げんふみ/まき012

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 まき十一といち もとまきじゅう
本紀ほんぎだいじゅう
まき十三じゅうざ 

きゅう

じゅう九年春正月壬戌朔,高麗こうらい國王こくおうおう賰遣其大將軍だいしょうぐん金子かねこ廷來[1]へいとらやめせいひがしゆき中書ちゅうしょしょうちょうしげる諸王しょおうさつ剌忽いたり自軍じぐんちゅうとき皇子おうじ北平きたひらおう以軍鎮阿さと麻里あさざとこれ,以禦うみ諸王しょおうむかし里吉さとよしあずかだつだつ、籰木ゆるがせ、撒里蠻等はかりごとこう皇子おうじ北平きたひらおう以叛,ほしあずかさつ剌忽ゆい援於うみうみしたがえ。撒里蠻悔むかし里吉さとよしとう北平きたひらおうさつ剌忽以聞。妖民ちょう圓光えんこうふく誅。だてふとぼくいんばち信州しんしゅうみんよんひゃくはち,隸諸おう柏木かしわぎへいくるま畋于近郊きんこうちょううし高麗こうらい國王こくおうみつぎつむぎぬのよんひゃくひきへいいぬたまもの西平にしだいらおうおびえ薛那ふところとう鈔一まんいちせんひゃくじゅういちじょう

がつからしついたちくるまこう柳林やなぎばやしにょうしゅうそうかん姚文りゅうごと江南こうなんざいとし辦鈔じゅうまんじょうみことのり以文りゅうため江西えにしどうせん慰使,けん措置そちちゃほういのちいたずらおもね你哥、くだりこう尚書しょうしょおさめふところせいかざりどう儀表ぎひょうこく。敕改きゅう駙馬昌吉しょうきちしるしおさむ宮城みやぎふとしびょうつかさたかしだい癸巳きし調しらべぐんいちまんせんうませんひきせい也可薛。使つかいだいまつたけ瀆后かぶとうまあましゅう逃軍千二百人自陳願挈家四千九百四十口還戍,敕以鈔一まんろくひゃくじゅうじょうぬのよんせんきゅうひゃくよんじゅうひきうさぎうまよんせんきゅうひゃくよんじゅうとうきゅうせいはるこく,以太ぼくためみぎすすむ,也罕てききんため參政さんせいりょうへい以行。つちのえいぬきゅうべつじゅう八里元帥綦公直軍需。使つかい往乾さんみやつこ江南えなせんせんせんそうかのえたまもの諸王しょおうとう剌海せきぼつじゅうねがいじゅう。孛羅歡理さんちょうかてじゅうななまんせきみことのりちょうみずのえとら,陞軍かんさんひんいのちぐんかんじん亡者もうじゃ,其子襲職しゅうしょく,以疾そつしゃ,授官くだ一等いっとうためれい。授溪ほら招討使かくのぼるとうきゅうにんとら,仍賞ちょうあつしかおあらわぎんかく千兩せんりょうおさむあきら兀兒、とううみみんたくみきゅうひゃくじゅうさんいれかんおつたて廣東かんとん按察つちのえさるくるまかえみやおのれとりげんしょうかん冗員じょういんあらためうえせんひさげりょうためせんつつみ舉司。たててつ冶總かんやめひさげ舉司。げんだいぜいかんじゅうよんいんためじゅういんあらため斯宣慰司隸雲みなみしょう。徙浙ひがしせん慰司於溫州うんしゅうぶんぐん戍守江南えなしゅう以及こうかげいたりさんうみこう,凡じゅうはちしょかのえいぬ,以參政事せいじから兀帶とうろくにん鎮守ちんじゅしゅうたてやすしこうりょう池州いけす興國こうこくみずのえみことのり簽亦奚不薛及播、おもえじょさんしゅうぐんせいはるこくみずのとうしだい良平りょうへい元帥げんすいがまもとけい其男のうにゅう覲。きのえとらくるまこううえさるいむかんじんぐんきんちょうやすしゅうはりこじれうさぎうま以詐敕及にせため丞相じょうしょう孛羅しょしるしふく誅。つちのえうまたまもの雲南うんなん使臣ししん及陝西にし僉省はちはち以下いかぎん鈔、衣服いふくゆうせき福建ふっけん戶數こすう

さんがつからしとりついたちがらすこうむみん叛,敕那なつけ魯思迷率こうむ漢人かんど新附しんぷぐん討之。しょうゆるがせこたえとう戰功せんこううしひつじえきせんおうちょ,以阿合馬おうま蠹國がいみんあずかこう和尚おしょうあい謀殺ぼうさつ[2]みずのえうま,誅王ちょちょうえきこう和尚おしょう于巿,みなひしおとう悉伏誅。かぶとさるてききんじょうりん以己貲充屯田とんでんこれ諸王しょおうおもねただよし以聞,敕酬其直。へいいぬきんえきくるまひらめ、沿淮しょぐん軍民ぐんみんかんりょう戊子ぼしたてとうはちごう你驛,以烏こうむおもねはかりごととし輸騬きゅう。以領きたにわみやこまもるおもね必失哈為大夫たいふぎょうだいごと

なつよんがつからし,敕和れい霍孫集中しゅうちゅうしょしょうだい樞密院すうみついん翰林院かんりんいんとうかんおもね合馬おうましょ管財かんざい先行せんこうふうせきちょうとり,以和れい霍孫ため中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょうくだみぎ丞相じょうしょう瓮吉剌帶ため留守るす,仍同僉樞密院すうみついんごとつちのえいぬせい元帥げんすいかんしゃとうひらひね吊眼つりめあなはんしょう其軍鈔,仍令かえいえ休息きゅうそくあげしゅうしゃ戍泉しゅうひね吊眼つりめちちぶんかつら兄弟きょうだいかつらりゅう滿まん安納あんのう款,いのち護送ごそう赴京。其黨滿みつるちょうむかえてき,就誅。敕以だいじゅんぐん留守るすみずのえとら立回たちまわえき中書ちゅうしょひだりすすむ耿仁とうげん:「諸王しょおう公主こうしゅ分地ぶんちしょしつらえたち魯花あかれい遷調,百姓ひゃくしょうつね調しらべにん滿まんしたがえ本位ほんいせんだいためよろし。」したがえこれ。以留守るす兼行けんこうこう。敕自こんとしようかんしゃ,勿賦於民,そく濼河づくりきゅう其糧かぶとたつ,以甘しゅう中興ちゅうこう屯田とんでんへい逃還ふとはら,誅其こばめいのちしゃよんにん,而賞逃者。おつ,以阿合馬おうまやつゆるがせこたえとうひさしそう兵權へいけんれいはくあつしとうだい,仍隸だい都留つる守司もりじたゆ西山にしやま薪炭しんたんきん。以阿合馬おうま之子ゆきここう淮行中書ちゅうしょしょうたいらあきら政事せいじゆるがせからしざいじゅう於父,きわむかんこう覈諸しょ平準へいじゅん,汰倉庫そうこかんだいしんごと:「ざい贓罰鈔さんまんじょう金銀きんぎん珠玉しゅぎょく幣帛へいはくしょう。」みことのりとめ以給貧乏びんぼうしゃ丙午ひのえうまおさむ諸王しょおうべつじょうそうぐんぎんしるし。敕也さとぬるそうれいきゅうかてつちのえさるやすしこく太平おうひらけんひだるみんたけじつためかてかつしゃさんひゃく。敕出使じんかえそく以所きゅうじょうあずかうわ而有そくおさむしゃみなざい。凡文書ぶんしょなみそうはじめよう御寶みたからおのれとり刊行かんこうこうむかしこわれ所書ところがきどおりかん。以和れい霍孫ためみぎ丞相じょうしょうみことのり天下でんかかのえいぬぎょうだいげん:「おもねさとかいきばうらないくだみんためやつ,而以ため征討せいとう所得しょとく。」ゆうむねくだみんかえこれ有司ゆうし征討せいとう所得しょとくせき其數りょうたまもの臣下しんか有功ゆうこうしゃ。以興へい問罪もんざい海外かいがい天下てんか供給きょうきゅうしげおもみことのり慰諭軍民ぐんみんおうゆう逋欠ぜにかて及官吏侵ぬすめなみけんとまやめしつらえふところはじめかんかわみぞ使ふくかく一員いちいんかかわくく江南こうなんかんごう隱匿いんとく逃軍。みずのえやめ江南こうなんしょつかさ自給じきゅうえきけんへいたつ,敕以妻女さいじょ姊妹けんじおもね合馬おうまとくつかまつしゃ,黜之。覈阿合馬おうま占據せんきょ民田みんだきゅうかえ其主;ひさし富強ふきょう輸賦其家しゃ,仍輸かん北京ぺきんせん慰使おもねろうかわらひのと濫舉非才ひさいためかんみんかんいのちせんかんだいしつらえしお使うり鹽引しおびきほうみんしゃぎょう,仍令按察つかさみがくすりうんぶんまきてい民間みんかんかしぜにいきほう,以さんふんためりつてい內外かんさんねんためかんがえ滿まんにんしゃ遷敍,未滿みまんしゃもとちょう遷。きん吐蕃そうきゅうえきたいしげる,擾害於民,自今じこんたてまつむね勿給。きゅうひかえづるじん鈔一まんじょう,及其官吏かんりゆう

