げんふみ/まき015

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 まき十四とし もとまきじゅう
本紀ほんぎだいじゅう
まきじゅうろく 

じゅう

じゅうねんはる正月しょうがつにち烜復走入はしりかい,鎮南おう以諸ぐんおい及,引兵かえ交趾じょういのちがらすはた水兵すいへいむかいちょうぶんとらとうかてせんまたはつへいおさむ其諸寨,やぶこれおのれうしみことのりこう淮省かん內並聽忙兀帶節制せっせいかのえとら祭日さいじつ于司天臺てんだいたまもの諸王しょおう你赤ぎんひゃくりょうたまいちさくにしきころもいちかさねたま都銀とぎんせんりょうたまいちさくにしきころもいちかさねからし尚書しょうしょしょうしんごと:「はつ以行しょうおけ丞相じょうしょうあずか內省べつやめこれ今江いまえ淮省たいらあきら政事せいじせわし兀帶しょすべこうことしげる,乞依ぜんため丞相じょうしょう。」みことのり以忙兀帶ためみぎ)〔ひだり丞相じょうしょう[1]以蘄、しゅうことぶきあきらぐん隸湖こうしょう。毀中すべ鈔板。乙未おとみしょうせいあずまいさおしたがえ輿こしはた吏陞散かんかいぐん鈔人さんじょうしたがえ皇孫こうそんはた吏陞散かんいちかいぐん鈔人じょうことしゃきゅう其家じゅうじょう。凡為鈔四まんいちせんよんひゃくじゅうじょうちょうとり使つかいだいまつたけ、瀆、東海とうかいきさきつちのえいぬ大赦たいしゃ。敕弛りょう漁獵ぎょりょうきんおもんみ毋殺孕獸。みずのえとらこううらら使つかい來貢らいこうかたぶつしゅうぞくなな百餘人焚掠封州諸郡。循州ぞくまんにんかすめうめしゅうみずのとうみはんあたり。敕駙うま昌吉しょうきち諸王しょおう也只れつ,察乞ごうりょうせんみなはつへいしたがえ諸王しょおううけらはくきたせいたまもの諸王しょおうまた憐真きょくさんまんじょうてのひらきち舉兵叛,諸王しょおうはいこたえ罕遣はたおいいたりはちたて渾,及而還。かぶとたつ,也速はな謀叛ぼうほん逮捕たいほいたり京師けいし,誅之。おつ太陰たいいんはんかく。蠻洞じゅうはちぞく饑餓きが死者ししゃひゃく餘人よにん,以鈔千五百錠有奇市米賑之。丙午ひのえうま,畋于近郊きんこう以平いたいらこうしおへい屯田とんでん于淮ひがし西にしくいしゅうれんとし大水おおみずにぎわい其尤貧者ひんじゃつちのえさる太陰たいいんはんぼうおのれとりみことのり中興ちゅうこう西にしすずしとく沮壞かわみぞりょう淮、りょう浙無とく沮壞としはつ海運かいうんまいじゅうまんせきにぎわいりょうしょう軍民ぐんみんひだるしゃからししょう盒局いれしょみち金玉きんぎょくじんたくみそうかんみずのとうしみことのり:「こうだいつかさみのりかくみちすすむのう營田巡行じゅんこうすすむ,舉察勤惰きんださいしゅうけんすすむのうかんじつ迹,以為殿どのさいみち經歷けいれきかんけんいん以下いかなみ裁決さいけつある怙勢さくおかせかんがいのうしゃしたがえひさげけい按察つかさきわむ。」つのみんのうこう江南えな曠土及公しゃめん其差やくさんねん,其輸租免さんふんいちこう淮行しょうげん:「りょう淮土曠民寡,けん并之みな輸稅。またかんななじゅうあまりじょうとめ屯田とんでん兩所りょうしょむべ增置ぞうち淮東、西にし兩道りょうどうすすむのう營田とく使こう。」せい曰「」。

がつちょうあらため濟州さいしゅうこげうんためこげうん,併領ずみ南北なんぼくこげ京畿けいきこげうんおもんみ京畿けいき。鎮南おう引兵かえ萬劫まんごうがらすむかいちょうぶんとらとうかてせんいたりしょしょう以糧つきおいむべぜん而還,鎮南おうしたがえこれつちのえうまいのちにわせいかんへいせん東征とうせいたまもの平江ひらえよしみきょうよんごろ庚申こうしんつかさ撒里蠻等しん祖宗そそう實錄じつろくみかど曰:「ふとしむねごとそくしか,睿宗しょう有可ゆか易者えきしゃ定宗さだむねかたひまきゅうけんそうなんじどく不能ふのう憶之耶?なおとう詢諸知者ちしゃ。」ちょうだい都南となんしょみちしょ扈從こしょう赴京,官給かんきゅう芻粟れい糴之,擾諸縣民けんみんりょうたけ平等びょうどうしょひだるじょ今年ことし租賦及歲てんがわ。浚滄しゅうしおうんみぞからしとりせわし兀帶、ゆるがせゆるがせげん其軍さんねん荐饑,たまものまいひゃくせきみずのえいぬしょう遼東りゃおとんかい西道さいどうひさげけい按察いれ北京ぺきん江南えな北道ほくどうひさげけい按察いれきょう)〔荊〕みなみ[2]敕江淮勿捕てん鵝。たゆぎょ濼禁。へいとらたまもの雲南うんなんおうぬりきん駝鈕しるしあらため南京なんきんため汴梁北京ぺきんため武平ぶへい西京にしぎょうため大同だいどう東京とうきょうためりょう中興ちゅうこうためやすしなつあらため江西えにしちゃうんためてんうん使,并榷しゅぜいあらためかわみぞひさげ舉司ためてんうんこう淮總楊璉ごと以宋宮室きゅうしつためとういちためてらやめなりみことのり以水陸地りくちひゃくじゅうごろやしなえこれみことのりちょうかずらひろしやま隱士いんしりゅう彥深。かぶといぬぶたしゅうひでりみんひだる,蠲其租四せんななひゃくせきおのれ,以高うらら國王こくおうおう(睶)〔賰〕ふくためせいひがしぎょう尚書しょうしょしょうひだり丞相じょうしょう[3]ごう、懿州ひだる,以米じゅうまんせきにぎわいきんりょうしゅ京師けいしすいはつかんまいしも其價せり貧民ひんみん。以江みなみ站戶貧富ひんぷひとしいのち有司ゆうし料簡りょうけん合戶ごうどぜいいたりななじゅうせきとううまいちひきなみめんざつ徭;どくぜいなな十石願入站者聽。合戶ごうどぜいとくじゅうどくぜい無上むじょうひゃくせきからし,以杭しゅう西湖さいこため放生ほうじょうみずのえうま,鎮南王命おうめいがらす、樊楫はた水兵すいへいさきかえほどおおとりとう將兵しょうへい護送ごそう。以御だいかん察御ひさげけい按察舉職,くだみことのりさる飭之。いのち皇孫こうそん雲南うんなんおう也先てつそちへい鎮大とうしょ

