げんふみ/まき026

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 まきじゅう もとまきじゅうろく
本紀ほんぎだいじゅうろく
まきじゅうなな 

じん宗三そうさん

よんねんはる正月しょうがつかのえみかどいい左右さゆう曰:「中書ちゅうしょそう百姓ひゃくしょうとぼしくえむべ賑恤しんじゅつちんだまおもえこれみんひだるわか此,あにせいゆう以致しか歟?こうみことのり百司務遵世祖成憲,むべつとむりょく奉行ぶぎょう,輔朕逮,しか嘗思ただしょうけいうす,庶使百姓各遂其生也。」おつ諸王しょおうだつだっちゅう雲南うんなん,擾害軍民ぐんみん,以按はいだいへいたつ,以知樞密院すうみついんごとかんしゃため雲南うんなんゆきしょうたいらあきら政事せいじおのれきゅうみかどてら廪食鈔まんじょうみずのえいぬ,冀寧地震じしんつちのえたつきゅう諸王しょおう也速也不あかりやすこたえかてさんがつ

閏月じゅんげつかのえたつふう諸王しょおう孛羅ため冀王。へいいぬ,以立皇太子こうたいしみことのり天下でんかきゅうたまもの鰥寡孤獨こどく鈔,減免げんめんかくみち租稅そぜいゆうたまもの諸王しょおうそう戚朝かいしゃかねさんひゃくりょうぎんせんひゃくりょう、鈔四まんさんせんきゅうひゃくじょうからしふうべつてつため汾陽おうみずのえたつきゅう豳王みなみゆるがせさとじゅうまんじょうかい。汴梁、あげしゅう河南かなん、淮安、重慶たーちん順慶じゅんけいじょうみんみなひだるはつ廪賑

がつかのえたまもの諸王しょおうかい閭部鈔さんまんじょうかぶとたつ,敕郡けん各社かくしゃふくおけくらつちのえさるとく近侍きんじかんしゃはな翰林かんりん侍讀じどく學士がくしせい誥、どうおさむ國史こくしみずのと,陞泰やすしためたいやすし,仍置たいやすしけんおつうし,陞蒙國子くにこかん秩正さんひんたまものぎんしるしへいとら,以諸おう值脫あかみだれ百姓ひゃくしょう貧乏びんぼうきゅうじゅうろくまんろくせんじょうべいまんせきにぎわい。曹州すいめん今年ことし租。

さんがつちょうしげるついたち,陞靖しゅうため庚午こうごきゅうちょうおうおもね魯禿かてよんせんせきおつとり太陰たいいんはんからしくるまこううえ

なつよんがつつちのえいぬきゅう安王やすおう兀都おもえはなぐんかてさんがつおのれとくやすひでりめんたむろ田租でんそみずのえとら授太つね禮儀れいぎいん使はいじゅうだいつかさたまものちょうおうおもね魯禿きんじゅうりょうぎんひゃくりょう、鈔せんじょうわりふところらいけん隸龍慶州けいしゅうかぶとたつ,以太やすし隸遼しょう[1]つちのえさるとうごうまご寇邊,おう朵列おさめとうはい于和なつけ賜金しきんだま束帶そくたい黃金おうごん幣帛へいはくゆうおのれ諸王しょおうひも憐薨。おつうしきんみねきたしゅみかど嘗夜すわいい侍臣じしん曰:「あめ暘不奈何いかん?」しょうはいじゅうたい曰:「宰相さいしょう也。」みかど曰:「きょう在中ざいちゅうしょ耶?」はいじゅう惶愧。ころみかどだま禱。すんで而大左右さゆう以雨ころもすすむみかど曰:「ちんためみんいのりなに避焉!」翰林かんりん學士がくしうけたまわむねゆるがせ魯都迷失、りゅう賡等やく大學だいがく衍義以進,みかどらんしょう羣臣曰:「大學だいがく衍義議論ぎろん甚嘉,其令翰林かんりん學士がくしおもね憐鐵やく以國。」

五月ごがつつら,授上留守るす闊闊開府かいふどうさんつかさだいつかさみずのえさるたまもの出征しゅっせい諸王しょおうみにくかんとう金銀きんぎん、鈔幣ゆうおつふう大長おおちょう公主こうしゅせわし哥台ためすめらぎしゅうと大長おおちょう公主こうしゅ給金きゅうきんしるしつちのえとらあらためまもるりつためちゅう翊府。みずのえうましゅうこう郵、しんしゅうたてやすしとうしょ流民りゅうみん羣聚,へいしょうかすめ,敕所ざい有司ゆうし:「其傷じん及盜しゃざいなみきゅうかて。」以翰りん學士がくしうけたまわむねあかいんてつため中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじ中書ちゅうしょたいらあきら兀伯剌為しゅうけん大學だいがくおのれうし,陞中しょひだり)〔みぎすすむおもねぼくうみきば為平ためひらあきら政事せいじ[2]參政さんせい乞塔ためみぎすすむこう昉為ひだりすすむ參議さんぎ中書ちゅうしょしょうことかわじゅうちょうおもえあきらなみさん政事せいじ

ろくがつおつ太陰たいいんはんしん。內外かん察御四十餘人劾鐵木迭兒姦貪不法。つちのえさるてつ迭兒やめ,以左丞相じょうしょうあいため中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょうおのれとり,兀伯剌復ため中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじみずのえ,以工尚書しょうしょおうかつらため中書ちゅうしょまいり政事せいじやすどおおうみにくかんちょうおうおもね魯禿ため叛王だつあかしょかすめかくたまもの金銀きんぎん幣帛へいはくへいたつ,敕:「諸王しょおう、駙馬、功臣こうしん分地ぶんち,仍舊せい辟達魯花あか。」ちょうやす南國なんごく使つかい來貢らいこうつちのえうまおけ冀王孛羅おうでんいん中尉ちゅうい司馬しばかく一員いちいんみやこそうかん秩正さんひんおのれきゅうみねきたぎょうしょう經費けいひ鈔九じゅうまんじょうざつ綵五まんひきみずのときんそう沈明仁所にしょ佩司そらしるし毋移ぶん有司ゆうし

