,墜崖死者ししゃ不可ふかかちけい明日あした眾悉降。於是朵魯はんとうとう、哈答きんただよんまた

やめ而復せい蔑里乞部。其長だつだつ太陽たいよう罕之けいぼく(魯欲)〔よく魯〕罕;其屬たい兀孫けんじおんなむかえにわかふく叛去。みかどいたりたいかん寨,孛羅歡、沈白二人領右軍往平之。

としおつうしみかどせい西にしなつ,拔力吉里よしざと寨,けい落思じょうだいかすめ人民じんみん及其橐駝而還。

元年がんねんへいとらみかど大會たいかい諸王しょおう羣臣,けんきゅうゆう白旗はっきそく皇帝こうてい於斡なんかわみなもと諸王しょおう羣臣どもじょう尊號そんごう曰成きちおもえ皇帝こうていとしじつきむ泰和やすかずろくねん也。

みかどすんで即位そくいとげはつへいふくせい乃蠻。ときぼく(魯欲)〔よく魯〕罕獵於兀魯塔さんとりこ以歸。太陽たいよう罕子こごめりつ罕與だつだつ奔也的石まといし河上かわかみ

みかどはじめかねはつきんころせみかどそうちかし咸補うみ罕,みかどよく復讐ふくしゅうかいきんくだ俘等げん金主きんしゅ璟肆ぎょう暴虐ぼうぎゃくみかど乃定致討,しか敢輕どう也。

ねんちょうしげるあきさいせい西にしなつかつ斡羅孩城。

これさい按彈、兀剌二人使乞力吉思。すんで而野牒亦おさめさとおもねさとがえ也兒みな使つかいらいけんじめいたか

さんねんつちのえ辰春たつはるみかどいたり西にしなつ

なつ避暑ひしょりゅうにわ

ふゆさいせいだつだつ及屈りつ罕。とき斡亦剌部とうぐうわがぜんほこさき不戰ふせん而降,いんようためこうしるべいたり也兒てき石河いしかわ,討蔑さと乞部,めつだつだっちゅう流矢ながれやこごめりつ奔契

よんねんおのれはるかしこわれこくらいみかどいれ河西かさいなつぬし安全あんぜん世子せいしりつらいせんはい其副元帥げんすいだかれいこうかつ兀剌うみじょう,俘其ふとでん西にしかべすすむいたりかつえびすもんふくはいなつ其將嵬名れいこううす中興なかおき,引河すい灌之。つつみけつみずがいつぶせとげ撤圍かえふとでんなまりこたえにゅう中興ちゅうこう,招諭なつぬしなつしゅおさめおんな請和。

ねん庚午こうごはるきむはかりごとらいちくがらすすな堡。みかどいのちさえぎべつかさねころせ其眾,とげりゃく而東。

はつみかどみつぎとしぬさ于金,金主きんしゅ使まもるおうまことずみみつぎ於(せい)〔きよししゅう[14]みかどまことずみ不為ふためれいまことずみよく請兵おさむこれかい金主きんしゅ璟殂,まことずみ嗣位,ゆうみことのりいたりこく傳言でんごんとう拜受はいじゅみかどといきん使曰:「しんきみためだれ?」きむ使つかい曰:「まもるおう也。」みかど遽南めんつば曰:「わがいい中原なかはら皇帝こうてい天上てんじょうじん做,此等いさお懦亦為之ためゆき耶,なに以拜ため!」そく乘馬じょうばきたかね使かえげんまことすみえきいかよく俟帝さい入貢にゅうこう,就進じょうがいみかど知之ともゆきとげあずかかねぜっえきげんへいため備。