五月ごがつおのれついたちかぎこうまん億庫及南京宣慰司。沙汰さたしょうかんおもね合馬おうま黨人とうじんななひゃくじゅうよんにんやめかわしゃひゃくさんじゅうさんにんあまりひゃくはちじゅういち人並ひとなみ黜之。瀘州かんぐんそうかんしたがえすわ受軍まかないたて其私かえ,致萬戶爪難等為賊所殺,ふく誅。せきおもね合馬おうま駝牛ひつじうさぎうまとうさんせんななひゃくじゅうはちついおもね合馬おうまざい,剖棺戮其しかばね於通げん門外もんがいやめ南京なんきんせん慰司及江みなみざいそうかんちょうしげるくだ各省かくしょうきゅうえき璽書。つちのえたつ,併江西にし福建ふっけんゆきしょう江南こうなん冗濫かんめん福建ふっけん山縣やまがた鎮店せんきん當路とうろわたし人權じんけんしゅうつかさけんかん。招諭畬洞じんめん其罪。きん戍軍ぼうおくきんじんたくみひさげ舉擅招匠おのれ浙西どうせん慰司どうりゅうせんとうさんかくしおうん及財ちゃ塲都てんうん出納すいとうかずせきおもね合馬おうま妻子さいしおやぞくしょ營資さん,其奴婢ぬひたてためみんやめせん慰使所帶じょたいしょう銜。みずのえさるくさり繫耿じん至大しだい命中めいちゅうしょしょう鞫之。かのえたつ於平灤州造船ぞうせんはつ軍民ぐんみんあいきゅうせんにんれいさがせあかはくようおびりょう伐木ばつぼく於山,及取於寺かん墳墓ふんぼかんむくい其直,仍命くわ哥遣じんとくみずのときゅうだい拔都せいぐんなつころもかずあや霍孫ごとしょう濫官ななひゃくじゅうよんいん,其無しゃひゃくはちじゅう一員いちいんしゅうとそん沿海えんかいひだりふく元帥げんすいせきこくえい請以ぜい贍軍,ぐん逃死しゃれい補足ほそく;站戶なえぜい貧富ひんぷひとししゃむべひとし其役。また請行しおほう,汰官吏かんりやめみことのり中書ちゅうしょしゅうぎょうちょうめぐみおもねさとやめ。以甘肅行しょうひだりすすむむぎうけらひのとため中書ちゅうしょみぎすすむぎょうだいちゅうすすむちょう雄飛ゆうひさん政事せいじおつとり元帥げんすい綦公直言ちょくげん:「乞黥逃軍,仍使從軍じゅうぐん,及設立せつりつ冶場於別じゅうはちのう。」したがえこれへいいぬべつじゅう八里城東三百餘里蝗害麥。

六月ろくがつおのれうしついたちにちゆうしょく[3]芝生しばふまゆしゅうかぶとうまおもね合馬おうま濫設かんひゃくよんしょみことのりそんしゃさんじゅうさんあまりみなやめまた江南こうなんせん慰司じゅうみち,內四道已立行中書省,やめこれおつはつろくばんやま屯田とんでんぐんななひゃくななじゅうにん,以補りゅうおんぐん。敕宣慰司とうかん毋役官軍かんぐんへいさる發射はっしゃひゃくにんまもる丞相じょうしょう他人たにんとく援例。つちのえいぬ,以占じょうすんでふくふく叛,はつ淮、浙、福建ふっけんみずうみこうぐんせんうみせんひゃくそうせんせんひゃくじゅういのち唆都ためはた討之。ほろびそうぐんゆうしゅごう及無しゅごうしゃなみ聽為みんおのれいのちなんこころざしためかんぐんまん使つかい暹國。たてうしせきおもね合馬おうま妻子さいしむこ奴婢ぬひ財產ざいさんみずのときん濫保軍功ぐんこうおつ,招無せきぐんきゅう衣糧いりょうおのれとりしょう太子たいし宿衞しゅくえいぐん禦盜こうきゅう鈔、うまゆうつましゃ以沒かん寡婦かふはい。以阿合馬おうまきょだいたまものかずあや霍孫。みずのえさる敕中がいひゃく官立かんりつげんけつごとみずのとうししたがえかずあや霍孫ごとやめかち農政のうせいいんくさり繫忽からし赴揚しゅう鞫治。ちょうせいまた奚不薛,つきひら其地,たてさんたち魯花あかとめぐん鎮守ちんじゅいのちやく剌海そう,以也そくたいため元帥げんすいせん慰使。

あきなながつつちのえうまついたちにちゆうしょくだてぎょう樞密院すうみついん於揚しゅう、鄂州。庚申こうしんいのちぎょうだい揀汰かくみち按察かんからしとり,剖郝ただしかん,戮其しかばねみずのえいぬいのち以官ぜにきゅう戍軍,而以かくおく魯所せいかえかんきんしょ營運ぜに貨差ぐん護送ごそう高麗こうらい國王こくおう請自造船ぞうせんいちひゃくじゅうそうじょせい日本にっぽんつちのえたつせい鴨池かもいけかいぐん屯田とんでん安西あんざい,以鈔きゅう庚午こうごれいこうむぐん守江もりえみなみしゃさらつがえかえみずのえさるはつ察罕のうぐんせんにんすすむ)〔縉〕山道さんどう[4]たてうまみずうみそうかんみずのととりたまもの高麗こうらいおうおう(睶)〔賰〕きむしるし。(みずのととりせん慰孟けいもと、萬戶孫勝夫使爪哇回,[5]ためせわしおびしょしゅうみことのりしゃくちょううしやめひろしさつ剌兒たい總帥そうすいおさむ其制いのちとら。以鞏あきらたち魯花あかべつそくじょうため鞏昌ひらりょうとうしょじゅう四處軍前便宜都總帥府達魯花赤。以蒙古人こじん孛羅りょう北辰ほくしん、沅等しゅうよなげきんごとつちのえとらきずけおもねしつこたえそくすめらぎじょう樞密院すうみついんごと用木ようぼくじゅうまんとおなん致,察罕のうちくため牆便,したがえこれおつとりたまもの諸王しょおうとううみじょうゆるがせちょうとう金銀きんぎん幣帛へいはくゆう。闍婆こくみつぎ金佛かなぶつとうはつまいにぎわい乞里きちおもえ貧民ひんみん

