げんふみ/まき005

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 まきよん もとまき
本紀ほんぎだい
まきろく 

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さんがつつちのえうまゆうむね:「中書ちゅうしょしょうぶんうつり及兵みんかんさるしょうしゃもとにゅう遞。」おのれくくそく蠻、かしこわれ、也里あつしこたえしつ蠻等ひのとためへい庚申こうしんくく北京ぺきんたかぼうとうひのとためへい,蠲其れいちょう炳將からしとりそう拔突ごと河南かなんゆうねがい從軍じゅうぐんしゃいのちそくれい將之まさゆきていかなえ、贍思ひのとこたえさとたい、三島行宣慰司事于平陽、ふとしはら。簽見にんみんかん及〔たかぼうひとたくみとうぐん[6]徙弘しゅうにしきこう繡女于京。敕河ひがしりょうみちもとくくきむ州兵しゅうへいづけていかなえ將之まさゆきみことのり以平いたいらあきら政事せいじ禡禡、れんまれけん參政さんせいしょうていだんごとかんむぎあやかあるき中書ちゅうしょしょう于陝西にし四川しせんわたししょうみなみかいしゃよんじゅう餘人よにんいのちしゃく。敕燕きょういたるずみみなみおけうみあおえきはちしょみずのえさるいのち戶部とべ尚書しょうしょりゅう肅專しょく鈔法,たいらあきら政事せいじさいてんあかけんりょう。以撒きちおもえしば楨行せん慰司ごと北京ぺきんめんこんとしいとぎんとめ田租でんそみずのととりいのちくるるおもねうけらかく將兵しょうへい赴濟みなみぐう璮軍,邀擊ようげき大破たいは斬首ざんしゅよんせん,璮退ずみみなみおつそうすすむ夏貴なつきおさむはなれつちのえとら,萬戶韓世安率鎮撫馬興、せんちょうわたるみん大破たいは璮兵於高えん其權でん珪,たまものずみみんきょうきんみことのり以李璮兵はいさとししょみちきん民間みんかん私藏しぞうぐんみずのえうまはじめ以畏われ字書じしょきゅうえき璽書。めん西京にしぎょう今年ことしいとぎんぜいかぶとさるめん高麗こうらいさけおつとりそう夏貴なつきおさむ蘄縣。さとししょみちかんみんかん,毋令軍馬ぐんば使臣ししんいりしゅうじょうむら、鎮市,擾及良民りょうみん

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五月ごがつつちのえうま,蘄縣おちいけんまんよしせんちょう好古よしふる庚申こうしんちくたまきじょうかこえずみみなみ,璮不ふくとくみことのり撒吉おもえやすなでえき都路みやこじ百姓ひゃくしょう各務かがみみのりこう,仍禁こうむかんぐんひょうげかすめみずのとけん妄奏じょ、邳總かん杲哥かんふく邳州じょうみことのりよし杲哥以下いかなみげん其罪。ときそうすすむ夏貴なつきおさむ邳州,杲哥すんで,杲哥ひねのう保全ほぜんしゅうじょうけん以聞,ゆういのち甲子きのえねそうへいおさむとぎけん。蠲濱棣今とし田租でんそはん東平とうへい蠲十さんつばめいたる開平かいへいりつうしえききゅう鈔市しゃうしつちのえたつ,以(みぎ)〔ひだり丞相じょうしょうゆるがせ魯不はなけん中書ちゅうしょしょうだんごとかん[8]たまものとらじょうじゅんてん、邢州いなご以平いたいらあきら政事せいじさいてんあかけんりょうこう及諸工作こうさく。以孟れつしょけんじちょういしゆみぞう于中へい,(すすむ)〔縉〕やまいたりもちくもりつうみあおえき[9]ちょううし杲哥とうふく誅。いのちてんさわ選考せんこうじょ、邳總かんかぶとさるじょうさとかいきば擅殺づくりにせ鈔者さんにんみことのりつめ其違せいつみ西京にしぎょうせんとく、(咸)〔たけしやすし[10]りゅうもんしも,(てんじゅん)〔じゅんてん〕、[11]たいらよう河南かなんじょう雹,東平とうへいはま棣旱。みことのり覈實逃戶、輸納いとぎんぜい租戶,くちぞうしゃしょう隱匿いんとくしゃざい,逃民苟免ぜいじゅうこれざいだいつかさみのり姚樞赴省議事ぎじみかどつとむとめいのちくるるあずかひだり三部尚書劉肅依前商議中書省事。

ろくがつおつとりついたちそうへいおさむ滄州、みやびしゅう、瀘山,みんすんでくだふく叛,いのち誅其くびらんしゃななにんれいやすぎょうわりりょうかわ以東いとう隸開もとみち戊子ぼしはま棣安なで使かん安世やすよ)〔世安よやすはいそうへい于濱しゅうよろ河口かこう[12]おのれうしとう察兒そちへいげきそうぐん,仍安さとしひん海軍かいぐんみん乙未おとみきんおんなちょくおかせ軼高うらら國民こくみん,其使臣ししん往還おうかんかんため護送ごそういのちばばしゃば屯田とんでんぐん移駐いちゅうかもみどりこう西にし,以防海道かいどうへいさる高麗こうらい國王こくおうおう禃遣使來貢らいこうみずのえとら陝西せんせいゆきしょうげん西京にしぎょうせんとくふとしはらたくみぐんこまとぼし,乞以民代たみよこれゆうむね:「軍籍ぐんせきやめじょうよろし動搖どうようむべれい貧富ひんぷしょうはて甚貧しゃれい休息きゅうそくいちさい。」みずのとふとしはらそうかんあつしやつ哥、いたる魯花あか戴曲薛等りょう璮偽げきでんこうつくりぐんことさとし誅之。敕(たけやすし)〔やすしたけぐんとし輸所さんてつ[13]河西かさいみん及諸おうゆるがせ撒吉所部ところぶぐんとぼしくえきゅう鈔賑みずのえさるげんぐんかん及兵擾民きんみずのとうしたてしょう峪、あしやすしたけぐんあかどろいずみてつよんしょ東平とうへいいむただしずみこうためみんかしぜに輸賦よんじゅうさんまんななせんよんひゃくじょう借用しゃくよう課程かてい鈔本しょうほんしおぎんまんせんりょうみことのり勿徵。