さんがつへいいぬしょおうあきら童部わらわべきょくひだるきゅうかてさんがつちょう,熒惑はんふとしほろ東垣ひがしがき上相かみや戊子ぼし太陰たいいんはん畢。くるまかえみや。淞江民えみ曹夢えんねがいとし以米まんせき輸官,乞免徭,且求官職かんしょくくわ哥以ため請,はるか授浙東道とうどうせん副使ふくしあらためきょくやすしそうかんため宣撫せんぶかのえとらだいこううえあらためたけなわのこ所為しょいたけなわのこかん,陞正よんひん。敕遼しょうまた乞列おもえわれ魯兀、さつ剌兒さがせあか懿州東征とうせいにわはるか授尚しょひだりすすむしょく其祿,はたかんへい以行。こう淮行しょうせわし兀帶ごと:「むべじょぐんかんさら調法ちょうほうごとしゃぞうかん[4]やまいゆえしゃくだ一等いっとう。」みかど曰:「父兄ふけい雖死ごと子弟していかちにんしゃやす可用かよう?苟賢矣,のりびょうゆえしゃまた不可ふかくだ也。」からし,以六まもるかんへいせんひゃく新附しんぷぐんよんひゃく屯田とんでんへいよんひゃくみやつこ尚書しょうしょしょう。鎮南おう以諸ぐんかえちょうぶんとらかてせんぐう賊兵ぞくへいせんさんじゅうそうぶんとらげきしょころせりゃく相當そうとう拱辰、じょけい以風とくすすむみないたり瓊州。凡亡士卒しそつひゃくじゅうにんふねじゅういちそうかてまんよんせんさんひゃくせきゆう癸巳きしたまもの諸王しょおううけらはくぎんまんりょう幣帛へいはくかくいちまんひき,兀魯だいつまゆるがせぎんせんりょう幣帛へいはくかくいちひゃくかぶとうまきん鹿しか羔。鎮南おう內傍せき賊兵ぞくへいだいしゅう以遏,鎮南おうとげゆかりたんけん趨盝しゅう間道かんどう以出。乙未おとみ以往いおうとし北邊ほくへんだい風雪ふうせつ,拔突りん所部ところぶ牛馬ぎゅうばたまものまいせんせきちょうとりちゅう蹕野きつねみねいのちおもねたばねとうおびそう京師けいしじょうもりしょぐんおのれ太陰たいいん掩角。みずのえとられいげん:「會同かいどうかん蕃夷ばんい使者ししゃいたりむべれい有司ゆうし倣古しょくみつぎ而為,及詢其風俗ふうぞく土產みやげくに里程りていせき而錄じついちだい盛事せいじ。」したがえこれ。鎮南おうおもえあきらしゅういのちあい魯引へいかえ雲南うんなんおく魯赤以諸ぐんきたかえにち烜遣使らいしゃしんきんじんだいおのれざいおつみことのり江西えにしかん內並聽行尚書しょうしょしょう節制せっせいつちのえさるあらため山東さんとうてんうん使ためてんうん使けんすみみなみ酒稅しゅぜいおのれとりじょ、邳屯田とんでん及靈かべ、(濉)〔睢〕やすし二屯雨雹如雞卵,[5]がいむぎきのえとら,循州ぞくまん餘人よにん寇漳うら泉州せんしゅうぞくせんにん寇長たいみぎわ、贛,畬賊せん餘人よにん龍溪りゅうけいみな討平

なつよんがつへいたつ,萊縣、がまだいひでりひだるいでべい其直にぎわいつちのえうま太陰たいいんはん庚申こうしん,以武岡たけおかたからけい二路荐經寇亂,めん今年ことし酒稅しゅぜい及前とし逋租。からしとりしたがえくだりいずみつかさすなひのとがらす請,おけ鎮撫ちんぶうみせんせんしょ舶提舉司。しょうひら投下とうかそうかんいりたいらざつづくりつつみ舉司にゅうざつづくりそうかんくわ哥言:「いたりもとへいおけおう昌和まさかず糴所,其間必多ぬすめいつわりむべかぎこう扈從こしょうしんしゅごくおおむべぐん站例,じょよんごろそとけんうねせい租。」なみしたがえこれみずのと,渾河けつはつぐん築堤ちくてい捍之。おつうし廣東かんとんぞくただしけん舉等ななにんみなしょう大老たいろう,聚眾はんひょうげかすめきち、贛、みずなでりゅうきょうみなみやす、韶、ゆうみぎわしょぐんれんとしげき能平のっぺいこう西行さいぎょう樞密院すうみついん副使ふくしがつてきまいしつ請益へいこう西行さいぎょうしょうたいらあきらゆるがせてつまた以地こうへい寡為ごとみことのりこう淮省ぶんまん一軍いちぐんまい江西えにし,俟賊ひらめかえつばさつちのえたつ,浚怯れつかわ以溉こうゆたかのう黃土おうどさん民田たみだ庚午こうごたて弘吉ひろきち剌站。みずのととり尚書しょうしょしょうしんごと:「きん以江淮饑,いのちぎょうしょうにぎわい,吏與富民とみん因緣いんねんためかん及於貧者ひんじゃこんくいみずうみしゅうよんしゅうふく大水おおみずみん鬻妻おんなえきしょく,請輟じょう供米きょうまいじゅうまんせきしん其貧しゃにぎわい。」みかど其言。かぶといぬまん安寺あてらなり佛像ぶつぞう及窗かべみなきんかざり,凡費きんひゃくよんじゅうりょうゆう水銀すいぎんひゃくよんじゅうきんりょうしょう新附しんぷぐん逃還かくまもるしゃれいじょみやつこ尚書しょうしょしょう,仍命ぶんどう招集しょうしゅうぞう立直たちなお沽海うん米倉よねくらいのちせい交趾しょぐんかえいえ休息きゅうそくいちさい。敕緬ちゅうぎょうはぶけいたはるちゅういち稟雲みなみおう節制せっせいかのえたつやす南國なんごくおうひね烜遣ちゅう大夫たいふちんかつよう來貢らいこうかたぶつたまもの諸王しょおうしょう薛金ひゃくりょうぎんまんりょう、鈔千錠及幣帛有差。からしたまもの諸王しょおうおもねあかきちきんひゃくりょうぎんまんせんひゃくりょう、鈔九千錠及紗羅絹布有差。いのち甘肅かんせいゆきしょうはつ新附しんぷぐんさん百人屯田亦集乃,陝西せんせいしょうとく鞏昌へいせんにん屯田とんでんろくばんやまみずのと雲南うんなんしょうみぎすすむあい魯上ごと:「自發じはつちゅうけいけい白衣はくいにゅう交趾,往返さんじゅうはちせん斬首ざんしゅ不可ふかかちけい將士しょうし元帥げんすい以下いかこうしゃよんひゃくななじゅうよんにん。」きのえさるみことのり皇孫こうそんなでしょぐん討叛おう魯火まごごう禿かぶろ魯干。

五月ごがつへいいぬ,敕武平ぶへいくくうませんひき戊子ぼし諸王しょおう察合闊闊たい叛,ゆか兀兒これ以來いらいおのれうし,汴梁だい霖雨,かわけつじょう邑,漂麥禾。以左右さゆうおびえ薛衞及漢ぐんせんさんひゃくにんしたがえ皇孫こうそんきたせいかぶとうまはつ五衞漢兵五千人北征。乙未おとみくわ哥言:「なかみつる鈔行たれさんじゅうねんしょうかんみな不知ふち其數,いまやめさらよういたりもと鈔,むべかんぶんどうおけきょくかぎこうちゅうすべ鈔本しょうほん。」したがえこれへいさるたまもの諸王しょおうはちはちきんひゃくりょうぎんまんりょうきむだんひゃくしゃ絹布けんぷとうよんせんひゃく。兀馬らいけんじ璞玉。ちょうとり平江ひらえみずめんしょさけげん米價べいかにぎわい京師けいしあらため雲南うんなんがらす宣撫せんぶためせん慰司,けんかんぐんまんつちのえいぬふくあしだいこしささえ、三叉沽三鹽使司。王家おうけやつ魯忽たい、察罕ふく舉兵はんおのれ雲南うんなんゆきしょうげん:「金沙江きむしゃこう西通にしどおりやすとう五城ごじょうむべきゅう隸察罕章宣撫せんぶ金沙江きむしゃこうひがしえいやすしとうしょじょうむべはい以北いほくしょうほどこせしゅうためきたかつ。」したがえこれみずのえとら,渾天なりうんまいじゅう五萬石詣懿州餉軍及賑饑民。おつやめおきしゅうみつひさげ舉司。營上都城みやこのじょう內倉。丁未ていみ奉安ほうあん神主かんぬし于太びょうつちのえさる太白たいはくはん畢。たまもの拔都不倫ふりんきんひゃくじゅうりょうぎんまん五千兩及幣帛紗羅等萬匹。からし,盂州がらす河川かせんすんだいしゃ如拳。みずのとうしみことのりみずうみこうしょうかん內並聽平あきら政事せいじ禿かぶろ滿まんようたば節制せっせい。遷よんがわ省治しょうじ重慶たーちんふく遷宣慰司於成こううらら使つかい來貢らいこうかたぶつみことのり四川管內並聽行尚書省節制。かわけつ汴梁,ふとしやすしつうもと、杞さんけんちん、潁しゅうみな被害ひがい