はちがつちょうついたちきゅう乾山けんざん造船ぞうせんぐんたくみふゆころも,及新ぐん鈔。かのえとらせわしおびせいおにこくかえ,仍佩とらためかんぐんまんからし,以阿はちあかとくうんかて癸巳きしはつ斯等ぐんじょせいはるこくからし,併淄萊路さく鎮,仍於えきだいりつ新城しんじょうけんだいちゅう蹕龍とらだい江南えなすいみんひだるしゃ眾;じょう以南いなんひでりみんりゅううつりかずあや霍孫請所在官ざいかんはつ廩以にぎわいしたがえこれさるげん以金かざり車馬しゃばふくこれきんまたきんしょかんかんとくれいじんたくみわたしづくり器物きぶつきのえとらせい誕節,かえみやおつ正殿せいでん,(授)〔受〕皇太子こうたいし諸王しょおう百官ひゃっかん朝賀ちょうが[6]へいたつ,謫捏兀迭おさめ戍占じょう贖罪しょくざい

きゅうがつちょうついたちにぎわいじょうひだるみん,其流うつり江南えなしゃ官給かんきゅうかて使つかいかえ鄉里きょうり。敕中しょしょうきゅうおもね合馬おうまとうべつそくたい請於ぼく、闍里てるたてえきしたがえこれ。以阿合馬おうまぼつかんさんたかし屯田とんでんせきおもねさとつちのえうま,誅阿合馬おうまだいさんおもね,仍剝其皮以徇。庚申こうしん,汰冗かんゆうあらわ乞罷さざなみうみしゅう屯田とんでん,以其ごと隸管みんかんしたがえ其請,仍以あらわたいらあきら政事せいじぎょうしょうあげしゅう福建ふっけんせん慰司倭國わのくに諜者,ゆうむねとめからしとり,誅耿ひとし、撒都魯丁及阿合馬おうまだいよん忻都。招討使楊庭(けん)〔璧〕招撫海外かいがい[7]みなみばんみな使つかい來貢らいこう。俱藍國主こくしゅ使つかいたてまつおもてしんたから貨、くろざるいち國主こくしゅせわしのぼる,以其こく識字しきじしゃ使つかいよんにんたてまつひょうそく)〔剌〕國主こくしゅかんはちてきまた使つかいにん[8]たちこくしょうしんさとはちごう剌攤あかいんごとざい俱藍こく,聞詔だい其主いにしえ使つかいたてまつおもてしんゆびたまきしるしはなあやぎぬだん及錦ふすまじゅうごうぐう俱藍こく也里ゆたかぬし兀咱撇里また使つかいたてまつおもてしん七寶しっぽうこうぱいいち藥物やくぶつびんまた管領かんりょうそく蠻馬合馬おうままた使つかいたてまつひょう同日どうじつ赴闕。みずのえいぬきん諸人もろびととく沮撓課程かてい。敕:「官吏かんり受賄及倉庫そうこかんおかせぬすめだい察官而不糾者,けん其輕重罪じゅうざい中外ちゅうがい官吏かんり贓罪,けいしゃつえけつじゅうしゃしょげんかん緘默かんもくあずか受贓しゃ一體いったいろんざい。」仍詔さとし天下でんかおつうし,簽亦奚不薛等しょぐんちょうしげるやす南國なんごく進貢しんこうさい兕、金銀きんぎんこうやくとうぶつ增給ぞうきゅう元帥げんすい綦公じきぐんふゆころも鈔。おのれいのちぐん站戶出錢でせんすけみん顧和かいせき雲南うんなん新附しんぷ兀良ごうたい鎮雲みなみ,凡八せきみんよんせき民田たみだみん以為びょういたりれいやめせきしゃ勿動,新附しんぷしゃせきてい雲南うんなんぜい用金ようきんためそく,以貝おりおさめまいかねいちぜにちょくかいじゅうさくやめ雲南うんなんせん慰司。みずのえさる,敕平濼、高麗こうらい、躭羅及揚しゅうりゅうきょう泉州せんしゅうどもづくり大小だいしょうせんさんせんそうまた奚不薛之きた,蠻洞こうゆう兄弟きょうだい及散しょほら叛,いのち四川行省就遣亦奚不薛軍前往招撫之,使つかいあずか其主偕來。みずのととりおもね合馬おうまめいおさむやつひのとふく誅。やめゆるがせ辛黨からとう璘江淮行しょうさん政事せいじちょう[9]使つかいくく雲南うんなんしょ產金さんきん,以孛ためきんほらたち魯花あかつちのえとらきゅう新附しんぷぐん賈祐衣糧いりょうゆうげんため日本にっぽんこくこげ元帥げんすいむこ知江ともえみなみ造船ぞうせん其來こう動靜どうせい軍馬ぐんばあつさかいねがいさきくだからし,敕各行かくこうしょうとめようしるしいちあまりしゃかかわこれ,及拘しょしるしはつさんまんじょう,於隆きょうとくおきせんとくしゅうかず糴糧きゅうまんせきみずのえさる[10]たまもの諸王しょおうおもねただきちきんせんりょうぎんまんりょう。釐正せんほうおけくろ簿以籍おもね合馬おうま黨人とうじんれいしょみちとしみつぎ儒、吏各いちにんかくみちひさげけい按察舉廉のうしゃ陞等遷敍。

ふゆじゅうがつちょうついたちぞうりょう浙鹽みことのりせい鈔法。おのれうし,敕河西にしそうみち、也里ぬるゆう妻室さいしつしゃどうみん納稅のうぜいかのえとら,以歲ごととう,聽諸ぐんりょう於汴はりみなみからし以平いたいらしょうぐん國重くにしげごと監修かんしゅう國史こくし耶律ため中書ちゅうしょひだり丞相じょうしょうみずのえたつとおる于太びょうやめ西京にしぎょうせん慰司。へいさるはつたて詹事いん,以完さわためみぎ詹事,さいためひだり詹事。ゆかりだいいたりちゅう灤,ちゅう灤至ふりしゅうしつらえ南北なんぼくりょうこげうんたてあしたいえつささえ三叉沽鹽使司,河間こうま滄清、山東さんとうはまらくやす及膠萊、莒密しお使。敕籍ぼつ財物ざいぶつせいこのみしゃ金銀きんぎん幣帛へいはくにゅう內帑,づけ刑部おさかべ,以待きゅうたまもの禁中きんちゅう出納すいとうぶんさん御用ごよう寶玉ほうぎょく遠方えんぽうめずらし隸內ぞう金銀きんぎんただまごころもだん隸右ぞうつねころもだん綺羅きら、縑布隸左ぞうしつらえ官吏かんりてのひら鑰者さんじゅうにん,仍以宦者じゅうにんただし其事。げんたいかんかんみずのといのちちぇ彧等かぎこう樞密院すうみついんぶんまきかぶとたつうらないじょう國納こくのう款使かいたまもの以衣ふくおつおもね躭招降ほうさとろうおもね魯乾はくとうこくやめ屯田とんでんそうかん,以其ごと樞密院すうみついんれいかんぐんまんけんこれ丙午ひのえうま,以汪おもんみこうため總帥そうすい丁未ていみおんなちょくろく十自請造船運糧赴鬼國贍軍,したがえこれせいまた)〔またともえほら[11]かのえいぬ,以四川民僅十二萬戶,しょしつらえかんひゃくじゅうあまりれいよん川行かわつら省議しょうぎげんうつり成都せいとせん慰司於碉もんやめとぎしゅう及順けいせん慰司。きんだい山北さんぽくしゅうぐんしゅみことのりりょうこう福建ふっけんひん以下いかかんしたがえくだりしょう就便銓注。耶律げん:「有司ゆうし官吏かんり以采しつおんなじょうがいみん。如令だいぐんとしさんにん小郡おごおり二人ふたり其可しゃあつたまもの父母ちちははいやのりかえためよろし。」したがえこれせき京畿けいきかくれくつうね收稅しゅうぜいいのちゆうあらわせんりょうこう浙行しょうこげうんおついのちけんわらわせんてのひらそう。誅阿合馬おうま長子ながこゆるがせからしだい二子抹速忽於揚州,みなひしお