あきなながつつちのえうまふくこうむぐん站戶農民のうみんつつみぎんちょう其半,俘戶とめれい輸絲。みんとう輸賦もちい,毋徵わたしさい。敕私金銀きんぎんおうささえぜにぶつとめ以鈔ためじゅんへいとらたまもの夔州ぎょうしょう大淵おおふちきんじゅうぎんじゅうきゅう[14]しょう麾下きか將士しょうしべつきゅううみあおことゆう急速きゅうそくはせ以上いじょう聞。たてやり杆嶺えき,以便てん輸。みずのととりあましゅうひだるきゅうぎん以賑かぶといぬ璮窮蹙,にゅう大明だいめいとう水中すいちゅう即死そくしこれ,併蒙いにしえぐん囊家ふく誅,からだかい以徇。つちのえとら,以夔あるきしょうりゅうせいゆき中書ちゅうしょしょう於成、潼川りょうみち,仍賜ぎんまんりょうふんきゅうぐん失業しつぎょうしゃ

はちがつおのれうしかくまもるけい請開だま泉水せんすい以通こげうんこうすみかわみぞおうまことちゅう請開邢、洺等しょ漳、滏(澧)〔灃〕かわいたるいずみ以溉民田たみだ[15]なみしたがえこれかぶとうまひろし歡等奏請そうせい以宣とくしゅうとくおきとうしょぎん冶付其匠さいぎん及石みどり輸官,したがえこれ丙午ひのえうまたてしょみち醫學いがく教授きょうじゅつちのえさる,敕王みさごしゅう廷臣ていしんしょう榷史ごとみさごとう乞以さきあさ事蹟じせきろくづけだて河間こうまひら灤、こうやすし西京にしぎょうせんとく北京ぺきん霜害そうがい稼。

きゅうがつつちのえうま,亳州萬戶張弘略破宋兵于蘄縣,ふく宿やど、蘄二じょう。以侍まもるおやぐん指揮しき使ただしぶん炳兼山東さんとう經略けいりゃく使收集しゅうしゅうえききゅうぐんたかしたけまもるぐん,戍南みことのりえきあるきしょうだいとく撒吉おもえあずかただしぶん會議かいぎへいみんせきまい十戶惟取其二充武衞軍;其海しゅう東海とうかいさざなみすい移入いにゅうえきしゃまた隸本まもるおのれやめ霸州かいあおえきやす南國なんごくちんひかり昞遣使みつげかたぶつみずのえいぬあらため邢州ためじゅんとくだてやすなで,洺、磁、さんしゅう隸焉。聽太げんみんしょく小鹽おしおさい輸銀ゆぎんななせんひゃくりょうおのれ,以馬がつごう乃餉軍功ぐんこう,授禮尚書しょうしょ賜金しきんみずのえさる,授安南國なんごくおうちんひかり昞及たち魯花あか訥剌ひのととら。敕濟みなみ官吏かんり,凡軍民ぐんみん公私こうし逋負,けんかく毋徵。みずのととり元帥げんすい闊闊たいそつ于軍,以其けいおもねうけらだい,授虎はたみなみあたりこうむかんぐん

閏月じゅんげつかぶとさるついたちすな、肅しゅうとぼしくえきゅうまい、鈔賑ちょうたていにしえ北口きたぐちえきおのれうしすみみなみみんひだるめん其賦ぜいめんしょみちぐん徭。かのえとら,敕京じゅんしゅういたり開平かいへいおけろくえきからしいむ忠範ただのり奏請そうせい東平とうへいびょうがくふとし常樂じょうらくこうしたがえこれ。敕武まもるぐん及黑ぐんかい于京かのえちゅうつばさ千戶九住破宋兵于虎腦山。かのえいぬはつあわさんじゅうまんいしにぎわいずみみなみひだるみん[16]

ふゆじゅうがつへいたつかねしゅうしょたむろぐんせんにん及大(あきら)〔〕、[17]河南かなんしん簽防じょうぐんためみん庚申こうしんふんえき軍民ぐんみんためただしぶん炳領ぐん,撒吉おもえみんきん諸王しょおう使臣ししんたび敢有恃勢擾民しゃ所在しょざい以聞。みことのり以李璮所かすめみんかえ其主。以郝けいりゅう人傑じんけつ使そうかえ,廩其中書ちゅうしょしょうそうあずかそう互市ごし,庶止わたししょう,及復逋民おちい于宋しゃ,且覘さざなみうみしゅうまこと。以劉じんすぐる璮,擢益都路みやこじそうかん,仍以きん帛賜みずのえいぬ,授益あるき中書ちゅうしょしょうとく府所ふどころみつるしゅうぐん官金かんきんじゅうななぎんじゅういちおつうしみことのりきん京畿けいき畋獵。へいとらふん東西とうざい兩川りょうかわ元帥げんすいため,以帖てき及劉せいとうため元帥げんすい左右さゆうふく元帥げんすいみことのりせめ高麗こうらい欺慢つみまたみことのりたまもの高麗こうらいおう禃曆。以戰こうしょうみぞしゅうたち魯花あかおうあきらとうきんじゅうりょうぎんいちせんひゃくじゅうりょうしょう閬、よもぎとう元帥げんすいごうしゅう戰功せんこうぎんせんりょうちょうしげるみことのりおおとりしょう屯田とんでんぐん隸兵せき,仍屯田とんでんおおとりしょう刁國しょ簽平ぐんきゅうひゃくいちじゅう人為じんいみん。閬、ほおけ廣安ひろやす順慶じゅんけい、夔府とう元帥げんすい欽察戍青さん,請益へいみことのり陝西せんせいゆきしょう及鞏あきら總帥そうすいひろしおもんみせい以兵えきつちのえたつ,楊大ふち乞於とぎしゅう大安だいあんぐん以鹽えきぐんかてしたがえこれ庚午こうご,敕鞏あきら總帥そうすいひろしおもんみせいしょう戍青きょぐんかえたむろ田利たりしゅうおつふん中書ちゅうしょ左右さゆうちょううし,敕宿しゅう百戶王達等所擒宋王用、なつちんとうはちにん赴京いのち百家奴所將質子軍入侍。つちのえとらいのちさと剌所すべかたやすひら灤質ぐんえき徙還みことのりえきみやこ官吏かんり軍民ぐんみんため璮脅從者じゅうしゃなみ赦其ざい。敕まんいむ忠範ただのり修復しゅうふく宿やどしゅう、蘄縣,まんゆるがせとらふところなにそうかんおさむかん邳州城郭じょうかく