あきなながつおつはじめやめ,以江浙行しょうひだりすすむおうあつしため中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじ[3]かのえたつたまものすめらぎしゅうと大長おおちょう公主こうしゅせわし哥台きんひゃくりょうぎんせんりょう、鈔せんじょう幣帛へいはくかくひゃくひきしょう討叛おう有功ゆうこうようぐんおうゆか兀兒とう金銀きんぎん幣帛へいはく、鈔各ゆうみずのえうま,敕赤いんてつ頒賚諸王しょおう、駙馬,及賑ずみ所部ところぶ貧乏びんぼうとく授中まもるおやぐん指揮しき使孛蘭奚太じょうおのれうし成紀しげのりけん山崩やまくずれ土石どせきつぶせ徙,壞田稼廬しゃ壓死あっしきょみんからし,冀寧地震じしんみかどさとししょうしん曰:「聞蒙もろこまとぼし往往おうおう鬻子おんな於民ため婢僕ひぼく,其命有司ゆうし贖之かえ各部かくぶ。」みかど衞士えじゆう弊衣へいいしゃちゅううまといたい曰:「戍守鎮餘じゅうねん,以故ひんみみ。」みかど曰:「此輩ひさろう于外,留守るすしんつね以聞,ちんおやなによし知之ともゆき自今じこんゆうるい此者,必言於朕。」いんいのちたまものぜに帛。

はちがつへいさるくるまいたりうえ。熒惑はん輿こしおにみずのえ太陰たいいんはんすばる庚申こうしんごうそうごと畢,みかどとい曰:「きょうとう所行しょぎょうしゃ何事なにごと?」ごうたい曰:「しんとうだい奉行ぶぎょうみことのりむね而已。」みかど曰:「きょうとうなん奉行ぶぎょうちんむね,雖祖宗そそう遺訓いくん朝廷ちょうてい法令ほうれいみな遵守じゅんしゅおっとほうしゃ所以ゆえんべん上下じょうげていみんこころざし及今,ゆうほうたて而天治者ちしゃ使つかい人君じんくんせいほう宰相さいしょうのうもり而勿しつのりみんしょかしこ避,綱紀こうきただし風俗ふうぞくあつ。其或ほうたゆみん慢,怨言えんげんなみきょう欲求よっきゅう治安ちあんあになん哉。」

きゅうがつへいとらごうげん:「故事こじ丞相じょうしょう必用ひつようこうむくんしんあいかいかいじん厭人えんじんもち。」とげこんせい以宣徽使はくこたえすなため中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょうごうためひだり丞相じょうしょうおのれだい南城なんじょうさんよしみ禾一くきじゅういち庚午こうご太陰たいいんはんみずのえたつみことのり戒飭かいしょくうみこげさとししょつかさ毋得沮撓。みねきた地震じしんさんにち

ふゆじゅうがつかぶとうまついたち有事ゆうじ于太びょうつちのえいぬきゅうしょおうあきらてつとうかてせんせきみずのえとら,敕刑尚書しょうしょ舉林かしわかんだいへい馬司まつかさ防遏ぼうあつ盜賊とうぞく;仍嚴飭軍こうせい出入でいり大夫たいふはくゆるがせまいり政事せいじおうかつらさい陝西せんせいだけ鎮、名山めいざん賑恤しんじゅつしんしゅう被災ひさいみんおのれとりかん察御げん:「官吏かんりちょうゆうおこりふく人情にんじょうおどろき惑,請禁止きんし以絕僥倖ぎょうこうおもんみ朝廷ちょうてい耆舊特旨とくしおこりふくしゃ不在ふざいきんれい。」せい曰「」。きゅうりょう屯田とんでんそうかんしょくみずのえきゅう鈔五まんじょうかてまんせきにぎわい察罕のうつちのえうま海外かいがいばばこうこれみん往賈うみばんぐうふう濤,そんしゃじゅう四人漂至溫州永嘉縣,敕江浙省かえさとあらためうしおしゅうしょみつるうめしゅう隸廣東道とうどうせん慰司。

十一月じゅういちがつおのれふく浚揚しゅう運河うんがおのれうし,併汧みなもとけんいり隴州。みずのえたつさとし:「しょ宿衞しゅくえいにゅうじきかくきょ其次,ゆうむねとく上殿かみどのたけなわにゅう禁中きんちゅうしゃすわつみ大臣だいじんもとしたがえにんかんいちにんもんしゃそし出入でいり。」

十二月じゅうにがつひのととりふく廣州こうしゅう金銀きんぎん珠子たまこつつみ舉司,秩正よんひんかんさんいんおつおけ詹事いんしたがえいちひん太子たいし詹事よんいんふく詹事、詹事すすむなみいん家令かれいのべけいしつらえかんなみよんいんてんたからかんはちいんかん即興そっきょう及淨しゅうはつ廪賑きゅう北方ほっぽう流民りゅうみんおのれとり盧溝橋ろこうきょうさわほとりてん瑠璃るりかわ並置へいち巡檢じゅんけんみずのえおけ安王やすおうおうでんちょうたまもの諸王しょおう禿かぶろ滿まんてつとう及駙ゆるがせ剌兀たい各部かくぶかねいちせんひゃくりょうぎんななせんななひゃくりょう、鈔一まんななせんななひゃくじょう幣帛へいはくせんひき。以內宰領さいりょうのべ福司ふくじごと禿かぶろ滿まん迭兒樞密院すうみついんごととく授晉おう內史按攤出金しゅっきんむらさきひかり祿ろく大夫たいふ、魯國こうからしとりあらためおびえ憐口みんたくみそうかんためつくろえよう

ねんはる正月しょうがつからしたまもの諸王しょおう禿かぶろ滿まんてつとう所部ところぶ鈔四まんじょうかぶといぬ,懿州地震じしんへいやす南國なんごく其臣いん世才せさいとう以方ぶつ來貢らいこうおつとり,敕諸王位おういみんざいだいしゃあずかみんひとしやくちょうかいためし進士しんしみずうみ廣平ひろへいあきらかいじゅう魯國こうだいつかさみのりにぎわいすすむおう也孫てつとう貧乏びんぼうしゃ