十一月じゅういちがつつちのえうまうえけん利用りようたまものふとつね禮樂れいがくせきとうさんひゃくろくじゅう鈔千ひゃくじょう甲子きのえねきゅうかけしゅう屯田とんでんぐん衣服いふくちょうしげるきゅうかわ)〔はやし戍還ぐんこうぎん鈔、幣帛へいはく[12]江南こうなんかさねふう衍聖こうあな洙入覲,以為國子くにこさいしゅけんつつみ舉浙東道とうどう學校がっこうごと,就給俸祿あずか護持ごじりんびょう璽書。みことのり以阿合馬おうま罪惡ざいあく頒告中外ちゅうがい,凡民あいだびょうそくあずかきょうじょみずのえさる,以勢ため商賈しょうこしゃ阻遏官民かんみんせんたて沿河じゅんきんぐんはんしゃぼつ其家。みずのととりふん元帥げんすい綦公じきぐん戍曲さきかぶといぬ中書ちゅうしょしょうしんごと:「天下てんかじゅうしゅうじょ謀反ぼうほん大逆だいぎゃくころせ祖父母そふぼ父母ちちははつまころせおっとやつころせぬしいんかんころせおっとなみせいてんけいがいはん死罪しざいしゃれいたかし日本にっぽんうらないじょうはる國軍こくぐん。」したがえこれ改鑄かいちゅうしょうしるしへい,四川行省招諭大盤洞主向臭友等來朝,つちのえとら,耶律げん:「まえたてまつみことのり殺人さつじんしゃ,仍徵しょううめぎんじゅうりょうこうとめちょうじょう,其事ふとしけいしんとうこうむ古人こじんれいはんしゃぼついちじょいれかたきおんなしゃちょうよんじょう。」したがえこれ。以袁しゅうにょうしゅう興國こうこくぐんふく隸隆きょうしょううま八兒國遣使以金葉書及土物來貢。やめ功德くどく使だつれつ,其修しつらえ佛事ぶつじ妄費かんぶつみなちょうかえこれたまもの貧乏びんぼうしゃごうおさめとう、八只等羊馬鈔。

十二月じゅうにがつひのとついたち〕,いのちおもね剌海りょう范文とらとうしょ有海あるみせんさんひゃくそうみずのえとら[13]中書ちゅうしょひだりすすむちょうぶんけんため樞密すうみつ副使ふくし乙未おとみ中書ちゅうしょしょうしんごと:「平原ひらばらぐんおおやけちょうあずか芮、瀛國こうちょう㬎、翰林かんりんちょく學士がくしちょうあずかひょう)〔𤍟〕,[14]むべ並居なみいうえ。」みかど曰:「あずか芮老矣,とうとめだい如所ごと。」まましゆうむねきゅう瀛國こう衣糧いりょうはつこれただあずかひょう)〔𤍟〕勿行。以中やま薛保じゅうじょう匿名とくめいしょつげへんころせそう丞相じょうしょうぶんてんさちみずのとちゅうすすむちぇ彧言:「たいしん國家こっか政事せいじ得失とくしつなまみん休戚きゅうせき百官ひゃっかんよこしまただし,雖王公おうこうしょうしょうまたむべ糾察。きんただゆうごとしん以為だいかんみなとう建言けんげん,庶於國家こっかゆうせんようだい察官,わかよし中書ちゅうしょ,必有へん徇之へいむべしたがえ本臺もとだい選擇せんたくはつようかんじんじゅうろくいんいまもちいこうむ古人こじんじゅうろくいんそうまいり巡歷じゅんれきためよろし。」したがえこれ。浚濟かわかわくだ拱衞つかさふくせいよんひん,仍收其虎やめみずうみ廣行ひろゆきしょう金銀きんぎんてつ冶提舉司,以其ごと隸各そうかん。以建やすしよなげきむそうかん隸建やすし中書ちゅうしょみぎすすむさつ為平ためひらあきら政事せいじやめかいしお及諸しおれいうんかんおやぎょう調度ちょうど鹽引しおびきやめ南京なんきん屯田とんでんそうかん,以其ごと南陽なんようおもねさとかいきばふく鎮遠ぐんはつぐんせんにん戍守,以其あずか西川にしかわこうしょうせっ,就以隸焉。みことのりりつみかどこたえみみあさはち剌剌きちとうてのひらだましるしみつるりょう諸國しょこく釋教しゃっきょうみやつこみかどはちごうおもえはち舍利しゃりとうめん鞏昌とうしょ積年せきねんしょ欠田かけた租稅そぜいたまもの皇子おうじきたやす王位おういとう察兒とううしひつじかくゆう

十年春正月丙辰朔,高麗こうらい國王こくおうおう(睶)〔賰〕大將軍だいしょうぐん俞洪まきらいおのれおさめ皇后こうごう弘吉ひろきち剌氏。からしとりたまもの諸王しょおうはくしるししょう諸王しょおう必赤じょう[15]駙馬昌吉しょうきちぐん鈔。敕諸おう公主こうしゅ、駙馬とく江南えな分地ぶんちしゃ,於一まん田租でんそちゅう輸鈔ひゃくじょうじゅん中原なかはら五戶ごのへ絲數いとかずみずのと,敕藥剌海りょうぐんせいはるこくおつうし高麗こうらい國王こくおうおう(睶)〔賰〕使つかい兀剌たいみつぎ㲲布せんつむぎとうぶつよんひゃくだんかずあや霍孫ごと:「ふゆ中山ちゅうざん奸民薛寶じゅうため匿名とくめいしょらいじょう,妄效東方とうほうついたちしょ,欺罔朝廷ちょうていまれ覬官しょう。」敕誅またげん:「自今じこん應訴おうそごとしゃ必須ひっすしょ其事,赴省、たいひねつげ。其敢以匿めいしょつげごとじゅうしゃしょけいしゃりゅう遠方えんぽうのうはつ其事しゃきゅう犯人はんにん妻子さいし,仍以鈔賞またおもね合馬おうませんせい,衙門ふとし冗,きょ俸祿,むべりゅう秉忠、もと所定しょてい,併省ため便びん。」みなしたがえこれしつらえつとむのう。敕諸事しょじ赴省、たい訴之,けつ不平ふへいしゃもとまいとう聞鼓いんげき以聞。あずか備征日本にっぽんぐんかてれい高麗こうらいこくじゅうまんせき。以阿とううみきゅうためせいひがしゆき中書ちゅうしょしょう丞相じょうしょうへいとらはつまもるぐんまんにんせい日本にっぽんはつさん千錠糴糧于察罕腦兒,以給ぐんたくみ。以燕みなみ河北かわきた山東さんとうしょぐん去歲きょさいひでりぜいかて在民ざいみんしゃけんとま勿徵。仍諭:「自今じこんかんみんかん,凡有わざわいきずさる,及按察司卽行そっこうしゃみなざい。」刑部おさかべ尚書しょうしょちぇ彧言せいじゅう八事やごとみことのり中書ちゅうしょしょうあずか大夫たいふだまそくじょうぎょうやめうえかいえきちょうしげるはくようおびとうふねざい于烈堝都さん乾山けんざんじゅうよんまんせんゆうおこりしょぐんねん及丁しゃせんにん民夫たみおさんせんにんうんおのれ太陰たいいんはんのきながえおんなたまもの諸王しょおう也里とうおさめあいやつ赤金あかがねかくじゅうりょうきむころもふすまいち庚午こうご以平いたいら造船ぞうせんうんしょとおみんつかれ於役,徙於かわづくりみずのえさるだいげん:「つばめみなみ山東さんとう河北かわきた去年きょねんひでりわざわい,按察やめ嘗閱,而中しょ不為ふためそうまぬかれみんなん以堪。請權とまぜいかて。」せい曰「」。うつり鞏昌按察あましゅういのちみぎすすむ闍里じょうまんさんじゅうにんこうむぐん習舟しゃせんにんさがせあかまんにん、習水せんしゃひゃくにんせい日本にっぽんちょううし,以招討楊廷(かべ)〔璧〕ためせん慰使,[16]たまもの弓矢ゆみやくら勒,使つかいさとし俱藍とうこくおのれいのちしょぐん習舟檝,きゅう鈔八せんじょう於隆きょうせんとくとうしょ糴以贍之。かのえたつ太陰たいいん入南にゅうなんみずのえうまくるま畋于近郊きんこう。以四川歸附官楊文安為荊南道宣慰使。あらため廣東かんとんひさげけい按察ためうみきたこう東道とうどう廣西ひろせ按察ため廣西ひろせかい北道ほくどう福建ふっけん按察ため福建ふっけん閩海どう,鞏昌按察ため河西かさい隴北どうみずのとばちゆるがせらん及塔剌不罕等四千戶隸皇太子位下。みずのえいぬ[17]敕於禿かぶろれつ禿かぶろとう富戶ふと內貸うしろくひゃくとうきゅう乞里(いにしえ)〔きちおもえ貧乏びんぼうしゃ[18]