十一月じゅういちがつおつとり太白たいはくはんかぎ鈐。ちょう,敕聖やす寺作てらさくふついただき金輪かなわかい長春ちょうしゅんみやしつらえきん籙周てん醮。からしうしにちゆう氣重きおもかささん珥。敕濟みなみ人民じんみんため璮裨こうかすめ財物ざいぶつしゃまいとく撒吉おもえしょ訟之。じょうみん郝興讎殺うまただし忠子ただこさかえ興銀こうぎんれいきょうだい其軍やく中書ちゅうしょしょう以榮おさめまいない忘讎,無人むじんみちつえぼつ其銀。こと聞,みことのりろん如法にょほう有司ゆうししつつみ,俾中しょ省議しょうぎ。三叉沽竈戶經宋兵焚掠,めん今年ことし租賦。汰少かん工匠こうしょうそん其良しゃせんひゃくかん審理しんり陝西せんせい重刑じゅうけい。敕河西にしみん徙居おうしゅう,其不能ふのう贍者ひゃくろくじゅうきゅううし及粟むぎしゅ,仍賜ぬのにんひきおつみことのり元帥げんすいおもねうけらぶんへいさん千人同阿鮮不花、ふところ兵馬へいばふくりつ宿やどしゅう、蘄縣、邳州。ゆうむねさとしてんさわ:「ちんあるいかよくゆうしょ誅殺ちゅうさつきょうとうむべおそとめいちにちくつがえそうぎょう。」丙午ひのえうまみことのり特徵とくちょう人員じんいんむべれいじょうでんつちのえさる,陞撫しゅうためたかしおき,以昔剌斡だつためそうかんわりせん德之のりゆきふところやす天成てんせい及威やすし高原こうげん隸焉。

十二月じゅうにがつきのえとらふう皇子おうじ真金まがねためつばめおうまもり中書ちゅうしょれいへいたつ,敕諸おうとう察兒とう所部ところぶりょうとめおさむつつみぎん,其絲ぜい輸之有司ゆうし立河たちかわみなみ山東さんとうみつる軍司ぐんじ,以塔剌渾あかため河南かなんみつる軍使ぐんしのぼるふくこれひがし距亳しゅう西にしいたるひとししゅうしょまん隸焉;ちゃはな為山いざん東路あずまじすべ軍使ぐんし武秀たけひでふくこれ西にし宿やどしゅうあずまいたるやすしうみしゅうしょまん隸焉。やめかくみちきゅう遞鋪。ちょうたてじゅうせん慰司,以真じょうたち魯花あかちょう瑨等為之ためゆきおのれ犯罪はんざいおう死者ししゃじゅうさんにんみことのりじゅうしょう讞。からしとりみことのりきゅうふところしゅうしんみんこううしひゃく,俾種水田すいでんたてしょみちてんうん,以燕きょうかん榷官曹澤とう為之ためゆき使みずのととおるふとしびょうみことのり:「かくみちそうかんけんまんしゃとめ民事みんじ軍政ぐんせい勿預。其州けんかんけんせんひゃくしゃ仍其きゅう。」おつうしふくりついきしゅうぐすく以安其民。召真じょう順德じゅんとくひとしせん慰使おうばん)〔いわじょうでん赴京[18]へいとらさるげん屠殺とさつ牛馬ぎゅうばきんおのれみことのり:「しょみちかんみんそうかん子弟していゆうぶんかんしゅうつかさけん及鷹ぼうひとたくみ諸色しょしき事務じむしゃやめこれ。」みずのえさる使つかいおさむ輯諸軍民ぐんみんかんうみあおぱい及驛けんつちのえとらみことのり:「しょみちかんみんかん民事みんじかんぐんかんてのひらへいえびすかくゆう所司しょしあいすべ。」さく佛事ぶつじ於昊てんてらなな晝夜ちゅうやたまものぎんまんせんりょうわり北京ぺきんおきしゅう開平かいへいけん行宮あんぐう于(興隆こうりゅう)〔たかしきょう[19]陞太げん臨泉けんため臨州。くだやすしりょうためけん,仍隸とくたまもの諸王しょおうきんぎんぬさ、帛如としれい

これさい天下てんかいちひゃくよんじゅうななまんろくせんいちひゃくよんじゅうろくだん死罪しざいろくじゅうろくにん

よんねんはる正月しょうがつおつとりきんこうむ軍馬ぐんば擾民。そう賈似どう楊琳齎空めいつげ及蠟しょきむぬささそえだいやま楊大ふちみなみ大淵おおふち部將ぶしょう琳,みことのり誅之。以宋ゆるがせめつさと及沙ただかいかいたかぼうとうへい戍商しゅう藍田あいだしょ隘。軍民ぐんみんかんかくしたがえすべ軍司ぐんじ及宣慰司せん舉。たけてん輔乞ふくりついきしゅうまことへいいぬ,以姚くるるため中書ちゅうしょひだりすすむあらためしょみちかん課稅かぜい所為しょいてんうんかぶとうまきゅう公主こうしゅはいゆるがせしるし,其所屬しょぞくしつらえたち魯花あかきゅう鈔賑えき都路みやこじ貧民ひんみんうししゃだて十路奧魯總管。ちょうとりえき都路みやこじこうしょうだいとく撒吉おもえじょう璮所きずさざなみすい軍民ぐんみん及陷そうこうむおんなじきさがせ赤軍せきぐんすう男女だんじょななせんきゅうひゃくじゅうにんみずのとりょうおもね合馬おうま請興河南かなんとうしょてつ冶及しつらえひがし平等びょうどうじゅんきんわたししおぐんしたがえこれ。召商ていちょうりょう弼赴闕。おつ,敕李ひら以所西川にしかわ出征しゅっせいぐん戍青さん,其各つばさぐんざいあおさんしゃ悉還成都せいとみことのり陝西せんせいゆきしょうとう剌海とうおさむ離散りさんぐんみことのり:「以諸かんぐんおく魯毋隸各まん管領かんりょう。其科ちょうぜい山東さんとう河南かなん隸統軍司ぐんじ東西とうざい兩川りょうかわ隸征ひがし元帥げんすい陝西せんせい隸行戶部とべ。凡奧魯官內有かくまんおとうとおとこ及私じんみなやめこれ。」敕總帥そうすいひろし忠臣ちゅうしん元帥げんすいじょうてき及劉せい等益とうえきへいづけ元帥げんすい欽察,戍青さん。仍以かいしゅうしおきゅうぐんかて丙午ひのえうまみことのりしょつばさ萬戶簡精兵四千充武衞軍。やめ北口きたぐちしんおけえきぞうまんかんせん一員いちいん參議さんぎ一員いちいん。以馬あいあさしょ俘濟みなみろうそう口之くちのみん文面ぶんめんためやつしゃづけもとせきためみんひろし忠臣ちゅうしんふみけん械繫そう諜者ろくにんいたり京師けいしゆうむねしゃくからしさるきん民家みんか兵器へいき及蒙いにしえぐん擾民しゃりょうしゅうたち魯花あかこうむ戰死せんしずみみなみ,以其せわし兀帶襲職しゅうしょく。召雲頂山いただきやまさむらいろうちょうたけし赴闕。