がつ癸巳きしついたちにちゆうしょくかずやすし地震じしんちょうとり,敕:「こうやすしひらきもととう萬戶府軍入侍衞,ゆう兄弟子あにでしめいにんしゃさんにんとめよんにんさんにんしゃ二人ふたりとめしるためせき。」しんしゅうやすし)〔はたやすけん山崩やまくずれ[4]ふうしょおうあきらてつためよしみおう禿かぶろ滿まんてつため武平ぶへいおうなみたまものしるし丁未ていみ,敕雲みなみ、四川歸還所侵順元宣撫司民地。つちのえさる,陞內秩正ひんけん鹿しかいただき殿どの文德ふみのり殿どのからし,敕杭しゅうもりしん春秋しゅんじゅうさい淮安忠武ただたけおうはくがおほこら王子おうじ諸王しょおうこたえしつ蠻部とぼしくえ[5]敕甘肅行しょうきゅうかてにぎわいたまもの諸王しょおう察吉まんじょうきのえとらおけやすしあきらおつ命中めいちゅうしょしょう汰不きゅうこれやく增置ぞうち河東かわとうせん慰司副使ふくし一員いちいん。敕上しょてらけん豪商ごうしょう販貨ぶつなみ輸稅つちのえうま,以者れんおびえ耶兒萬戶府為右衞率府。きゅうしょ西にしてん維摩けいきんさんせんりょう庚申こうしんやめふうじおくしょう討叛おうだつあか戰功せんこうたまもの諸王しょおう察罕とう金銀きんぎんぬさ鈔有

さんがつつちのえたつためし進士しんしたまものゆるがせたち、霍希かしこ以下いかじゅうにん及第きゅうだい出身しゅっしんゆうおのれたまものやすし海王かいおうはちきんしるし庚午こうごたて諸王しょおう斡羅ゆたかまごたかぼう諸色しょしきじんたくみおびえ憐口そうかん,秩從よんひんあらためせいやすためとくやすしせいやすけんためとくやすしけんみずのととりすすむおう也孫てつ貧乏びんぼうにぎわいまいよんせんいちひゃくじゅうせき,仍賜鈔萬錠買牛羊孳畜。おつ增給ぞうきゅうりょう淮運ぶんしるしいちとく授安どおおうみにくかん開府かいふどうさんつかさろくぐん國重くにしげごと樞密院すうみついんごとつちのえとら,以湖しゅう為安ためやすおう兀都おもえはな分地ぶんち,其戶すうまもる)〔たかしおう阿木あぎ哥。[6]みずのとやすしきよししゅう禁酒きんしゅたまものまんじょういのちすすむおう也孫てつにぎわいずみ遼東りゃおとん貧民ひんみんすすむおう內史拾得しゅうとく閭加さかえ祿ろく大夫たいふふう桓國こう給金きゅうきんきゅうひゃくりょうぎんひゃくじゅうりょうしょ金字こんじぞうけいかぶとさるめん鞏昌とうしょけいにぎわいずみしゃぜいしおおつとりだいしんごと:「しょつかさ近侍きんじへだた越中えっちゅうしょ聞奏しゃ,請如舊制きゅうせいろんざい。」せい曰「」。おのれうし,敕以べにじょう屯田とんでんまいにぎわいきよししゅう平地ひらちひとししょ流民りゅうみんおけ汾陽おうべつてつおうでんよんいんたまものみにくうさぎうまこたえ剌罕平江ひらえひゃくごろ

なつよんがつみずのえたつ安吉やすよしおう乞台ずみ薨。ちょうとり諸王しょおう雍吉剌〔おびとぼしくえ[7]にぎわいまいさんせんせきおのれふけりょう成金なりきんとうため寇,敕征ひがしぎょうしょうとくへいこれかのえたまもの諸王しょおう察吉まんじょう布帛ふはくしょうきゅうちゅう翊府閻臺じゅんしゅう屯田とんでんまんじょうおけうししゅ農具のうぐかのえいぬ,敕:「やすどおおうみにくかん分地ぶんち隸濟やすししゃななけんなぎさしゅうしゃさんけんいたる魯花あか聽其辟。」陞印けいひさげ舉司ためのべぶくかん,秩正さんひんかんぶん汰各流民りゅうみんきゅうかてにぎわいずみめんふところはじめ河南かなん南陽なんようきょみんしょ輸陝西にししおかいしゅう鹽池しおいけためすいしょ壞,いのちふところはじめとうしょしょく陝西せんせいべにしお以地とおあらためしょく滄鹽,而仍輸課陝西せんせいみん不堪ふかんいのちめん鄰、てつさとえきこまとぼしすみ以馬せんひきりょうひだるうみこげかてじゅうまんせき於義、にしきしゅう,以賑貧民ひんみんきのえとら樞密院すうみついんしんごと:「各省かくしょう調度ちょうど軍馬ぐんばおもんみ長官ちょうかんにんりょう其事。いま四川省諸臣皆預,便びん,請如舊制きゅうせい。」したがえこれ。以千やつふみ弼並ため中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじさむらいけいげんため中書ちゅうしょまいり政事せいじつちのえうまくるまこううえ

五月ごがつからしとりついたちじゅんもととうしょ軍民ぐんみん宣撫せんぶ使おもねひる以洞蠻酋くろ冲子あきらたてまつかたぶつらい覲。ちょうしげるたまもの安王やすおう兀都おもえはなきんひゃくりょうぎんせんりょう。以御ちゅうすすむまたれつあかため中書ちゅうしょみぎすすむそう)。[8]つちのえたつたいらあきら政事せいじおうあつし禜星于司天臺てんだいさん晝夜ちゅうや諸王しょおう按塔かおてつとぼしくえにぎわいかて兩月わちみずのえさるかん察御げん:「ねんめい爵冒濫,ふとしじょうつかさくにこうせっあと于朝。むかしたてまつみことのりさいやめ中外ちゅうがい莫不欣悅。きん聞禮たてまつむねぶとじょうつかさつかさそらとうしるしじゅうゆうろく,此輩こう於國,ざいさつ,貽笑將來しょうらい。請自こん門閥もんばつ貴重きちょうくんぎょうあきらちょしゃそんとめいちあまりなみかわ。」せい曰「」。みずのととりかんぶんみちげんけつむち以下いかつみおのれとくけい地震じしん。鞏昌隴西けん大雨おおあめ南土山みなみつちやまくずし壓死あっしきょみんきゅうかてにぎわい

