げんふみ/まき031

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 まきさんじゅう もとまきさんじゅういち
本紀ほんぎだいさんじゅういち
まきさんじゅう 

あかりむね

あきらそうつばさけんじけいこう皇帝こうていいみな和世かずよ㻋,たけはじめ長子ちょうし也。はは曰仁けんじあきらせい皇后こうごうまた乞烈なりむね大德だいとくさんねんいのちたけはじめなでぐん北邊ほくへんみかどよんねんじゅういちがつみずのえ子生こなじなりむねくずしじゅういちねんたけはじめいれまましだいすべたてじんむねため皇太子こうたいしいのち以次でん於帝。

たけはじめくずしひとしむねりつのべ祐三ゆうぞう年春としはるけん東宮とうぐう丞相じょうしょうてつ迭而ほしかたくらいちょう,乃議たてえいむねため皇太子こうたいしまた與太よたきさきこうしん識烈もん譖帝於兩みや浸潤しんじゅん久之ひさゆき,其計遂行すいこう。於是ふうみかどためしゅうおう鎮雲みなみおけつねさむらいかんぞく,以遙授中しょひだり丞相じょうしょう禿かぶろゆるがせ魯、だいつかさ斡耳朵、ちゅうせい使なおいえやつ山北やまきたりょうとうこうむぐんまん孛羅、翰林かんりん侍講じこう學士がくし教化きょうかとうなみためつねさむらいなかまもるおやぐん指揮しき使から兀、兵部ひょうぶ尚書しょうしょさいはち魯為中尉ちゅうい,仍置はかしつかくいん就鎮。

これねんふゆじゅういちがつみかどのべやす禿かぶろゆるがせ魯、なおいえやつ、孛羅及武むね舊臣きゅうしん釐日、すなひのと、哈はち禿かぶろとうみな來會らいかい教化きょうかはかりごと曰:「天下てんかしゃわがたけすめらぎ天下てんか也,鎮之ごとほん上意じょういよし左右さゆう搆間致然。請以其故しろぎょうはぶけ,俾聞朝廷ちょうてい,庶可もりふさが離間りかんしか事變じへん叵測。」とげあずかすうはせさきおもねおもえ罕為たいてつ迭兒だつ其位,だしため陝西せんせいゆきしょう丞相じょうしょう,及教化きょうかとういたりそく與平よへいあきら政事せいじとう察兒、くだりだい大夫たいふだつさとはくなかすすむだつ歡,悉發せきちゅうへいふんどう潼關、河中かわなかいれやめ而塔察兒、だつ歡襲ころせおもねおもえ罕、教化きょうか于河ちゅうみかどとげ西行さいぎょういたり北邊ほくへん金山かなやま西北せいほく諸王しょおう察阿だいとう聞帝いたり,咸率眾來みかどいたり其部,あずかてい約束やくそく每歲まいさいふゆきょ扎顏,なつきょ斡羅斡察さんはるそくいのち從者じゅうしゃこう于野どろじゅう年間ねんかん邊境へんきょうやすし謐。

のべゆうななねんひとしそうくずしえいむね嗣立。としなつよんがつへいとら妥懽じょうなんじせいためいたりせいみかどいたりさんねんはちがつみずのと大夫たいふてつしつとう弒英むねすすむおう也孫てつ自立じりつため皇帝こうてい改元かいげんたいじょう五月ごがつ使つかい扈從こしょう皇后こうごう八不沙至自京師。ねんみかどおとうとじょうむつみなんじ以懷おういずるきょ于建やすしさんねんさんがつみずのととり懿璘しつはんせいためやすしむね