ろくがつきのえとらついたち〕,以新ぐんおさむなおしょくきょく庚申こうしんにぎわい諸王しょおうこたえはくきょくひだるしゃ及桂ひだるみんからしとりきんうえ、桓州、おうあきらりゅうきょうしゅみずのえいぬたまもの諸王しょおううけらはく金銀きんぎんみなひゃくじゅうりょう幣帛へいはくしゃまんひきおつうしみことのりこうむ古人こじんそうかんぐん,閱習すいせんちょうしげるまたたまもの諸王しょおううけらはくぎんまんせんりょう幣帛へいはくしゃまんひきふくりつ咸平いたりけんしゅうよんえき。以延やす屯田とんでんそうかんふく隸安西にししょうつちのえたつうみはたくらはくちょだん以兵はんぎょうさとのうかんぐん元帥げんすいおもねさとたいせん却之。みずのえさる,睢陽霖雨,かわ溢害稼,めん其租せんろくじゅうせきゆういのち諸王しょおうおびえ憐口及扈從こしょうしんてんまい以饋將士しょうししたがえ皇孫こうそんしゃふとし醫院いいんひかり祿ろくとうおおとりてら)〔つかさ〕、[6]さむらい、拱衞みな毋隸せん徽院。やめきょうぼうにゅう拱衞みずのととりみことのりふう南海なんかいあきらちょてんためこうゆうあきらちょてんかぶといぬ太白たいはくはんあらため西南せいなんばんそうかん為永ためながやすしおつ,以考じょうちんとめつうもと、杞、ふとしかん五縣大水及河溢沒民田,蠲其租まんせんさんひゃくせきへいきゅうへい五十人衞浙西宣慰使史弼,使つかいにんとうせめちょううし太陰たいいんはんとしぼしはつへい千五百人詣漢北浚井。[7]みずのとしょしゅうぞくやなぎえい青田あおた麗水れいすいとうけん,浙東道とうどうせん副使ふくし耀討平之ひらのこくとみあきらとういちじゅうろくたむろ雨水あまみずいなごがい稼。

あきなながつかぶとさるついたちふく葺興、れいしゅうくらはじめいのちむかしたからあかごう剌赤、貴由たかよしあか左右さゆう衞士えじてんまい輸之,しょうかんとくうん,以備にぎわいきゅうへいいぬじょう、汴梁いなごうん大同だいどうふとしはらしょくらまいいたり新城しんじょうため邊地へんちもうか以南いなんやすみず、贛三路連歲盜起,みん失業しつぎょうめん逋稅まんせんろくひゃくせきゆうたゆやすしなつしゅきんはつ大同だいどうあわにぎわい流民りゅうみんじょう霖雨がい稼,蠲今とし田租でんそあらためもうか所為しょいひさげ舉司。敕征交趾へいかんかえいえ休息きゅうそくいちさいみずのえたつ必闍あか以鈔五千錠往應昌和糴軍儲。あらため會同かいどうかんためよんまろうどつちのえいぬちゅう蹕許どろひゃくきばどう知江ともえ西行さいぎょう樞密院すうみついんごとがつてき迷失じょうげん:「きん以盜おこり廣東かんとんふん江西えにしこう淮、福建ふっけん三省兵萬人令臣將之討賊。しんねがい萬人內得蒙古軍三百,并臣しょせきくだまんにんおけまん,以撒ごうためたちはなあか,佩虎。」みことのりもと。以(沭)〔沐〕かわとう五寨割隸嘉定者,[8]かえ隸馬みずうみ蠻部そうかんおのれ,熒惑はん氐。かのえ太白たいはくはんおににかわしゅうれんとし大水おおみずみんとち而食,いのち減價げんかせりまい以賑、漷二州霖雨害稼,めん今年ことし田租でんそおつ太陰たいいん掩畢。諸王しょおう也真きょくひだるふんせん就食ずみみなみじょうからけん野蠶くわご繭絲けんしため帛。みずのえいのち斡端戍兵さんひゃくいちじゅうにん屯田とんでんいのちろくまもる造兵ぞうへい

はちがつみずのとうしついたち〕,諸王しょおう真言しんごん:「しんきんしょうずみやすし投下とうかこうむぐん東征とうせい,其家みなとぼしくえねがいたまものずみみなみとしぎん使つかいえきまい而食。」みことのりりょうしょうきゅうまいまんせきにぎわいへいたつ,熒惑はんぼう。袁之萍鄉けんしんよしみ禾。みことのりやすわらわ本部ほんぶおびえ薛蒙いにしえぐんさんひゃくにんきたせいおのれ太白たいはくはんのきながえ大星おおぼしからしとりめんしゅうがく田租でんそみずのと尚書しょうしょしょうなりみずのえさる安西あんざいしょうかん內大ひだる,蠲其田租でんそまんいちせんひゃくせきゆう,仍貸あわにぎわいみずのととり,以河あいだとうしおうんけんかん順德じゅんとく廣平ひろへい、綦陽さんてつ冶。へいはつまいさん千石賑滅吉兒帶所部饑民。ちょうすすむ、冀さんしゅういなごちょううしよしみさちさかなだいきむさと三縣霖雨害稼,蠲其租五せんせきかのえたつくるま孛羅うみのう。以咸ひら荐經兵亂へいらんはつ瀋州くらにぎわいぶんまんおくためたからはじめげんあやぎぬげんこうみなもとよん

きゅうがつみずのとついたち,熒惑はんてんだいきつねみねあましゅうひでりひだるめん逋稅よんせんよんひゃくせきへいいぬおけなぎさうめしゅうえきおのれうしけんじ、莫二州霖雨害稼,めん田租でんそはちひゃくせきみずのえたつだい至大しだい乙未おとみやめまゆみしゅうよなげ金戶かねと哇犯かのえ太陰たいいんはん畢。おにこく建都けんとみな使つかい來貢らいこうかたぶつしたがえくわ哥請,營五庫禁中以貯幣帛。みずのと,熒惑はんみなみいのちゆるがせゆるがせみんくつ輸稅。尚書しょうしょしょうしんごと:「自立じりつ尚書しょうしょしょう,凡倉しょつかさかぎかんがえむべおけちょう,秩正さんひんせんあいついざいこく,以甘肅かんせいとうしょぎょう尚書しょうしょしょう參政さんせい禿かぶろれつひつじしか、僉省まことなみためちょう使。」したがえこれ。陞寶鈔總えいみつるなみためしたがえひんあらため八作司為提舉八作司,秩正ろくひんぞうもとたから永豐ながとよはちさくかん吏俸。かのえいぬふとし醫院いいん新編しんぺん本草ほんぞうなり