ろくねんからしはるみかどきょおびえみどりれんかわ西域せいいき哈剌魯部おもおもねむかしらん罕來くだかしこわれ國主こくしゅまたみやこまもるらい覲。

がつみかどしょうみなみはい金將きんしょうてい薛於きつねみね大水おおみず濼、ゆたかとうけんきむふくちくがらすすな堡。

あきなながついのちさえぎべつおさむがらすすな堡及がらすがつ營,拔之。

はちがつみかど及金せん于宣平之ひらのかい河川かせんはい

きゅうがつ,拔德おききょいさお關守せきもりはた遁去。さえぎべつとげいれせき,抵中

ふゆじゅうがつかさねきんぐんまきかん其馬而還。耶律おもねうみくだにゅうみかど于行在所ざいしょ皇子おうじうけらあか、察合だい、窩闊だいぶん徇雲內、ひがししょうたけさくひとししゅう下之したの

ふゆちゅう蹕金北境きたざかいりゅうはくりん、夾谷ちょう哥等

ななねんみずのえさるはる正月しょうがつ,耶律とめ哥聚眾于りゅうやすしため元帥げんすい使つかいらいみかどやぶあきら、桓、なでとうしゅう金將きんしょう紇石れつきゅうきんとうりつへいさんじゅうまん來援らいえんみかどあずかせん于獾觜,大敗たいはい

あきかこえ西京にしぎょうきむ元帥げんすいひだりかんおくたむろじょうりつ來援らいえんみかどへいさそえいたりみつ谷口たにぐちぎゃくげきつき殪。ふくおさむ西京にしぎょうみかどちゅう流矢ながれやとげ撤圍。

きゅうがつ,察罕かつたてまつせいしゅう

ふゆじゅうがつかぶとさるさえぎべつおさむ東京とうきょう不拔ふばつそく引去ひきさよるはせかえかさね克之かつゆき

はちねんみずのととりはる,耶律とめ自立じりつためりょうおう改元かいげんもとみつる

あきなながつかつせんとくとげおさむとくおき皇子おうじ拖雷、駙馬あかこま先登せんとう,拔之。みかどしんいたりふところらい。及金ぎょうしょうかんがおつな元帥げんすいだか琪戰,はいついいたり北口きたぐちかねへいきょいさおみことのり忒、うす剎守とげ趨涿鹿しかかね西京にしぎょう留守るすゆるがせすなとら遁去。みかどむらさき荊關,はいきんかいみね,拔涿、えきしゅうちぎりなまり魯不とうけんじ北口きたぐちさえぎべつとげきょいさおあずか忒、うす剎會。

はちがつきむゆるがせすなとら弒其ぬしまことずみむかいゆたかおう珣立

あきふんへいさんどういのち皇子おうじうけらあか、察合だい、窩闊だいためみぎぐん,循太ぎょう而南,たもてとげやす肅、安定あんてい、邢、洺、磁、そうまもるてるなつけはじめかすめさわ、潞、りょう、沁、たいらようふとしはらよし、隰,拔汾、いしあらし、忻、だいたけひとししゅう而還;すめらぎおとうと哈撒及斡ひねがおつたなあか䚟、うす剎為ひだりぐん,遵海而東,あざみしゅうひらめ、灤、りょう西にししょぐん而還;みかどあずか皇子おうじ拖雷ためちゅうぐんゆう、霸、莫、やす河間こうま、滄、けいけんじふか、祁、蠡、冀、おん、濮、ひらけすべりひろしすみたいやすすみみなみはま、棣、えき、淄、濰、とう、萊、沂等ぐん復命ふくめいはなはじむおさむみつしゅうほふこれてん倪、しょう勃迭りつ眾來くだはなはじむうけたまわせいなみ以為まんみかどいたりなかさんみちへいかえごうたむろ大口おおぐち