ろくがつからしだいしんごと:「むかしちょううさぎうまとう經理けいりこう浙、江西えにし河南かなんかてきょぞうかてすうりゅうどくせいみんやめ嘗奉むねさんねんしるし租。こん及其若江わかえ浙、江西えにしとう如例輸之,其河みなみ請視きょうれいげんはんちょう。」せい曰「」。癸巳きし,以典みずいん使斡赤ためしゅうけんだい學士がくしりょうてんみずいんごとだいつかさおのれ北地きたじしょぐんとぼしくえきゅうかてにぎわいかのえおもねあまはちただうみぶん汰淨しゅう北地きたじ流民りゅうみん,其隸よん宿衞しゅくえい及諸おう、駙馬しゃきゅうかてかえ各部かくぶみずのとたまもの諸王しょおうくわ哥班きん束帶そくたいいちぎんひゃくりょう、鈔五ひゃくじょうおつじゅつしゃちょう子玉こだまとうななにんふく誅。まもる)〔たかしおう阿木あぎ哥以ざい貶高うらら子玉こだまげん於王司馬しば曹脫たいとう曰:「阿木あぎ哥名おう讖。」於是せんはかりごと備兵ころもかぶと旗鼓きこ航海こうかい往高うらら阿木あぎ哥至だい,俟時而發。くだりとぎけんことさとし,誅之。西にししげる寇作みだれ,敕甘肅省調ちょうへいこれちょうたまもの安王やすおう兀都おもえはなとう金束こづかたい及金ひゃくりょうぎんいちせんじゅうりょう、鈔せんひゃくじょう幣帛へいはくひゃくはちじゅうひき

あきなながつおのれついたちくにやすし開府かいふどうさんみずのとたまもの諸王しょおうはちさとたいとうきんひゃくりょうぎんはちひゃくじゅうりょう、鈔せんじょう幣帛へいはくひゃくひき甲子きのえねきゅう欽察まもるひつじ鈔一じゅうよんまんせんきゅうひゃくきゅうじゅうじょうへいとら調しらべぐんせんがらすこうむとうしょ屯田とんでんおけそうかんまん,秩正さんひんきゅうぎんしるしちょうしげるきゅうじゅうまんじょうかてまんせきいのちすすむおうぶん賚所宿衞しゅくえいみずのえさるちゅうすすむちょう簡言:「皇太子こうたいし春秋しゅんじゅうかなえもりむべせん耆儒じきちん道義みちよしこん銓侍東宮とうぐうせつしょ諳經,請別もとめ碩學せきがくふんすすむ講讀こうどくじつむねしゃ疆之ぶく。」せい曰「」。諸王しょおうさときばあつし叛,諸王しょおう也舍、しつれつきち及衞朵帶、はくすわりょうはしじょ官軍かんぐんしん討,敕流也舍江西えにししつれつよしひろ,朵帶衡州,はく潭州。みずのととりかかわまもる)〔たかしおう阿木あぎ哥王でんしるしおけ餼廪,秩正はちひん,隸上都留つる守司もりじゆたかしゅう石泉いしずみてんおけ巡檢じゅんけんたまもの諸王しょおうべつしつじょうとうきんぎん,并賑其部まいまんせき、鈔まんじょうおのれ諸王しょおう雍吉剌帶、きょくはるてつ來朝らいちょう賜金しきんひゃくりょうぎんいちせんりょう、鈔五せんじょう幣帛へいはくいちひゃくひき,仍給鈔まんじょうべいまんせきふん賚其しょからしたて受給じゅきゅう,秩きゅうひん,隸工みずのえうまやめ河南かなんしょうひだりすすむちんえいとうしょくく民田みんだとめ如舊れい輸稅。戊子ぼし,鞏昌やすしどおけん山崩やまくずれふうすわえ三閭大夫屈原為忠節清烈公。

はちがつ戊子ぼし[9]くるまいたりうえおつ,併翁みなもとけんいりきょくけん

きゅうがつみずのとだいつかさみのりかいじゅうとうしんつかさみのりすすむなえこうけんしょせん栽桑圖說ずせつみかど曰:「のうくわ衣食いしょくほん,此圖甚善。」いのちかんしるしせんちつこれ民間みんかんへいとら廣西ひろせりょうこうりゅうしゅうまんちょうきよししん太平たいへいそうかん興隆こうりゅう率土そっとかんほう扶、なに凱,なみ以方ぶつ來貢らいこうたまもの以幣帛有。豳王みなみゆるがせさととう貧乏びんぼういのち甘肅かんせいしょうまんひききゅうちょうしげる中書ちゅうしょみぎすすむせん徽使またれつあかため中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじひだりすすむだか昉為みぎすすむまいり政事せいじかわじゅうためひだりすすむ,吏部尚書しょうしょつばめただためさん政事せいじみずのえさる,以鈔きゅう北邊ほくへんぐんためかぶといぬ,以作佛事ぶつじしゃくしげるしゅうさんにんけいしゅうじゅうさんにんおのれ,以江浙省しょしるし大學だいがく衍義じゅうたまもの朝臣あそんからしおけだい永福寺えいふくじそうかん,秩さんひんみずのえうま,敕:「ぐんかん犯罪はんざいぎょうしょう樞密すうみつ院議いんぎなずらえ,毋擅けつ。」へいいぬ,以僉ふとつね禮儀れいぎいんごといぬため中書ちゅうしょまいり政事せいじちょうだてぎょう宣政のぶまさいん于杭しゅうしつらえかんはちいん大同だいどう金城きんじょうけん大雨おおあめ雹。