がつ戊子ぼしていりょうこう四川しせん戍軍さんねんいちさら,廩其ぞくぐん官給かんきゅう俸以贍之。たまもの俱藍國王こくおうかわら你金たまもの駙馬おもね禿かぶろ江南えなみんせん。以春秋しゅんじゅうなかがつじょうつちのえさい社稷しゃしょく及武なりおうかのえとら太陰たいいん掩昴。癸巳きし,敕斡だつぜに仍其きゅうちょうとりきゅうべつじゅうはちさと屯田とんでんぐんせんふすまかのえ,敕權貴所きしょうらない田土たどりょうきゅう各戶かっこそとしゃ悉以與おびえ薛帶とうこうげん四川しせんかん,併西川東かわひがし西にしきたさんみちせん慰司,及潼かわとう鎮守ちんじゅまんしんぐんそうかんたけし、灌、しげとうしゅうやすなでじゅうよんしょよる太白たいはくはんすばるからしうしじょうぐん官選かんせんかくたて官吏かんり贓罪ほうみずのえとら太白たいはくはんすばるおつれいたかし興行こうぎょうしょうぐん護送ごそううらないじょうかてせん太陰たいいんはんしん丁未ていみじょうやすほら酋長しゅうちょう兄弟きょうだいにゅう覲,敕給えきおのれとり,陞闌のこかん秩正ひんみずのとうしさとし中書ちゅうしょしょう:「大事だいじたてまつ聞,小事しょうじ便宜べんぎぎょう,毋致稽緩。」きのえとらくだふと醫院いいんためなおかんあらためきゅうどうしるし立江たつえみなみとうしょかんつつみ舉司。たまもの日本にっぽんぐんかん八忽帶及軍士銀鈔有差。[19]敕遣かんろくあげしゅう囚徒しゅうと

さんがつちょう諸王しょおう勝納かつないごうしつらえおうかんさんいん。以萬戶不都蠻鎮守金齒。やめおんなちょくみやつこ日本にっぽん出征しゅっせいせんやめ河西かさいこうだいたて鞏昌とうしょぎょうこうやめ福建ふっけん舶總かんそんひさげ舉司。併泉州せんしゅうゆきしょういれ福建ふっけんゆきしょうめん福建ふっけんちょうなえぜい。以闊闊你あつし治江はるえ淮行しょうあるげん其過,いのち兀奴ゆるがせたいはくがおつちのえうま,以新ほら蠻酋ちょうためせんおのれさいほしはんかぎ閉。やめきょうちょうぎょうはぶけだてぎょうこうだいしんごと:「ひら造船ぞうせん五臺山ごだいさんづくりてら伐木ばつぼく,及南城なんじょうけん新寺にいでら,凡役よんまんにん,乞罷。」みことのり:「伐木ばつぼくけんてらそくやめこれ造船ぞうせん一事いちじ,其與しょうしん。」ぜん後衞こうえいぐんねがいせい日本にっぽんしゃいのちせんとめまもるかんぐんせんあまり,其新軍令ぐんれい悉行。庚申こうしん太陰たいいんはんからしとりしょう諸王しょおうあいはんおとうとせわし兀帶所部ところぶぐん戰功せんこうぎん鈔、幣帛へいはく衣服いふくかくゆうきゅうあましゅう戍軍鈔。みずのえいぬ太陰たいいんはんおにおつうしいのち兀奴ゆるがせ魯帶往揚しゅうろくしゅう江北こうほくじゅうしゅう謫征日本にっぽんたて雲南うんなん按察あきらすりぎょうしょうぶんまきやめ淮安とうしょよなげきんかんおもんみけいかね。以阿合馬おうま綿めん絹絲けんしせんきゅう貧民ひんみん工匠こうしょうきゅうおうでん兀訥ゆるがせじょうただしるしきゅう西川にしかわ福建ふっけんりょう廣之ひろゆき任官にんかんえき。以湖みなみせん慰使ちょうかなえしんぎょうしょうさん政事せいじ樊楫とう嘗阿おもねさとかいきば,敕罷へいとらくるまこううえこう西行さいぎょうしょう參政さんせいかんがおなつけすわえつれい驟陞及妄舉一ひゃくきゅうじゅうはちにんいれかんやめこれやめ河西かさい辦課ひさげ舉司。ちょうしげる增置ぞうちこうむかん察御ろくいん。(おつ)〔おのれ[20]としほしはんぼうみずのととりさいほし掩房。廣州こうしゅうしんかいけんはやしかつらかたちょうりょう鈐等聚眾,にせごうたいらこくしょうのべ康年やすとしごう官軍かんぐんとりこふく誅,あまりとう悉平。おつやめ諸處しょしょやくおっとおもねとうかい戍曲さきかん魯迷しつそちあましゅう新附しんぷぐん往斡はしおのれきゅうかくまもるぐん出征しゅっせい鈔。からしだてかしこわれ四處驛及交鈔庫。みずのえうままつ太一たいちやめ福建ふっけんどうせん慰司,ふくりつぎょう中書ちゅうしょしょう于漳しゅう,以中しょみぎすすむちょうめぐみ為平ためひらあきら政事せいじちゅうすすむ也先じょうため中書ちゅうしょひだりすすむ並行へいこう中書ちゅうしょしょうごとたまもの迷里さつ蠻、ごうはちしつ鈔。にぎわいはち魯怯薛、はち剌合あかとう貧乏びんぼうたまもの皇子おうじ北平きたひらおう所部ところぶうしひつじかくゆう