としつちのえたつなながつ庚午こうごやすしてい皇帝こうていくずし于上たおせ剌沙專權せんけんもちい,踰月だてくん朝野ちょうや疑懼ぎくとき樞密院すうみついんごとつばめてつ留守るす京師けいしとげはかりごと舉義。はちがつかぶとうま黎明れいめい,召百官集興聖宮,へいみなごう於眾曰:「たけすめらぎゆう聖子せいこ二人ふたり孝友たかともじんぶん天下てんか歸心きしんだいみつる所在しょざいとうむかえりつ從者じゅうしゃ!」乃縛たいらあきらがらすはく剌、はくがお察兒,以中しょひだりすすむ朵朵、まいり政事せいじおう熙等于獄。つばめてつあずか西安しーあんおうおもね剌忒おさめしつさと固守こしゅ內廷。於是みかどかたとおざい沙漠さばく,猝未のういたりおもんばかなまへん,乃迎みかどおとうとふところおう于江りょう,且宣言せんげんやめ使つかいきたむかえみかど,以安眾心。ふく矯稱みかどしょ使者ししゃ北方ほっぽうらいうんしゅうおうしたがえ諸王しょおうへいせいみなみながえ旦夕たんせきそくいたり矣。ちょうふところおう入京にゅうきょう,羣臣請正だいすべかたゆずる曰:「大兄たいけいざいきた,以長以德,とうゆう天下でんか。必不とくやめとうあかり以朕こころざし播告中外ちゅうがい。」きゅうがつみずのえさるふところおう即位そくいためぶんむね改元かいげんてんれきみことのり天下でんか曰:「謹俟大兄たいけいいたり,以遂ちんかたゆずるこれこころ。」

ときたおせ剌沙ざいうえたてやすしてい皇帝こうていため皇帝こうてい,乃遣へいぶんみちはんだい。而梁おうおうぜんみぎ丞相じょうしょうこたえしつてつ大夫たいふひもさわふとしじょうはなとうへいみな于榆りんつばめじょうあずか其弟撒敦、から其勢とうそちあずかたたかえ,屢敗うえへいみなつぶせじゅうがつからしうしひとしおうがつ魯帖元帥げんすいはなじょう以兵かこえうえたおせ剌沙乃奉皇帝こうていたからりょうきょう道路どうろはじめどおり

於是ぶんむね哈散及撒すすむとうしょうつぎ來迎らいごうさくばく諸王しょおうみなすすむみかどみなみかえ京師けいしとげはつ北邊ほくへん諸王しょおう察阿だい、沿邊元帥げんすい朵烈こねまんかいうさぎうまとう,咸帥扈行。舊臣きゅうしん孛羅、なおいえやつ、哈はち禿かぶろみなしたがえいたり金山かなやまみねきたぎょうしょうたいらあきら政事せいじ潑皮奉迎ほうげいたけやすしおうとおるてっ禿ちび、僉樞密院すうみついんごとじょうはなつぎいたり。乃命孛羅如京りょうきょうみん聞帝使者ししゃいたり歡呼かんこ鼓舞こぶ曰:「われ天子てんしじつきたらい矣!」諸王しょおう舊臣きゅうしんそうさきむかえ謁,しょいたりなり聚。

てんれきねん正月しょうがつおつうしぶんそうふく中書ちゅうしょひだりすすむおどさとじょう來迎らいごうおつとり,撒迪とういたりにゅうみかど于行幄,以文むねいのち勸進かんじんへいいぬみかど即位そくい于和やすしきた,扈行諸王しょおう大臣だいじん咸入。乃命撒迪ひとかえほう京師けいしこれがつぜん翰林かんりん學士がくしうけたまわうまこたえしつさと以太たいかんすな剌班輦金銀きんぎん幣帛へいはくいたり撒迪とうかえ京師けいしみかどいのち曰;「ちんおとうと曩嘗らんかんしょ,邇者とくはい乎?聽政ひまむべおやけん大夫たいふこうろん史籍しせき,以知古今ここん治亂ちらん得失とくしつきょうとういたり京師けいしとう以朕さとしこれ。」

がつみずのえたつせんやすしおうかいやつ京師けいしらい覲。からしうしつい尊皇そんのう妣亦乞烈曰仁けんじあきらせい皇后こうごうこれがつぶんそうたて奎章かく學士がくしいん于京ひと以除らいかなでみかどなみしたがえこれ

さんがつつちのえうまついたちきよしけん察罕からしとりぶんむねみぎ丞相じょうしょうつばめてつたてまつ皇帝こうてい寶來たからぎじょうちゅうすすむはちそく剌、樞密院すうみついんごと禿かぶろ哈帖とうかくりつ其屬以從。みずのえいぬみやつこじょう輿こしふく近侍きんじしょ服用ふくようへいとらみかどいい中書ちゅうしょひだりすすむおどさとじょう曰:「ちん至上しじょうそうはん諸王しょおう必皆來會らいかい尋常じんじょう朝會ちょうかい也,諸王しょおう察阿だいいままたしたがえちん遠來えんらい有司ゆうしきょうちょうみなむべ豫備よびきょう其與中書ちゅうしょしん僚議。」ちょうあめ,霾。