ふゆじゅうがつおのれとおる于太びょう庚申こうしんしたがえくわ哥請,以省、いんたいかんじゅう二人理算江淮、江西えにし福建ふっけん四川しせん甘肅かんせい安西あんざいろくしょうぜにこくきゅうへい使以為まもるがらすおもえぞうせん慰使軟奴ひろしうけら嘗賑其管內兵站饑くわ哥請しょうたまものぎんせんひゃくりょう甲子きのえねおけとら賁司,ふくあらためためたけまもるへいとらたまもの瀛國こうちょう㬎鈔ひゃくじょう。以甘しゅうてんうん隸都しょうみずうみこうしょうごと:「ひだりみぎ江口えぐちけいほら蠻獠,おけよんそうかんみつるしゅうけんほらひゃくろくじゅう,而所調ちょうかんかしこはばか瘴癘しょうれい敢赴,請以かん人為じんいたち魯花あかぐんかんためみんしょくざつ土人どじんよう。」就擬夾谷さんごうとうななじゅうよんにん以聞,したがえこれ大同だいどうみんはくさち永福えいふくはちにん,以謀ぎゃくふく誅。庚午こうごうみはんあたりくわ哥請明年みょうねん海道かいどうこげうん江南こうなんべい須及ひゃくまんせきまたげん:「やすさんいたり臨清,ためみぞひゃくろくじゅうさとわかひらき浚之,ためこうさんひゃくまん當用とうようさんまんじょうべいよんまんせきしおまんきん。其陸うんおっとまんさん千戶復罷為民,其賦にゅう及芻あわ估為鈔まんはちせんじょうりゃく相當そうとうしかみぞなりまた萬世ばんせい。請以今冬こんとう備糧來春らいしゅん浚之。」せいへいはじめづくりてつけんかぶと。瀛國こうちょう㬎學佛法ぶっぽう于土ばんおのれ,也不入寇にゅうこうしつ引兵奮擊とうおびはんゆるがせ剌忽、おもねとううみとうせん却之。みことのりめん儒戶ざつ徭。尚書しょうしょしょうしん請令しゅうけんいんしょつかさふんどうかぎこう江南えなぐん學田がくでんしょいれともあまり,貯之しゅうけんいん,以給多才たさい藝者げいしゃしたがえこれきゅうくらかん俸。こううらら使つかい來貢らいこうかたぶつ

十一月じゅういちがつみずのえうまついたち〕,鞏昌荐饑,めん田租でんそはん,仍以鈔さんせんじょうにぎわい其貧しゃ。以忽撒馬丁ばていため管領かんりょう甘肅かんせい陝西せんせいとうしょ屯田とんでんとうたち魯花あかとく斡端、しつごう工匠こうしょうせんじゅう屯田とんでんちょう金齒きんば使つかいみつげかたぶつ。以山東さんとう東西とうざいどうひさげけい按察使なんさかえため中書ちゅうしょしょうさん政事せいじおさむ國子くにこかん以居かぶときんゆう分地ぶんちしんわたしやく富室ふむろためしば米戶こめど及賦がいざつ徭。やなぎ州民しゅうみんとくきよし叛,しお州民しゅうみん蔡猛とうこばめころせ官軍かんぐんなみふく誅。かのえとらゆか哥里あい引兵はんけんしゅうころせさんひゃく餘人よにん,咸平大震たいしんからし,兀良ごうひだるみん殍死,きゅうさんがつかてみずのえたつやめたてあきら屯田とんでんそうかん癸巳きしたまもの諸王しょおう也里(せん)〔かねじゅうりょう[9]ぎんせんりょう、鈔せんじょう幣帛へいはくしゃとうせんひき。也速たいきばりんうみ剌孫こねひつじさるゆるがせこたえりょう叛王以歸。かぶとうま北兵きたへいはんあたりみことのり福建ふっけんしょうかん內並聽行尚書しょうしょしょう節制せっせいへいさるごう迷裏みんひだるしゅ不入ふにゅういのちあいきばあか屯田とんでんあまりかてきゅうおのれいのちおもえ衍為れいさむらいろうたかし國信くにのぶ使,以萬奴為兵部郎中副之,どう使つかいやすみなみみことのりさとしひね親身しんみ入朝にゅうちょういやのり必再へいだい都民とみんきちとう請立くわ德政とくせいしたがえこれからしうしうま八兒國遣使來朝。じょうれつめつ入寇にゅうこうかぶとたつ,以鞏あきら便宜べんぎ總帥そうすいすべ五十餘城兵民事繁,あらためためせん慰使けん便宜べんぎ總帥そうすいあらため釋教しゃっきょうそうせいいんため宣政のぶまさいん,秩從いちひんしるしようさんだい,以尚しょみぎ丞相じょうしょうくわ哥兼宣政のぶまさ使かのえいぬえき咸平戍兵さんひゃく

十二月じゅうにがつおつたまもの按答禿かぶろとうきんせんひゃくじゅうりょうぎんじゅうまんせんりょう、鈔まんせんじょう幣帛へいはくぬの㲲布まんさんせんろくひゃくろくじゅうろくひきいのちうえつのひとうんまいまんせき赴和りんおうあきらうんまいさんまんせききゅう弘吉ひろきち剌軍。ちょううみひょうはんあたり,拔都也孫だつ迎擊げいげきさきやすわらわ將兵しょうへい臨邊,ためしつ里吉さとよししょ一軍いちぐんみなぼついたりはちとなりらい從者じゅうしゃさんひゃくきゅうじゅうにんたまものまんせんひゃくいちじゅうさんじょうからしとり太陰たいいんはん畢。みずのとおけだいとうみんたくみとうそうかん甲子きのえね太陰たいいんはんからしくわ哥言:「ゆう分地ぶんちしんれい以貧とぼしためやめまれ覬賜あずかざいてん墜地みな於民,苟不まき出入でいりおそれこくよう不足ふそく。」みかど曰:「自今じこん不當ふとうきゅうしゃなんじそくとうきゅうしゃむべくつがえそうちんしょ。」きのえいぬ太陰たいいんはん亢,熒惑はん壘壁るいへきじん安西あんざいおうおもねなんこたえらいつげ兵士へいしひだる,且闕槖駝,みことのりきゅうまいろくせんせき及槖駝百。おつあたまぞくちょうおさむ囝掠泉州せんしゅうめん泉州せんしゅうこんとし田租でんそへい,也速はな以昔れつもん叛。甘肅かんせいゆきしょうかんやく諸王しょおうはちはちはいこたえ罕、駙馬昌吉しょうきちごうへい討之,みな自縛じばく請罪。どくむかしれつもん以其ぞく西にしはしついいたり朵郎おび,邀而これ,以歸于京かのえたつろくまもる屯田とんでんひだるきゅうさらきゅうさんせんにんろくじゅうにちかて高麗こうらい國王こくおう使つかい來貢らいこうかたぶつたまもの諸王しょおうあいきばあいあかとうかねせんりょうぎんいちまんはちせんさんひゃくろくじゅうりょういとまんりょう綿めんはちまんさんせんひゃくりょうきむぬさいちせんひゃくひききぬせんきゅうじゅうはちひきたまもの皇子おうじあいきば赤部あかぶきょくとうひつじじゅうきゅうまんひゃくよんじゅうななじょううままんろくせんきゅうひゃくいちじゅうよんひつじじゅうまんひゃくいちじゅう、駝八、うしきゅうひゃく。賙諸おう貧乏びんぼうしゃ,鈔じゅういちまんろくひゃくじょううまろくせんななひゃくじゅうひつじいちまんせんはちひゃくじゅうななうしよんじゅうたまもの妻子さいし貲沒于寇しゃ,鈔さんまんせんはちひゃくはちじゅうじょううまひつじひゃくつぐなえ以羊諸物しょぶつきょうぐんしゃ,鈔千ろくひゃくななじゅうよんじょううまよんせんさんひゃくじゅうひつじさんまんよんせんひゃくきゅうじゅうきゅう、駝ななじゅううしさんじゅうしょう寇中拔歸しゃ,鈔四せんななじゅうはちじょういん雹、かわ溢害稼,じょみんまんせんはちひゃくせきいのちまたおもえあさとうなな百餘人作佛事坐靜于玉塔殿、寢殿しんでん萬壽山まんじゅやま護國ごこく仁王におうとうてら凡五じゅうよんかいいのちてんちょう宗演そうえんしつらえさんにち。以光祿ろくてらちょく隸都しょうおけ醴源くらふんふとしくら麴米藥物やくぶつ隸焉。以滄しゅう軍營ぐんえいじょうため滄溟そうめいけん,以施しゅう清江きよえけん隸夔そうかんやめ安和あわしょだいつかさみのりげんこう曠地さんせんひゃくななじゅうごろたて學校がっこうまんよんせんよんひゃく餘所よそせきかてさんじゅういちまんせんひゃくせきだん死罪しざいきゅうじゅうにん