ふゆじゅうがつおのれうし,以大やすし隸遼しょうせんとく隸大都路みやこじ。敕:「そうじんじょそうきゅうゆう及朝廷撥たまもの土田つちた免租めんそぜい餘田はぐりあずかみん一體いったいちょう。」播州ばんしゅうみなみやすし長官ちょうかんらく麼作みだれおもえしゅうもりしんかわじゅう哥招さとしらく麼遣じん以方ぶつらい覲。やめにかわ、萊、莒、みつしお使ふくりつ濤洛じょうからしきん大同だいどう、冀寧、すすむやすしとう釀酒。みずのえたつけんみかどともえおもえ八殿於大興教寺,きゅうまんじょう癸巳きしあらためちゅう翊府ため羽林はばやしおやぐん指揮しき使かぶとうま有事ゆうじ于太びょうみずのとうし,贛州雩都けんさと胥劉けいしゅう,以有ちょうくくしん租,聚眾さくみだれ,敕免ちょうしん租,招諭

十一月じゅういちがつからしとり開成かいせいそうなみとうしょ禁酒きんしゅみずのえいぬあらためはなみねたむろもうか軍民ぐんみんそうかんためたむろもうかそうかんしつらえかんよんいんやまみんひだるぞううみこげよんじゅうまんせき增置ぞうちだい都南となんきたりょう兵馬へいば指揮しき使色目いろめ漢人かんどかくいん給分きゅうぶんしるしちょうしげるようかん察御乃蠻たいとうげんついだつたてやすし富民とみんおうさとしとう白身しろみ濫受せん敕,仍禁おかせせきぬき宿衞しゅくえい及巧受遠かたしょくかん赴任ふにんもとめべつ調ちょうしゃ隱匿いんとく自首じしゅしゃざいおのれ,陞同樞密院すうみついんごと忠嘉ただよし樞密院すうみついんごとへいしゅうけんだい學士がくしふとしきょくげん:「からりくあつしちょ春秋しゅんじゅう纂例、わきまえうたぐほろむねさんしょ有益ゆうえき後學こうがく,請令江西えにしゆきしょう鋟梓,以廣其傳。」したがえこれみずのと,敕江西茶にしちゃうんとしじゅうまんじょうためがく。敕大永福寺えいふくじはじめ殿どのやすたてまつじゅんむね皇帝こうていよう

十二月じゅうにがつみずのえたつとく授集けんだい學士がくしだつれつだいつかさからしおけ重慶たーちん江津ごうつともえけんとうしょ屯田とんでんしょう成都せいととしこげまんせんせききのえとら,敕樞密院すうみついん覈實こうむぐん貧乏びんぼうしゃそんねん

六年春正月丁巳朔,暹國使つかいたてまつおもて來貢らいこうかたぶつちょうしげる,敕:「福建ふっけんりょうこう雲南うんなん甘肅かんせい、四川軍官致仕還家,官給かんきゅう驛傳えきでん如民かんれい。」つちのえたつにぎわいすすむおう貧民ひんみんみずのととりとく授同徽政いんことみにくうさぎうまこたえ剌罕きんむらさきひかり祿ろく大夫たいふふとしじょうきゅうぎんしるしかぶといぬかん察御孛朮魯翀とうげん:「皇太子こうたいしせい東宮とうぐうすんでりつ詹事いん以總家政かせいむべとしとく老成ろうせい道義どうぎたかしじゅうしゃためまろうどさん,俾盡しん輔導ほどう,以廣緝熙これがく。」せい曰「」。つちのえとら太陰たいいんはんしんおのれ,禜星于司天臺てんだい廣東かんとんみなみおんしんしゅう徭賊りゅうろうかのえとうため寇,いのち江西えにしゆきしょうはつへいこれみかどよしみ禧殿,いい扎魯ゆるがせあかかい閭曰:「扎魯ゆるがせあか人命じんめいしょ繫,其詳閱獄こと大小だいしょう,必謀しょ同僚どうりょううたぐ不能ふのうけつしゃあずかはぶけたいしんしゅう以聞。」また顧謂侍臣じしん曰:「きょうとう以朕きょ帝位ていい為安ためやすよこしまちんおもんみぶと創業そうぎょう艱難かんなんせいこんいち疆宇,兢業守成しゅせいつね不能ふのうとう天心てんしんなわたけ使つかい萬方百姓樂得其所,ちん念慮ねんりょざい茲,きょうとうかた知也ともや。」

がつちょうついたちにちゆうしょくあらためしゃく奠于中丁なかちょうまつ社稷しゃしょく于中つちのえ。禜星于回かい天臺てんだいちょうとり雲南うんなん闍里あいにわか永昌えいしょうがま蠻阿八剌等並為寇,いのち雲南うんなんしょうしたがえよろし剿捕。つちのえいぬあらため陝西せんせいてんうんしお使ため河東かとう陝西せんせいてんうんしお使ちょく隸省おのれ太陰たいいんはんれいだいおつ,敕:「しょつかさよし中書ちゅうしょそうかん輒署ごとしゃ悉罷。」とく授僧したがえ吉祥きっしょうさかえ祿ろく大夫たいふだいつかさそらさかえ祿ろく大夫たいふだいつかさそうぶん吉祥きっしょう開府かいふどうさん

さんがつちょう,以天壽てんじゅぶししゃくしげるしゅういちにん。(おつ)〔おのれ[10]きゅう鈔賑ずみじょう西番にしのばんもろえきからしとり,斡端ゆう叛者入寇にゅうこう鎮西ちんぜいたけやすしおう搠思はんりつへい討之。みことのり以御ちゅうすすむ禿かぶろ禿かぶろあいため大夫たいふさとし曰:「大夫たいふしょくにんいたりじゅう,以卿くんきゅうこれ裔,とく授汝。とうおもえ乃祖乃父だいふ忠勤ちゅうきん王室おうしつ,仍以古名こみょうしんためほういやのりはた墜汝ごえちん委任いにん矣。」へいとらあらためふところはじめためふところけいとく授翰りん學士がくしうけたまわむね八兒思不花開府儀同三司、だいつかさおのれ太陰たいいんはんあかりどう。敕:「諸王しょおう、駙馬、そう姻,諸事しょじ舊制きゅうせいりょう於內はちかん,勿徑うつり文中ぶんちゅうしょ。」ふう諸王しょおうがつ魯鐵ためおんおうきゅうしるしおけおうでんかんめんだいうえ興和こうわ大同だいどうこんとし租稅そぜいみずのととり太陰たいいんはんほしかぶといぬ太陰たいいんはんしんみずのえうまたまものだいきょうきょう寺僧じそうときしょくまんじょうきん甘肅かんせいゆきしょう所屬しょぞくぐんけん釀酒。