よんがつ癸巳きしつばめてつみかど於行ざいりつ百官ひゃっかんじょう皇帝こうていたからみかどよしみ其勳,はいふとし,仍命ため中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょう開府かいふどうさんつかさうえばしらこくろくぐん國重くにしげごと監修かんしゅう國史こくしこたえ剌罕、太平たいへいおうなみ如故。ふくさとしつばめてつとう曰:「凡京百官ひゃっかんちんおとうと所用しょようしゃなみ仍其きゅうきょうとう其以ちんさとしこれ。」つばめてつそう:「陛下へいか君臨くんりんまんぽう國家こっか大事だいじしょ繫者,中書ちゅうしょしょう樞密院すうみついんだい而已,むべひときょ。」みかどしか其言,以武むね舊人きゅうじん哈八兒禿為中書平章政事,ぜん中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじはくじょう樞密院すうみついんごとつねさむらい孛羅ため大夫たいふかぶとうまだてぎょう樞密院すうみついんいのち昭武あきたけおう樞密院すうみついんごとすなりょうぎょう樞密院すうみついんごとさいじょうかいやつなみどう知行ちぎょう樞密院すうみついんごとみかどえん諸王しょおう大臣だいじん于行殿どのつばめてつ、哈はち禿ちびはくじょう、孛羅とうさむらいみかど特命とくめいだいしん曰:「ふとし皇帝こうてい嘗訓敕臣うん:『しょく名馬めいばにんみなえつしか方寸ほうすんいちゆう繫累,そくのう壞名はいとく。』きょうとうきょ風紀ふうきつかさまた嘗念及此乎?はつだてだいしゅいのちとう察兒、奔帖すぐるにんきょう其政。天下てんか國家こっかたとえなお一人ひとり中書ちゅうしょそく右手みぎて也,樞密すうみつそく左手ひだりて也。左右さゆうしゅゆうびょう治之はるゆき以良はぶけいん闕失,以御だい治之はるゆき乎?凡諸おうひゃくつかさ違法いほうこしあや一聽いっちょう舉劾。風紀ふうき重則しげのりむさぼぼく懼,なおおのきん重則しげのりいれ木深こぶか,其勢しか也。ちんゆう闕失,きょうまた以聞,ちんなんじせめ也。」乙未おとみ特命とくめい孛羅とうでんむねせんさとしつばめてつはくこたえすなすな、哈はち禿ちびはちそく剌等曰:「皇帝こうてい立中たつなかしょしょう樞密院すうみついんだい及百庶府,きょう天下でんか大小だいしょう職掌しょくしょうやめ有定ありさだせいいのち廷臣ていしんしゅう律令りつりょう章程しょうてい,以為まんせいほうなりむね以來いらい列聖れっせい相承そうしょう,罔不つとむ遵成けんちん今居いまいふとししょきょくらい,凡省、いんたいひゃくつかさ庶政しょせい,詢謀僉同,摽譯しょかなで,以告于朕。軍務ぐんむ機密きみつ樞密院すうみついんとうそく以聞,毋以夙夜ためあいだ而稽とめ。其他事務じむはてゆうしょげん,必先中書ちゅうしょいんたい,其下ひゃくつかさ及𣊓これしん,毋得へだたえつひね請。むべせんさとししょつかさ,咸俾聞知ぶんち。儻違ちん,必罰赦。」ちょうとり,以陝西行さいぎょうだい大夫たいふてつだつためうえ留守るすからしうしぶんそうたてとく于京使つかいらいかなでまた以臺けんかん除目じもくらいじょうなみしたがえこれみずのと使つかい如京ぼく命中めいちゅうしょひだり丞相じょうしょうてつつげ即位そくい于郊びょう社稷しゃしょくたけやすしおうとおるとおる禿かぶろ及哈八兒禿立文宗為皇太子,仍立詹事いんやめもうかけい。以徹さとてつため中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじ,闊兒よしつかさため中書ちゅうしょみぎすすむおびえらいただ哈郎なみため甘肅かんせいゆきしょうたいらあきら政事せいじゆるがせ剌台ためこう浙行しょうたいらあきら政事せいじうみためみねきたぎょうしょうたいらあきら政事せいじかぶとたつ,敕中しょしょうたまものかん吏送たからしゃ一等いっとう從者じゅうしゃ賚以幣帛へいはくおつかん察御げん:「みねきたぎょうはぶけひかえせい一方いっぽうこうはなわ萬里ばんりじつためふとしはじめ基之もとゆき國家こっか根本こんぽん繫焉。方面ほうめんよせあにけいにんたいらあきらとうそくよしもとくんきゅうやつごとたおせ剌沙,倔起宿衞しゅくえい,輒為みぎすすむにわか陞平しょうねんやめななじゅう,眊昏こと甚。ひだりすすむはかりごともとすすむてい部民ぶみん,以女つまたおせ剌沙,引為すいとげじょひだりすすむろうちゅうさと市井しせい小人こども禿かぶろ魯忽乃晉ていまもるそつ政務せいむなみむべ黜退。」たいしん以聞,みかど曰:「げん甚善,其並黜之。」またさとしだいしん曰:「劾嶺きたしょうしんちん甚嘉まましいましょとうげんしゃ,毋有しょはばか劾之じん,苟營もとめさる訴,ちん必罪あるれん其實,毋輒以聞。」