がつみずのえついたちいのち河東かとうせん慰司ひゃくじゅうきゅうひきたまもの諸王しょおう八剌軍士之無馬者。きのえとらみことのりしょみち官員かんいん子弟してい入質にゅうしち。以高うららこたえ詔書しょうしょつめ其使しゃ。以民もりりょうおきなさきあさきゅうこうふく其家。庚申こうしんしょう萬戶怯來所部將士討李璮有功者銀二千七百五十兩。甲子きのえねくるまこう開平かいへい。以王とくもとたかし國信くにのぶ使りゅうこうりょうふくこれ使つかい于宋,致書そうぬしつめ其稽とめ郝經みことのり:「しょみちおけきょくづくりぐんわたしづくりしゃしょ民間みんかん所有しょゆう輸官しゃあずかわたしづくりどう。」

さんがつ戊子ぼし,沂州えびすぶし使、范同おちい于宋,いのちそん恤其あるげん其嘗ためそうへい嚮導きょうどう,乃分其妻孥資さんたまもの有功ゆうこう將士しょうしからし,敕撒きちおもえ招集しょうしゅうえき逃民。いのちただしぶん炳以しょそう諜及俘八じゅういちにん赴隆おき。聽諸りょう及捕ぬすめめぐしおしゃ弓矢ゆみやみずのえたつ扎馬剌丁東京とうきょうおのれしょみちつつみぎん以鈔輸納,其絲りょうにゅうほんしょくさんいとまた聽以鈔輸入ゆにゅう。凡當つつみぎんよんりょうまいじゅう輸絲じゅうよんきんせき老幼ろうようさんりょういといちきんかのえまたくろ迭兒ひのと請修瓊華とうしたがえみずのえとら關東かんとうこうむかんぐんかんけいくん敕者,れいかくじょうでん開平かいへいみずのとはつ建太けんたびょうおつたまもの迭怯のべとうぎんななせんきゅうじゅうりょういのち北京ぺきん元帥げんすいおもね海發かいはつかんぐんせんにん開平かいへいおのれとり高麗こうらい國王こくおうおう禃遣其臣しゅえいあきら入貢にゅうこう上表じょうひょう謝恩しゃおんふくりつ宿やどしゅう

なつよんがつかのえいぬついたち,以漏せきいちまんいちせんはちひゃくせき四千三百於各處起冶,さいてつよんひゃくはちじゅうまんななせんきんみずのとうしせんえきへいせんにんたかしたけまもるぐんきのえとらつぐなえ河西かさいおもねすなにぎわい贍所貧民ひんみんぎんさんせんななひゃくりょうおのれ,以完がおはしたくたまものえきせんでんこくちゅうくにちゅうちち天祐てんゆうためはししょころせいのち以其たくたまものせんとくいたり開平かいへいおけえきやめひらけもとみちせん慰司。[20]へいとら西京にしぎょうたけしゅう隕霜ころせ稼。つちのえとら,召竇默、もと衡乘えき開平かいへい諸王しょおうおもねただきち所部ところぶ貧民ひんみんどお徙者,たまもの以馬牛車うしぐるまぬさ以東いとうひらためぐんぎょう蹂踐,にぎわいきゅうあらため滄清ふかしおひさげりょう所為しょいてんうんおうみさご請延おとずれぶと事蹟じせきづけだて

五月ごがつみずのとみことのり北京ぺきんうんまいせんせき開平かいへい,其車うしこれなみしたがえ官給かんきゅうおつとりはつたて樞密院すうみついん,以皇子おうじつばめおうもり中書ちゅうしょれいけんばん樞密院すうみついんごと戊子ぼし,陞開平かいへいためうえ,其達魯花あか兀良きちためじょう都路みやこじいたる魯花あか[21]そうかんただし銓為じょう都路みやこじそうかんけん開平かいへいいんからしみことのりりつつばめ京平きょうへいじゅんくら,以均ひら物價ぶっかつう鈔法。乙未おとみ,敕商州民しゅうみん就戍本州ほんしゅう,毋禁弓矢ゆみやへいさる立上たちのぼえきちょうとり,以元帥げんすい楊大ふちちょうだいえつふく神山かみやま有功ゆうこうくだみことのりすすむさとしつちのえいぬ,以禮尚書しょうしょがつごう乃兼りょう潁州、ひかり互市ごし,及領やめくくさんせんきょうあふてつ冶,さい輸鐵いちひゃくさんまんななせんきん,就鑄のうじゅう萬事ばんじえきあわよんまんせき輸官。河南かなん隨處ずいしょじょう邑市てついえれい仍舊かのえ河南かなんそうかんりゅうかつきょう矯制くくやめ其職,せき資之すけゆきはん。陞上都路みやこじのぞむくもけんためくもしゅう松山まつやまけんためまつしゅうしょうぜん討渾海戰かいせんこう,撒里、闊闊とうせんいちひゃくななじゅうよんじょう幣帛へいはくいちせんよんひゃくじゅうひき

ろくがつみずのえ河間こうまえきつばめきょうじょう東平とうへいしょみちいなごおつ,以管みんかんけんみつるふところはじめとうぐんおれ戰歿せんぼつ汴梁,いのち其子せわし兀帶ためまん,佩金つちのえうまたまものせん真田さなだろくひゃくおのれたまもの高麗こうらい國王こくおうおう禃羊ひゃくみずのととりたまものはいゆるがせ公主こうしゅ所部ところぶせんじょう立上たちのぼみやこめぐみみん藥局やっきょくけんみかど堯廟於平,仍賜じゅうごろ。以線ため中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょうとう察兒ため中書ちゅうしょひだり丞相じょうしょう

あきなながつみずのとみことのりしょ投下とうか毋擅勾攝つばめきょうしゅうけん官吏かんりおつとりきんきつねみねこう營民,毋入みなみ北口きたぐちたて畜牧,そん踐桑稼。きゅう公主こうしゅはいゆるがせぎんまんりょうごう剌合おさめぎんせんりょう乙未おとみ,以故東平とうへいけんまんりょ王事おうじたまものおくりな貞節ていせつつちのえいぬみことのりたゆ河南かなん沿邊ぐんきん。陞燕きょうぞくけん安次やすつぐためひがしやすしゅうかたやすためかたやすしゅう河南かなんみつる軍司ぐんじげん:「屯田とんでんみんためかぶとちょうたけししゃせいぐん,凡さんせんよんひゃくにんふん戍沿しゅうぐん,乞蠲徭。」したがえこれかのえみことのりたまもの諸王しょおうつめ牛馬ぎゅうばぎんろくまんさんせんいちひゃくりょうみずのえとらみことのりきんえき都路みやこじさがせあか擾民。以成經略けいりゃく隸西川行かわつらいんきんこうむかんぐん諸人もろびとせんじ、販私しおみことのり山東さんとう經略けいりゃく徙膠、萊、莒、みつみん及竈きょ內地。中書ちゅうしょしょうしん以妨しおためごととげれいみつる軍司ぐんじかんふく戍,きょみんかまど毋徙。みことのりおもねうけら戒蒙いにしえぐんとく民田たみだためまきつばめきょう河間こうま開平かいへいりゅうきょう四路屬縣雨雹害稼。