なつよんがつへいいぬだてべつじゅうはちかずしゅうとうしょせん慰司。かのえとら,敕藥剌海戍守また奚不薛。元帥げんすい速答そくとうかえまた奚不薛,ちゅうぐん成都せいともとめにゅうもと,仍遣じんたむろもりけん隘。以侍まもるおやぐんまんにんすけせい日本にっぽんからし樞密院すうみついんしんごと:「こうむさむらいまもるぐん於新じょうとうしょ屯田とんでん砂礫されき不可ふかしゅ,乞改ばち良田よしだ。」したがえこれみずのえたつおもねとうかいもとめぐんかん習舟かじしゃどうせい日本にっぽんいのち元帥げんすいちょうりん、招討ちょう瑄、そうかんしゅきよしとうぎょう。以高うららおう就領ぎょうはぶけぶんまわし日本にっぽんごとむべかぶとうまげん江南えな諸道しょどう醫學いがくひさげ舉司,よんしょうかくそん其一。めん京畿けいきしょくくごう勢田せたきゅうぜいさん新稅しんぜいさんいち高麗こうらい國王こくおうおう(睶)〔賰〕請以蒙古人こじん同行どうこうしょうごときん近侍きんじためじんもとめかん紊亂びんらんせんほうさるげんしゅきんゆうわたしづくりしゃ財產ざいさん女子じょしぼつかん犯人はんにん配役はいやくさるわたししおきんもと按察糾察しおおのれ太陰たいいんはんぼうみずのえとら太陰たいいんはんみなみみずのと,授高うらら國王こくおうおう(睶)〔賰〕せいひがしゆき中書ちゅうしょしょうひだり丞相じょうしょう,仍駙高麗こうらい國王こくおうおついのち樞密院すうみついんしゅうぐんかんせい日本にっぽんごとむべほどおおとり請明賞罰しょうばつ有功ゆうこうしゃぐんぜんきゅう憑驗,こうはんあらため授,したがえこれかのえいぬみぎすすむ也速たい招撫筠連しゅうじょうしゅうおもねながてのひらとうしょ蠻,どく山都やまとてのひら蠻不くだ進軍しんぐん討之,なまとりこ酋長しゅうちょうとくらんひもとげはんはつだいしょづくりかいかいほう及其たくみちょうはやしひとしづけせいひがしぎょうしょうからし,以征日本にっぽんきゅう後衞こうえいぐんころもかぶと,及大めいまもるてる新附しんぷぐん鈔。むぎうけらひのととうけんまんおく,以罪かん繫者,請付こうむ古人こじんゆうむね:「こうむ人為じんい利所ききどころ汨,また往日おうじつ矣,其擇にんしゃ使。」

五月ごがつおつきゅうあましゅう戍軍なつころもつちのえうま丞相じょうしょうはくがお諸王しょおうしょうわれこたえとうげんせいはる國軍こくぐんよろしさんようこうむ新附しんぷぐんしたがえこれおのれめん五衞軍征日本,はつまんにん赴上たてひら灤造船軍ふないくさ歸耕きこうばちだいみるかんぐん代役だいやく庚申こうしんげんたかしおきあきらしゅう盖里はくかんしお官吏かんりきゅうじゅうきゅうにん,以其ごと隸隆おき定江さだえみなみみんかん及轉うん官公かんこうでん甲子きのえね,徙揚しゅうよなげ金夫かねお赴益たてせいひがしゆき中書ちゅうしょしょう,以高うらら國王こくおうあずかおもねとううみどもごときゅうだかうららこくせい日本にっぽんぐんころもかぶとちゅうすすむちぇ彧言:「江南こうなん盜賊とうぞくしょうつぎ而起,みなえんかかわみずしゅみやつこうみせんみん聊生,日本にっぽんこれやくむべしゅうとどめ江南こうなんよんしょうおう軍需ぐんじゅむべりょう民力みんりょく,勿強以土產所さんじょ。凡給物價ぶっか及民しゃ必以召募しょうぼすいしゅとうしたがえしょほっ。伺民ややわがこれりょく備,さんねんふく東征とうせいばん。」したがえへいとら太陰たいいん掩心ひがしぼしめん江南こうなんみつぐかてさん。敕阿さとかいきば調ちょうかんぐんななせん新附しんぷぐんはちせん,以付唆都したがえせいからしうらないじょうぎょうしょうやめやぶうらないじょう,其國主こくしゅそこ遁去,くだ璽書招徠かぶといぬはつせい日本にっぽんじゅうしゅう往占じょうはるこくとうしょしたがえせいしつらえ高麗こうらいこくすすむのうかんよんいんへいみことのりさとし諸王しょおうしょうわれこたえ:「さき雲南うんなんじゅうしゅうれい便宜べんぎ處決しょけつおそれ濫及無辜むこ自今じこん凡大辟罪,仍須まちほう。」併省こう淮、雲南うんなんしゅうぐん。以耶りつろう哥為中書ちゅうしょまいり政事せいじめん戍軍ぜいきん諸王しょおうおく魯官擾軍以西いせいみなみ蠻夷ばんいゆう謀叛ぼうほんしゃめん西川にしかわただしはるぐんれいせんもり禦。ささえぜにれい各驛かくえき供給きょうきゅうつちのえとらしょひねげんしゃしたがえしょうしゅう行者ぎょうじゃ以聞,不可ふか則明のりあき以諭げんしゃもと按察かんよう弓矢ゆみやかん察御おもね剌渾坐擅免贓錢、糾私釀等ざいやめもちいちゅうすすむちぇ彧言,やめかくみちせんしつおんな。頒行そうぶんおもえいん小口こぐち斛。敕以陝西せんせい按察贓罰ぜに輸於しんおうしょう北京ぺきんひさげけい按察副使ふくし、僉事かく一員いちいんたてうみ西にし遼東りゃおとんひさげけい按察,按治おんなじきみずたちたちおのれむくい諸王しょおうただ必帖きゅうぐんひつじじゅうまんじょう海南かいなん四州宣慰使朱國寶請益兵討占城國主,みことのり以阿さとかいきばぐんまんせんにんおうようおうつもるおうげんみことのり江南えなうんかて,於阿八赤新開神山河及海道兩道運之。たて斡脫そうかんからしきゅううらないじょうぎょうしょう唆都弓矢ゆみやかぶと仗。

ろくがつへいいぬさるいむわたしえき金銀きんぎんきん。以甘しゅうあるきしょう參政さんせいおう椅為中書ちゅうしょまいり政事せいじめんだい及平灤路こんとしいとりょう江南こうなん遷轉かんこれにんしゃつえついだつところ受宣敕。戊子ぼし,以征日本にっぽん民間みんかん騷動そうどう盜賊とうぞく竊發,ゆるがせちょうせわしおび乞益へい禦寇。みことのり以興こくしゅうぐんづけおのれうしぞう官吏かんり俸給ほうきゅうかのえとらてい舶抽ぶんれい,舶貨せいしゃじゅういちあらしゃじゅうこれこれいち〕。[21]五衞軍人修築行殿外垣。いのち諸王しょおうゆるがせきばしつらえだんごとかん[22]へいさるはつぐんおさむかんだい都城みやこのじょうからしうしはつぐん修築しゅうちくつつみせきつちのえさるようはくがおとうげんしょくくそうしゅごうぐんはちまんさんせんろくひゃくにんたてぱいかぶとしつらえかん以統,仍給衣糧いりょうかのえいぬりゅう叛賊ひね吊眼つりめ叔陳かつらりゅう於憨こたえまごからし,四川行省參政曲立吉思等討平九溪十八洞,以其酋長しゅうちょう赴闕,てい其地たてしゅうけん,聽順もとみちせん慰司節制せっせい。以向ゆうとうまた)〔またともえしょほらやすなで大使たいし及安なで使