五月ごがつひのとついたち朵里はく真之まさゆきつちのえうま西安しーあんおうおもね剌忒おさめしつさとかえ京師けいしふうじょうため保德やすのりぐんおうたまもの扈駕宿衞しゅくえいとう幣帛へいはくゆうおのれ皇太子こうたいし翰林かんりん學士がくしうけたまわむねおもね鄰帖らい覲。庚申こうしん斡耳罕()〔みずひがし[1]からしとり大夫たいふ孛羅、ちゅうせい使なおいえやつなみとく開府かいふどうさんつかさ,以典よんばん宿衞しゅくえいみずのと必忒おびえ禿かぶろ翰林かんりん學士がくしうけたまわむね斡耳朵自京師けいしらい覲。いのち有司ゆうししんたけはじめ幄殿、くるま輿こし庚午こうごいのちつばめてつ陞用みねきたぎょうしょう官吏かんり,其餘官吏かんりなみたまものかんいちきゅうせんようせんてい舊臣きゅうしん扈從こしょう,受制いのちしゃはちじゅうゆうにんろくひん以下いかじゅうゆうろくにんみずのえさるさがせ禿かぶろうみふうまた憐真はちため柳城やなしろぐんおう。以八即剌為陝西行臺御史大夫,眾家やつためちゅうすすむおつ禿かぶろゆるがせ剌。敕大しょうしん皇太子こうたいしたからときもとめ太子たいしたから不知ふち所在しょざい近侍きんじはくはなげん寶藏ほうぞう于上ぎょう幄,ひと至上しじょうさく所得しょとく,乃命さらこれ西木にしき鄰等よんじゅうさんえきひでりわざわい命中めいちゅうしょ以糧にぎわいけいはちせんひゃくせきちょううし皇太子こうたいしはつ京師けいし。鎮南おうじょうはな諸王しょおう也速、斡即、こたえはな、朵來ただはんはくがお也不,駙馬べつ闍里及扈まもる百官ひゃっかん,悉從ぎょうつちのえとら京師けいしひゃくはちじゅうひき輿こしふくおく行在所あんざいしょおのれ禿かぶろゆるがせ剌河ひがし翰林かんりん學士がくしうけたまわうまから兀為ふとしじょうちょうおうさつ部落ぶらくひでりみんまんせんよんひゃくくち不能ふのう自存じそん,敕河ひがしせん慰司にぎわいかて兩月わちかのえたつたまもの諸王しょおうつばめただ哥台鈔ひゃくじょう幣帛へいはくせんひきからし斡羅斡禿みずのえうま魯通ひだり丞相じょうしょうてつとう以帝即位そくいつげ南郊なんこうかぶとさるゆるがせ剌火しつぬるこれ