じゅうろくねんはる正月しょうがつへいいぬ地震じしんみことのりこう淮省せわし兀帶あずか魯迷しつうみきば及月てき迷失ごうへいしん討羣とうたいらしゃおのれうしはつへいふさがすな陀間てつれつかわからし,拔都不倫ふりんごと其民せんいちひゃくじゅうはち貧乏びんぼうたまものぎんじゅうまんせんいちひゃくじゅうりょう。徙江州都しゅうとてんうん使つかさおさむりゅうきょうすなひのと上市うわいち舶司とし輸珠よんひゃくきんかねさんせんよんひゃくりょうみことのり貯之以待貧乏びんぼうしゃごう入寇にゅうこうつちのえいぬ,以荊みずうみうらないじょうしょうひだりすすむから兀帶ふく按的ゆるがせ都合つごうためこうむ古都ことまんみつるへいかいこう淮、福建ふっけん二省及月的迷失兵,討盜于江西にし。蠲漳、なぎさしゅう田租でんそからしうし使つかいだいまつたけ、瀆、きさきひがし南海なんかいたてたけまもるおやぐん指揮しき使,以侍まもるぐんろくせん屯田とんでんぐんさんせん江南こうなん鎮守ちんじゅぐんいちせんごうへいいちまん隸焉。太陰たいいんはん氐。みずのえとらうみせんまんごと:「山東さんとうせん慰使らくしょうん江南えなまいりくいたり淮安,えき閘者ななしかこう入海いりうみさいとめじゅうまんせきわか由江よしえかげ入江いりえいたるちょく沽倉,みんりくまけ,且米せきしょううんはちかんゆう。乞罷にかわ萊海どううんかてまん,而以こげごとせめしん當歲とうさいうんさんじゅうまんせき。」みことのりもとみずのとこううらら使つかい來貢らいこうかたぶつぞく鍾明あきら寇贛しゅうかすめやすしよりどころしゅうみねみことのりはつこう淮省及鄰ぐん戍兵せん,遷江西にししょう參政さんせいかん如德ためひだりすすむ使つかい將兵しょうへい往討。畬民おか大老たいろうしゅうせんにん寇長たいけんふくしゅうたち魯花あかだつ歡同漳州そうかんだかすぐる討平かぶとたつふくりつこう祿ろくてらつちのえさる,徙廣州こうしゅう按察於韶しゅう。以荊みなみ按察しょすべ遼遠りょうえんわりさんにゅう淮西,入江いりえ西にしたて咸平いたり聶延えきじゅうしょはいあましゅうせんつつみ舉司にゅうやすしなつみやこてんうん使さん政事せいじちょうまもるさとし翰林かんりんちょく學士がくしたかしえい使高麗こうらいとくじょせい日本にっぽんかて

がつからしついたちみことのりせき江南えな戶口とぐち,凡北方ほっぽう諸色しょしきじん寓居ぐうきょしゃまた就籍。濬滄しゅうかわみずのとうしあいきばあいあか請以所部ところぶぐん屯田とんでん咸平、懿州,以省かて餉。おのれはつりんかて千石賑諸王火你赤部曲。おけのべ禧司,秩正さんひんみずのえいぬごうさとひだるいのち甘肅かんせいしょうはつまいせんせきにぎわいみずのとみことのりりつたかし福司ふくじためしたがえひん。徙江淮省治しょうじ杭州こうしゅうあらため浙西どうせん慰司ため東道とうどうせん慰司,おさむあげしゅうへいとら尚書しょうしょしょうしんごと:「くだりいずみ府所ふどころみつるうみせんまんせんそう,以新じん緩急かんきゅうこと不可ふかようむべ招集しょうしゅう乃顏及勝おさめごうりゅうためぐん泉州せんしゅういたりくい州立しゅうりつうみじゅう,站置せんそう水軍すいぐんひゃくせんうんばんえびす貢物みつぎもの及商販奇貨きか,且防禦ぼうぎょ海道かいどうため便びん。」したがえこれいのち福建ふっけんゆきしょうおがめこう西行さいぎょういんがつてき迷失、こう淮行しょうせわし兀帶,ごうへいげきぞく江西えにしだい都路みやこじそうかん判官ほうがんしょう嘗為くわ哥掾,すわ受賕ごとさとしみかどかし其死,よく徙為よなげきんくわ哥以嘗鈎こうまんおくゆう追錢おいせんのうそく贖其むべ解職かいしょくつえこれみかどきょくしたがえこれちょうしげるこううえ。以中しょみぎ丞相じょうしょうはくがお樞密院すうみついんごとはた北邊ほくへんしょぐん成都せいとかんぐん萬戶劉德祿上言,ねがい以兵せんにん招降はちばん蠻夷ばんいいん進取しんしゅ交趾。樞密院すうみついん請立元帥げんすい,以藥剌罕及德祿ろくなみため元帥げんすいふん四川しせんぐんまんにん隸之,みかどしたがえこれ。以伯こたえため中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじ紹興しょうこう大水おおみずめん田租でんそごうへい寇胡魯口,ひらくもとみちちゅう兀顏きば兀格せん連日れんじつやぶこれおのれたて左右さゆうつばさ屯田とんでんまん,秩從さんひんたまりょ魯奏,江南こうなん盜賊とうぞく凡四ひゃくあまりしょよろしせんはた討之。みかど曰:「つきてき迷失屢以とし聞,せわし兀帶やめ往,きょう以為おもんばか。」皇孫こうそんあま剌所ぐんとぼししょくはつ大同だいどう榷場かてにぎわいかぶといぬいのち鞏昌便宜べんぎ總帥そうすいひろしおもんみかずすすむ所部ところぶぐんまんにんきたせいれい受命じゅめいおつしょう屯田とんでん六署為營田提舉司。

さんがつかのえたつついたちにちゆうしょくうてなしゅうぞく楊鎮りゅう聚眾やすしうみ僭稱せんしょうだい興國こうこく,寇東よしがらす,浙東大震たいしん諸王しょおう瓮吉たい謫婺しゅうそちへい討平たて雲南うんなん屯田とんでん,以供ぐんもうかくわ哥言:「しょう成案せいあんみなざいこくごととうれいかん察御そくしょう稽照,しょ姓名せいめい於卷まつ,仍命さむらいけんわらわしつそく連坐れんざ。」したがえこれ安西あんざいひだるげん估糶まいまんせきあましゅうひだるはつまんじょうにぎわいおのれうしたまもの陝西せんせい屯田とんでんそうかんのうしゅつぶ癸巳きしひがしりゅうけんけんじしばかぶとうま太陰たいいんはん亢。乙未おとみ渾天なり癸巳きし[10]金齒きんばじんふさがかん以其みんじゅうまん一千戶有奇來歸,仍進ぞうさん