これさい河北かほくぐんけんつき拔,ただちゅうつうじゅんじょうきよし、沃、大名だいみょう東平とうへいとく、邳、うみしゅうじゅういちしろした

きゅうねんかぶといぬはるさんがつちゅう蹕中北郊ほっこうしょしょう請乘しょうやぶつばめみかどしたがえ。乃遣使さとし金主きんしゅ曰:「なんじ山東さんとう河北かほくぐんけん悉為わがゆうなんじしょもりおもんみつばめきょうみみてんすんでじゃくなんじわがふくせりなんじ於險,てん其謂わがなにわがいまかえぐんなんじ不能ふのう犒師以弭わがしょ將之まさゆきいか耶?」金主きんしゅとげ使つかいもとめたてまつまもる紹王おんな岐國公主こうしゅ及金帛、わらわ男女だんじょひゃくうまさんせん以獻,仍遣其丞しょうかんがおぶくきょうおくみかどきょいさお

なつがつ金主きんしゅ遷汴,以完がおぶくきょう參政さんせい抹撚盡忠じんちゅう輔其太子たいしもりただし留守るすちゅう

ろくがつきむ乣軍斫答とうころせ其主そちりつ眾來くだみことのりさん摸合、いし抹明やすあずか斫答とうかこえちゅうみかど避暑ひしょぎょ濼。

あきなながつ金太きんた子守こもりちゅうはし汴。

ふゆじゅうがつはなはじむせい遼東りゃおとん高州たかす琮、きむ(扑)〔ほおひとしくだ[15]にしきしゅうちょうくじらころせ節度せつど使自立じりつため臨海りんかいおう使つかい

じゅうねんおつはる正月しょうがつきむみぎふく元帥げんすいがま察七斤以通州降,以ななきんため元帥げんすい

がつはなはじむおさむ北京ぺきんきむ元帥げんすいとらこたえとらがらすりん以城くだ,以寅こたえとらため留守るすわれ也而けん兵馬へいば元帥げんすい鎮之。きょう中府なかぶ元帥げんすいせきてんおう,以天おうためきょう中府なかぶいん

さんがつきむちゅうすすむえいとうりつ援中せん于霸しゅうはい

なつよんがつかつきよしじゅんしゅうみことのりちょうくじらそう北京ぺきん十提控兵從南征。くじら謀叛ぼうほんふく誅。くじらおとうと致遂よりどころにしきしゅう,僭號かんきょう皇帝こうてい改元かいげんきょうりゅう

五月ごがつ庚申こうしんきむちゅう留守るすかんがおぶくきょうおおせやく,抹撚盡忠じんちゅう棄城はしあかりやすにゅう守之もりゆきこれがつ避暑ひしょ桓州りょう涇。ゆるがせゆるがせとうせきなか帑藏。

あきなながつべに羅山らざん寨主もりしゅうくだ,以秀ためにしきしゅう節度せつど使おつしょくさと往諭金主きんしゅ以河きた山東さんとうしたしょしろらいけんじ[16]及去みかどごうため河南かなんおう當為とういやめへいしたがえみことのりてん倪南せい,授右ふく元帥げんすい賜金しきんとら

はちがつてん倪取たいらしゅうきむ經略けいりゃく使乞住くだはなはじむしんどうとうおさむこうやすしくだこれ

あきしろ邑凡はちひゃくろくじゅうゆう

ふゆじゅうがつきむ宣撫せんぶがままんやつよりどころ遼東りゃおとん僭稱せんしょう天王てんのう國號こくごうだいしん改元かいげんてんたい

十一月じゅういちがつ,耶律とめ來朝らいちょう,以其はす闍入さむらいてんさち討興しゅうとりこ節度せつど使ちょうまもるだま

じゅういちねんへいはるかえいおり朐河行宮あんぐうちょう致陷きょう中府なかぶはなはじむ討平

あき,撒里兀䚟三摸合拔都魯率師由西夏趨關中,とげえつ潼關,きん西安しーあんぐん節度せつど使あま龐古がま魯虎,拔汝しゅうとうぐん,抵汴きょう而還。

ふゆじゅうがつかばまんやつくだ,以其じょう哥入さむらいすんで而復叛,僭稱せんしょうひがしなつ

じゅうねんちょううしなつとう祁和なおよりどころ武平ぶへいてんさち討平とげとりこ金將きんしょう元帥げんすい以獻。察罕破きんかんぐん夾谷於霸しゅうきむもとむ,察罕乃還。