なつよんがつみずのえたつ中書ちゅうしょしょうしんごと:「雲南うんなんかんびょうめい兄弟きょうだいかさねのりつまうけたまわ失職しっしょく遠方えんぽう蠻夷ばんい,頑獷なんせい,必任土人どじん以集ごといまある闕員,むべしたがえほんぞくけんしょく以行。」せい曰「」。へいたつ[11]いのち京師けいししょつかさ官吏かんりうんかて輸上興和こうわにぎわいずみこうむひだるみんかのえくるまこううえ。以鐵迭兒ため太子たいしふとし。內外かん察御よんじゅう餘人よにん,劾其たくましわたし蠹政,なんきょ保之やすゆきにん聽。諸王しょおうあいさん薨。丙午ひのえうまいのち宣政のぶまさいんにぎわいきゅう西番にしのばんもろえきみずのえはくがおてつ貧乏びんぼうきゅう鈔賑

五月ごがつからしとり太陰たいいんはんれいだいちょうしげる太陰たいいんはんぼうへい太陰たいいんはん壘壁るいへきじんやす南國なんごくおうひねえききびどうさん

ろくがつ戊子ぼし,以莊なみ巡檢じゅんけんためそうなみけんうつり巡檢じゅんけん於比ぼくわたり癸巳きし,以米五千石賑大長公主所隸貧民。かぶとうまあらためつくろえちんため徽儀使,秩ひんおのれさいほしはんひがし咸。からしうしおけ河南かなんそうかん,隸內しつらえたち魯花あかそうかんどうかく一員いちいんふくそうかんいん,秩從さんひんつちのえさるおけいさみこうしょ,以角觝者隸之。かのえいぬ大同だいどうけん雹,だい如雞たまごみことのり以駝うしひつじぶんきゅうついたちかたこうむみん戍守徼者,俾牧やしなえしげるいき以自贍,仍命きょう屯田とんでんみずのえたまものだいいぬい元寺もとてらまんじょう,俾營ぜにきょうつくろえ修之のぶゆき,仍陞其提てん所為しょいそうかんきゅうぎんしるし,秩正さんひんきゅう鈔四じゅうまんじょうにぎわいあい剌赤貧民ひんみんさんじゅうまんじょうにぎわいしょくらいおびえ憐口被災ひさいしゃしょゆう俸祿及能贍者勿給。みずのとうし,以羽りんおやぐんまんにん東宮とうぐうへい[12]陞廣めぐみ秩正さんひんてのひらかいかい醫藥いやくちょううし[13]以濟やすしとうすいかん閱視其民,とぼししょくしゃにぎわい,仍禁しゅひらきかわはくきん,聽民しょくすすむ西にしすずかひとしとうしゅう,(楊)〔〕翟、しんていみつとうけん大雨おおあめ雹。[14]汴梁、えき、般陽、すみみなみあずまあきら東平とうへいすみやすし、(きょう)〔やすしやす[15]こうとう、濮州、淮安諸處しょしょ大水おおみず

あきなながつへいたつはるこくちょう欽撒以方ぶつらい覲。らいやすそうかん岑世きょう叛,よりどころからおきしゅうたまもの璽書招諭諸王しょおう闊慳けん貧乏びんぼうきゅうかてにぎわいみずのえいぬ太陰たいいんはんしん。以者れんおびえ耶兒萬戶府軍萬人隸東宮,おけみぎまもるりつ,秩正さんひんちょうしげるみことのりさとし江西えにし官吏かんりごうみん毋沮たわわちゃかぶといぬすめらぎ姊大ちょう公主こうしゅさち哥剌吉作よしづくり佛事ぶつじしゃくちょんやすしじゅうしゅうじゅうななにん,敕按もんちょんやすしもりしんおもねしたがえ不法ふほう,仍追しょしゃくしゅうかえごくいのちぶん簡奴りゅうしゅうざいややけいしゃ屯田とんでんはじめしゅうおつとおりしゅう、漷州增置ぞうちさんくらへい太白たいはくはんふとしほろかきみぎほう增置ぞうちじょうめぐ警)〔警巡〕いん[16]開平かいへいけんかんかくいんおのれすすむおう也孫てつしょ部民ぶみんけいひょうげかすめわざわいきずためぬすめしゃ眾,敕扎魯忽あか囊加たい往,あずかすすむおう內史しんろくざいしゅうじゅうしゃ就啟すすむおう誅之,當流とうりゅうはいしゃとうつえかのえたつたまもの憐、むぎ該兩えき鈔一まんせんいちひゃくじゅうじょう,俾市きゅうえきからしたまもの左右さゆうたかぼう及合剌赤とう貧乏びんぼうしゃ鈔一じゅうよんまんじょう

はちがつかぶとさる,以河東山ひがしやま西道さいどうせん慰使はりおもえあきらため中書ちゅうしょまいり政事せいじおつとり,熒惑はん輿こしおにかぶとうま,以授皇太子こうたいしだまさつ告祭こくさい南郊なんこうかのえくるまいたりうえ丁未ていみ告祭こくさい于太びょうこれがつふく羌縣山崩やまくずれ

うるうはちがつへいたつ辰星しんせいはんふとしほろかきみぎほうたまものよしみおうあきらてつひつじじゅうまんうままんひき庚申こうしん增置ぞうち興和こうわすんで備倉,秩正はちひん;陞廣みつるしたがえはちひんみずのと,熒惑はんのきながえ甲子きのえね太陰たいいんはん壘壁るいへきじん。浚會どおりかわみずのえさる,以太でん大夫たいふはくゆるがせためたいみずのととり,敕:「河東かとうさん西道さいどうせん慰司かんきゅう俸同ずいあさ。」敕:「しょつかさゆう受命じゅめいこれかん及避繁劇はんげきたくしょくしゃだつ其宣敕。」おつ太白たいはくはんひがし咸。併永おきけんいれたてまつせいしゅう