はちがつつちのえさるついたちみことのり霍木うみそうかんしょみちえき,佩金からしおけ元帥げんすい于大みことのり東平とうへい大名だいみょう河南かなんせん慰司せんひゃくじゅうひききゅうおもねうけらとうぐん。陞宣とくしゅうためせんとく,隸上。以淄、萊、とう三州為總管府,淄州。いのちむかし撒昔そうせいおにこくだいりょうみち兵部ひょうぶろうちゅうりゅうかおるぜん使つかいだいいたり吐蕃ぐうがいいのち恤其みずのえ命中めいちゅうしょしょうきゅう北京ぺきん西京にしぎょうてんうんしゃうし鈔。あきらとく及洺、磁しゅうひでりめんあきらとくこんとし田租でんそはん,洺、磁十ろく。冀州こうむ百戶阿昔等犯鹽禁,沒入ぼつにゅうひゃくじゅうひき,以給ぐんうましゃきのえとらいのち成都せいとうんまいまんせき餉潼かわきゅう鈔付りゅうせいうし屯田とんでんぶんりゅうもとれいとうぐん戍潼がわいのち按敦將之まさゆきへいたつみことのり以成都路みやこじ綿わたしゅう隸潼しゅうつちのえうま,以阿ぬげしょうていぎょう樞密院すうみついん於成,凡成順慶じゅんけい、潼川元帥げんすいなみ節制せっせい庚申こうしん,以史てん倪前ためたけ僊所ころせ,以武僊第たまもの其子かじみずのと,敕京兆路給賜劉整第一區、じゅうごろ。以夢はち剌所貧乏びんぼうたまものぎんななせんひゃくりょうきゅう甲子きのえね以西いせいりょうけいへいきょみんこまへいきゅう鈔賑,仍免租めんそさんねん。敕諸しんでんむねゆううたぐしゃ須覆そうへいとら,以諸おうただ必帖部民ぶみんこまとぼしたまものぎんまんりょうきゅうみずのえさるふくおけきゅう遞鋪。はま、棣しゅういなごじょうひでりみことのり西にしりょう流民りゅうみん復業ふくぎょうしゃふく其家さんねんくるまいたりうえ

きゅうがつみずのえうま河南かなん大名だいみょう兩道りょうどうせん慰司しょそう王立おうりつちょういたる、刁俊とうじゅうはちにんぐう赦釋まぬかれきゅう衣服いふくかえおつとりたてこげ運河うんがみぞおのれうしたまもの諸王しょおうおもねただきち所部ところぶしゅしょくうしかのえとらさとし高麗こうらい上京じょうきょうとうしょ毋重斂民。招諭ずみみなみはま流民りゅうみん使つかいちょうしょみちぜいぜに帛。民間みんかんしょ賣布めふ帛有疏薄せまたんしゃきん

ふゆじゅうがつつちのえうまはつおけたかしきょうえき

十一月じゅういちがつかぶとさるみことのり以歲とうりょうげんおもねじゅつおびえれつかくぐんぎょう餉;東平とうへい大名だいみょうとうひでりりょうげんこんとし田租でんそへいいぬとおる于太びょう,以合とう察兒、おうばん)〔いわ〕、ちょうぶんけん行事ぎょうじ高麗こうらい國王こくおうおう禃以めんおけえきせきみんとうごと其臣かん就奉ひょうらいしゃたまものちゅうすべねんれき并蜀にしきいち,仍命禃入朝にゅうちょうたて御衣おんぞなおしょくきょく

十二月じゅうにがつ丁未ていみついたち,以おおとりしょうたむろぐんひろしおもんみせいあおきょとうぐん、刁國ひらぐんれいえき元帥げんすい欽察すべこれ,戍虎嘯寨。かぶといぬ,敕駙うまあいはな蒲萄ぶどうみんれい輸賦。也里あつしこたえしつ蠻、そうみち種田たねたにゅう租,貿易ぼうえき輸稅。へいたまもの諸王しょおうきんぎんぬさ、帛如としれい

これさい天下てんかいちひゃくじゅうななまんきゅうせんいちひゃくいちじゅういとななじゅうまんろくせんよんひゃくいちきん,鈔四まんきゅうせんよんひゃくはちじゅうななじょうだん死罪しざいななにん

いたりもと元年がんねんはる正月しょうがつひのとうしついたち高麗こうらい國王こくおうおう禃遣使たてまつおもてらいみずのえうま,敕諸せん慰司,たてまつうま輒入覲。以千戶張好古歿王事,いのち其弟こうこうれいなみ襲職しゅうしょくためせん癸巳きし,以益たけまもるぐんせんにん屯田とんでんつばめきょう官給かんきゅううし。以鄧しゅうかぶとぐんせんさんひゃくじゅうきゅう隸統ぐんつちのえいぬ,楊大淵おおふちすすむはなべにきぬかくひゃくじゅうだんゆうみことのりさとしこれおのれたてしょみち平準へいじゅんみずのといのちしょ王位おうい工匠こうしょうやめせきためみんしゃなみちょう;儒、しゃくみち、也里あつしいたるしつ蠻等きゅう免租めんそぜいこんなみちょう;其蒙いにしえかんぐん站戶しょ輸租げんはん西北せいほく諸王しょおうりつ部民ぶみんらい。敕北京ぺきん西京にしぎょうせん慰司、りゅうきょうそうかんかず糴以備糧餉。ちく冷水れいすいかわじょういのち千戶土虎等戍之。やめみなみ互市ごしさるげんぐん、販馬、越境えっきょうわたししょうきん

がつからしぶくとうろくにんつげひらふとしげんせきみことのりしょう以官,廷臣ていしん以非ざいたいきゅう鈔與。敕選儒士編修へんしゅう國史こくしわけ寫經しゃきょうしょおこりだてしゃきゅう俸以贍之。みずのえおさむ瓊花とうはつきた京都きょうと元帥げんすいおもねうみ所領しょりょうぐん疏雙とうこげみぞきのえとら,以故亳州千戶邸閏陷于宋,いのち其子さかえ襲職しゅうしょくへいたつやめ陝西せんせいゆき戶部とべちょうしげる太陰たいいんはんみなみみずのととりくるまこううえみことのりしょみちそうかんけんとうじゅうさんにん赴上大朝おおあさかいたゆあたりじょうぐんきん