あきはちがつ,以木はなはじむためたいふう國王こくおうはたこうむ、乣、かんしょぐんみなみせい,拔遂じょう、蠡州。

ふゆかつ大名おおなとげひがしていえき、淄、とう、萊、濰、みつとうしゅう

これさい禿かぶろ滿まん部民ぶみん叛,いのちはち魯完、朵魯はく討平

じゅうさんねんつちのえとらあきはちがつへいむらさき荊口ばらぐち金行かねゆき元帥げんすいごとちょうやわらいのちかえ其舊しょくはなはじむ西京にしぎょういれ河東かとうかつふとしはらたいらよう及忻、だいさわ、潞、汾、霍等しゅう金將きんしょうたけせんおさむ滿まんしろちょうやわらげきはい

これねん西にしなつかこえ其王じょうなつしゅ遵頊出走しゅっそう西にしすずしちぎりろく哥據高麗こうらい江東こうとうじょういのち哈真、さつ剌率平之ひらのだかうららおう㬚遂くだ,請歲みつげかたぶつ

じゅうよんねんおのれはるちょうやわらはいたけせんくだ祁陽、きょく中山なかやまひとしじょう

なつろくがつ西域せいいきころせ使者ししゃみかどりつおやせいなまりこたえ剌城,とりこ其酋哈只ただらん禿かぶろ

あきはなはじむかつ岢、あらしよし、隰等しゅう進攻しんこう絳州,拔其じょうほふこれ

じゅうねんかのえ辰春たつはるさんがつみかどかつかばはなじょう

なつがつかつひろおもえ干城かんじょうちゅう蹕也(いし)〔てき石河いしかわ[17]

あきおさむ斡脫じょう克之かつゆきはなはじむ徇地いたりじょうたけせん。以史てん倪為河北西かわきたにし兵馬へいば元帥げんすいあるきごとせんふくこれ東平とうへいいむみのるせきあきらとく大名だいみょう、磁、洺、おんひろしすべり、濬等しゅうさんじゅうまんらいはなはじむうけたまわせい授實きんむらさきひかり祿ろく大夫たいふくだり尚書しょうしょしょうごと

ふゆきむ邢州節度せつど使たけたかくだはなはじむおさむ東平とうへいかつとめいむみのる守之もりゆき,撤圍趨洺しゅうふんへい徇河きたしょぐん

これさい,授董しゅん龍虎りゅうこまもるじょう將軍しょうぐんみぎふく元帥げんすい

じゅうろくねんからしはるみかどおさむぼく哈兒、薛迷おもえとうじょう皇子おうじうけらあかおさむ養吉ようきちはちしんとうじょうなみ下之したの

なつよんがつちゅう蹕鐵もんせき金主きんしゅがらすまごなかはしたてまつ國書こくしょ請和,しょうみかどためけいまこときむひがし平行へいこうしょうことせわし棄城遁,いむみのるにゅう守之もりゆきそう苟夢玉來たまらい請和。