あきなながつみずのとうしついたち,蠲建やすしいたりもとじゅうななねんまえ未納みのうなえぜいへいたつめんちょうこつ嵬軍さとしおもねとううみしょづくりせい日本にっぽんせんむべしょうなるこれしょかかわ商船しょうせん,其悉きゅうかえおもね里沙りさすわ虛言きょげん惑眾誅。太白たいはくはんちょうたまものこねおびとうたまころも庚申こうしん調しらべぐんえき戍雲みなみへいとらたてまた奚不薛宣慰司,えきへい戍守。ひらき雲南うんなん驛路えきろぶんまた奚不薛地為三ためぞうしつらえかんなで治之はるゆきみずのと太陰たいいんはんみなみおつうし太白たいはくはんちょうしげるやめ淮南ワイナンよなげ金司きんじ,以其かえみんせき庚午こうご,熒惑はんかい新附しんぷかんしゅうぶんえいいれ,其贄れいぎんまんりょうかねよんじゅうじょうてつはな匿為おのれゆうみことのりそく家搜やさがし閱,沒入ぼつにゅうかん帑。敕捕おもね合馬おうま婦翁ふおう尚書しょうしょ蔡仲えいしるしつぐなえしょかしかんじゅうまんじょうおもねはちあか、姚演以開神山かみやまきょうみぞおかせようかんせんよんひゃくじょうおり閱糧まいななじゅうさんまんせきみことのりちょうつぐなえ,仍議其罪。みずのえさるまた奚不薛軍民ぐんみん千戶宋添富及順元路軍民總管兼宣撫(つかさ)〔使つかいおもねさととうらいくだ[23]はん,以羅おに酋長しゅうちょうおもねとぎ及其從者じゅうしゃにゅう覲。たてまた奚不薛總かんいのちおもねさとためそうかんへいげん江南えな十道宣慰司官一百四十員為九十三員。敕上しょうぜいろくじゅうふんいちめんだいひら灤兩こんとし俸鈔。たてそうきょういん,秩正さんひんちょううしいのち按察つかさあきらすり吐蕃せん慰司ぶんまきたてしきぐん淮西盜賊とうぞく。淮東せん慰同そう廷秀わたしやくぐんよんじゅうにんつえ而罷かのえたつきゅうゆるがせちょうとうぐん貧乏びんぼうつぐなえおびえごうおもえとうひつじ鈔。

はちがつみずのと,以明察平あきらぐん國重くにしげごと商議しょうぎ公事こうじたてふところらいよなげきんしょかぶとうま,敕大めいじょう北京ぺきんまもるてるよんたむろちゅう新附しんぷぐん於東おひがしきょう屯田とんでんやす南國なんごく使つかい以方ぶつ入貢にゅうこう丙午ひのえうま太白たいはくはんのきながえ丁未ていみさいほしはんかぎ鈐。浙西どうせん慰使弼言:「ころ以征日本にっぽんせんひゃくそうしょ民間みんかんみんびょうむべおもねはちあか所有しょゆうせん修理しゅうり以付おもねとうかい,庶寬民力みんりょく,并給鈔於沿海えんかいつのみずしゅ。」したがえこれ濟州さいしゅう新開しんかいかわなりたてこげうんかのえいぬしょうかえやく宿衞しゅくえいぐんたまもの皇子おうじきた安王やすおう所部ところぶぐん鈔、ひつじ

きゅうがつみずのえ太白たいはくはんのきながえ少女しょうじょつちのえうまごう剌帶とう招降象山ぞうざんけん海賊かいぞくゆう宗祖しゅうそとうきゅうせんひゃくきゅうじゅうにん海道かいどう以寧。太陰たいいんはんみずのえ戍,調しらべはじむへいどうせい日本にっぽんへいとらこたえやつこくいん商人しょうにんおもね剌畏とうらいげんねがいこうじゅん。併占じょう、荊湖ぎょうしょう為一ためいち。徙舊城市じょうし肆局いん稅務ぜいむみないれだい減稅げんぜいちょうよんじゅうふんいちしょうしゅ雲龍うんりゅうこげうんこう,授ななひんそう押,仍以幣帛へいはくきゅうおのれ太白たいはくはんみぎほうからし,以歲とうひらくしょみちしゅきん廣東かんとんとうおこりへいまんにん討之。みずのえさる太陰たいいん掩井。みずのととり,熒惑はんおにかぶといぬ太陰たいいんはんおに,熒惑はんせきしかばね太白たいはくはんひだりほうつちのえとら弼陳弭盜さくためくび及同はかりごとしゃ屯田とんでん淮上,みかどしか其言。みことのり以其ごとづけ弼,賊黨ぞくとうこうしゅ內地,其妻孥送京師けいし以給たかぼうじんとう

ふゆじゅうがつかのえとらきゅうせい日本にっぽん新附しんぷぐんさんまんじょうみずのえたつくるまゆかり北口きたぐちいたりうえ癸巳きし,斡端せん慰使りゅうおんしんよしみ禾,どう穎九七穗ななほろくしゃかくいちかぶとうま以平いたいらあきら政事せいじさつため樞密すうみつ副使ふくしみことのり:「まもるぐんさい以冬十月聽十之五還家備資裝,正月しょうがつばん上代じょうだい其半かえよんがつ畢入やく。」かくまもる先遣せんけんななにん,而以さんにんだいしたがえこれ乙未おとみとおる于太びょうへいさる太陰たいいんはんすばるちょうとり,誅占じょう逃回にげまわぐんせわし兀帶請增こうむかんぐん戍邊,したがえこれ。以忽ゆるがせそうあげしゅうあるきしょう唆都しんえきぐんかのえもとおもねはやたいぐん兄弟きょうだい代役だいやくたてやすしかんぐんそうかんはな叛,眾幾じゅうまんごう頭陀ずだぐん偽稱ぎしょうそうさちきょうねんはんたかしやす浦城うらしろとうけんかこえたてやすしみことのりぼく憐吉たいふみ弼等將兵しょうへいまんせんにん討平。耶律やめみずのえとらたてひがしおもねいたり河水こうすいくがえき,以便遞運。徙濟しゅう潭口えき於新かわ魯橋鎮。きゅうあましゅうおさめ硫黃いおう貧乏びんぼう鈔。みずのと諸王しょおうただ必帖請括閱常德じょうとく分地ぶんちみんもと中書ちゅうしょしょうしん孕:「おもねはちあか新開しんかいかわしょみな有倉ありくらむべみやつこ小船こぶねぶん海運かいうん。」したがえこれ中書ちゅうしょしょうしんごと:「押亦迷失嘗請さとし江南こうなんしょぐんつの人種じんしゅ淮南ワイナンこん乃往かくぐんてんおさむみんぎょうしょうかん闊闊你敦げん其非便びんむべれい其於しょ召募しょうぼ不可ふかきょうみん。」したがえこれつちのえさる給水きゅうすいたちたち鰥寡孤獨こどくしゃきぬせんひき、鈔さんひゃくじょうたてかず林平りんぺいじゅんくらかんけん覈都えきよなげきん欺弊。やめ中興ちゅうこうかんつつみ舉司及北京ぺきんしおてつ課程かていひさげ舉司。おのれとり,簽河西かさいただしぐんねん及丁しゃたかしぐんかのえいぬかくみちひさげけい按察增設ぞうせつ判官ほうがんいん