さんがつかのえたつしつらえしゅうたかし醮于ちょう春宮とうぐうおのれいのち尚書しょうしょそうさだひね時事じじさだじょう以聞,みことのりすすむさとし命中めいちゅうしょ省議しょうぎぎょうからしうしみことのりよん川行かわつらいんいのちおもねだつせんてのひら軍政ぐんせい,其刑めいぜにこくしょうていにんたてこげうん,以王こうえきため使

なつよんがつつちのえさる,以彰とく、洺磁引漳、滏、洹水灌田,致御かわあさ澀,しおうん不通ふつうふさがぶんみぞ以復水勢すいせいからし太陰たいいんはんのきながえおんなぼしみずのえ東平とうへいふとしはらたいらようひでり分遣ぶんけん西にしそういのり。(おのれ)〔おつ[22]みことのり高麗こうらい國王こくおうおううえ來朝らいちょうじょうおさむれいからしとり,以四川しせんちゃしおしょうさけたけたかしぐんかて。楊大ふち部將ぶしょうおうなかとくそうすすむまんことぶきしょころせこれみことのり以其ごとけい鞫問,ある墮宋じん行間ぎょうかんけいあにむべ輒施けい戮,詰責きっせき大淵おおふち,仍存恤仲御苑ぎょえんかんみなみたい請修ちゅう蹕涼ろう并廣まきみことのりりょうろう俟農すきまきぶんきゅうのう無田むたしゃちょうしげるつい璮逆とう萬戶張邦直兄弟及姜郁、ざいとうじゅうななにんざいつちのえたつきゅう新附しんぷ戍軍かて餉。高麗こうらい國王こくおうおう璮遣其臣きん祿ろく來貢らいこう[23]

五月ごがつおつみことのり唆脫がおかくまもるけいぎょう西にしなつかわみぞ,俾具らいじょうかのえたつ,敕劍しゅう守將しゅしょうぶんぐんもりけんもんおけえき於人頭山つむりやまへいいぬ太陰たいいんはんぼうちょうしゃくそうわたししょうじゅうななにんきゅうかて其國。おのれうし以平いたいらかげけんいんうま欽發わたしあわろくひゃくせき贍饑みんまたきゅうみんあわしゅよんひゃくせきみことのりすすむさとしとくたまもの西にしにしきいちはし以旌其義。乙未おとみはつおけ四川しせんきゅう遞鋪。へいさるたまもの諸王しょおう欽察ぎんまんりょうすみ其所貧乏びんぼうしゃおのれ太陰たいいんはんすばる。以中しょみぎすすむねばごうみなみごう為平ためひらあきら政事せいじ。卭部かわ六番安撫招討使都王明亞為隣國建都所殺,敕其はく襲職しゅうしょく賜金しきん

ろくがつおつ,召王みさご、姚樞赴上そうせいおけ夏貴なつきりつへいよくおさむとら嘯山,敕以萬戶石抹乣札剌一軍益欽察戍之。つちのえさる高麗こうらい國王こくおうおう來朝らいちょう

あきなながつかぶといぬ彗星すいせい輿こしおに,昏見西北せいほくぬき上台うわだい,掃紫ほろぶんあきら北斗ほくとだんみる東北とうほく,凡四じゅうにち。以阿合馬おうまげんえきかいしゅうしおひとし諸色しょしきそうどうぐんたくみとう,其太はら小鹽こしお聽從ちょうじゅうみん便びんみずのと改新かいしんおおとりしゅうため徽州。以西いせいばんじゅうはちぞく部立ぶだて安西あんざいしゅうぎょうやすなでごとちょう諸王しょおうさんきち所部ところぶ營帳軍民ぐんみんはつあわにぎわいかのえとらきゅう諸王しょおう也速はなしるしみずのえたつとくみことのりさとし鞏昌總帥そうすいひろしおもんみせいろうつとむたまものもとたから交鈔さんまんかん,仍戍あおきょたまもの諸王しょおうだまりゅうこたえしつしるし,仍以さきあさりょうたまものちょうとりりゅうもん禹廟なりいのち侍臣じしんおもねごうだついんだいまつおのれじょうよう御寶みたからせい:凡宣いのち一品いっぴんひんようだま三品みしないたるひん用金ようきん,其文曰「皇帝こうていぎょうたからしゃ即位そくいしょおもんみようみことのり誥;べつ宣命せんみょう金寶きんぽうゆきかのえおもねさと哥自むかしはいふくのうぐんいたりあずか諸王しょおうだまりゅうこたえしつおもねはやたいむかしさときゅう,其所はかりごとしん魯花、ゆるがせ察、禿かぶろ滿まんおもねさと察、だつゆるがせおもえとうらいみことのり諸王しょおうみなふとし裔,なみしゃく不問ふもん,其謀しん魯花みなふく誅。