なつろくがつそうれん)〔さざなみみず忠義ちゅうぎ統轄とうかつせき珪率眾來くだ[18]以珪ためずみ、兖、たんさんしゅうそうかん

あきみかどおさむはん勒紇とうじょう皇子おうじうけらあか、察合だい、窩闊だいぶんおさむだまりゅうすぐるあかとうじょう下之したの

ふゆじゅうがつ皇子おうじ拖雷かつ魯察うま魯、むかし剌思とうじょうはなはじむ河西かさいかつかや、綏德、保安ほあん、鄜、ぼうたんひとししゅう進攻しんこうのべやすした

十一月じゅういちがつそうきょうひがしやすなで使張琳チャンリン以京ひがししょぐん[19]以琳ため滄、けいはま、棣等しゅうあるき元帥げんすい

これさいみことのりさとしとくじゅんしゅう

じゅうななねんみずのえうまはる皇子おうじ拖雷かつおもえ、匿察兀兒とうじょうかえ經木きょうぎ剌夷こくだいかすめこれわたり搠搠たけなわかわ克也かつやさととうじょうとげあずかみかどかいごうへいおさむとうさとかん寨,拔之。はなはじむぐんかつ、涇、邠、はらひとししゅうおさむおおとりしょうした

なつ避暑ひしょとうさとかん寨。西域せいいきぬしさつたけなわひのと出奔しゅっぽんあずかめつさとあせあいゆるがせゆるがせあずかせん不利ふりみかどしょうげきとりこめつさとあせさつたけなわひのと遁去,はち剌追

あききむふくがらすまごなかはしらい請和,みかど于回鶻國。みかどいい曰:「わがこうよくなんじぬし授我かわついたちれいなんじぬしため河南かなんおう彼此ひしやめへいなんじぬししたがえ今木いまきはなはじむやめつきこれ,乃始らい請耶?」なかはし乞哀,みかど曰:「ねんなんじ遠來えんらいかわついたちすんでためわがゆう關西かんさいすうじょうしたしゃ,其割づけれいなんじぬしため河南かなんおう,勿復たがえ也。」なかはし乃歸。金平きんぴらこうえびすてん(祚)〔さく〕以青りゅう堡降。[20]

ふゆじゅうがつきむ河中かわなからい,以石てんおうため兵馬へいば元帥げんすい守之もりゆき

じゅうはちねんみずのとはるさんがつふとし國王こくおうはなはじむ薨。

なつ避暑ひしょはち魯彎かわ皇子おうじうけらあか、察合だい、窩闊だい及八剌之へい來會らいかいとげてい西域せいいきしょしろおけたち魯花あかかん治之はるゆき

ふゆじゅうがつ金主きんしゅ珣殂,[21]子守こもりいとぐちりつ

これさいそうふく苟夢玉來たまらい

じゅうきゅうねんかぶとさるなつそう大名だいみょうそうかん彭義あきらおかせ河北かほくてん倪與せん於恩しゅうはい

これさいみかどいたりひがし印度いんどこくかくはしはん

じゅうねんおつとりはる正月しょうがつかえ行宮あんぐう

がつたけせん以真てい叛,ころせてん倪。ただししゅん判官ほうがんあきらまた以中やま叛。

さんがつてんさわげきせんはしこれふくじょう

なつろくがつ,彭義あきら以兵おうせんてんさわ禦於さんすめらぎとりここれ

じゅういちねんへいいぬはる正月しょうがつ[22]みかど以西いせいなつおさむかたきじんあか)〔また〕臘喝しょうこん及不しつ[23]はたこれ

がつ黑水くろみずとうじょう

なつ避暑ひしょ於渾たれやまあま、肅等しゅう

あき西にしすずか搠羅、かわひとしけんとげ踰沙陀,いたり黃河こうがきゅうわたりおうさととうけん

きゅうがつあきら張琳チャンリンぐんおうたいまごしんへいかこえぜん於益

ふゆじゅういちがつ庚申こうしんみかどおさむれいしゅうなつ嵬名れいおおやけ來援らいえんへいとらみかど渡河とかげきなつはいちょううし,五星聚見於西南。ちゅう蹕鹽しゅうかわ