ろくがつちょうついたちひつじさる也不剌之てつとう以帝即位そくいつげ宗廟そうびょう社稷しゃしょく戊子ぼしつばめてつとうそう:「ちゅうせいいん越中えっちゅうしょ擅奏じょ授,うつりぶんらいちょうせい敕,やめ如所請授しか於大おだいたいよろし,乞申いのち禁止きんし,庶使政權せいけん歸一きいつ。」したがえこれかのえとら撒里陝西せんせいゆきしょうつげひだる使つかいかえあずかしょ老臣ろうしんにぎわいすくいちょうとり兀納はちこれ。陞都とくためだいとくおのれ闊朵樞密院すうみついんそう:「皇太子こうたいし使つかいらいげんきんやめりょう赦,四川諸省兵悉遣還營,おもんみ雲南うんなんぎゃくはかりごと叵測,へいそくやめれいしんとう以聞。」みかど曰:「仍屯戍,俟平定へいてい而後やめ。」からしうし)〔撒〕さとおびえ[2]みずのえとら,戒近侍きんじ毋得輒有奏請そうせいかぶとたつたまもの駙馬だつ必兒鈔せんじょう,往雲みなみ丁未ていみ哈里ゆたかつちのえさる闊朵すぐるおもね剌倫。[3]からし哈兒哈納禿かぶろみことのりさとし中書ちゅうしょしょうしん:「凡國家こっかぜにこく、銓選しょだい政事せいじさきけい皇太子こうたいししかこう以聞。」みずのとうしゆるがせ禿かぶろきのえとらにぎわい陝西せんせい臨潼、はなかげじゅうさんえき鈔一せんはちひゃくじょうすすむやすしじゅうえき鈔八ひゃくじょうこれがつてつ以久ひでりけい于皇太子たいししょう,乞更せんけんとく以燮皇太子こうたいし使つかい以聞。みかどさとし闊兒きちおもえとう曰:「修德しゅうとくおうてん,乃君臣くんしん當為とういことてつしょげんりょう天明てんめいかしこちん嘗斯須忘于懷也。皇太子こうたいし來會らいかいとうあずかきょう其可以澤みんぶつしゃぎょうきょうとう其以ちんさとし羣臣。」

なながつへいたつついたちにちゆうしょく甲子きのえね孛羅你之みずのえさるかん察御てき于思ごと:「朝廷ちょうてい去秋きょしゅういのちはた出師すいし戡定かんていみだれ,其供給きょうきゅう軍需ぐんじゅしょう賚將しょ不可ふか勝紀かつのりわか歲入さいにゅうけい較之,のり其所やめすうばいきょうこん諸王しょおう朝會ちょうかい舊制きゅうせい一切いっさいきょうおく,俱尚きゅう,而陝西にしとうしょ饑饉ききん荐臻,かつえ殍枕藉,以冬春之はるゆき交,ゆき愆期,むぎなえけやき秋田あきたたねみん庶遑遑,りゅううつりしゃ眾。しんふくおもえこれ,此正國家こっか節用せつようとき也。如果有功ゆうこう必當しょう賚者,むべ其官たかし卑而輕重けいちょうおもんみしょうまたしめせすすむ。其近侍きんじしょしん奏請そうせい恩賜おんしむべ悉停やめ,以紓民力みんりょく。」たいしん以聞,みかど嘉納かのう,仍敕中書ちゅうしょしょう以其しょげんしめせひゃくおつ察罕へいぶんそう受皇太子たいしたからつちのえとらしょうただこれみずのえうま使つかいまい京師けいし,敕中しょたいらあきら政事せいじ哈八兒禿同翰林國史院官,致祭ふとしふとしそう、睿宗さんあさようはつしょまもるぐんろくせんかんきょうじょう

はちがつおつとりついたちおうゆるがせ察都へいいぬ皇太子こうたいしいれうたげ皇太子こうたいし及諸おう大臣だいじん于行殿どのかのえとらみかど暴崩,ねんさんじゅうそうおこり輦谷,したがえしょりょうこれがつおのれ皇太子こうたいしふくそく皇帝こうてい十二月じゅうにがつおつ樞密院すうみついんごとしん不倫ふりんとう請上みことおくりな曰翼けんじけいこう皇帝こうていびょうごうあきらむねさんねんさんがつみずのえさる,祔于ふとしびょう

校勘こうかん[编辑]

  1. 斡耳罕()〔みずひがし 按斡みみ罕水即今そっこん鄂爾渾河,此處ここらみず」、「かたちきん致誤,こんあらためぞくつうかんやめこう
  2. )〔撒〕さとおびえ したがえきたかんほんあらため參看さんかんまきいち校勘こうかん[さん]。
  3. 闊朵すぐるおもね剌倫 此地そくほん書卷しょかん二太宗紀所見之「きょく雕阿らん」、「くらてつがらすおもね剌里」,かん三憲宗紀又作「闊帖兀阿たけなわ」。此名こうむ古語こごためあらしゅう」。此處ここらりんがかり衍譯ぶんはたこうむこれ」裹入地名ちめい

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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 まきさんじゅう かえしかいいただき まきさんじゅう