はちがつみずのえとらついたち陝西せんせいゆきしょうしんじょうげん:「かわしょく戍兵軍需ぐんじゅ,請令おく魯官ちょういれかんうつりぶん於近戍官かずこれそう新附しんぷみんむべばち衣糧いりょうきゅう其牛しゅ,仍禁しょうぶん人口じんこうしょうしゅう險要けんよう,乞增戍兵。陝西せんせいりょううつりりょうしょうしゅう河西かさいおおとりしょう屯田とんでんぐん遷戍きょうもと四川しせんかくつばさぐんゆうしゃちょう其稅,きゅう無田むたしゃかて。」みなしたがえこれかぶとたつみことのりしんしょくゆきしょうはつぎんじゅうまんりょうきゅう沿邊としようおつだて山東さんとうしょみちゆき中書ちゅうしょしょう[24]以中しょひだり丞相じょうしょう耶律まいり政事せいじちょうめぐみとうぎょうしょうごとみことのり新立しんだてじょうかくしょう併州けんてい官吏かんり員數いんずうふんひんしたがえ官職かんしょくきゅう俸祿,頒公けい月日つきひ以考殿どのさいひとし賦役ふえき,招流うつりきん勿擅ようかんぶつ,勿以かんぶつしんけんじ,勿借えきかんぜに;勿擅やく;凡軍とく停泊ていはくむらぼう訟不へだたえつひね訴;恤鰥寡,すすむのうくわけんさわひら物價ぶっか盜賊とうぞく囚徒しゅうとおこりすうがつさるしょうまた頒陝西にしよんがわ西にしなつ中興ちゅうこう北京ぺきん三處行中書條格。定立ていりつ諸王しょおう使臣ししん驛傳えきでんぜいはつもと擅招みんとく以銀あずか投下とうか人為じんい斡脫,きん口傳くでん敕旨及追よびしょうしんかんぞくみことのり:「こうむ古戶こど種田たねた有馬ありまうしひつじいえ,其糧じゅうささえ無田むたしゃ仍給。」かのえいぬいのちつばめおうしょ敕、諸王しょおうしつらえ僚屬及說しょかんしょ站戶げんよんごろ免稅めんぜいきょうえき及祗おういのちかくみちそうかんけんりょう其事。みずのとうしいのちそうさとしどう樞密院すうみついんごと詔子しょうこさとしふく其姓りゅうえきめい秉忠,おがめぶとたもてさんりょう中書ちゅうしょしょうごとおつみことのりあらためつばめきょうためなか,其大おき仍舊。まししょうさんじょう月俸げっぽうへいたつりゅう秉忠、おうみさごちょうぶんけんしょうていごとつばめおうすんでしょしょう銜,むべ於省ちゅう別置べっちまく每月まいつきいちさいいたりばんしょ朝政ちょうせい。其說しょかん皇子おうじせわしやす以李(いわ)〔槃〕為之ためゆき[25]みなみあい以高どう為之ためゆきちょう,以改もと大赦たいしゃ天下でんかみことのり曰:

おうてんしゃおもんみ至誠しせい,拯民しゃ如實にょじつめぐみちん以菲とくうけたまわけいもと,內難戡,そとへい戢,おっとあにいちにち,于今ねんよりゆき天地てんち畀矜,暨祖宗之むねゆきたれひろし,凡我同氣どうきかい於上。雖此小康しょうこう,敢朕しんしょう肆。
しゃほしすすきしめせ儆,あめさわ愆常,みな闕政これしょ繇,顧斯みんなにざいむべぬのおもんみしんこれれい,溥施ざいなだめじんよりどころ魯花、ゆるがせ察、禿かぶろ滿まんおもねさと察、だつおもえやから,構禍我家わがやあきらふと皇帝こうてい扎撒せいてんけい訖。大赦たいしゃ天下でんかあらためちゅうすべねんためいたりもと元年がんねん。於戲!いや往泰らい,迓續とおる嘉之よしゆきかいかなえしんかわせい輔弼ほひつりょう。咨爾臣民しんみんたいいたり

つちのえうまきゅうえきたけまもるぐんせんにんふゆころもおのれおおとりしょう龍泉寺りゅうせんじそう超過ちょうかとうはかりごとらんぐう赦,ぼつ其財,羈管きょうちょうそうどうはかりごといさおせめれい從軍じゅうぐんこうはつ萬戶石抹乣札剌所部千人赴商州屯田,亳州ぐんろくひゃく八人及河南府軍六十人助欽察戍青居。敕山東經とうけいりゃく副使ふくし武秀たけひでせんえきしんぐんせんにんたかしたけまもるぐん,赴中しろ郯,以沂しゅうかんせんとうおもえ、萬戶孟義所部兵戍之。ふとしはらそうかん攸忙兀帶すわぞうかぶと匿戶,罷職ひしょくためみん

きゅうがつみずのえさるついたちたて翰林かんりん國史こくしいん。以改もとみことのりさとし高麗こうらいこく,并赦其境內。からしくるまいたりうえかのえとらえきもうあきらはかりごとぎゃく,二子及其黨崔成並伏誅,せき其家貲賜ぎょうしょう撒吉おもえ

ふゆじゅうがつみずのえとらついたち高麗こうらい國王こくおうおう來朝らいちょうおつきんうえ畿內捕りょうかのえいぬ有事ゆうじ于太びょうみずのえおんしゅうれきていけんしんよしみ禾,いちくきつちのえたつあらためたけまもるぐんためさむらいまもるおやぐん

十一月じゅういちがつへいみことのりそうじん歸順きじゅん及北じん陷沒かんぼつらいしゃみな月給げっきゅう糧食りょうしょくからしせいこつ嵬。さき吉里よしさと迷內げん其國ひがしゆうこつ嵬、またさと于兩さいらいおかせ疆,往征。(おつ)〔おのれうし[26]いたりもとねん曆日れきじつたまもの高麗こうらい國王こくおうおう禃。きんのぼりしゅうかずしゅうとうしょ并女直人なおとにゅう高麗こうらいかいひょうげかすめからし,召衞しゅうたいいちだいきょもと)〔ことぶき〕赴闕。[27]みずのえたつやめりょう中書ちゅうしょ左右さゆう,併入中書ちゅうしょしょう。以領中書ちゅうしょしょう左右さゆうけんしょみちてんうん使たい監事かんじおもね合馬おうま為平ためひらあきら政事せいじりょう中書ちゅうしょしょう左右さゆうけんしょみちてんうん使おもねさとため中書ちゅうしょみぎすすむちょうとりふとしはら臨州しんよしみくき。以元帥げんすい按敦、りゅうせいりゅうもとれい、欽察とう將士しょうしこうしょう賚有

十二月じゅうにがつおつやめかく投下とうかたち魯花あかてい中外ちゅうがい百官ひゃっかんしたがえ丁未ていみ,敕遣そう諜者よんにんかえ其國。つちのえうましょう拔都軍人ぐんじんぎんじゅうまんりょう甲子きのえね太陰たいいんはんぼうおつうし,以王かんむかし使つかいだいぼつ王事おうじ,其子てん不能ふのう自存じそんゆう恤之。ちょうしげる,敕鄧しゅう沿邊ぞうたて茱萸ぐみつねひらめけんりょうよん堡。つちのえたついのちせんぜんすいしゃいちにん,沿黃かわけいみずほどたちひがしかちどおりこげうんはせえき以聞。庚午こうごみことのりやめ樞密院すうみついんだんごとかん及各おく魯官,れいそうかんけんそう押所。はじめやめ諸侯しょこうもりたて遷轉ほう

これさいじょうじゅんてん、洺、磁、順德じゅんとく大名だいみょう東平とうへい、曹、濮州、たいやすこうとう濟州さいしゅうひろししゅうとくしゅうすみみなみはま、棣、淄、萊、河間こうま大水おおみずたまもの諸王しょおうきんぎんぬさ、帛如としれいいちひゃくじゅうはちまんはちせんいちひゃくきゅうじゅうだん死罪しざいななじゅうさんにん

校勘こうかん[编辑]