きゅうがつかぶとさる,以徽せい使朵帶ためふとでん。陞參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごと欽察ためさん政事せいじからしてつさととうじゅうはちえき被災ひさいきゅう鈔賑みずのえたつ,禜星于司天臺てんだい癸巳きし,以作佛事ぶつじしゃくだい辟囚ななにんりゅう以下いかしゅうろくにんつちのえいぬぞううみこげじゅうまんせきおけ雲南うんなんけん,隸雲內州。以故あきらしゅう寶山たからやまけんおけたからあきらしゅう,隸興かのえ,併順とく廣平ひろへいりょうてつ冶提舉司ため順德じゅんとく廣平ひろへいあきらとくとうしょてつ冶提舉司。みずのとだいしんごと:「しゃかん以倖もとめつみ以賂めん。乞凡內外かんくんきゅうゆうもちしゃもと驟陞。しょはん贓罪やめ款伏及當鞫而こうめんしゃ,悉付もとといかん以竟其罪。其貪污受刑じゅけいだつしょくじょしゃ,夤緣近侍きんじ出入でいり內庭,覬倖めい爵,むべ斥逐。」みかどみなおさめ其言。みことのりいいよん宿衞しゅくえい受刑じゅけいしゃ,勿令づくりきんにわ山東さんとうしょみち禁酒きんしゅ。浚鎮こうねりみずうみはつあわにぎわいずみやすし東平とうへいあずまあきらこうとうとくしゅうすみみなみえき、般陽、あげしゅうとうひだる

じゅうがつきのえとらしょう功德くどく使よんいんとめそんろくいんおつ東平とうへいすみやすし水陸すいりくじゅうえきとぼししょくきゅうむぎじゅうせき中書ちゅうしょしょうしんごと:「白雲しらくもそうそう沈明ひとし強奪ごうだつ民田たみだまんごろ,誑誘ぞくじゅうまんにんわたしまいない近侍きんじ,妄受めい爵,やめたてまつうまついだつ,請汰其徒,かえところだつ民田たみだ。其諸法事ほうじむべれい覈問。」ゆうむね:「ちん沈明じん姦惡かんあく,其嚴鞫之。」つちのえうま中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょうはくこたえすなぶし授皇太子たいしだまさつからしとり,以扎魯忽あかてつはなため大夫たいふみずのと,熒惑はんふとしほろかきひだりほううえ都民とみんひだるはつかんあわまんせき減價げんかにぎわいせりおけりょう浙鹽くらろくしょ,秩從はちひんかんいんおもんみ杭州こうしゅうよしみきょうくらしつらえかんさんいん,秩從ななひんしおじょうさんじゅうよんしょしつらえかんうん一員いちいんせいはちひんやめ檢校けんぎょうしょおつうし太陰たいいんはんすばるちょうしげるにぎわい北方ほっぽうしょえきつちのえたつ太陰たいいんはんひがし庚午こうご太白たいはくひるからし太陰たいいんはんのきながえへい,以皇太子たいし受玉さつみことのり天下でんかおのれ,浚通めぐみかわぞう河東かとう陝西せんせいしおうん判官ほうがん一員いちいん給分きゅうぶんしるしおけひさげりょうしょ,秩從はちひんかんかくいんしおじょうぞうかん勾各いんやめ漉鹽ひさげりょうじゅうにんすみ南濱みなみはま、棣州、あきらおかとうけんすいめん其田そのだ租。

十一月じゅういちがつからし,熒惑はんしんけんくにたいくにため寇,敕雲みなみしょう招捕おつ,以祕しょきょうとまおもえひのとためだいつかさかのえ[17]敕晉おう貧民ひんみん千居稱海屯田。ぞう京畿けいきこげうんどう副使ふくしかく一員いちいん給分きゅうぶんしるし中書ちゅうしょしょうしんごと:「曩賜諸王しょおうおもねただよしさんまんじょう使つかい營子ぜに以給畋獵廪膳,毋取しょみんこん其部おもね魯忽とう出獵しゅつりょうほしいままさく於民,且為かんごとむべれいそうただし刑部おさかべ訊鞫,以正てんけい。」せい曰「」。きんみん匿蒙いにしえぐんほろびやつみかどさとしだいしん曰:「ゆう國家こっかしゃ,以民為本ためもと聞百姓疾苦銜寃者眾,其令かん察御れんおとずれしん察以聞。」河間こうまみんひだるはつあわにぎわい

十二月じゅうにがつみずのえいぬいのち皇太子こうたいしさんけつ國政こくせいふうそう儒周あつし頤為どうこくこう甲子きのえねそうただし扎魯ゆるがせあかいん審決しんけつ興和こうわ平地ひらちひとししょごくしゅうしょうくも南大みなみおおだいしょうてっさととうどうあい副官ふっかん及儒がくこうむ教授きょうじゅとうかんひゃくじゅうよんいんへいとら太陰たいいんはんのきながえおのれふく吏人出身しゅっしん舊制きゅうせい,其犯贓者どめしたがえななひんめんだいうえ興和こうわのべゆうななねんぜい河西かさいとうとう剌地おけ屯田とんでんたて軍民ぐんみんまんみずのえさる太陰たいいんはんしんたいらあきら政事せいじおうあつし,以親ろう辭職じしょくしたがえこれ,仍賜其父幣帛へいはくみずのととりよる風雪ふうせつ甚寒,みかどいい侍臣じしん曰:「ちんあずかきょうとうきょだんしつそう戚、こんおとうとどお戍邊陲,曷勝其苦。としたまものぜに帛,徧及耶。」敕上だいふゆなつしつらえしょく于路,以食ひだるしゃ