十二月じゅうにがつあきらくだ。授張やわら行軍こうぐんせんしゅうとうしょ元帥げんすい

これさい皇子おうじ窩闊だい及察罕之かこえきん南京なんきんからけいせめとしぬさ于金。

じゅうねんちょうはるみかどとめへいおさむなつ王城おうじょうりつ渡河とかおさむせきいししゅう

がつやぶ臨洮

さんがつやぶ洮、かわ西にしやすししゅう[24]斡陳がおおさむしんみやこ,拔之。

なつよんがつみかどりゅういさお,拔德じゅんとうしゅうとくじゅん節度せつど使あいさる進士しんしかたりゅう焉。

五月ごがつからけいとう使つかいきん

閏月じゅんげつ避暑ひしょろくばんやま

ろくがつかねかんがおごうしゅうおくたむろおもねとららい請和。みかどいい群臣ぐんしん曰:「ちんふゆほし聚時,やめ嘗許ころせかすめ,遽忘みことのり耶。こん布告ふこく中外ちゅうがいれいかれぎょうじんまたちん。」これがつなつしゅ晛降。みかど清水しみずけん西にし

あきなながつみずのえうまおのれうしくずし于薩里川さとかわ哈老徒之かちの行宮あんぐう。臨崩いい左右さゆう曰:「きむ精兵せいびょうざい潼關,みなみよりどころ連山れんざん北限ほくげん大河たいがなん以遽破。わかかりみち于宋,そうきむ讎,必能もとわがのり下兵しもへいとう、鄧,ちょく擣大はりかねきゅう,必徵兵ちょうへい潼關。しか以數まんこれ眾,千里せんり赴援,人馬じんば疲弊ひへい,雖至どるのうせんやぶこれ必矣。」げん訖而くずれことぶきろくじゅうろくそうおこり輦谷。いたりもとさんねんふゆじゅうがつついおくりなひじりたけし皇帝こうてい至大しだいねんふゆじゅういちがつかのえたつおくりなほう天啟てんけいうんひじりたけし皇帝こうていびょうごうふとし在位ざいいじゅうねん

みかどふか沉有大略たいりゃく用兵ようへい如神,のうめつこくよんじゅうとげひら西にしなつ。其奇くんえらあと甚眾,惜乎當時とうじ史官しかん不備ふびあるしつ於紀うん

戊子ぼしねんこれさい皇子おうじ拖雷かんこく

校勘こうかん[编辑]