  1. しばただし 按下ぶんさんがつみずのえさるじょうさくしば楨」,あずかおう惲烏だいひつ乞尚しょしば楨北かえことじょううたぐただしとうさく「楨」。
  2. ふり)〔つめ よりどころじょうぶんなかみつる元年がんねんさんがつつちのえたつじょうほん書卷しょかん一一七別里古台傳及拉施特史集譯音改。こうむ古語こごつめ」,ためひゃく」,「ためゆう」。
  3. 以興まつくもさんしゅう隸上 こううん:「あん開平かいへいためうえざいよんねんがつ戊子ぼし;陞望くもけんためくもしゅう松山まつやまけんためまつしゅうざいよんねんがつかのえおう此時さきゆうじょう及松、くもしゅうよりどころぶんよんがつかのえいぬ以望くも松山まつやまおきしゅう課程かてい開平かいへいあかし其時しょうじょう也。」
  4. かいなり まきよん校勘こうかん[いちよん]。
  5. ひらめわん)〔灤〕 按本書卷しょかんきゅうはちへいこころざしゆういのちおもねうみたかし元帥げんすいせん北京ぺきん東京とうきょうひら灤、懿州、ぶたしゅう管領かんりょうかん軍人ぐんじん」,よりどころあらため
  6. たかぼう 按「たかぼうためもとだいりょう此處ここらあらわだっこん
  7. だいやな 按本書卷しょかん三憲宗紀八年十二月己亥條有「大良だいらさん守將しゅしょうがまもとけいくだ」,かんいちせいいたりもとじゅうきゅうねんがつみずのとうしじょうゆうだい良平りょうへい元帥げんすいがまもとけい其男のうにゅう覲」。まきいちろく二李忽蘭吉傳作「だいはりたいら」。うたぐ此處ここらだいやなとうさくだい良平りょうへいあるだいはりたいら」。
  8. みぎ)〔ひだり丞相じょうしょうゆるがせ魯不はな よりどころほん書卷しょかんいちいち宰相さいしょう年表ねんぴょうあらため。按當時とうじみぎ丞相じょうしょうためはなふみてんさわほんしょうやめこう
  9. すすむ)〔縉〕やま まきよん校勘こうかん[いち]。
  10. (咸)〔たけしやすし 按威やすしきんおけぞくなでしゅうほんまきぶんちゅうすべさんねん十一月じゅういちがつつちのえさるじょうゆう「陞撫しゅうためたかしおき」,「わりせん德之のりゆきふところやす天成てんせい及威やすし高原こうげん隸焉」。またほん書卷しょかんいちよんきゅうりゅうはくはやしつたえまきいちろく六石抹狗狗傳皆作「やすし」。此處ここらたけしあやまため「咸」,こんあらためもとだい陝西せんせいゆきしょうたてまつもとみちあずかみずうみ廣行ひろゆきしょうたけあきらひとしゆう咸寧けんあずか此非いち
  11. てんじゅん)〔じゅんてん〕 よりどころほん書卷しょかんぎょうこころざし改正かいせい。按元てんじゅんけんおけ
  12. かん安世やすよ)〔世安よやす〕 よりどころじょうぶんがつかぶとたつ、三月戊寅條及下文いたりもとはちねんさんがつからしじょう改正かいせいみち光本みつもとこう
  13. たけやすし)〔やすしたけぐん 按下ぶんみずのとうしじょうゆうたてしょう峪、あしやすしたけぐんあかどろいずみてつよんしょ」,よりどころ改正かいせい寰宇どおりこころざしまきはちいちゆうやすしたけぐんこう」。みち光本みつもとやめこう
  14. 夔州 按上ぶんちゅうすべねんろくがつ庚申こうしんじょうさく「夔府」,あずかおう惲中どうこと此處ここらしゅうとうさく」。
  15. 邢洺とうしょ漳滏(澧)〔灃〕かわたちいずみ 按澧かわざい湖南こなんあずか「邢、洺等しょわたる。寰宇どおりこころざしまき順德じゅんとくうん:「灃河,在任ざいにんけんひがしじゅううえせっみなみかずけんしも流入りゅうにゅう定府じょうふ隆平りゅうへいけんかい。」「澧」あやまこんあらためるいへんやめこう
  16. さんじゅうまんいし〕 按本書卷しょかんきゅうろくしょく貨志賑恤しんじゅつさく三萬石さんまんごく」,こんよりどころいし
  17. だいあきら)〔〕 よりどころほんまきじょうぶん二月癸丑條及本書卷九八兵志改。按元大明だいめいけんおけ
  18. おうばん)〔いわ〕 したがえ殿でんほんあらため。按本書卷しょかんいちろくほん傳作でんさくいわ」。したどう
  19. 興隆こうりゅう)〔たかしきょう よりどころほん書卷しょかんはち地理ちりこころざし改正かいせいほんしょうやめこう
  20. やめひらけもとみちせん慰司 ほんあかしうん:「あんちゅうすべねんやめじゅう宣撫せんぶとめそんひらけもとみち。其改せん慰司そくざいいたりもとじゅうねん,此時とくゆう此稱。」
  21. 兀良きち 按下ぶんいたりもとななねんなながつおつうしじょうさく「兀良きちたい」,此處ここらとうだっおび
  22. おのれ)〔おつ 按是がつおつついたちおのれ。此「おのれざいみずのえはつはちにちからしとりじゅうななにちあいだかかりおつじゅういちにちこれあやまこんあらため
  23. きむ祿ろく 按高麗こうらいまき二六にろく元宗もとむね家作かさくきむ祿ろくのべ」,うたぐ此處ここらだっのべ
  24. だて山東さんとうしょみちゆき中書ちゅうしょしょう よりどころほん書卷しょかん一四六耶律楚材傳附耶律鑄傳、まきいちろくななちょうめぐみでんこうむやめこう
  25. いわ)〔槃〕 按本書卷しょかんいち六廉希憲傳、まきいちろくただしぶん炳傳、まきいちろくさんちょういさおてるでんまきいちろく四王構傳均作「槃」,よりどころあらため
  26. おつ)〔おのれうし 按是がつみずのえさるついたちおつ丑日うしのひ。此「おつうしざいからしはつじゅうにちからしじゅうにちあいだかかりおのれうしじゅうはちにちこれあやまこんあらため
  27. きょもと)〔ことぶき〕 よりどころぶんいたりもとじゅうろくねんじゅうがつからしうし十二月じゅうにがつひのととりじゅう八年正月丁巳條及卷二0しゃくろうつてあらため。按あき澗集まき四七李居壽行狀有「せいいみなきょことぶき。」

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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 まきよん かえしかいいただき まきろく