七年春正月辛巳朔,にちゆうしょくみかどとききょそんぜん,輟朝賀ちょうがみずのえうまだいしんごと:「たまもの罕丁山場やまばかんしゃ花海はなうみ舶稅,會計かいけい其鈔,みなすうじゅうまんじょう諸王しょおう軍民ぐんみん貧乏びんぼうしゃしょたまもの嘗若,苟不撙節,やや致帑ぞうきょ竭,みんえきこま矣。」中書ちゅうしょしょうしんしん曰:「たいしんしょげんりょうわかあさつな法度はっといよいよ壞。しんとう乞賜やめ黜,選任せんにん賢者けんじゃ。」みかど曰:「きょうとう必言,其各ども乃事。」みずのとみかど御大おんたいあきら殿どの,受諸おう百官ひゃっかん朝賀ちょうがからしこう浙行しょう丞相じょうしょうくろうさぎうまごと:「白雲しらくもそう沈明ひとし,擅度そうよんせんはちひゃく餘人よにん鈔四まんじょうすんでやめふくいま其徒沈崇しょうせん赴京ぎょうまかないもとめ援,請逮赴江浙併其罪。」したがえこれ乙未おとみ太陰たいいんはんあきら堂上どうじょうぼしちょうみかど[18]からしうしみかどくずし于光天宮てんぐうことぶきさんじゅうゆうろく在位ざいいじゅうねんみずのとそうおこり輦谷,したがえしょみかどりょう五月さつき乙未おとみ,羣臣じょうおくりな曰聖ぶん欽孝皇帝こうていびょうごうじんむね國語こくご曰普がおあつし皇帝こうてい

じんむね天性てんせい慈孝,聰明そうめい恭儉きょうけん通達つうたつ儒術,みょうさとるしゃくのり,嘗曰:「あきらこころ見性けんしょう佛教ぶっきょうためふか修身しゅうしん治國ちこく儒道じゅどうためきり。」また曰:「儒者じゅしゃなお,以能維持いじ三綱さんこう五常ごじょう道也みちや。」平居ひらいふく質素しっそ,澹然無欲むよくことゆう畋,征伐せいばつたかし貨利。こと皇太后こうたいごう終身しゅうしんたがえ顏色かおいろまちむね戚勳きゅう始終しじゅう以禮。大臣だいじんおやろうおん賚;ふとしかんしんぜん,必分たまものとうとちか有司ゆうしそうだい辟,まいむご惻移。其孜孜ししため,一遵世祖之成憲云。

校勘こうかん[编辑]

  1. ふとやすし 按元ゆうだいやすし」及「やすしやすし」,ふとしやすし」,此處ここらふとしゆうあやま
  2. 中書ちゅうしょひだり)〔みぎすすむおもねぼくうみきば よりどころじょうぶんのべゆう三年五月庚申條及本書卷一一二宰相年表改。こうむやめこう
  3. 以江浙行しょうひだりすすむおうあつしため中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじ 按清ようしゅうまき七王氏先塋碑銘「ひだりすすむさくみぎすすむ」,うたぐひだりとうさくみぎ」。
  4. しんしゅうやすし)〔はたやすけん山崩やまくずれ したがえ殿でんほんあらため。按本書卷しょかんぎょうこころざしさくはたやすしけん山崩やまくずれ」。はたやすししんしゅうぞくけん
  5. 王子おうじ諸王しょおうこたえしつ蠻部とぼししょく 「王子おうじ」「諸王しょおう同義どうぎ重複じゅうふくうたぐ王子おうじ衍。
  6. まもる)〔たかしおう阿木あぎ哥 まきよん校勘こうかん[はち]。したどう
  7. 雍吉剌〔おび〕 よりどころぶんなながつおのれじょう
  8. 以御ちゅうすすむまたれつあかため中書ちゅうしょみぎすすむそう) よりどころぶん九月丁卯條及本書卷一一二宰相年表刪。續編ぞくへんやめこう
  9. はちがつ戊子ぼし 按是ねんはちがつおのれうしついたちつちのえ子日ねのひ戊子ぼしためなながつさんじゅうにちやめ見上みかみぶんなながつ,此誤。ぞくつうかんさくかのえじゅうにち
  10. おつ)〔おのれ 按是がつへいたつついたち乙未おとみ。此「乙未おとみざいひのとはつにちからしとりはつろくにちあいだためおのれはつよんにちこれあやまこんあらため
  11. へいたつ 按是がつへいいぬついたちへいたつ。此「へいたつざいみずのえたつはつななにちかのえじゅうにちあいだとうへいさるじゅういちにちこれあやま
  12. へい 按是がつかぶとさるついたちへい子日ねのひ。此「へいざいみずのとうしさんじゅうにちうたぐなながつへいじゅうさんにちあやましょ於此。
  13. ちょううし 按是がつかぶとさるついたちひのと丑日うしのひうたぐなながつちょううしじゅうよんにちあやましょ於此。
  14. すすむ陽西ようさいりょうひとしとうしゅう(楊)〔〕翟新ていひそかとうけん大雨おおあめ雹 よりどころほん書卷しょかんきゅう地理ちりこころざしあらためみち光本みつもとやめこうまた按陽翟、しんていみつさんけんみなひとししゅうぞくけんうたぐとうさくすすむ西にしすずかとうしゅうひとししゅう翟、しんていみつとうけん大雨おおあめ雹」。
  15. きょう)〔やすしやす よりどころほん書卷しょかんぎょうこころざしあらためほんしょうやめこう
  16. うえめぐ警)〔警巡〕いん よりどころほん書卷しょかんはち地理ちりこころざしまききゅう百官ひゃっかんこころざし改正かいせいほんしょうやめこう
  17. かのえ 按是がつからしついたちかのえためじゅうにちおうざいからしじゅういちにちおつじゅうにちまえ
  18. ちょうみかど 按是がつからしついたちちょうためはつななにち,此「ちょうざい乙未おとみじゅうにちからしうしじゅういちにちまえうたぐためひのととりじゅうななにちこれあやまほん書卷しょかんななえいそうおさむさくななねんはる正月しょうがつつちのえいぬひとしそう」,つちのえいぬためじゅうはちにち

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