  1. すべきゅうさとゆるがせ魯 こううん:「祕史ひしさくすべかくはじむかつ豁羅罕。豁羅罕者,小河おがわ也。」按本まきぶんゆうじょうあま魯罕」,「豁羅罕」、「魯罕」みなこうむ古語こご小河おがわ音譯おんやく此處ここらゆるがせ魯」しもとうゆう「罕」
  2. とうだい あきらしょうひじりたけししんせいろくかくほん多作たさくとうゆるがせだい」,あずか元朝がんちょう祕史ひしひしげほどこせとくふみしゅうわけおんしょう此處ここらおうさくゆるがせ」。
  3. 薩里かわ せつ郛本ひじりたけししんせいろく及本まきぶんじゅうねんなながつおのれうしじょうさく「薩里がわ」。按「薩里がわ元朝がんちょう祕史ひしさく「薩阿さときゃくがく」,「きゃくがくはたやく曠野あらの」、「甸」,わけさくかわしたどう
  4. 禿かぶろだい察兒 按元あさ祕史ひしさく札木ふだきごういん迭兀紿察」,「迭兀」こうむ古語こごためおとうと」,「禿かぶろそく「迭兀」うつし此處ここらこんためせんめいかかりやくあやま
  5. 薛徹だいうし(及薛てっべつきちとう 按薛てっべつよしそく薛徹。ひじりたけししんせいろくさく「薛徹、だいうしとう」,「及薛てっべつきちよりどころ刪。
  6. きく〔罕〕 よりどころひじりたけししんせいろく元朝がんちょう祕史ひしひしげほどこせとくしゅうやくおんしたどう。「きく罕」,ため全體ぜんたいきみ」。
  7. (魯欲)〔よく魯〕罕 よりどころひじりたけししんせいろく元朝がんちょう祕史ひしひしげほどこせとくしゅうやくおん改正かいせいしたどう
  8. きょく薛吾撤八剌にん 按元あさ祕史ひしひしげほどこせとくしゅうきょく薛吾撤八剌係いちにん此處ここら二人ふたり」乃誤やくぶん
  9. おびえみどり憐河 よりどころひじりたけししんせいろく。按本書卷しょかん一一七牙忽都傳有「おびえみどり憐河」。
  10. ひろし罕之()〔まご禿かぶろ撤合 よりどころひじりたけししんせいろくあらため。按元あさ祕史ひしひしげほどこせとくしゅうひとしいい禿かぶろ撤合ためまた剌合之子ゆきこひろし罕之まご
  11. としみずのとうし)〔〕 よりどころひじりたけししんせいろくあらため殿しんがりほん考證こうしょうやめこう
  12. 圉人乞(ちからしつ)〔しつりょく〕 こううん:「とうさく乞失りょく。哈剌哈孫傳作でんさくけいむかしれいこえ相近すけちか也。祕史ひしさく乞失りょくくろ。」こんよりどころあかりしょうせつ郛本ひじりたけししんせいろく改正かいせい
  13. 弘吉ひろきち)〔剌〕 よりどころひじりたけししんせいろくあらため。按此めい本書ほんしょ屢見,此處ここら」「剌」かたちきん致誤。
  14. せい)〔きよししゅう よりどころきむふみまきよん地理ちりこころざしほん書卷しょかん五八地理志及今內蒙古四子王旗城卜子村淨州故址元碑改。按本しょきよしまたさくせいあるやすし」,いまみつる改作かいさくきよし」,以別於遼ぎょうはぶけ廿にじゅう肅行しょうしずしゅう及湖廣行ひろゆきしょうやすししゅう
  15. きむ(扑)〔ほお〕 よりどころほん書卷しょかん一一九木華黎傳及蘇天爵めい臣事しんじりゃくまき一所引東平王世家改。
  16. おつしょくさと うたぐ即金そっきんまき一四宣宗紀屢見之蒙古語「おつさとただ」,ため使臣ししん」。元朝がんちょう祕史ひしさくがく勒赤」あるがく勒臣」,はなえびす譯語やくごさくがくさとしん」。此處ここらしょくさと」二字疑倒舛。
  17. 也(いし)〔てき石河いしかわ よりどころじょうぶん元年がんねんさんねん所見しょけん「也兒てき石河いしかわあらため
  18. れん)〔さざなみみず忠義ちゅうぎ統轄とうかつ よりどころほん書卷しょかん一一九木華黎傳及そうふみまきよんやすしそうきのよしみていじゅうさんねんじゅうがつみずのえさるじょうあらためるいへんやめこう
  19. 張琳チャンリン 按宋まきよんななろくぜんつてきむふみまきいち二田ふただみがくでんこうむつなでん及長はる真人しんじん西遊せいゆうみなさくちょうりん」,るいへんあらため「琳」ためはやし」,
  20. えびすてん(祚)〔さく〕 よりどころきんまき一一八胡天作傳改。るいへんやめこう
  21. ふゆじゅうがつ金主きんしゅ珣殂 按金まき一六宣宗紀元光二年十二月庚寅條有「うえくずし于寧いさお殿どの」,此處ここらふゆじゅうがつとうさくじゅうがつ」。こうやめこう
  22. じゅういちねんへいいぬ〕 よりどころひじりたけししんせいろくこうやめこう
  23. あか)〔また〕臘喝しょうこん 按亦臘喝しょうこんそく前文ぜんぶん所見しょけんまた剌合,「あか」、「またかたちきん而誤,こんあらため
  24. 河西かさいやすししゅう 按金まきろく地理ちりこころざし,洮、かわ西にしやすしかくためいちしゅう此處ここらしゅううたぐためさんしゅうあやま

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