なつよんがつおのれとりついたち〕,ふくりつ營田于寧なつりょうしょうかん內饑,かし高麗こうらいまいろくまんせき以賑みずのえ,孛羅たいじょうべつじゅうはちさと招集しょうしゅう戶數こすうれい甘肅かんせいしょうにぎわいみずのとうしいのちとう海發かいはつゆるがせはなとう所部ところぶぐんたむろいぬ站北以禦寇。たからけいひだるしも其估せりまいまんいちせんせきへいたついのち甘肅かんせいゆきしょうきゅうごうてき所部ところぶひだるしゃあわちょうかんけん諸王しょおう按灰貧民ひんみんきゅう以糧。つちのえうまきん江南えなみんはさみ弓矢ゆみやはんしゃせき而為へいおけ江西えにし福建ふっけんたかぼうそうかん福建ふっけんてんうん及管ぐんそうかんげん其非よろしみことのりやめこれしょうこう淮屯田打たうちつつみ舉司ななしょそんしゃじょ邳、うみしゅうあげしゅうりょう淮、淮安、こう郵、昭信あきのぶあんゆたか、鎮巢、蘄黃、魯網、いし湫,なおじゅうしょ甲子きのえね池州いけすいけ縣民けんみんおうつとむしんむらさきしばじゅうほんつちのえたつやす南國なんごくおうひね烜遣其中大夫たいふちんかつようとう來貢らいこうかたぶつおのれ乞兒ほいと乞思きょりんけん其貧しゃにぎわい庚午こうごすなかわけつはつみん築堤ちくてい以障みずのととり,以高うららこく多產たさんぎんこうそく其地,はつつくりきんみん冶以輸官。以萊かぶらてつ冶提舉司隸山東さんとうしおうんかぶといぬ,以御大夫たいふだまりょ魯為ふとでん開府かいふどうさんつかさ,僉江西にしとうしょぎょう尚書しょうしょしょうごと。召江淮行しょうさん政事せいじ忻都赴闕,以戶尚書しょうしょおうきょずみせんざんこう淮省,ひだり丞相じょうしょうせわし兀帶そうこれおけ浙東、江東こうとう江西えにしみずうみひろ福建ふっけん木綿もめんひさげ舉司,せめみんとし輸木綿めんじゅうまんひき,以都ひさげ舉司そうこれやめ皇孫こうそん按攤はなしょしつらえだんごとかん也先,仍收其印。尚書しょうしょしょうしんごと:「鞏昌便宜べんぎ總帥そうすいやめ陞為せん慰使,乞以きゅうけんことべつりつ調しらべかんぶん。」したがえこれたて諸王しょおうあいきばあか投下とうかじんたくみひさげ舉司於益。併省くも南大みなみおおちゅうけいとうしゅうけんちょううし,陞市れいためしたがえひんあらためだい都路みやこじきのえたくみそうかんためぐんじんたくみそうかん尚書しょうしょしょうしんごと:「乃顏以反誅,其人月給げっきゅうまいまんななせんひゃくじゅうさんせき父母ちちはは妻子さいし俱在北方ほっぽうこわなま它志,請徙おけ江南こうなんたかしすなひのとしょ請海せん水軍すいぐん。」したがえこれ

五月ごがつかのえたつはつたけまもるおやぐん千人濬河西務至通州漕渠。みずのとうつり諸王しょおうしょう薛饑みん就食汴梁。はつ大同だいどうせんとくとうみんちくくら於昴兀剌。みずのえたつ太白たいはくはんおに。軟奴(たま)〔おううけらわたし以金銀器ぎんきさらきゅう諸王しょおうはくごうはんとう[11]且供饋有ろういのち有司ゆうし如數つぐなえこれふくしょうぎんまんりょう幣帛へいはくかくせんひきへいさるみことのり:「えき、淄萊さん萬戶軍久戍廣東,疫死しゃ眾,其令ねんいちさら。」ぞく鍾明あきらりつまんはちせんひゃくななじゅうさんにんらいくだこう淮、福建ふっけん江西えにし三省所抽軍各還本翼。くだりだいふく徙於あげしゅう,浙西ひさげけい按察徙蘇しゅう。以參政事せいじ忻都ため尚書しょうしょひだりすすむ中書ちゅうしょまいり政事せいじなんさかえためさん政事せいじ參議さんぎ尚書しょうしょしょうごとちょう天祐てんゆうため中書ちゅうしょまいり政事せいじおのれしつらえかい回國かいこくがく。陞利用りようかんためしたがえさんひんりょうひだるめん往歲おうさい田租でんそ尚書しょうしょしょうしんごと:「くく大同だいどうたいらようふとしげん無籍むせきみん及人やつためりょうほぼなりこうえきすみみなみ諸道しょどうまたむべ如之。」みことのり以農みん不可ふか擾,俟秋冬あきふゆぎょうやめえいみつる,以所貯上きょう幣帛へいはくいれたいかんまんおくからしうしかわ入會にゅうかいどおりみぞ,漂東あきらみんいおりしゃ。以莊なみ甘肅かんせいしょうとおあらため隸安西にししょうしょうりゅうけん入渠にゅうきょしゅうたい安寺あてら屯田とんでん大水おおみずめんこんとし租。青山あおやまねこ蠻以莫臺、卑包とうさんじゅうさん寨相つぎ內附。

ろくがつつちのえさるついたちはつさむらいまもるぐん千人濬口溫腦兒河渠。おのれとり,鞏昌ひろしおもんみごと:「きんくく漢人かんど兵器へいきしんかん內已禁絕きんぜつ自今じこんしん凡用兵器へいき,乞取安西あんざいかん。」みかど曰:「なんじあずか它漢じん弓矢ゆみやなんじきん也,にんなんじこれ。」からしみことのり以雲みなみぎょうしょうとおしゅうけんかん闕,ろくひん以下いかもと本省ほんしょうせん辟以聞。かつらよう寇亂すいひでりしも其估せりまいはちせんななひゃくじゅうせき以賑おのれ西番にしのばんすすむくろひょう庚申こうしん諸王しょおう乃蠻たいはいあいへい於托われかわへいとらようゆるがせはんあたり[12]からし[13]みことのり尚書しょうしょしょうだんごとかん禿かぶろれつひつじしかざん雲南うんなんふくりつ雲南うんなんひさげけい按察つきてき迷失請以降いこうぞく鍾明あきらため循州しゅうそうけんためうめしゅう判官ほうがんおかおうさちとうじゅうはち人為じんいけんいんめぐじょうみかどまことれいあかりあきらおうさちなみ赴都。だい增設ぞうせつたおせ鈔庫さんしょりょうとうひだるめんこんとしうつり八八部曲饑者就食甘州。うみはんあたりかずりんせん慰使おびえはくどう乃滿たい副使ふくしはちくろてつみな反應はんのうごう剌赤ひだるあわ四千三百二十八石有奇以賑之。かぶといぬ西南せいなんえびすちゅうただれとうしょほらちょうゆるがせたいとう以洞さんひゃく、寨ひゃくいちじゅうらいとくせんあまりおつきむつよしやつ寇折れんおびえ立江たつえ淮等しょざいそうかんてのひらしょせきそうしゃふときさき貲產,隸中宮ちゅうぐうちょううし,汲縣民けんみんしゅりょうしんむらさきしばすみやすし東平とうへい、汴梁、すみみなみ、棣州、順德じゅんとくひら灤、てい霖雨がい稼,めん田租でんそじゅうまんせんななひゃくよんじゅうきゅうせき

あきなながつつちのえとらついたちうみひょうはんあたりみかどおやせいなおちんしょ屯田とんでん大水おおみずしたがえせいしゃきゅう其家。おのれ,駙馬つまゆるがせきょくひだるにぎわいからしりょう屯田とんでん雹害稼,蠲今とし田租でんそあめ壞都じょうはつへいみんかくまんにんかんひらきやすやまみぞなりかわみぞかんれい尚書しょうしょちょうあなまご兵部ひょうぶろうちゅうしょせん員外いんがいろうさだげん:「ひらき博之ひろゆきみぞ通江みちえ淮之うん古所ふるところゆう。」みことのりたまものめいかいどおりかわおけひさげ舉司,しょくかわみぞごとかぶとさる,四川山齊蠻民四寨五百五十戶內附。へいいぬいのち百官ひゃっかんすけあたり。敕以禿かぶろ魯花及侍衞兵えいへい百人為桑哥導從。ちょうはついたりもとまんじょう于燕みなみ山東さんとう河南かなんふとしはらたいらようじょう河間こうまひら灤。戊子ぼし太白たいはくけいてんよんじゅうにちかのえとら兀兒がつりょうとうえきとぼしくえ,以鈔にぎわいからし太陰たいいんはんうしみことのりきばきば住僧じゅうそうまい江南こうなんさがせおとずれじゅつげいはつりんしょたむろ乞兒ほいと乞思とうぐんきたせい癸巳きしひら屯田とんでん霖雨そん稼。かぶとうまかわ溢。東平とうへいすみやすしあずまあきらえきじょう廣平ひろへいかえりとく、汴梁、ふところはじめいなご乙未おとみ太陰たいいんはんとしぼしちょうとりいのちりょうぎょう省益しょうえきへい戍咸ひらめ、懿州。つちのえいぬ,誅信州しんしゅう叛賊あわびめぐみにちとうさんじゅうさんにん。(みぎ)〔ひだりすすむにわとうきたせい[14]からしうしはつさむらいまもるおやぐんまんにん赴上河間こうまだい水害すいがい稼。みずのえとら百官ひゃっかんせいせんふすまみずのとすなかわ溢。てつとう杆堤けつ