十一月じゅういちがつみずのえしょうふとはなだつ歡等戰功せんこうぎんぬさみずのとうしそうかんちんよしねがい備海せんさん十艘以備征進,みことのり授義まん,佩虎はつめいとらおこりうみぬすめ,內附,其兄ため招討,ためそうかん。敕凡盜賊とうぞく必由かんみんかん鞫問,仍不もとわたしちょういのち各省かくしょうしるし授時れき諸王しょおうただ必帖請於分地ぶんちじゅう四城自設管課官,したがえまた請立かかわ課稅かぜいしょ,其長したがえしょう所定しょてい次則つぎのりおうしつらえしたがえこれみことのり:「だい田土たどなみれい輸稅;あましゅうしんくく田土たどうね輸租さんしょう。」おのれ,吏部尚書しょうしょりゅうこうれい以吉利吉としきちおもえ風俗ふうぞくごとむべじょうみずのえ戍,ふくりつ南京なんきんせん慰司。おつうしやめひらけしろ)〔なりみち屯田とんでんそうかんいれひらけしろ)〔なり[24]隸京ちょうせん慰司。つちのえたつたてつかさみのりてのひらかんていしゃ人民じんみんきゅう諸王しょおう所部ところぶ撒合、兀魯とうひつじ,以賙其乏。河西かさいかんさんよう漢人かんど。徙甘肅沙州民しゅうみん復業ふくぎょうだい都城みやこのじょうもんしつらえもんじょうちょううしきん雲南うんなんかんかん於常がくがいぜにつちのえとらきん雲南うんなん權勢けんせいさいいき,仍禁ぼつ人口じんこうためやつ,及黥其面しゃ太白たいはくとしほししょうはんおのれしたがえ諸王しょおううけらしろこうむおびとう請,しょう也禿いにしえとうぎん鈔,以旌戰功せんこうたまもの皇太子こうたいしせんじょう。以御だい贓罰鈔賜おびえ憐口。

十二月じゅうにがつかのえたつついたち〕,たまもの諸王しょおう渾都じょうころもぶつゆるがせ所部ところぶぐんぎん幣帛へいはくかぶとさるたまものべつそくたい所部ところぶぐん衣服いふく幣帛へいはくななせんうませんしょう西番にしのばんぐんかんあいおさめはち斯等戰功せんこうからし,以茶ゆるがせ所管しょかんぐんろくせんにん備征日本にっぽんみずのえたつきゅう諸王しょおうおもねただよしうし。以中しょ參議さんぎぬるすすむ罕禿魯花かどひんおもね權勢けんせいたまものひゃくじょうやめおんなちょく出產しゅっさん金銀きんぎんきんかぶとうまきゅう鈔四萬錠和糴于上都。きゅう閽衞貧者ひんじゃにんじゅうじょうからしうしたまもの諸王しょおうむかしれつもんとうぎん。以海どううんかて招討使しゅきよしためちゅうまんたまものとらちょう瑄子ぶんとらためせん賜金しきん。徙新かんつかまつ內郡。以蠡しゅうかえ隸真定府じょうふみずのとはつあわにぎわいすいたちたちよんじゅうきゅう站。かぶとたつ太陰たいいん掩熒惑。丙午ひのえうまやめ雲南うんなんづくりうり金箔きんぱくぶんまわし措所。やめ雲南うんなん元帥げんすい及重しつらえ官吏かんりていしつれい,凡大かん子弟してい赴京つちのえさるくもみなみほどこせしゅうわらわきょうへいためみだれ,敕參政事せいじおもねごうはちしつそちへいごう斯脫あい討之,きゅうぬのまんひきにぎわいおんなじきひだるみんいちせん

これさいだん死罪しざいひゃくななじゅうはちにん

校勘こうかん[编辑]

  1. おう(睶)〔賰〕 まききゅう校勘こうかん[きゅう]。したどう
  2. えきせんおうちょいたりごう謀殺ぼうさつ 按本書卷しょかんおもね合馬おうまつたえ,此事繫戊とらぞくつうかんしょつちのえとら」,うたぐ
  3. 六月己丑朔日有食之 邢雲古今ここんりつれきこううん:「推是ねんろくがつついたちつちのえうま,交泛じゅうよんにちきゅうじゅうはちこく不入ふにゅうしょくげんおうしょくいたりなながつつちのえうまついたち,交泛きゅうこくにゅうしょくげん日食にっしょくごうなんげんおもろくがつついたちしょく耶?したがえ無比むひしょくかくまもるけいろんしょう矣。あに以守けいじゅう八年方定授時而不辨此?此必修史しゅうししゃあやましょ也。」
  4. すすむ)〔縉〕やま まきよん校勘こうかん[いち]。
  5. みずのととりせん慰孟けいもと萬戶孫勝夫使爪哇回 按上ぶんやめしょみずのととり」,此衍,こん刪。
  6. (授)〔受〕皇太子こうたいし諸王しょおう百官ひゃっかん朝賀ちょうが したがえきたかんほんあらため
  7. 楊庭(けん)〔璧〕 よりどころほん書卷しょかんいちうまはちとうこくでんあらためるいへんやめこう
  8. そく)〔剌〕 よりどころぶんいたりもとじゅう三年九月乙丑條及本書卷一三四迦魯納答思傳、まきいちうまはちとうこくでんあらためこうむやめこう
  9. ちょう 按是がつちょうついたちひのと。此「ちょうざいみずのととりじゅうななにちつちのえとらじゅうにちあいだうたぐためおつじゅうきゅうにちあるひのとうしじゅういちにちこれあやま
  10. みずのえさる 按是がつじょうぶんやめゆうみずのえさるじゅうろくにち,此重見しげみみずのえさるざいからしじゅうにちうたぐためみずのえうまじゅうろくにちあるかぶとさるじゅうはちにちこれあやま
  11. また)〔またともえほら よりどころじょうぶんいたりもとじゅう六年正月丙子條及元文類卷四一經世大典序錄招捕改。按下ぶんいたりもとじゅうねんがつみずのえうまじょうさくみぎともえ」,「また」、「みぎ同音どうおん異字いじしたどう
  12. かわ)〔はやし戍還ぐんこう うえぶんいたりもとじゅうななねん九月癸亥條有「いのち沿途廩食りんかいぐん」,此處ここら「戍還ぐんこうそくかずりんかいぐん」。按和りんためもとだい習用譯名やくめい,「おうさくかわ」,こんあらため
  13. みずのえとら 按是がつちょうついたちみずのえとらためじゅうろくにち,其下おうゆう乙未おとみはつきゅうにち此處ここぶんゆうあやま
  14. ちょうあずかひょう)〔𤍟〕 まききゅう校勘こうかん[なな]。したどう
  15. 諸王しょおう必赤じょう うたぐそく本書ほんしょ屢見諸王しょおうただ必帖此處ここら「必赤」たおせますとうさくあか必帖」。按只必帖ため闊端之子ゆきこ分地ぶんちゆうじゅうよんしろあずか駙馬昌吉しょうきちちゅう毗連。此處ここ文正ふみまさなみひさげにん
  16. 楊廷(かべ)〔璧〕 見本みほんまき校勘こうかん[なな]。
  17. みずのえいぬ 按是がつへいたつついたちみずのえいぬためはつななにち此處ここ繫癸ひつじじゅうはちにちとうかかり錯簡さっかん
  18. 乞里(いにしえ)〔きちおもえ 按此めい本書ほんしょゆうよし利吉としきちおもえ」、「乞力きちおもえ」、「乞兒ほいときちおもえ」、「乞里きちおもえ諸譯しょわけ此處ここらいにしえ」、「きちかたちきん致誤,こんあらため
  19. たまもの日本にっぽんぐんかん八忽帶及軍士銀鈔有差 按文意ぶんい,「たまものしもとうゆうせい
  20. おつ)〔おのれ 按是がつおつついたちおつ。此「おつざいちょうしげるじゅうさんにちみずのととりじゅうきゅうにちあいだためおのれじゅうにちこれあやまこんあらためみち光本みつもとやめこう
  21. あらしゃじゅうこれこれいち〕 よりどころほん書卷しょかん九四食貨志及元典章卷二二市舶改。
  22. 諸王しょおうゆるがせきば こううん:「うたぐそく鎮遠おうきばゆるがせ也。」
  23. 宣撫せんぶつかさ)〔使つかいおもねさと 按「つかさため官署かんしょ,「使つかいため官職かんしょく此處ここら使つかいあやまさくつかさ」,こんあらため
  24. ひらけしろ)〔なり〕 まきいち校勘こうかん[いち0]。

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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 まき十一といち かえしかいいただき まき十三じゅうざ