はちがつみずのえしゅう大水おおみずみんとぼしくえしも其估せりちょく沽倉まいせんせきおつ,郴之むべあきらけんため廣東かんとん寇所かすめめんこんとし田租でんそからしとりだい都路みやこじ霖雨がい稼,めんこんとし租賦,仍減價げんかせりしょみちくらかてみずのえいぬ,漷州ひだるはつ河西かさいつとむまいせんせきげん其價にぎわいせりみずのと諸王しょおうてつしつ、孛羅たい所部ところぶみなひだる,敕上都留つる守司もりじりょうしょうはつあわにぎわい甲子きのえねがつてき迷失以鍾あきらあきら貢物みつぎものらいけんじからしさいほしひるみずのととり,以八番羅甸宣慰使司隸四川省。だい、婺しゅうひだるめんこんとし田租でんそかぶといぬみことのりりょう淮、りょう浙都てんうん使及江西にし榷茶てんうん諸人もろびと,毋得沮辦あらため四川金竹寨為金竹府。徙浙東道とうどうひさげけい按察つかさおさむ婺州,河東かとうさん西道さいどうひさげけい按察つかさおさむふとしはらせん慰司大同だいどう

きゅうがつつちのえとらさいほしはんおのれおけ高麗こうらいこく儒學じゅがくひさげ舉司,したがえひんへいいぬやめ濟州さいしゅう泗汶こげうん使ちょうやめ斡端せん慰使元帥げんすい癸巳きし,以京糴貴,きん有司ゆうしかかわ顧商しゃ乙未おとみ太陰たいいんはん畢。へいさる,熒惑はんふとしほろ西垣にしがきじょうはたぞう東道とうどうせん慰使一員いちいんこう淮省たいらあきらすなひのとごと:「ひさげ調ちょうぜにこく積怨せきえん於眾,乞如ようたばれいばち戍兵さんひゃく人為じんいまもる。」したがえこれひら灤、あきらこくとう屯田とんでん霖雨がい稼。かぶとたつ,以保じょう新城しんじょうていきょう屯田とんでんかてにぎわい其戶ひだる貧者ひんじゃおつみことのり福建ふっけんしょう及諸毋沮擾魏天祐てんゆうぎん

ふゆじゅうがつみずのとうし,營田ひさげ舉司水害すいがい稼。太陰たいいんはんうし宿やど距星。きのえとら,熒惑はんみぎほう。以駝うんだいまい五百石有奇給皇子北安王等部曲。おつ,以はちばん甸隸ひろしょうへいたつきん內外百官受人饋酒食者,ぼつ其家貲之はん甲子きのえねとおる于太びょうおのれあかぬしさとあい花山はなやまじょうおけいちしょみずのととり尚書しょうしょしょうしんごと:「すなひのと便宜べんぎ增置ぞうち浙東しおごう浙東、西にしきゅうところりつしゃためなな,乞官しおほうしゃじゅうろくにん。」したがえこれひら水害すいがい稼。以平いたいら灤、河間こうまじょうとうひだるたゆかわはくきん

うるうじゅうがつつちのえとらくるまかえだい尚書しょうしょしょうしんごと:「南北なんぼくしおひとし以四ひゃくきんため引,いまけん豪家ごうかいたりななひゃくきん,莫若さき貯鹽於席,らいのり授之,ため便びん。」したがえこれかのえたつくわ哥言:「はつあらためいたりもと鈔,よくつきおさむちゅうすべ鈔,れい天下でんかしお以中すべいたりもと鈔相はん輸官。今中いまなかみつる鈔尚きゅう斂,むべれいぜいなみ輸至もと鈔,しょう販有ちゅうすべりょう鈔,聽易いたりもと鈔以ぎょうしかちゅうすべ鈔可つき。」したがえこれつきてき迷失以首ぞくおかおうさちただしけん舉歸于京みずのといのちりょうぎょうしょうきゅう諸王しょおう乃蠻たいみんとぼししょくしゃおつとりいのち自今じこんしょ授宣敕並づけ尚書しょうしょしょうとおりしゅう河西かさいつとむひだる民有みんゆう鬻子、これしゅうしゃはつまいにぎわいへいいぬ西南せいなんえびすせいばんこころとうはちぞくけいせんひゃくろくじゅう內附。廣東かんとんぞく鍾明あきらふくはん,以眾まんにん寇梅しゅうこうひとし以八せんにん寇漳しゅうまた韶、ゆうしょぞく十餘處皆舉兵應之,ごえいきおいちょう甚。みことのりがつてき迷失ふくあずか福建ふっけん江西えにししょうごうへい討之,且諭むねがつてき迷失:「鍾明あきらすんでくだちんれいなんじこれ赴闕,而汝玩常不發ふはつ,致有へん自今じこんくだぞく,其即これ。」ちょうやす南國なんごくおうひね烜遣使來貢らいこうかたぶつひだりみぎまもる屯田とんでん新附しんぷぐん以大すいきず稼乏しょくはつまいまんよんひゃくせきにぎわい辰星しんせいはんぼうおのれうし太陰たいいんはん畢,熒惑はんしんけんかのえとら江西えにしせん慰使えびす頤孫援沙ひのとれい,請至もと鈔千錠為行泉府司,さい輸珍異物いぶつためいきしたがえこれ。以胡頤孫はるか授行尚書しょうしょしょう參政さんせいいずみだいきょうあるきいずみつかさごとみことのりせき江南えな及四川戶かわとこうへいさるたから屯田とんでんだい水害すいがい稼。河南かなんせん慰司請給かん內河あいだじょうとう流民りゅうみんろくじゅうにちかてかえ其土,したがえこれ。婺州ぞくまん五以眾萬人寇武義縣,ころせせん一人ひとりこう淮省たいらあきら鄰吉たい將兵しょうへい討之。使つかいかぎこう大同だいどうぜにこく及區べつきゅうかてじんかのえ取石とりいし泗濱ためかおる,以補みやけんらくからしうし斛、女人にょにん二國遣使來貢方物。みずのときんころせ羔羊。浙西せん慰使弼請討浙ひがしぞく,以為浙東道とうどうせん慰使,ごう剌帶じょうかぶとたつ武平ぶへいひだるはつつねひらくらまいまんせんせきにぎわいじょうとう屯田とんでんひだるきゅうきゅうじゅうにちかてまゆみしゅうひだるみんりゅう德成とくなりはんりょうきんみことのりしゃくみずうみこうしょうしんごと:「きん招降贛州ぞくえびすうみとうれいしょう其眾屯田とんでん自給じきゅうこんこう恤之,こわなまへん。」いのち贛州はつまいせんはちひゃくきゅうじゅうせきにぎわい丙午ひのえうま[15]はるこく菩提ぼだいはんてきとう來貢らいこうかたぶつ

十一月じゅういちがつ丙午ひのえうまついたちかいかいむかしたからあかひゃくはちじゅうろくきょ汴梁しゃさるいのちせん慰司きゅう其田そのだ丁未ていみきん江南えなきたけんようこれ毋沮しおほうつちのえさる,敕尚しょしょうはつくらにぎわいだいひだるみんみずのえ,漳州ぞくひね察等はちせんにん寇龍(いむ)〔いわお〕,[16]せんちょう武義たけよしあずかかえでりんぞくあい福建ふっけんゆきしょうへい大破たいはひね察、おか大老たいろうちょうじゅんとう以其とうくだぎょうしょう請斬以警眾,こと樞密すうみつ院議いんぎ。范文とら曰:「ぞくかたとうしかすんでくだ乃殺なに以示しんむべなみ赴闕。」したがえこれみずのとうしたてやすしぞくはなおとうとぶくゆいりくひろ馬勝ばしょうふくはかりごとみだれことさとしみなろん誅。きのえとらふりすなしゅうじょう壞,みことのりはつ軍民ぐんみんおさむかんへいたつやめおもね你哥所領しょりょうさいせきつつみ舉司。はつまい五百八十七石給昔寶赤五百七十八人之乏食者。ちょうひら灤、あきらこくたむろひだるにぎわいまいせんろくひゃくじゅうろくせきあらため播州ばんしゅうため播南ちょうしげるみことのり山東さんとう東路あずまじ毋得沮淘きんにぎわいぶんやすけんひだるみん陝西せんせいおおとりしょう屯田とんでん大水おおみずつちのえたつ太陰たいいんはん亢。おのれはつまい千石賑平灤饑民。あらためひらおん鎮為おかけん武平ぶへいひだるめんこんとし田租でんそ。桓州とうえきひだる,以鈔きゅう

十二月じゅうにがつひのとうし,蠡州ひだるはつよしくらかてにぎわいつちのえとらやめたいらしゅう望都もとはしばみえき其戶ためみんからしみことのりくくてん下馬げば一品いっぴんひん官許かんきょじょうひきさんひんさんひきよんひんひんひきろくひん以下いかみないちひきひら灤大すいきず稼,めん其租。しょう薛坐あずかごう禿かぶろ魯平どおり謀叛ぼうほんふく誅。紹興しょうこうそうかんせいかんしろ絜矩ごと:「そうちょうぞくじんきょ江南えな百姓ひゃくしょうけいおとろえひさ而非便びんむべ悉徙京師けいし。」くわ哥以聞,請擢絜矩ため尚書しょうしょしょう舍人とねりしたがえこれきゅうだまりょ魯所招集しょうしゅうひゃくにんきゅうじゅうにちかて。徙瓮きち剌民貧乏びんぼうしゃ就食ろくばんおつとりいのち四川蒙古都萬戶也速帶選所部軍萬人西征。太白たいはくはんみなみちょうふう皇子おうじ闊闊ためやすしとおおう河間こうまじょうみちひだるはつよしくらかてにぎわい,仍免こんとし田租でんそ鄰站けいらんとぼしくえきゅうきゅうじゅうにちかていのちかいかい天臺てんだいさい熒惑。かのえとら禿木とくぼくあいしもころせ稼,禿かぶろ魯花ひだるきゅうきゅうじゅうにちかてかぶとうま,以官ぐん萬戶汪惟能為征西都元帥,[17]はた所部ところぶぐんにゅうばく,其先戍漠へいれいかえつばさ乙未おとみ,蠲大めいせいゆたか逋租はちひゃくよんじゅうせきいのち甘肅かんせいゆきしょうにぎわい千戶也先所部人戶之饑者。きゅう鈔賑兀兒がつりょう站人かのえ武平たけひらひだる,以糧まんさんせんろくひゃくせきにぎわいはくがお使つかいらいげんみんとぼしくえみことのりたまものもう罟,使つかいさかな自給じきゅう。拔都むかし剌所おもねはやひだるあわななせんよんひゃくななじゅうせきにぎわいみずのとはつむぎにぎわいこうすみしょひだるみん

これさいうま八兒國進花驢二。やすし州民しゅうみんちょう世安よやすすすむよしみほんみことのり天下でんか梵寺しょ貯藏ちょぞうけいしゅうそう誦,仍給しょ,俾為としれいこうだい聖壽せいじゅまん安寺あてらおけ旃檀佛像ぶつぞういのちみかど及西そうさく佛事ぶつじすわしずかじゅうかいめんわざわいきず田租でんそじょうさんまんせんせきすみやすしせんいちひゃくじゅうよんせき東平とうへいいちひゃくよんじゅうななせき大名だいみょうきゅうひゃくじゅうせき,汴梁まんさんせんきゅうじゅうななせきかんむりしゅうじゅうななせきたまもの諸王しょおう公主こうしゅ、駙馬如歲れいためきんせんりょうぎんじゅうまんせんろくひゃくさんじゅうりょう、鈔一じゅういちまんひゃくきゅうじゅうじょうぬさじゅうまんせんはちひゃくひきだん死罪しざいじゅうきゅうにん

校勘こうかん[编辑]

  1. みことのり以忙兀帶ためみぎ)〔ひだり丞相じょうしょう 按上ぶんいたりもとじゅう二年十月戊午條及下文至元二十六年四月甲戌條皆作「ひだり丞相じょうしょう」,よりどころあらため續編ぞくへんやめこう
  2. きょう)〔荊〕みなみ 按元きょうみなみたたえしもぶんいたりもとじゅう六年正月戊申條有「荊南按察」,よりどころあらためみち光本みつもとやめこう
  3. おう(睶)〔賰〕 まききゅう校勘こうかん[きゅう]。
  4. ごとしゃぞうかん 「ぞううたぐあやまぞくつうかんあらためぞうためおく」,於文ためちょう
  5. (濉)〔睢〕やすし よりどころほん書卷しょかんきゅう地理ちりこころざしあらため
  6. おおとりてら)〔つかさ〕 按上文中ぶんちゅうすべ元年がんねんじゅうがつおついたりもとじゅう一年十二月辛亥條及本書祭祀志、せん舉志、百官ひゃっかんこころざしみなさくただしおおとりつかさ」,よりどころあらためほんしょうやめこう
  7. まいかんきた浚井 按「ばくきたいちめい本書ほんしょ屢見,「かんきたのり此稱,こうむあらためかんさくばく」,うたぐ
  8. (沭)〔沐〕かわ したがえきたかんほんあらため
  9. 也里(せん)〔〕 よりどころじょうぶんいたりもと十年正月己巳條及本書卷一0七宗室世系表改。
  10. 癸巳きし 按是がつかのえたつついたち癸巳きしためじゅうよんにちやめ於己うしはつじゅうにちあずかかぶとうまじゅうにちあいだ。此重出じゅうしゅつ癸巳きし」,うたぐためみずのとじゅうよんにちあるおつじゅうろくにちこれあやま
  11. 軟奴(たま)〔おううけら よりどころじょうぶんいたりもとじゅうねんじゅうがつ庚申こうしんじょう所見しょけん「軟奴ひろしうけらおんあらためぞう「軟奴おううけら」,ため自在じざい童子どうじ」。
  12. ようゆるがせ こうむうん:「ようゆるがせはんあたりそくくすりゆるがせはんあたり誤脫ごだつぶたうみぜんほこさきぐん。」
  13. からし 按是がつつちのえさるついたちからし。此「からしざいへいとらじゅうきゅうにちあずかかぶといぬじゅうななにちあいだうたぐためおのれじゅうにちあるからしひつじじゅうよんにちこれあやま
  14. みぎ)〔ひだりすすむにわ 按上ぶんいたりもとじゅう五年三月庚寅條及本書卷一六二本傳均作「ひだりすすむ」,よりどころあらためほんしょうやめこう
  15. 丙午ひのえうま 按是がつちょううしついたちしょうつき丙午ひのえうま丙午ひのえうまため次月しづきじゅういちがつ朔日さくじつ,此誤。
  16. りゅういむ)〔いわお〕 したがえきたかんほんあらため
  17. 官軍かんぐんまん 按「かんぐんまん本書ほんしょ屢見,うたぐ此處ここらかんためかんあやま

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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 まき十四とし かえしかいいただき まきじゅうろく